木蓮の花びら

天鳥そら

第1話木蓮の花びら

「わあお、今年もきれいに咲いたね~」


 マスクの下で口元をほころばせた私は、青空に大きく花びらを開く白い木蓮に声をかけた。朝も六時という時間帯、私と同じように朝早く家を出る人の姿をちらほら見かける。


 スーツ姿のサラリーマン、部活の朝練に急ぐ学生、他にもきっと私の知らない理由で朝早く家を出る人がすれちがう。急ぎ足の人にくらべて私の足取りはゆるやかだ。


「いつもなら、焦ってるところなんだけどね」


 辞表を出したのは一ヵ月前、大学を卒業してから三年間務めた。新人が戦略となる頃が、ちょうど三年と言われる時期に私は退社を決意した。


 私はそれほどデキる社員じゃない、だけどいればいたで便利に使えるくらいの立ち位置はキープしていた。


「もう、疲れちゃったんだよね」


 人当たりがよく、相手と適度に距離を置き、仕事の成績も高く評価されるわけではない。期待はされていないが、もう少し頑張ればと苦笑される。


 やりたい仕事があるとか、キャリアアップしたいとか、そんな前向きな理由ではなかった。両親に報告すればやっぱり苦笑が返ってきたし、友人に話せば何とも言えない空気がただよった。つまり、私は中途半端なのだ。


 じゃあ、何が原因かって?それは誰にも言わないことに決めている。場の空気を乱さず、相手に好かれなくても反感を買わないよう気をつけてきたのだ。理由を話すことで大事になることは避けたかった。


「今日で会社を辞めれば。ここの木蓮も見られなくなるな」


 次の勤め先が決まり次第、私は今のマンションを引き払う気でいる。桜が散り終わる頃には、次の職場が決まっていればいいと考えていた。


 会社ではすでに引継ぎが終わっているので、自分が手がける仕事はほとんどなかった。まわりのフォローを行い、細かな質問に答え私が職場を離れても何も心配がないよう目配りをしていく。


 あっという間に過ぎた一日の後に、軽く私の門出を祝ってみんなからプレゼントをもらったり別れの言葉をもらう。こうしてすべてが終わってしまうと、私は自分がこの会社を辞めていくことが信じられないような気がしていた。


「今日でお別れだね。寂しいな」


 声をかけてきたのは、一年上の男性社員。口ばかりで失敗が多く、よく私がフォローしていた。右も左も分からない新入社員のことから重宝されていた。


「ええ。先輩ともこれでお別れですね。これからも、仕事に精を出して下さい」


 当たり障りなくにこやかに言葉を紡ぐ私の頬がじゃっかんひきつる。この後、飲み会へ行く計画を立てていてくれたようだが、仕事に差しさわりが出るからと必死で断った。


「いや~。君にはずいぶんお世話になったな。ずっと助けてくれるもんだと思っていたのに」


 ちろりと流す視線には目もくれず、軽く一礼をすると上司、先輩、後輩、同僚と他の社員にも挨拶を交わしていく。特に同期だった女子社員とは、妙な連帯感があり新入社員のころから信頼関係を築いていた。


「今日で終わりだなんて、寂しいな。せめて結婚するまでは一緒だと思っていたのに」


 同期の女子が子どもっぽく頬をふくらませる。その隣で二年後輩の男子社員が、涙目になっている。


「先輩がいなくなったら、俺は誰に励ましてもらえばいいんですか?俺、先輩のおかげで、毎日、仕事がんばれたんですよ」


 おとなしくどこか優し気な風情の後輩は、なんとも情けない顔で引き留めにかかる。その隣でやっぱり二年年下の後輩女子が笑う。


「ちょっとはしっかりしなよ。コーヒーぐらいはおごってあげるから」


 みんなで笑っている内に私の緊張はほぐれていく。名残惜しく思いながらも、最後の挨拶をして会社を出て行った。


「ひえ~。思ったより時間かかちゃったな」


 会社を出たのは七時になっていただろうか。マスクを外したい衝動に駆られながら、白い木蓮の木の近くまで来る。曇り空の闇夜の中で白いランプのように光っていた。


「夜の木蓮もいいものね」


 立ち止まって夜空を眺めるように木蓮に目を向ける。満開を迎えているから、一週間の内にすっかり散ってしまうだろう。ぶわりと風が吹き、白い花びらが顔にあたる。ふと後ろを振り返ってぎょっとした。暗がりの中に、見覚えのある人影を見つけたのだ。


「まさか、そんなまさか」


 不安に揺さぶられたものの、平常心を人影には気づかないふりをした。木蓮の木の横を通り過ぎようとしたとき、路地から手が伸びてきて私の手を掴む。声を出す間もなく私は暗がりの中に引っ張り込まれていた。


「何?誰?」


 パニックに陥る私の頬をそっと手がなでる。ほっそりとした男の手に似ていた。

背後から抱きすくめるようにしているから、私からは誰なのかは分からない。ただ、とても安心する甘い香りがした。


「しばらくここにいて。あの人はあなたを探してる。安全になったら、道に戻ると良いよ」


 何者かもわからない声にうなづいて、じっと人影が通り過ぎるのを待った。


「あいつはどこへ行った?ここにいたはずなのに。俺から離れていくなんてヒドイじゃないか」


 「あのひと、たまにこのあたりをウロウロしてたんだよ。あなたのことよく探してた」


 白い手の主の声はやわらかくて悲しげだった。


「三か月くらい前からでしょ?」


「ううん。一年前からだよ」


 ぞわりと体に悪寒が走る。わかってはいたけど、自分が気づくよりもっと早かった。


 「あいつはどこだ。あいつはどこだ」


 普段は弱々しい声が暗い声に変わっている。目はすわっていて、サラリーマンだと言って信じられないだろう。


「ああ、もう大丈夫だ。もう行くといいよ。いつも褒めてくれてありがとう」


「あの、あなたは、あの……」


 気づいたら木蓮の木の下にいた。足元には花びらが散っている。見上げれば裸の木の枝が曇り空に広がっていた。


「ありがとう。ごめんなさい。ありがとう」


 散ってしまったことが悲しく。自分の身の上に起きたことを、このままにしておけない辛さが全身に広がる。しばらく木蓮の木の下で泣いて、自宅には戻らずお世話になった女性の先輩宅へと向かった。



 数日後、私は白い木蓮の木の下を通った。もう、緑の葉がしげっている。初夏の香りがあたりに広がり。日差しが肌には厳しいくらいだった。


「結局、今の会社に残っちゃった」


 夜中にストーカーに遭ったことを女性社員に告げたとたん、前々からあやしかったといくつか証拠を教えてくれた。私の後をつけていたのは、二歳年下の後輩。よく面倒を見ていたから、最初は慕っているんだろうぐらいにしか思わなかった。それが、自分に対する異常な執着だと気づいたのが三ヵ月前。


 私の家のあたりをよくうろついていることや、私のことを隠しカメラで撮影したり、持ち物を持っていったりするようになった。最初は、後輩だとはおもわなかったものの、度重なる不審な言動を無視するわけにはいかなくなった。


「自分がこの会社を辞めれば、正気に戻るだろうと思っていました」


「いや。無駄だと思うぞ。追いかけていくんじゃないのか」


「そこまでの度胸があるとは思いませんでしたし、過去にそういったトラブルもなさそうでした」


 お昼休みに公園で話している相手は、あの手のかかる先輩だ。今回、ストーカー被害を明るみにしたことで、一番、私の味方をしてくれたのもこの先輩だった。


「まあ、何かあったらまわりにすぐ言えよ。お前が大事にしたくないって気持ちも分かるけど、お前の気持なんか考える相手じゃないだろう。ストーカーってやつは」


「はい。すみませんでした」


 深々と頭を下げると涙がこぼれ落ちそうになった。ストーカー、セクハラ、パワハラ、いじめ。数え上げればきりがない。泣き寝入りする人間が多い中で、こうして私の立場を守ってくれる人がいる。この会社は私にとって最高の職場だ。


「でさ、今度、ランチ行かないか?」


「ランチですか?」


「夜はあまり男と一緒にいたくなだろ?」


「昼間もいやだってこと、考えません?」


 あたっと右手でおでこをぺちっと叩く。職場でも取引先との食事でも出るので、一時は失礼にあたらないかとハラハラしたものだ。


「まあ、気が向いたら、一緒に食事しよう」


「気が向いたら、ですね」


 そろそろお昼休憩が終わる。立ち上がって、先行くからなと笑う先輩の背中を初めて頼もしいと思った。


 遠ざかる先輩の背中に白い木蓮の花びらが舞い散る。あの不思議な出来事は誰にも話していない。話したりなんかしない。決して誰にも。












 

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