第2話 壊れた絆と変わらぬ最愛

「ジゼル、おかえり。夜会ではゆっくりできなかったろう。今、軽食を用意させるから食べるといい」


 早々に夜会を切り上げて伯爵邸に戻れば、お父さまが杖をついて出迎えてくださった。


 お父さまの足は、王の臣下に折られたあの日からうまく動かなくなっている。今でも、こうして杖をつかなければ満足に歩くこともできない。


「お父さま、お気遣いありがとうございます」


 お父さまだけは変わらず、こうして私を労ってくださる。おかげで、伯爵邸に戻ってきた瞬間だけは、ほっと息をつくことができるのだ。


「ベルテ侯爵令息とは、一曲くらい踊ってきたかね」


「いえ……今日は、私の気分がすぐれなくて」


 お父さまは、私がアルフレートから冷遇されていることを知らない。いや、妖花の魔女という烙印を押されたことを考えれば、大切にされているとは思っていないだろうが、それでも彼が婚約者として最低限のことはしていると思い込んでいる。


 本当のことを言えば、お父さまはきっとベルテ侯爵家に抗議してくださるのだろう。「妖花の魔女」の父親のくせに、と罵られても、私のために声をあげるのをやめないのだろう。お父さまはそういう方だ。


 でも、お父さまが誰かに非難される姿はもう見たくないから、この件はなるべくそっとしておきたいのだ。アルフレートが、私に婚約破棄を言い渡すそのときまで。


「それは大変だ。甘いものを食べて元気をつけなさい。ちょうど、フローラも気に入って食べていた焼き菓子が――」


「――あら、お姉さま、お帰りになっていらっしゃったの」


 食堂に向かう廊下で、背後から愛らしい声が語りかけてきた。


 ゆっくりと振り返れば、そこにはゆったりとした桃色のドレスを纏ったフローラがいた。


「フローラ、今帰ったわ。その……体調はどうかしら」


 病弱な妹の前だけでは、無理にでも笑おうと決めている。滅多に動かなくなった顔の筋肉を強引に釣り上げて、微笑みを取り繕った。

  

 途端に、フローラの可愛らしい顔立ちに嫌悪の色が宿る。私と同じ紫色の瞳をすっと細め、お母さま譲りの白金の髪を苛立ったように耳にかけた。


「妖花の魔女に心配される筋合いはありませんわ。……お母さまの病も、私の病も、お姉さまが招き寄せたのではなくって? 妖花の魔女は災いを寄せ付けるのだと、書物に書いてありましたわ」


「フローラ! ジゼルになんてことを言うんだ……!」


 お父さまが声を張り上げて注意すると、フローラはきっと睨みつけるように視線を鋭くした。


「お父さまは、いつもお姉様の肩を持つのね……! こんな病弱な体に生まれた上に、妖花の魔女の妹と呼ばれる私の気持ちを考えたことがおありですか……!?」


 叫ぶように言い放ったそばから、ふらりと体が傾く。フローラのそばに控えていた侍女が慌てて彼女の体を支えた。


「フローラ……!」


 お父さまが、困ったような声を上げて彼女のそばに駆け寄った。


 フローラは、私が聖女であることを知らない。薬草の代わりに聖女の名誉を王女に献上したことも、私が妖花の魔女と呼ばれるようになった所以も知らない。


 秘密を知る者を増やせない、というのももちろんだが、ただでさえ病に気力を蝕まれているフローラに、余計な負担をかけたくなかったのだ。秘密にしておいてほしいと、私からお父さまにお願いした。


 そのときは、信じていたのだ。たとえ妖花の魔女と呼ばれるようになろうとも、フローラと私の間に結ばれた絆は何も変わらないと。


 結果的に、その考えは甘かったと言わざるを得ない。フローラが聖女に憧れていることは昔から知っていたが、妖花の魔女をここまで毛嫌いするとは思わなかった。


 彼女からしてみれば、そんな私をお父さまが妙に気遣っていることも気に食わないのだろう。ただでさえ思い通りにならない体への苛立ちと、家の中に妖花の魔女がいるという不気味さが、天真爛漫だった彼女をいつのまにか苛烈な性格へと変えていた。


 でも、これは私が自分で選んだ道だ。フローラに厳しいことを言われて傷つかないといえば嘘になるけれど、真実を明かして、可愛い妹が妙な自責の念に駆られるよりはずっといい。


 幸いにも、薬草のおかげでフローラの体調は年々良くなっていた。昔はこうして廊下を歩き回ることもできなかったことを思えば、ずいぶんな回復ぶりだ。


 来年には、フローラも社交界に出られるようになるだろうか。そうしたらきっと、屋敷の中に引きこもっているせいで積もるばかりの鬱々とした感情も、いくらか晴れてくれるだろう。


 ……女神さまの御許にいらっしゃるお母さまも、きっと、喜んでくださるはずだわ。


 祈るような気持ちで心の中を満たす。そういえば今夜は、巡礼の森へ歌いに行く日だ。


 お父さまも、それを見越して軽食を用意してくださったのだろう。改めて気遣いに感謝しながら、ひとり、食堂に向かって歩き出す。


「――お姉さまがご病気だったらよかったのに。そうしたら、みんなが幸せに暮らせたのに」


 呪いのようなその言葉は、囁くような声だったが、確かに私の耳に届いてしまった。背後から、鋭い弓矢で貫かれたみたいだ。


 ……フローラ、あなたは、そんなに私が嫌いなの? ただ、妖花の魔女というだけで、そんな言葉を言ってしまえるほど私を忌まわしいと思っているの?


 とてもじゃないが、問い返せなかった。


 だが、妹からの残酷な一言は確実に私の力を奪ったようで、足の力が抜ける。思わず、白い壁紙に手をついて倒れかけた体を支えた。


「なあに、それ。私の真似をしているおつもりですか」


 くすくすと嘲笑うようなフローラの声に、じわりと目頭が熱くなって、枯れていたはずの涙がこぼれ落ちそうになる。


「フローラ! いい加減に――」


「――夜も遅いと言うのに、伯爵邸は賑やかですね」


 叱責するようなお父さまの声を、柔らかく澄んだ青年の声が遮る。


 どくん、と心臓が跳ね上がるのを感じた。


「っ――!」


 みるみるうちに心臓が早鐘を打ち始める。思わず、壁に手をついたまま振り返った。


 ついさっき私とお父さまがいた玄関広間には、銀の月影が差し込んでいる。そのなかにすらりと浮かび上がる黒い影があった。


「おにい、さま……?」


「ただいま、ジゼル。……父上も、フローラも、ただいま帰りました」


 私と同じ銀の髪と薄い紫色の瞳。整った顔立ちに浮かぶ優しい笑顔。柔らかな印象を崩すことなくにこりと挨拶をする彼は、紛れもなくリアンお義兄さまだった。


 お会いするのは、実に一年ぶりのことだ。昨年隣国へ留学に行って以来、手紙のやりとりはしていたものの、直接顔を合わせることはなかったのだ。


「お義兄さま……どう、して? 留学は……?」


 大好きなお義兄さまが目の前にいるのが信じられなくて、流暢に言葉を紡げない。彼はそばにいた使用人に革の鞄を預けながら、ふっと慈しむような笑みを浮かべた。


「学ぶべきことは修めたから帰国するって手紙を出したんだけど……どうやら僕のほうが先に帰ってきてしまったみたいだね。驚かせてごめん」


「いいえ……! いいえ!」


 お義兄さまが、帰っていらっしゃった。それだけで、凍りついた心の奥に温かなものが満ちていく。


 壁についた手が震えていた。駆け出して、抱きついて「お帰りなさい」を言いたいが、迷惑かもしれないと思うとうまく足を踏み出せない。


 だが、そんな私の戸惑いを見透かすようにお義兄さまは笑って、そっと長い腕を広げた。


「おかえりの抱擁はしてくれないのかな?」


 その言葉を聞くや否や、私は駆け出していた。そのままお義兄さまの腕の中に飛び込んで、背中に腕を回しぎゅっと抱きしめる。外の匂いと、優しくて柔らかなお義兄さま香りが入りまじっていて、最愛のお義兄さまが帰っていらっしゃったのだと実感した。


「お帰りなさい、お義兄さま……! ずっと、ずっとお待ちしておりました!」


「うん。……ただいま、ジゼル。僕も会いたかったよ」


 お義兄さまの大きな手が、そっと私の銀の髪を撫でてくれる。それだけで、この身に投げつけられた侮蔑の視線も軽蔑の言葉も、すっと溶けていくような気がした。


「相変わらず、仲のいい兄妹だ。……よく帰ってきた」


 お父さまがぽんぽん、とお義兄さまの肩をたたく。


 お義兄さまはそれに応えるように笑みを深めて、そうしてフローラにも視線を送った。


「フローラ、ただいま。前よりずっと顔色がいいね。安心したよ」


「……お帰りなさい、おにいさま」


 フローラは、必要最低限の言葉だけ述べてふい、と視線を逸らしてしまう。


 お父さまと同様、お義兄さまも私の秘密を知っているだけに、少々私に甘い節がある。決してフローラを蔑ろにしているわけではないのだが、その微妙な機微をフローラは感じ取っているのだろう。お義兄さまとフローラの関係も、私が妖花の魔女と呼ばれるようになってから、ひびがはいってしまったもののひとつだった。


「リアン、お前も長旅でおなかがすいているだろう。ちょうどジゼルの軽食を用意させたところだから、一緒に食べなさい。私はフローラに付き添う。積もる話は明日にでもしよう」


「はい、父上。フローラも、おやすみ」


 フローラは睨むようにお義兄さまを見やると、ふん、と鼻を鳴らす勢いでそっぽをむいてしまった。


 そのままお父さまと侍女に付き添われて、私室へ向かっていく。私には一瞥もくれなかった。


「……あの子は相変わらずだ」


 お義兄さまが、困ったように笑う。そのままそっと私の前髪を掻き上げて、額にちゅ、とくちづけた。じんわりとあたたかな感触が広がっていく。


 お義兄さまとまたこうして触れあえるのが嬉しくて小さく微笑んでいると、お義兄さまはもう一度ぎゅっと私を抱きしめて悪戯っぽく囁いた。


「それじゃあ、一緒に甘いものでも食べようか。……僕の可愛い聖女さま」

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