第151話 聖域

 どちらがピッチャーに無理をさせる限界になるか、そんな勝負になってきている。

(肩も重いし肘も熱いし、これ故障するんじゃないのか?)

 そう思いながらもマウンドの上で、左肩を回すのが武史である。

 ピッチングは肩や肘だけで投げるわけではない。

 だが一番負荷がかかるのは、その二箇所のどちらかだ。

 

 かつてピッチャーが壊す箇所は、肩が代表的であった。

 だが投げ方が変わっていくにつれて、肘の故障の方がはっきりと多くなる。

 ピッチャーの歴史は、投球フォームの歴史。

 より負担の少ない投げ方が、毎年のように更新されていく。


 今はやはり、肘の靭帯が、一番故障しやすい。

 本来の硬球の重さの、25倍が投げる瞬間には、肘にかかっているとも言われる。

 砲丸を投げるようなことをしていては、肩も肘も壊れて当たり前だろう。

 だがそれを覚悟の上で、パワーピッチャーはボールを投げている。


 覚悟していないため、ぎりぎりで踏みとどまっていたのが、今までの武史だ。

 だがこんな機会があれば、それはやはり挑戦してみたくもなるだろう。

 直史に土をつける、唯一の機会。

 もちろんそれは、自分ひとりの力で成せるものでもないが。

 アナハイム打線は間違いなく、メトロズの次に強力だ。

 ミネソタとは対戦がなかったので、直接比較は出来ないが。


 アレクに対して、有効なボールは何か。

 武史はもちろん知っている。

 打率の高いアレクであるが、基本的には二つのスイングを持っている。

 大介のレベルスイングに近いような、長打用のスイング。

 そしてボールを地面に叩きつける、単打用のスイング。

 基本的にアレクは、小器用に打ってしまうバッターなのだ。

 長打力もあるのだが、打てるボールに手を出してくる。

 それによってヒットを打ってしまう。

 長打に集中しきれないのが、アレクの弱点と言えば弱点だ。

 あとはボール球でも、打てると思えば打ってしまうところか。


 基本的には武史のような、パワーピッチャーとは相性が悪い。

 だが完全に絞っていくなら、打てなくもない。

 本日も武史から、五打数二安打。

 純粋にストレートだけで勝負してこれるなら、勝てないだろう。

 それでも消耗している武史は、球数を少なくするようなピッチングをせざるをえない。

 ムービングボールが、外角に逃げていく。

 そのボールをアレクは、バットの先端で地面に叩きつけた。


 サード方向に転がったボールより、アレクの足の方が速い。

 ノーアウトでランナーが出た。

 それもおそらくアナハイムで、一番走塁のセンスに優れたアレクである。

 メトロズの首脳陣は、既にリリーフの準備はさせている。

 だがもしここでレノンを出してしまったら、次のイニングは回またぎで投げさせるのか。

 武史の体力、他に耐久力などが、どれだけ残っているのか。

 レノンの準備は整っているが、やはり使うなら1イニング限定にしたい。

 しかし樋口は武史と、ずっとバッテリーを組んできたピッチャーだ。

 この試合においても、ここまで消耗している武史からなら、打つことが出来るかもしれない。


 次のイニングに持ち込んだら、おそらくメトロズの方が優位に立つ。

 しかしこのイニングで点を取られて、裏の攻撃。

 メトロズの下位打線に代打を出しても、果たして直史を打てるのか。

 直史も消耗しつつあるようだが、下位打線は抑えてくる。

 そして対戦経験の少ない代打は、直史の変化球のコンビネーションに、ついていけないかもしれない。


 このイニングだけは、武史に任せたい。

 結果的に点を取られても、それは首脳陣の選手運用の責任だ。

 そこで武史は降ろして、後はレノンに任せる。

 もっとも出来れば、裏の攻撃でランナーが出て、大介が打ってくれるのが理想だ。


 メトロズの祈りは、武史に届くのか。

 少なくとも武史自身は、不特定多数のファンや首脳陣の意思など、どうでも良かった。




 バッターボックスには樋口。

 おそらく武史のクセなどを、最もよく知っているバッターというか、プレイヤーである。

 そしてそのクセを、徹底的に直してきた。

 だが彼だけが感じる雰囲気や、言語化できないクセなどを、知っているのか。


 この試合、ここまでの展開では、そんな様子は見せない。

 しかし坂本も、このぎりぎりの状況では、下手に樋口とは勝負したくない。

 正直なところ、わずかに武史のフォームが、崩れてきているように感じる。

 その中にはかつて樋口が修正した、フォームの特徴が出ているかもしれないのだ。


 樋口を凡退に、出来れば進塁打までに抑えたい。

 それなら次のターナーは、歩かせてしまってもいい。

 一二塁にしてしまえば、次はシュタイナー。

 武史のボールなら、外野フライを打たせられるのではないか。

 それでアレクがタッチアップし、三塁まで進んでしまったとする。

 だがツーアウトからならば、どうにかしてみせる。


 とにかく樋口に、長打を打たせてはいけない。

 坂本はそれを考えて、ムービング系を主体に組み立てを考える。

 樋口の狙いはむしろ、粘って球数を投げさせることなのか。

 難しいボールを、カットしてきた。

 確かにもう、今の武史は、いつガス切れになってもおかしくない。

 この限界の領域で、まだそんな地味な手段を選べるのか。


 樋口は、直史や自分ともまた違った方向で、野球選手らしくはない。

 わずかな兆候で相手の弱点を探り出し、狙って始末をつける。

 まるで殺し屋か、あるいは刑事のような感覚。

 スポーツ選手のものとは違うのではないか。

(チェンジアップを、一球投げる)

 幸いにも武史は、ゾーンの中を四分割する程度には、まだまだコントロールは乱れていない。

 このチェンジアップで、樋口を打ち取れるとは思わない。

 だが球速差をつけるため、このチェンジアップが必要だ。


 武史が投球フォームに入った瞬間、アレクがスタートしたのが見えた。

(よりによって!)

 チェンジアップはボール球になるので、樋口が見逃せばストライクにならない。

 だが自分なら、二塁で刺せる。

 そう思っていた坂本の前に、横たえられたバット。

(バント!?)

 そうでないのは、ほんの一瞬の後に分かる。

 武史のボールを、ほんのわずかに坂本の視界から隠せばいい。

 バットを引いて、チェンジアップは落ちる。

 坂本はそれを無理にミットでは捕らずに、プロテクターで前に落とした。

 アレクは二塁へ盗塁成功。

(チェンジアップを読んだのか?)

 どの時点で? 直前ならば、アレクにサインを送る時間がない。

(アシの配球が読まれたんか?)

 真実は分からないが、厄介なことになった。


 樋口を確実に、打ち取らないといけない。

 そう思って坂本は、MAXのストレートを求める。

 だがこれこそが、樋口の狙い通りであったのか。

 樋口は器用なバッターで、クリーンナップでもバントの練習を欠かさない。

 ここでも確実に、アレクを送ってきた。

 ワンナウトランナー三塁。

 数えられないほど多くのパターンで、一点が入るかもしれない場面である。




 バッターボックスには、アナハイムの主砲ターナー。

 一応は一打席目以降は、抑えていると言ってもいい。

 だが武史が、自分の限界を突破してでも、ストレートで抑えたバッター。

 坂本としては、首脳陣の指示には納得であった。


 申告敬遠で、ターナーは一塁に歩かされる。

 そして次は、四番のシュタイナーである。

 既にこの試合、一度は申告敬遠で歩かせた相手。

 一応はシュタイナーも歩かせて、満塁策ということも考えられる。


 一点を奪われたら、決まるような試合である。

 だからシュタイナーも歩かせて、次の五番で勝負でもいいのだ。

 しかしメトロズベンチからは、シュタイナーまで歩かせることはない。

 シュタイナーと勝負しろというわけだ。


 坂本としては、このシュタイナーとは勝負をしたくない。

 ターナーほどではないが、シュタイナーもスラッガーであるし、それに何より経験はターナーよりも豊富だ。

 計算だけならば、シュタイナーも歩かせ満塁にするべきだ。

 もちろん大量失点の可能性は高くなるが、本塁フォースアウトも取れる。

 おそらく期待値的には、その方がいいのだろう。

 そう思う坂本であるが、考えを変えたのは武史の目を見たから。


 シュタイナーに対して、気迫に満ちた目を向ける。

 武史は気にしていないと思ったが、シュタイナーを歩かせたのは不本意だったのか。

 いつも冷静と言うよりは、無頓着に有利な選択を選ぶ武史。

 だがこの場面、シュタイナーに対しては、戦意をもって当たっている。


 武史ももう、180球にもならんという球数を投げている。

 ワールドシリーズの最終戦とはいえ、それでも無茶な球数だと、アメリカ人は思うだろう。

 だが日本人であれば、なんとか投げるかと納得してしまう。

 もう球数制限がされて久しい甲子園であるが、それでもその制限内であれば、かなり無茶な球数を、一試合に投げることはある。

 上杉がそうであった。球数制限がなければ、優勝していただろうと言われていた。

 それに直史も、相当に投げていた。

 彼の場合は決勝の、15回の次の連投であったが。


 本人は根性論など大嫌いらしいし、精神力などというものは口にもしない。

 だが1シーズン組んでいた坂本は、直史の持つ精神性の奥底を、しっかりと感じたものだ。

 武史は、直史に全く似ていないと思える。

 それでもこの場面では、根性で投げてくるのか。


 ならば坂本も、全力でリードをするしかない。

 出来れば三振か内野フライ、あるいはダブルプレイの取れる内野ゴロか。

 ショートに打たせれば、どうにかダブルプレイにしてくれるかな、と思ったりもする。

 だがそれは希望的観測だ。

 ここはもう、シュタイナーを抑えるために、全力を尽くしてもらおう。

 ブルペンではレノンが準備しているのだし、後一人ぐらいはどうにかなる。

 次のイニングからは、もう武史は限界だろう。

 このシュタイナーまでを、どうにか抑えてもらう。


 ストレートの球速は、103マイル。

 充分にトップクラスなのであるが、やや球威は弱まってきたか。

 下手に力押しではなく、コントロールも武器にしていかなければいけない。

 だがナックルカーブはやや外れて、ボールとなった。


 わずかにコントロールも乱れてきている。

 それでも左対左なら、ピッチャー有利のはず。

 膝元へのインロー。そこなら内野ゴロに出来る。

 ダブルプレイで、アナハイムを封じる。


 その思考は、坂本にしては真っ当すぎたのだろう。

 シュタイナーのバットは、やや甘く入った武史のツーシームを、確実に捉えた。

 キャッチャーならこの場合、コントロールが乱れることすら、計算して配球を組み立てなければいけない。

 ライトに飛んでいくボールは、飛距離としては充分だろうか。

 だがメトロズのライトは、強肩で知られている。


 それでもアレクはスタートするだろう。

 肩と足の、どちらが早いか。

 坂本はベースの少し前、速やかにタッチに移れる位置につく。

 昔はベースをガチガチに守れたものらしいが、今ではそれをすれば走塁妨害だ。


 ライトがキャッチし、アレクがスタートする。

 中継を省略したボールは、ストライクの送球。

 やや左に寄ったが、これなら追いタッチで間に合う。

 アレクは頭から滑り込んできたが、その体にタッチ。

 したところに、アレクの足がミットに当たった。

 故意か偶然か、おそらくは故意だと坂本は考える。

 だが審判の判断は、偶然と見た。

 転がったボールを確保して、二塁に向かったターナーを殺すために送球。

 そこでスリーアウトを取ったが、一点は入った。


 いつまでも続くのかと思われた延長戦。

 だがやはり、ピッチャーの消耗が、得点につながったのであった。




 14回の裏の、最後の攻撃が始まる。

 いやもちろん、追いついたのであれば、15回の攻防が始まるのだが。

 メトロズは打順が七番から。

 直史の制圧力を考えれば、ランナーが出る可能性は低い。


 自分にはもう回ってこないな、と坂本は思っている。

 武史にしても、もう完全に終わった目で、試合を眺めている。

 もしも追いついたとしても、もう武史は投げられない。

 180球を超えたピッチングというのは、そういうものなのだ。

 最後まで、100マイルをオーバーしていた。

 本当に怪物だな、と坂本でさえも思う。


 メトロズはここから、代打攻勢だ。

 一人でも出れば、大介に回るというのが、唯一の希望だ。

 だがランナーが出ても、冷徹に判断するのなら、大介を歩かせてしまえばいい。

 ランナーは先に進むというリスクはあるが、大介とそれ以外のバッターでは、脅威度が倍は違う。

 これはもう、メトロズは終わったな、と見るのが常識的な判断だ。


 直史自身は、大介との勝負は避けない。

 だが首脳陣が申告敬遠をしてしまえば、それで済む話なのだ。

 そう思っていたら、代打の打ったボールが、たまたま内野の間を抜けていった。

 直史はわずかだが、こういう形のヒットは打たれてしまうのだ。

 もっとも本気になった時は、それすらもなかったものだが。


 直史もまた、限界は近いのだろう。

 試合中に鼻血が出たと言われていたが、それ以降は味方の攻撃中、ずっとベンチで休んでいる。

 味方打線を見ることもなく、ただ回復を考えている。

 本当にぎりぎりの勝負を、大介とはやっているのだ。


 ランナーが一塁なら、わずかでも大介と勝負する可能性があるか。

 完全に勝負に徹するなら、それもありえない選択だ。

 だがランナーが二塁にまで進めば、ほんのわずかにシュミットがヒットを打つ可能性はある。

 ただここで、代走を送って送りバントをする。

 そのメトロズの作戦を、ただぼんやりとしていた坂本は、首を傾げて考える。


 大介を歩かせる、充分な理由が出来てしまったではないか。

 今日はここまで、一本ヒットを打っただけの大介だが、それでも単打であれば、打てる可能性はあるのだ。

 直史の球数も150球を超えて、ここは当然歩かせる場面。

 なんでこんなシチュエーションを、ベンチは作ってしまったのか。


 ランナー一塁のまま、大介というほうが、向こうが勝負してくる可能性はまだしもあった。

 しかしこれでアナハイムのベンチは、間違いなく大介を歩かせるだろう。

 坂本はそう思ったのだが、そこからの展開は常軌を逸していた。

 タイムを取った直史が、自軍のベンチへと向かう。

「おい、なんでや」

「あ~……やっぱ勝負するか」

 呆れたように武史が呟いて、坂本は目をむく。


 ここで勝負をするのか。

 いや、黙ってさえいれば、さすがに判断ミスの多かったアナハイム首脳陣でも、ここは申告敬遠をしたであろう。

 なのにわざわざ、それを止めるのか。

 確かに大介と勝負するのは、直史の目的とは聞いている。

 だが今、ここでそんな選択をして、いいというのか。


 いいのだ。

 ここはメジャーリーグなのだ。

 スペシャルなエースが、スペシャルなスラッガーと戦う。

 ツーアウトからの勝負なので、勝敗ははっきりと分かるだろう。

「どちらもアホぜよ」

 約束だか意地だか知らないが、無視して敬遠すれば、それで直史なら勝てるだろう。

 シュミットもかなりのバッターではあるが、外野フライでも内野ゴロでも、アウトにすればそれで試合終了だ。

 大介と戦うリスクとは、比べ物にならないだろう。


 こんなもの、作戦だとか勝敗だとか、そういう範疇の話ではない。

 ピッチャーの、エースの我儘が、通ってしまうのか。

 だがそれを、観客たちは是とする。

 マウンドに戻った直史、そして申告敬遠が出ない。

 大観衆が、大歓声を上げている。


 坂本にしても、ここは喉からこみ上げるものがないわけではない。

 こんなことが許されてしまうのが、本当のエースなのか。

 そしてこの選択は、おそらく全ての人間に歓迎されるものだろう。

 それこそ試合の勝敗以外に、何も感心を持たない者以外には。


「いいなあ……」

 そこは、武史には届かない場所だ。

 純粋にピッチャーとバッターの一対一の勝負となる場所。

 聖域だ。

 他の誰も、犯すことが出来ない。

 ただキャッチャーと審判のみが、脇役として存在を許される。


 おそらくは、この世界において、完全に主役となってしまった二人。

 その対決を目に焼き付けるため、武史も坂本も腰を浮かせる。

 ベンチからはみ出るように、その対決を見つめる。

 そして、最後の勝負が、歓声の中で始まった。




  次回 最終回 AL編152話を先にお読みください。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る