第2話 妹のおねだり
「お父さま、私、お祭りに行きたいわ」
初夏の気配が近づいてくるころ、みずみずしい朝日の差し込む伯爵邸の食堂で、フローラが切り出した。薬草が効いているのか、このところは顔色も良く、体温を保つために欠かせなかったストールも羽織らなくなっている。
「お祭りっていうのは、祝祭のことかい?」
お父さまが食事をとる手を休めてにこやかに問いかける。フローラは長い睫毛を瞬かせてうなずいた。
「そうか、もうそんな季節なんだね」
私の隣で食事を楽しんでいたお義兄さまが窓の外を見やる。去年一年間国を離れていたお義兄さまにとっては懐かしい行事だろう。
この王国では、初夏に女神メルを祀る祝祭が行われる。聖女が神殿で祈りを捧げる大規模な儀式に始まり、街中に女神メルにまつわる装飾が施される美しいお祭りなのだ。私はまたしても巡礼の森で歌を歌う、という役目があるが、民にとってはただの楽しい催し物だろう。最近では貴族も、出店を楽しむために街へ降りることも珍しくない。
思えば長い間病に臥していたフローラは、祝祭を見物したことがないのだ。体調が回復してきた今、見てみたいと思うのは当然のことだろう。
「お友だちはみんな祝祭のお話をしていたわ。私も行きたいです、お父さま、お兄さま」
「ううむ、しかし、体調は大丈夫なのかね」
「最近はとっても元気なの。行けるときに行かなくちゃ」
微笑みながらも睫毛を伏せるフローラの横顔は、どうにも儚げに見えた。今の体調がずっと続くとは思っていないのだろう。
「おしゃれをして、私も街を歩きたいわ。いいでしょう? ね?」
甘えるようにねだるフローラを前に、お父さまは困っているようだった。その原因は、大方私なのだろう。お父さまとちらりと目があったのを機に、ようやく私も口を開く。
「三人で行ってきたらいいと思います。私と行動すれば目立ってしまうでしょうから」
妖花の魔女の証である黒いドレスはどこに行っても目立つ。私と一緒に行動すれば奇異の目で見られるばかりで、せっかくの祝祭も楽しめないだろう。
それに、私は王女の代わりに巡礼の森へ歌いに行かなければならないのだ。どのみち三人とは行動できなかった。
「じゃあ僕も残ろうか。祝祭の夜にひとりきりでいるのは寂しいだろう」
「お義兄さま……」
お義兄さまは私と同じ薄紫の瞳を細め、慈しむように私を見ていた。その微笑みに心からほっとしてしまう。お兄さまは、いつでも私に優しい。
「……おにいさまは、いつもお姉さまにばかりかまうわ。私のことは可愛くないの?」
啜り泣くような弱々しい嘆願に、はっとする。フローラを見やれば、傷ついたように俯いていた。
「フローラ……」
ついお義兄さまの優しさに甘えていたが、フローラも寂しい思いをしていたのかもしれない。唯一の兄が姉にばかり構っていたら面白くない気持ちにもなるだろう。
「お義兄さま、私は大丈夫ですからみんなで祝祭にいってきてください」
隣に座るお義兄さまの手をとって、静かに微笑む。どうせ私も歌いに行かなければならないのだ。せっかくの祝祭の夜に、お義兄さまをひとりぼっちにしていたくない。
「ジゼル……」
「祝祭の話を、ぜひ聞かせてくださいね」
そっとお義兄さまの指先を握り込めば、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。一方でフローラは、どこか勝ち誇ったように笑っている。
「なんだか私が悪いことをしてしまったみたいですけれど、違いますわよね? お姉さま」
「悪いことなんてしていないわ。初めての祝祭、楽しんでいらっしゃいね」
にこりと微笑みを取り繕いながらも、フローラからのあからさまな敵意を感じて心の中では落ち込んでいた。今日もやっぱり、フローラは妖花の魔女である私のことが嫌いなようだ。
……私は失ってしまったものにいつまでも縋りすぎね。
アルフレートのことも、フローラのことも、諦めてしまえば楽になれるのだろう。お義兄さまの優しさにだけ甘えて生きることだってできるはずだ。
けれど切り捨てようとするたびに、アルフレートやフローラと過ごした輝かしい思い出が蘇るのだ。失ったものにばかり執着する私は、滑稽でみじめな魔女そのものだった。
◇
「祝祭、ね」
あれ以上食事を摂る気になれず、早々に私室へ戻ってきた私は、なんとはなしにクローゼットを開けた。ずらりと黒いドレスが並んでいる。
聖女クラウディア姫に妖花の魔女の烙印を押された日から、私が身に纏うものは黒だけだ。ドレスも、髪飾りも、手袋も何もかもすべて。祝祭に繰り出す令嬢たちは、華やかなドレスを身に纏うのだろう。フローラだって、早速仕立て屋を呼ぶと言っていた。
……もし好きな色を纏えたら、何色がいいかしら。
幼いころは瞳に合わせた薄紫やひまわりのような黄色のドレスを来ていた。中でも殊更に気に入っていたのは、淡い空色のドレスで、大切な日には必ず空色を纏っていたものだった。
懐かしい思い出に頬を緩めながら、ドレスたちに指先を触れさせる。喪服のようなこの黒も、今では馴染み深いものになっていた。まるで私の一部のような気がしている。
……それに、アルフレートの髪と同じ色だもの。嫌いじゃないわ。
幼馴染のことを考えながら、ドレスの端にかけられた男性用の上着に手をかけた。
この間、巡礼の森でアルフレートにかけてもらったものだ。結局返す機会がないまま、ひと月が経とうとしている。
……アルフレートは祝祭でも女の子たちに囲まれていそうね。
決して面白くはないけれど、もう慣れたことだから心を乱されることはなかった。
でももしも、私が妖花の魔女と呼ばれていなかったら、彼と祝祭に繰り出すようなことがあっただろうか。彼はこの上着を着て、私は淡い空色のドレスを着て、ふたりで街の中を巡っただろうか。
昔のままのふたりでいられたなら、それはもう特別楽しくてすてきな夜になったに違いない。想像の中でも心が慰められるような気がするほど、輝かしい光景だった。
「アルフレート……」
そっと、上着を胸に抱く。この思いが恋なのか友情なのかそれすらわからないけれど、彼ともう一度笑い合える日が来たらどんなにいいかわからない。
爽やかな朝日に似合わぬ感傷に浸っていると、不意に私室の扉がノックされた。返事をするなり入室してきたのは、どことなく元気のないお義兄さまだ。
「お義兄さま……」
「ジゼル、さっきはごめん。つらい思いをしただろう」
「いいえ、フローラの言うことも一理ありますもの。お義兄さまは私に優しくしてくださるから、やきもちを妬いてしまったのですね」
アルフレートの上着を握りしめたまま笑みを取り繕えば、お義兄さまの手が頬に触れた。驚いて目を見開けば、慈しむような瞳とすぐに目が合う。
「ふたりきりのときまでいい子でいる必要はないよ、ジゼル」
……お義兄さまは、ずるいわ。こんなに優しくして、私を泣き虫にするつもりなの。
お義兄さまの前では、強がりも取り繕った笑みも、たちまちほどけてしまうから厄介だ。お兄さまに、面倒な子と思われたくないから頑張っているのに。
「……私も、お義兄さまと祝祭に行きたかった」
「うん」
「お父さまとも、できれば、フローラとも……」
アルフレートとも。
ぎゅうと、アルフレートの上着を抱きしめれば、お義兄さまの手が何度か私の頭を撫でた。
「……その上着、気まずければ僕が返しておこうか? 疑ってしまったことも謝らなければならないしね。……まあ、君への仕打ちを考えれば、当然の流れだったとは思うけど」
微笑みの中に僅かな苛立ちが滲んでいるあたり、お義兄さまは今も私とアルフレートの婚約が続いていることを面白く思っていないのだろう。お義兄さまは常日頃から「もっとジゼルを大切にしてくれる人と婚約すべきだ」と言うのが口癖なのだから。
……でも、妖花の魔女と婚約してくれる人なんて、アルフレート以外にいないわ。
それがたとえ同情でも、施しのような関係であったとしても。
「大丈夫よ、お義兄さま。今度会ったときに直接お返しするわ」
「……君は本当にあいつのことが好きだよね。何がいいのかわからないな」
「お義兄さまにとっても幼馴染なのに、ひどい言い方だわ」
冗談めかして笑えば、つられるようにお義兄さまも笑った。
昔からアルフレートとお義兄さまはなんとなく対立しているような雰囲気がある。私が妖花の魔女になってから、それは決定的な溝として二人を隔てるようになってしまった。
「……またいつか、三人で笑える日が来たら嬉しいわ」
上着を抱きしめながら祈るように呟けば、お義兄さまも目を細めて何度か私の頭を撫でた。優しい仕草はいつでもくすぐったい。
「祝祭では、どんなお土産を買ってこようか。なんでも言ってごらん」
「まあ、お義兄さま。またそうやって私を甘やかして」
お義兄さまの肩に頭を預けながらくすくすと笑う。まるで小さな子供をあやすかのように、お義兄さまは私の額にくちづけた。
「かわいいジゼルのためならどんなわがままも聞いてあげたくなるんだ」
「ふふ……それなら、お義兄さま、聖騎士さまたちの行進を見てきて、どんな様子だったか教えてくださらない? 祝祭にまつわる本で読んだんです。白い制服がすてきなのでしょう?」
聖騎士は神殿を警護する神聖な役職だ。武芸に覚えのある神官と言ってもいいかもしれない。祝祭の夜には、聖女を筆頭に街の大通りを行進するらしい。
「確かに、近ごろ女性の聖騎士が入ったとかで、ずいぶん人気らしいね。わかった。目に焼き付けてくるよ。画家がいたら絵を買ってきてもいいね」
「お義兄さまがお話してくださるだけで十分です。楽しみにしていますね」
お義兄さまの肩に頭を預けたまま、くすくすと笑いあう。窓から差し込む陽の光は、先ほどよりもきらめいているような気がした。
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