第3話 振り切れない初恋
お義兄さまは、今から十二年ほど前に、メルエーレ伯爵家に引き取られた。もとは分家の子どもだったようだが、両親が不幸な事故に遭い、独りになってしまったお義兄さまをお父さまが一族の長として引き取ったかたちだった。
十二年前といえば、私はまだ四歳、お義兄さまは六歳だった。私はお義兄さまがいらした日のことをぎりぎり覚えているが、私より二歳年下のフローラはお義兄さまが本当の兄ではないことを知らない。本当の兄妹のように育っているのだから、わざわざ伝えることもないだろうというのがお父さまの方針だった。
お義兄さまは私が聖女であることを知っているし、妖花の魔女と呼ばれるようになった経緯も、お父さまの足がどうして動かなくなってしまったのかも知っている。
それだけに、お義兄さまはお父さま以上に私に過保護だった。私もまた、優しさに飢えていたせいかお義兄さまには際限なく寄りかかってしまうのだ。
「ジゼル、おいしい?」
食堂の長いテーブルを挟んで、お義兄さまが柔らかく微笑む。今は、用意してもらったケーキと紅茶をいただいている最中だ。
「はい、とても」
お義兄さまと食べれば、なんだってたちまち美味しくなる。お父さまとフローラと囲む食卓は、いつでも気が張っているからこんなふうに穏やかに何かを口にするのは久しぶりのことだった。
「隣国では、紅茶に蜂蜜を入れるのが流行っているみたいだったよ。ジゼルもやってごらん」
お義兄さまの手がすっと伸びて、お土産として手渡されたばかりの蜂蜜の小瓶を開けてくれる。そのまま用意されていた小さじで三杯ほど、私の紅茶の中に蜂蜜を溶かし込んだ。
「ありがとう、お義兄さま」
礼を述べてからティーカップに口をつければ、ふわりと柔らかな甘さが口いっぱいに広がった。ほっと、息がこぼれる。
「ジゼルは甘いものが好きだね」
「お義兄さまもそうでしょう?」
「まあね」
お義兄さまも自身のカップに蜂蜜を溶かし込みながら、薄い紫の瞳を細めた。慈しむようなそのまなざしに、心の奥で凝り固まっていたものがまたすこしほどけていくのを感じる。
このまま、お義兄さまと際限なくお話をしていたい。だがあいにく、今夜は祈りの歌を歌いに行く日なのだ。
「お義兄さま、つきあってくださってありがとう。もう夜も遅いからゆっくりおやすみになって」
「……今夜は歌の日?」
「はい」
事情を知っているお義兄さまには隠す必要がない。
聖女の力を発現した私には、巡礼の森と呼ばれる王国の聖地で祈りの歌を歌う役目がある。巡礼の森は王城のすぐそばに浮かぶ、メル島と呼ばれる小さな離島にあり、伯爵邸からも半刻とかからずにいけるのだ。王女さまがメル島に礼拝に行かれる日に合わせて、私はひっそりと森の奥深くで歌を歌うことになっている。森の中に入るのは王女さまだけなので、聖女お披露目の儀式のときとは違って気楽に歌えるのだ。
歌を歌うのは月に一度の定期的な日取りに加えて、今日のような聖女の誕生祭や、宗教的な行事があるときに限られる。帰ってくるころには朝になるが、月に一度か二度ほどのことなので、慣れてしまえばそれほど大変ではない。
人目に触れぬための真っ黒な外套を羽織り、出発の支度を進める。その傍らで、お義兄さまも上着を纏うのがわかった。
「お義兄さま?」
「僕もいくよ。帰国してからまだ一度も祈ってないし、ちょうどいい」
「そんな……お疲れでは?」
「いいんだ。まだ君と一緒にいたい」
お義兄さまは静かに微笑んで私を横目で捉えた。相手が他人であれば遠慮してしまうところだが、お義兄さまの甘さはすんなりと受け入れられてしまうから不思議だ。
「心強いです。お義兄さまとお出かけなんて、久しぶりですわね」
「一年も我慢した僕を褒めてほしいくらいだよ」
「ふふ、お義兄さまったら」
黒手袋の中にするりと指を通し、支度を終える。それを待っていたといわんばかりに、ゆっくりと目の前にお義兄さまの手が差し出された。
「それじゃあ行こうか、僕の聖女さま」
「ええ」
じゃれつくように、ぎゅっとお義兄さまの指先を握りしめる。こうして手をつないで歩くのは、幼い頃から変わらない私たちの習慣だった。
◇
王国内で最も神聖な場所とされるメル島には、いつでも橙色の光が灯っている。神殿は常に解放され、真夜中でも礼拝者たちを受け入れていた。
昼間のメル島はひだまりに満ちていて、瑞々しい健全な美しさがあるが、夜はどこか怪しいほどに神秘的な空気に満ちていて、足を踏み入れるだけで力が満ちていくような感覚を覚える。
通路を照らすように点々と並んだ橙色の灯から背を背けて、ひとり暗い森の中を目指す。森の中へは、本来聖女しか入れない決まりになっている。お義兄さまを連れて行けないのはもちろんだが、私自身も森に入るところを誰かに見つかってはいけないのだ。
逆にいえば、入ってしまえばこちらのものだ。森の中には、聖女と呼ばれる王女しかいない。彼女と落ち合う場所は、六年前から決まっていた。
草木の生い茂る小道を黙々と進めば、まもなくして薄明るい開けた場所が見えてきた。そこは星空を切り取ったかのような煌めく泉のある場所で、王女はいつも決まってその水面を眺めていた。
今夜も、彼女は白い聖女服を来て、水辺に佇んでいる。誕生祭の夜会から抜けてきたばかりなのか、森の中には相応しくない甘ったるい香水の匂いがした。
「王女さま」
森を抜けるなり、深く膝を追ってそっと呼びかける。ざり、と靴で砂を削るような音がして、王女が振り返ったのだとわかった。
「聖女と呼びなさいと言っているでしょう! 物分かりの悪い娘ね」
ざりざり、と王女が近づいてきたかと思えば、次の瞬間には何か硬いもので頬を殴られた。どうやら扇で頬を叩かれたようだ。口の端が切れたらしく、つうっと顎に向かって生温かい液体が伝っていく。
「……失礼いたしました。聖女クラウディアさま」
「ふん……」
今夜は読みを間違えたか、と心の中で大きな溜息をつく。「聖女さま」と呼んで「あてつけのつもりなの!」と殴られることもあるので難しいところだった。彼女の求める呼び名はその日の気分次第で決まるのだ。
「さっさとあの歌を歌ってちょうだい。せっかくの誕生日に、こんな陰気な森にいたくないわ」
彼女には、この島と森に満ちた不思議な空気がわからないのだろうか。どこか寂しげな美しさをたたえたこの場所になら、いつまでだっていられるのに。
「承知いたしました」
頭を垂れたまま受け答え、ゆっくりとその場に立ち上がる。泉に少しだけ近寄れば、泉の周りには青々と生い茂る草と花の蕾が見てとれた。その小さな命を憐れみながら、星空を見上げて歌を歌う。
祈りの歌は、何も聖女だけの特別なものというわけではない。皆が、礼拝のときに口ずさむ広く知られた歌だった。
すぐに、歌声が森の不思議な雰囲気に溶け込んで、空気がびりびりと震えるのがわかる。まるで森と一体化したような心地よさを覚え、自然と頬は緩んでいた。
それを待っていたかのように、泉の周りに生い茂っていた草花が淡く煌めき始める。蕾が膨らみ始め、やがて淡い光を纏った小さな花を咲かせた。これが、聖女が咲かせるという聖花だ。
淡い光は泉を通り越し、やがて森の奥深くまで駆け抜けていく。森全体が淡く光り出すまでに、そう時間はかからなかった。
気づけば私の眼前には、いっぱいの花畑が広がっていた。泉の底にも植物が生えているらしく、水からわずかに顔を覗かせる形で色とりどりの花を咲かせている。ひとつひとつの花が淡く光るその様は、何度見ても絶景だった。
その美しさに心を奪われると同時に、どうしてかいつも、還りたいような衝動に襲われる。このままずっとこの花々のそばにいたいと、郷愁にも似た感情が込み上げるのだ。
初めの聖女は花から生まれた、なんて逸話もあるくらいだから、そうおかしな話でもないのかもしれない。聖女の力を発現したあの日からずっと、私は花々に囲まれて終わることを心のどこかで夢見ていた。
……人生の最後の瞬間に、どうにかここに辿り着けるかしら。
終わりを夢見ながら、光を纏った花々を見つめていると、ふいに背後から突き飛ばされた。体勢を保ちきれず、そのまま泉の中に倒れ込んでしまう。浅い底に沈んでいた石で頬が擦れて、じわりと傷口に水が染みるような鈍い痛みが広がった。
「歌が終わったならさっさと立ち去りなさいよ。本当に、鈍臭くて目障りな女ね」
咳き込みながら泉から顔を上げるなり、王女の侮蔑の言葉が飛んできた。追い討ちと言わんばかりに扇で頬を叩かれる。擦りむけた皮膚に鋭い痛みが走ったが、やっぱり涙は出てこなかった。
「……失礼いたします。聖女クラウディアさま」
前髪から水を滴らせたまま、黒いドレスを引きずって駆け足で泉から離れる。夜の風が傷口をひりひりと苛んで、このまま闇の中に溶け込んでしまいたい衝動に駆られた。
……でも、今夜からはお義兄さまがいらっしゃるから。
それだけで、私の心はずいぶんと救われる。お義兄さまもそろそろお祈りを終えたころだろうから、合流して一緒に帰ろう。彼はきっと、私が眠るまでそばにいてくださるだろう。もうひとりきりで夜の深さに怯えなくていいのだ。
すっかりぼろぼろになってしまった姿がすこしでもましに見えるよう、森から抜けたところで銀の髪から滴る水滴を払う。手の甲で頬を拭えば血の滲んだ水が付着していた。切れた唇の端からはまだすこし血が出ているようだった。
せめて顔を洗いたい、と灯りの灯る通路の方へ近寄った。確かこのあたりに小川があるはずだ。
橙色の灯りの中には、礼拝を終えたらしい人々の影がぽつぽつと見える。かすかに聞こえてくる楽しげな笑い声は、遠い世界の音のように響いていた。最後にあんなふうに笑ったのはいつだっただろうか。
さらさらと流れる音を頼りに歩けば、すぐに小川は見つかった。早速しゃがみ込んで、指先を緩やかな流れの中に沈める。両手で冷たい水を掬い上げ、唇の端をそっと洗った。
水の冷たさと共に、じわりと痛みが染み込んでくる。耐えるように睫毛を伏せれば、眼裏に懐かしい光景が浮かび上がった。
――擦りむいたのか? ジゼル。傷を見せてみろよ。
――痛くなくなる魔法の歌を歌ってやる。お前の母上に教えてもらったんだ、ジゼルに歌ってやってくれって。
懐かしい日の記憶に、自然と頬は緩んでいた。まだ私と彼が、仲のいい幼馴染だった頃の記憶だ。
気づけば囁くような声で、自然と歌を歌っていた。彼に――アルフレートに教えてもらった、おまじないのような短い歌を。
歌で痛みが取れるはずもないけれど、遠い日の大切な思い出が傷口を慰めてくれるような気がする。私は一生、この思い出を胸に生きていくのだろう。今の彼とはわかりあえなくとも、幼馴染としての彼を切り捨てられるほど気持ちを割り切ることはできなかった。
「……ジゼル?」
背後から声をかけられ、はっと顔を上げる。指の隙間から、血の滲んだ水が滴り落ちていった。
「アルフレート……」
月影を背にこちらを見下ろす青年は、たった今、心に思い描いていた幼馴染そのひとだった。他の貴族同様、舞踏会の後に礼拝に来ていたのだろう。いつでも令嬢に囲まれている彼がこんな人気のないところに立ち寄るとは思っていなかっただけに、動揺を隠しきれない。
また何か嫌味を言われる前に、ここから立ち去りたい。今の彼と何か話せば、心に思い描いていた大切な記憶まで穢されるような気がして怖かった。
なるべくアルフレートと視線を合わせないよう俯いたまま、彼から逃れるように足を踏み出す。適当な挨拶を口にして、立ち去ればいい。
「いい夜ね。女神メルの祝福がありますよう。それじゃあ――」
「――その怪我はなんだ?」
彼の隣をすり抜ける間際、手首を掴まれて引き止められてしまう。とてもじゃないが振り解けるような力ではない。
「これは……ちょっと、転んでしまって」
まさか「聖女クラウディアさまに殴られたの」なんて正直に言えるはずもない。――言ったところで、信じてくれるはずもないけれど。
「転んで唇の端も切れるのか?」
無遠慮な手が、ついさっきまで洗っていた唇の傷に伸ばされる。冷え切った傷口に触れる彼の指先は、焼けるように熱かった。
「痛いわ、離して」
思わず睨むようにアルフレートを見上げれば、鋭く光る金の瞳と目が合ってしまった。
よく見れば、その瞳は戸惑うようにかすかに揺らいでいる。息をするのも忘れて、その繊細な揺らぎが意味するところを考えてしまった。
「――誰かに殴られたのか?」
彼の指先が、擦りむいた頬の傷にも伸びるのがわかった。痛みを予想して思わず身をこわばらせたが、彼は労わるように傷に指をかざすばかりで触れることはない。
揺らぐ瞳の合間に、憂いと苛立ちが滲んでいるように見えたのは、私が幼馴染としてのアルフレートを心に住まわせているせいなのだろうか。今の彼は、私のことなど疎ましく思っているに違いないのに。
言葉が見つからないまま視線を彷徨わせていると、やがて大きな溜息が降ってきた。
「……魔女のくせに神殿になんか来るからだ。なぜ家でじっとしていない?」
「……罪深い身だもの。たくさん祈らなければ、女神さまは許してくださらないわ」
妖花の魔女としての建前を述べると、再び彼が溜息をつくのがわかった。
「馬鹿だな。女神になんか許されなくたってお前は――」
「――ジゼル!?」
私とアルフレートの会話に終止符を打ったのは、お義兄さまの声だった。いつもは柔らかく澄んでいる声が、焦ったようにこわばっている。お義兄さまは私の姿を認めるなり、一も二もなく駆け寄ってきた。
「ジゼル、その姿は……! 怪我をしているじゃないか!」
お義兄さまは私の肩を抱き寄せるなり、アルフレートにつかまれたままの手首に視線を落とした。やがて、私と同じ薄紫の瞳に憎悪の炎が宿る。
「……アルフレート、手を離せ」
鋭く睨みつけるようなお義兄さまの眼差しを受け、アルフレートは薄い笑みを浮かべた。
「なんだ、帰ってたのか。お前がいない間、せっかくジゼルを独占できてたのに残念だ」
「馬鹿なことを言うな。ジゼルを蔑ろにしているくせに。まさかとは思うが……この怪我もお前がやったんじゃないだろうな」
話が不穏な方向に転がってきた。状況からしてそう判断するのも無理はないが、この誤解は解かなければならない。
「お義兄さま、違います。アルフレートとはたまたま会っただけで、この怪我はいつもの……」
言葉を濁しても、お義兄さまには伝わったようだった。彼は痛ましいものを見るように目を細め、そっと私を抱き寄せる。
「……怖かっただろう。もう大丈夫だよ、ジゼル」
「お義兄さま……」
お義兄さまの胸にそっと頭を預けようとしたところで、不意に肩に重みのあるものがかけられた。黒い生地に僅かに金糸が縫い込まれた質の良い上着だ。
それはついさっきまで、アルフレートが羽織っていたものだった。
「見せつけてくれるじゃないか。――忘れるなよ、ジゼルの婚約者は俺だ」
アルフレートはそれだけ告げると、私の肩に上着を残したまま立ち去ってしまった。上着から彼のぬくもりと香りがじんわりと伝わってくるようで、なんとなく落ち着かない気持ちになる。
……あれでも、私を気遣ってくれたということなのかしら。
一瞬垣間見た気がした憂いは、私を案じてくれたのだと思いたい。あの苛立ちは、私が傷付けられたことに対する怒りなのだと信じたい。
そう考えてしまうくらいには、私は今もアルフレートに囚われているのだろう。厄介な幼馴染を持ってしまったものだ。
「ジゼル、帰ろう。すぐに手当しなくては」
「ええ、お義兄さま。心配かけてごめんなさい」
今度こそお義兄さまの胸に頭を預ければ、すぐに大きな手が髪を撫でてくれる。この温もりだけで満足できない私は、「魔女」の異名にふさわしい欲張りなのかもしれなかった。
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