第150話 感応
直史の投げたボールを、なぜ大介が打てなかったのか。
それに説明をつけられる人間が、果たして何人いるだろうか。
「どうして打てなかったんだ?」
地球の裏側で、NPBの一流プレイヤーたちが、首を傾げている。
だが全く違う方向から、正解を当てる者がいる。
「気が、上手く合わなかったように見えたが」
上杉の言葉に、ジンは頷く。
「大介の呼吸を、上手く外したような」
超人と、超人たちと一番近くにあった凡人。
その二人が同じ答えを出すというのは、とても奇妙なものである。
もっと理論的に言語化するなら、やはりタイミングとでも言えばいいのだろうか。
野球はタイミングのスポーツだ。
特にバッティングにおいては、タイミングが一瞬変わっただけで、ホームランと凡退が入れ替わる。
「野球やってるとさ、なんてーか、このコースは今は絶対に打たれないとか、次にこいつは絶対にここに投げてくるとか、そういうのが分かる時ってあるじゃん」
「あ~」
「あるな」
「あるある」
オカルトのような話に聞こえるが、一流の選手の中ですら、そういう事実は感じられるのだ。
ただ、同意した人間たちに疑念が湧く。
「すると佐藤は、それを三球続けたのか?」
「意識的に、それを見抜いたのか?」
直感を完全にコントロール出来るのか。
それはもう、直感とすら言えないものであろうに。
まさに超能力じみている。だがそれは直史の実績を思えば、今更のものだ。
一度治療のために、直史がベンチに戻るのも、画面ではしっかりと映されていた。
そして直前の、大介の空振り三振が再生される。
「試合がどうなるかはともかく、ピッチャーとバッターの勝負は、ピッチャーの勝ちかな?」
岩崎の言葉にも、ジンは容易には同意できなかった。
「どうかな。確かにかなりナオの方に傾いた気はするけど、まだ決まってはいないと思う」
大介の第五打席が、果たして回ってくるのか。
武史の九回の表を見ていれば、アナハイムが先に点を取るのは、かなり難しいのではとも思う。
どちらが勝つのか、好き勝手に話すことが出来る。
ただ直史がここで降りるなら、勝ち逃げだなとは思えた。
もっともここで直史が降りるなら、チームとして勝つのはメトロズであろう。
それが分かっているならば、直史が降りるはずはない。
しばらく時間はかかったが、直史はまたマウンドに戻ってきた。
敵地ではあるが、直史に拍手が送られる。
二人の対決には、それだけのものがあったのだ。
なんだか見ていると、涙が出てきそうになる。
二人の戦いは、感動を与えるものだ。
画面の向こうからも、お互いの全力でのプレイが伝わってくる。
歴史に残って、伝説となって、神話として語られるような対決。
今、自分たちはその、生き証人となっているのだと感じる。
ジンはなんとはなしに、笑えてきてしまった。
あれだけの勝負をした後に、残りの二人を三振に抑えるのではなく、いつも通りに内野ゴロを打たせる。
おそらくこれは樋口のリードだな、と同じキャッチャーのジンには分かる。
九回の攻防が終わり、1-1のまま延長戦に突入。
そういえばワールドシリーズの延長戦に、何か制限はあったかな、と手元の端末で調べ始めるジンであった。
二人の勝負の間、ほんのわずかに吹いていた風がやんだ。
凪の中での直史のピッチングは、大介との対決の前と、何も変わっていないようにも見えた。
どうして打てなかったのだろう、と周囲では話がなされている。
だがこの中で、直史以外にはただ一人、それを直感した者がいる。
恵美理には分かったのだ。
あそこに、あのスピードで、あの角度で変化する球を投げる。
そうすれば打ち取れると分かったのだと、恵美理にだけは伝わった。
(新しい段階に入ってる)
超一流の音楽家などが入るのは、ゾーンではなくトランスだ。
音が色を帯びて、空間を全く違うように認識する。
直史のピッチングからは、こんなに離れた場所からでも、それが聞こえてきたのだ。
まるでイリヤの演奏のように。
イリヤがそこにいる。
彼女の魂は風に乗って、この大気の中で見守っている。
この二人の対決を見守るために。
それだけのために、彼女はここにとどまっていたのか。
恵美理のなかの理性的な部分は、その働きを停止していた。
だがその分、感性はより大きく働いている。
音楽は、そこにはなかったはずだ。
しかし恵美理が見せてもらった、イリヤの曲のまだ未完成のもの。
それの完成形がいくつか、彼女の中で発生した。
ああ、だからイリヤは、この二人を見たかったのか。
彼女がまだここにいるのは、自分の曲を完成させるため。
自らの音楽に縛られて、彼女はまだ天国に行けていないのだ。
もっともイリヤは、そういうタイプの天国は、信じていなかったはずであるが。
もう自分の中に、この曲は出来てしまった。
果たしてこの曲を演奏し、そして歌うのは誰であるのか。
彼女の遺産はもちろん、彼女の残した娘のものだ。
だが作りかけの曲や、それを演奏し、歌う人間を決めるのは、数人に任せられていた。
遺言で、その中に恵美理も選ばれていたのだ。
イリヤの曲を最も多く歌ったのは、彼女自身を除けばケイティであろう。
ツインズが歌ったのは、同じ人間が二人いないと歌えない、特殊な曲であった。
あの二人はもう、イリヤの魂とはかなり離れた存在になっている。
音楽からは離れてしまった。
(すると後継者は)
じっと試合を見ている、あの物心もつかない少女になるのか。
イリヤの娘であるから、もちろんその資格はあるだろう。
だが天才の、特にこういった芸術的才能は、遺伝で伝わるとは限らない。
もちろん幼少期の環境が、後に与える影響は大きいが。
いずれ自分は、娘にピアノやヴァイオリンを教えるつもりだ。
強制するわけではないが、恵美理もずっと自然に、楽器を演奏するように育てられた。
そしてそこに、イリヤの娘が入ってくるのなら。
あるいはそれは、幼少期の自分がイリヤに感じたのと同じ、強烈な挫折となるのかもしれない。
(けれど彼女は、イリヤではない)
そして娘も、自分とは違うのだ。
スタジアムは、音に満ちている。
何かを伝えるための音は、全て音楽だ。
言葉よりも先に、音楽は存在していたとも言われる。
ならばこの大舞台に集まった熱狂は、人類にとってはるかに原始的なものなのかもしれない。
10回の表、不穏な空気が漂いだす。
これまで毎イニング105マイルは出していた武史のストレートが、わずかにその威力を落とした。
それでも三者凡退で、アナハイムの攻撃は終わった。
九回までに19奪三振を奪って、それでもまだランナーを出さない。
少しぐらいは確かに、スピードが落ちてきても当たり前なのだ。
「タケー! 気合だー!」
「まだまだいけるぞー!」
さすがに普段は直史の応援をすることが多いツインズも、今日ばかりは武史を応援してくれるらしい。
ホームのメトロズとしては、アナハイムの攻撃を0で封じたら、即ち次はこちらのサヨナラのチャンス。
直史がもう限界に近いのは、分かってきているのか。
たださすがに、武史の方もガス欠が近いようだ。
10回の裏、メトロズは四番からの攻撃を、三振一つを含む11球で直史は終わらせた。
一度はベンチに引っ込んで治療は受けたらしいが、その後のピッチングに異常は見られない。
前の打席で同点のチャンスを作った坂本には、ある程度の期待はしていた。
しかしこの回は、あっさりとアウトになっている。
坂本のような奇策を用いるタイプは、少しでも警戒されていない場面を選ぶのだろうか。
だがとりあえず、これで直史も10回を終わらせた。
11回の攻防が始まる。
武史の球速は、やはり落ちてきている。
それでも100マイルオーバーを維持していて、アナハイムの下位打線には打たせない。
アナハイムの攻撃が終わって、メトロズの攻撃。
もしも一人でも出れば、大介に回る。
わざとツーアウトから、ランナーを出す。
そして大介を、申告敬遠してしまう。
これはツインズが、大介を封じる方法として、考えていたことだ。
それでなくとも大介は、期待値的には絶対に、敬遠した方がいいバッターなのだ。
だが他の誰が逃げても、直史だけは逃げない。
その事前の舞台を整えるためのこの11回の裏も、三振一つを含む三者凡退。
12回は双方共に、上位打線の一番バッターから始まる打順だ。
まるで神が調整したかのように、同等のチャンスが与えられたような。
考えてみれば試合開始から、既に完全に三時間は過ぎている。
共にピッチャーがあっさりとアウトを取っていくタイプだけに、ペースはむしろ早いものであった。
それでも延長戦が続けば、時間はどんどんと経過していく。
これだけの試合となると、見ている方も体力を消耗するのだ。
持病もちや高齢者には、心臓に悪いだろう。
過去には野球以外にもサッカーの試合などで、視聴者や観戦者がショック死するという例はあったりする。
この試合は、見る者さえも選んでしまうのだろうか。
12回の表、アナハイムの攻撃。
厄介なバッターであるアレクが、バッターボックスから武史を見つめてくる。
昔からニコニコと、笑みを貼り付けてプレイする人間だった。
それを武史は悪いこととは思わず、余裕があるのはいいことだと思っていた。
集中してもアレクは、笑みを絶やさない。
だが今、この場面で。
アレクは笑みを浮かべていない。
(調子が狂うな)
そう思いながら投げた武史のストレートは、またも105マイルを記録した。
目を見開いたアレクの表情は、あの必死の甲子園でも、見た憶えはない。
武史の肩は熱を持ってきている。
だが足腰の疲労はなく、まだコントロールがそれほど乱れることはない。
坂本のサイン通りにではあるが、武史も納得して投げている。
ナックルカーブなども、アレク相手には効果的だ。
最後にはまた高めに、ストレートを投げ込む。
ミートの上手いアレクであったが、これはフライにするのが精一杯。
とりあえずこれで、あと二つアウトを取れば、この回も終わる。
大介から始まる打線には、充分にサヨナラの期待が出来るだろう。
お互いの打線の打撃力には差があるが、兄の直史に勝てる。
それはこれが、最初で最後のチャンスかもしれない。
一人は切った。
難しいバッターであったが、その次も難しい。
なにせずっと自分とバッテリーを組んでいた、樋口が相手であるのだ。
直史が大学卒業後、しばらく遊んでいたので、キャリアとしての組んでいた時間は、武史の方が長い。
それだけに自分の持っているボールは、誰よりもよく分かっているはずだ。
107マイルをもう一度出せるなら。
ただ単純に速いというだけで、樋口を封じることが出来るか。
しかし坂本のリードは、力任せのものではない。
まずは外角でカウントを稼ぐ。
だがここでごくわずかだが、コントロールが乱れた。
足腰にはまだ、疲れはないと思っていた。
だがもう球数は、球質保証限界の150球を超えている。
メトロズのブルペンが動き始めているが、そう簡単に交代が出来るのか。
次のバッターはターナーだ。
樋口は難しいバッターだが、ランナーを置いてターナーとは勝負をしたくない。
そうは思っていても、内角に投げたボールを、樋口は痛打する。
レフト前ヒット。
球速は104マイルと、まだほとんど落ちていないのに。
初回に一点を取られた。
それだけであとは、ずっと0に封じてきた武史である。
だがあのホームランがなかったら、既にメトロズは勝っていたのだ。
それは同時に、ワールドチャンピオンになったということでもある。
武史はワールドチャンピオンになったメトロズを、レックス時代の直史が封じた試合を眺めていた。
MLBのチャンピオン自体には、それほどの価値は感じない。
だがアナハイムは、直史と樋口のバッテリーを持っているチームなのだ。
最も価値があるとしたら、そのアナハイムに勝つということ。
直史の不敗神話に、土をつけるということ。
坂本のサイン通りに、安易なパワー勝負はしない。
武史のボールは芯で捉えたら、スタンドまで飛んで行くのだから。
フルカウントまで追い込む。
そして坂本が決め球として出したサインは、スプリットであった。
低めに落ちるスプリット。
もし見送られてフォアボールになったとしても、さほど危険性は変わらない。
ランナーが出てしまったら、ダブルプレイではなく三振を狙っていく。
それが武史のスタイルであるのだ。
投げたボールは、上手くターナーのバットの下を潜った。
だがこれは予想以上に落ちて、坂本のミットを弾く。
一塁に樋口がいたので、振り逃げは発生しない。
だがその樋口自身が、坂本がボールをこぼした隙に、二塁へと進塁した。
ツーアウトランナー二塁。
坂本はキャッチングも優れているため、珍しいミスである。
得点圏にランナーが進んでしまい、四番のシュタイナー。
樋口は足のある選手なだけに、クリーンヒットで一点が入るかもしれない。
そしてシュタイナーは、速球にはかなり強い。
メトロズのベンチが動いた。
申告敬遠で、シュタイナーは空いた一塁に進む。
シュタイナーと勝負するか、それとも次の五番と勝負するか。
もちろん楽なのは、五番と勝負することだ。
武史が投げたチェンジアップで、空振り三振。
12回の表が終わり、そしてまたメトロズにサヨナラの機会が巡ってくる。
延長戦に突入すれば、後攻の方が有利だと、俗に言われている。
確かにサヨナラの可能性がある以上、ピッチャーには普段以上のプレッシャーがかかるだろう。
だが投げるのは直史であるのだ。
プレッシャーとは無縁の男。
しかし純粋に、ここは大介が先頭の打者。
プレッシャーなど関係なく、危険な場面である。
五度目の対決。
大介はツーベース一本は打ったが、他は全て三振。
初見殺しを使われているわけであるが、それでも三振には変わりはない。
ピッチャーとバッターの勝負としては、直史の勝ちと言えるのか。
そう評価する者は多いかもしれないが、全ては結果だ。
そして当事者同士でしか、どちらが勝ったのかは分からないであろう。
大介としては、初見殺しで翻弄されたのは、確かに自分の負けであったと思う。
だが本当に手が出なかったのは、あの不思議なナックルカーブ。
どう考えても理屈が分からないあのボールは、本当に魔球なのか。
スクリーンで見た限り、あれは確実に、カーブではあったのだが。
もう一度あのボールを投げてくるのか。
大介の意識は、あのボールに向けられている。
だが重要なのは、あのボールを打つことではなく、直史から点を取ることなのだ。
武史の限界も近い。
この回に試合を決められなければ、省エネピッチングが出来る直史の方が、有利になるのではなかろうか。
もっとも直史の方も、なんだか生気が失せていっている。
あちらはあちらで、大介とはまた別の領域で、ピッチングを続けているのか。
ツーストライクまでは、ファールで取られてしまった。
集中していれば、打てていたボールではなかったか。
追い込まれたからには、またあのカーブを投げてくるのか。
大介の意識は、カーブに向けられている。
しかし投じられたのは、スルーであった。
体が反応する。
このボールは打てる。
ただホームランにするには角度が足りない。
それでもいい。フェンスを直撃しろ。
あとは走って、ツーベースにする。
どれだけ泥臭く取っても、点数には変わらない。
大介はもう、ホームランではなく、直史から点を取ることを考えている。
その打球に対して、直史は反応。
自分の前を抜けていきそうな打球に対して、グラブを出していた。
野球には運が介在する。
抜ければ確実に、長打になったであろう打球。
しかし直史のグラブを弾いたボールは、セカンドの守備範囲に転がる。
これをキャッチして、ファーストに送球。
俊足の大介であろうと、これはアウトになるしかない。
これで四つ目のアウト。
いくら当たりがよくても、塁にも出られないのでは仕方がない。
直史も間違いなく、消耗しているのだろう。
しかしこちらの、武史とどちらが、電池切れになるのが先か。
直史は技巧によって、体力の消耗をある程度防ぐ。
しかしこの試合では、もうそんな余裕はないように思える。
武史はパワーピッチャーであるため、エネルギー残量は分かりやすい。
果たしてどちらが先に、マウンドを降りることになるのか。
12回の裏、続くシュミットとペレスも、凡退に終わる。
そして13回の表、武史は失点こそしなかったが、フォアボールを出してしまった。
14回の表は、またアレクからの打線となってしまう。
それに対して13回の裏、直史はシュレンプから始まる三人を、凡退で切り抜けた。
おそらく14回で、この勝負は決着する。
アナハイムが先に点を取るか、そしてメトロズは一人でもランナーに出られるか。
14回の裏、ランナーが一人でも出れば、大介の六打席目が回ってくる。
そしてランナーがいるということは、ホームランを打てれば二点が入るのだ。
ただしツーアウトで回ってくるなら、タッチアップなどは期待できない。
お互いのピッチャーが、命を削りあうように、バッターを封じ続けている。
14回の表、まだ武史を代えないのか。
まだ100マイルオーバーを連発しているとはいえ、さすがにもう球数も想定の範囲をオーバーし、限界は近いと感じる。
ただこのアレクから始まる打線を、抑えられるのはやはり、レノンではなく武史であるのか。
ショートの守備位置から、大介はバッターを見つめる。
長い長い、本当に長い勝負が、ようやく終わりに近づいていた。
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