第149話 突破

 一回の表の武史は、ヒットとホームランを一つずつ打たれていた。

 だがそれを除けば、圧倒的なピッチングと言ってもいいだろう。

 八回までで16奪三振。

 レギュラーシーズンの平均と、ほぼ変わらない。

 これをワールドシリーズの、アナハイム相手にやっているのだ。

 本人は坂本のリードの通りにやっているだけだと思っているかもしれない。

 しかし普段よりもアイドリング終了が早いのは、確実に無意識にでも、力を出しているのだ。


 ピンチにならないと真の力が出せないのは、ヒーローとしてちょっとどころではなくポンコツである。

 ただ武史はヒーローではないし、自分ではスーパースターとすら思っていないだろう。

 気分が上がらないと、本来のスペックを発揮しない。

 無理に上げていくと、今度は加熱しすぎて消耗する。

 いい加減に自分の限界を、ちゃんと把握してパワーをコントロールしないといけないだろうに。


 九回の表のマウンドに立つ武史の姿を、恵美理はただ見守っている。

 どうしても声援というのは、攻撃するバッターにかけられるものだ。

 投げるピッチャーは、限りなく孤独な存在だ。

 もっともキャッチャーがいるので、完全には孤独ではない。

 しかし本当にいいピッチャーは、最後には己の力のみで勝つ。

 スタジアムの全ての感情を、その左腕に乗せて。

 武史はこの回も、下位打線を三振でしとめた。


 そしてツーアウトから上位に回り、アレクの四打席目が回ってくる。

 考えてみれば初回にヒットを打っている。

 だが樋口が珍しく併殺打を打ってしまい、チャンスを潰してしまった。

 誰にでも不調はあると言うよりは、この試合は樋口にとって、バッティングよりキャッチャーとしての方に、重点を置いているのだろう。

 四打席目のアレクと、武史との対決。

 そしてそれを大介は、ショートの位置から見つめている。


 なんだか高校時代に戻って、紅白戦を行っているような。

 ひょっとしたら向こうのベンチで、直史もそう思っているのか。

 しかしこの打席は、武史のストレートをアレクが打った。

 やや浮いたかな、という程度の105マイルを、左方向に。

 飛びついた大介のグラブの先を、レフト前に。

 これで打順は、第一打席で失態を犯した樋口に回る。

 ここでまたも完全に抑えれば、裏のリードにも影響があるのではないか。


 樋口に対しては、どうしても苦手意識がある武史だ。

 味方であった期間がずっと長かったが、武史が入った後において、白富東が初めて公式戦で負けた相手。

 春日山の樋口が、岩崎からホームランを打った。

 甲子園でも初めての、決勝逆転サヨナラホームラン。

 打たれたのは武史ではないが、チームを勝たせるのは樋口。

 その印象は逆襲を果たした後にも、まだ残っている。




 武史の配球は全て、ベンチと坂本に任せている。

 自分は投げるのが仕事であり、何をどう投げさせるかは、他の者に任せているのだ。

 言われたとおりの場所に、ちゃんと投げる能力があればいい。

 あとは打たれても抑えても、それは考えた人間の責任だ。

 さすがに180km/hを投げろなどと言われても、そういうことは困るが。


 だから樋口に対しても、遠慮なく言われた通りに投げる。

 そして結果、インコースをセンター前に運ばれてしまう。

 これでツーアウトから、連打で一二塁。

 次のバッターは、初回にホームランを打っているターナーである。


 ツーアウト一二塁で、二塁ランナーがアレク。

 おそらくクリーンヒットが出れば、一気にアレクがホームに帰ってくる。

 それをメトロズは防がなくてはいけない。

 せっかく一点を返して同点にしたのに、こんなピンチになるのか。

 うんざりする。


 バッターボックスに入るターナーの打ち気が見える。

 それに対して坂本は、高めの外れる球を要求してきた。

 ストレートを全力で投げて、高めに外す。

 やや危険かもしれないが、武史の球威であれば、外野フライぐらいには打ち取れると考えているのだろう。


 ツーアウトであるから、どこでアウトを取ってもいい。

 ただ長打になってしまっては、さすがに困ったことになる。

 一気に二点を取られるというのは、さすがにアナハイムに決定的な流れを呼び込むことになるだろう。

 武史はグラブの中でボールを転がしてから、しっかりと握り締めた。


 全力で投げればいい。

 自分には組み立てなど出来ないから、そこは坂本に任せる。

 だから自分は全力で投げるのだ。

 全力で、想定を上回ってしまえ。


 踏み込んだ足に、粘り気がつく。

 左腕から、ボールと一緒に力が抜けていく。

 いや、全ての力が、ボールに伝わっていった。

 これが自分のストレートなのか。


 ターナーが空振りし、坂本がグラブでその球を弾き、慌てて追いかける。

 武史もホームベースのカバーに入るが、ランナーは普通に進塁していた。

(言われたとこに投げたのに)

 想定を上回ってしまうと、こういうこともあるのか。


 スタンドからの大歓声に、武史はスクリーンを見た。

 表示されているのは、107という数字。

 つまり今のボールは、時速では170km/hを超えたのか。

 武史としては、これまでに投げたことのない球速である。

(俺も少しは熱血してるのかな)

 坂本が戻ってくると共に、武史もマウンドに戻る。

 そしてそこから、ターナーにまた向かっていく。


 打てるぞ、と思われたことが面白くない。

 武史は野球に対して無関心な人間であるが、直接対決するバッターから舐められたら、それなりに怒ることはあるのだ。

(アドレナリンとかドーパミンとか、そういうのがどんどん出てるんだろうな)

 ただこれをそのまま続けていると、まずいのは自分でも分かる。


 坂本は力押しのリードはしない。

 ターナーに対してチェンジアップで空振りを取った後、最後には低めを要求する。

 なかなかスピードボールを、低めに投げるのは難しいのだ。

 マウンドのように高い場所から、低い場所へしっかり投げ込むのは。

 だが武史にははっきりと分かる。

 最後のタッチで、ボールにスピンをかけるのだ。


 ターナーが見逃すしかない、低めいっぱいのストレート。

 ストライクバッターアウトで、九回の表は終了した。




 追いついた後の向こうの攻撃で、連打を食らった。

 そんなピンチを迎えたが、今はもう完全に、スタジアムの空気はメトロズの味方だ。

 107という数字が表示されたボード。

 なかなかその数字が消えないのは、サービスの一環であろうか。


 ベンチに戻った武史は、さすがに少し疲れていた。

 限界をまた一段超えてしまったが、その後遺症がないわけもない。

 指先がじんじんとしているのは、おそらく毛細血管が切れているから。

 肩や肘も少し、熱を持っている気がする。


 もう長いイニングは投げられない。

 出来ればこの九回裏で、決めてしまってもらいたい。

「さてと」

 この回の先頭大介が、素振りをしてからバッターボックスに向かう。

 武史の方は振り返らなかった。


 バッターボックスに入ると、自然とゾーンに入っていく。

 打てる球を、打っていけばいい。

 直史の初見殺しのようなフォームの変化も、もう既に体が憶えてくれている。

 打てる球を、素直に打っていくのだ。

 飛ばせるところまで。


 マウンドの上の直史の動きから、自然とバットを出すのだ。

 だがそう思っていても、直史の気配を感じない。

(なんだ?)

 確かにそこにいるのは分かるのだが、全く気配を感じない。

 いや、生気を感じないとでも言おうか。

 完全な静止状態から、足が上がって初球が投げられる。

 アウトローへのストレート。

 打てばいいのに、バットが出なかった。

(何をしてる?)

 間が悪かったとでも言うべきか。

 なぜか打てると思えなかったのだ。


 直史のストレートのスピードは、どうしてもMLBの一線級のピッチャーほどではない。

 だがアウトローのいいコースに投げられても、大介ならば打てるはずなのだ。

 レフト方向に、まっすぐなライナー性のホームランを。

 だが何かが引っかかった。


 二球目には、シンカーを投げてきた。

 これにも少し、違和感がある。

(プレートの位置か)

 大介から見れば左端に立ち、そこから投げてきているのだ。

 ボールは最初は大介の懐に入るように投げられるが、そこから外に流れてストライクになる。

 タイミングがずれている。

 いや、ずれるように投げてきているのか。


 ツーナッシングになってしまった。

 だが大介としては、それもむしろいいことなのだ。

 追い込まれたならば、打つしかない。

 どんなボールであっても、ゾーンにさえ入っていれば、打ってしまえばいい。

 注意するのはチェンジアップぐらいか。


 しかしそれも完全に、見極めればいい。

 スルーと他の球種については、リリースの瞬間には判別が出来る。

 一つ速い球を外しておいて、チェンジアップで勝負してくるか。

 大介の考えたのは、それぐらいである。


 他のボールならば無心で振っていけばいい。

 構える大介は、全身の力を上手く抜いていた。

 直史の足が上がり、第三球。

 そのボールはリリースの瞬間に、球種の区別がついていた。


 カーブ系統。

 スピードから考えて、おそらくはナックルカーブ。

 見逃しても低めに入って、ボール扱いになるかもしれない。

 だがゾーンを通るボールなら、同時にバットも届くのだ。

 打てると考え、ボールの軌道を見つめる。

 その瞬間、ボールが半分消えた。


 スイングは止まらない。

 落ちてくるカーブに対して、大介はレベルスイング。

 だがバットがボールを捉えることはなかった。

 空振りで本日三つ目の三振。

 スタジアムがメトロズファンの悲鳴で満たされた。




(何が起こった?)

 ボールが消えたように見えた。

 いや、半分だけ消えたのか。

 いくら直史であっても、消えるボールなどは投げられるはずもない。

 スピードがあるためほとんど見えなかった、というわけでもないのだ。


 理屈がさっぱり分からない。

 だが大介の視線の先で、直史は肩膝を着く。

 そしてそこから、一度ベンチに運ばれていく。

(まさかマジで魔法でも使ったんじゃないだろうな)

 直史は現実主義者であり、無神論者に近い。

 まさに今のは魔球だったと思うのだが、どういう理屈かが分からない。


 直史は少し、治療のために時間を取ったようだった。

 そのため大介は、少しだけあのボールに関して、考える余裕があった。

「なぜ打てなかったんだ?」

 次のシュミットが、この間に大介に尋ねてくる。

 いつもの大介であれば、初球から打っていけたはずなのだ。


 ただ大介にもはっきりと分かったのは、直史が完全に気配を消していたこと。

 セットポジションに入ってからは、サインに頷きもしていなかったはずだ。

 つまり今の打席は完全に、直史が一人で組み立てたのか。

「分からない。さっぱりだ」

 ボールが消えて見えたなど、まさか口にするわけにもいかない。

 ただボールの、半分が消えて見えたというのは、かなり不思議なものである。


 ベンチの中の治療は、直史の鼻血を止めるものであるらしい。

 試合中に、別にボールが当たったわけでもないのに鼻血とは、随分と珍しいことだ。

 夏場であれば鼻血を出すことなどもあるが、それだけ直史は興奮していたというのか。

 バッターボックスの大介からは、むしろ存在感は希薄に感じられたのだが。


 まさか、ここで交代なのか。

 直史がここで降板するなら、おそらくメトロズが勝つだろう。

 だがそんな大介の不安に反して、直史はまたベンチから出てきた。

 まだワンナウトで、次のバッターはシュミット。

 直史が今の大介の打席で、もしも全力を使い果たしていたのなら。

 一発で試合が終わる可能性も、ないわけではない。


 そんな終わり方は、大介は求めていない。

 そして大介以外も、求めてはいなかったのだろう。

 シュミットも、その次のペレスも、上手く内野ゴロを打たせた。

 スリーアウトとなり、延長戦に突入。

 1-1のスコアのまま、ワールドシリーズの最終戦が、延長戦に突入。

 まさかここまで、互角に近い対決となってくるとは。


 いっそのこと、このままずっと試合が続けばいいのに、と考えたりもする。

 だがそれをやっていれば、いずれはピッチャーの体力が切れる。

 どちらが先に苦しいか、単純に体力だけなら、武史の方が上だ。

 しかし実際には直史は省エネピッチングが出来るし、武史は今までの限界を突破して、おそらくかなりの消耗をしている。

 ただ直史も、鼻血を出すなどという、今までになかった兆候を見せているが。


 ピッチャーが先に消耗しきった方が負ける。

 そんな勝負は、大介としては面白くない。

 野球というチームスポーツの中で、エゴイスティックになれる存在。

 そういう生き物として、大介はプレイしたいのだ。




 九回が終わった。

 おそらく史上最高のワールドシリーズは、最終戦が延長に突入。

 これだけの無茶苦茶な試合は、過去を遡ってもどれだけあるだろうか。


 他の観客のように、ただ喜んでいたり、応援したりしているわけにはいかない。

 直史の体のことを知っている瑞希は、ペンを強く握り締める。

(どうか)

 どうか無事に、最後まで投げられるように。

 脳裏に浮かぶのは、最後の夏の甲子園。

 最終打者を打ち取った直史は、その場で気絶して、病院送りになってしまった。

 栄養剤を点滴されて、すぐに意識は回復したが。

 プロ一年目の四勝した日本シリーズも、それなりに厳しい試合であったろう。

 だが昨日から、直史は連投しているのだ。

 肩とか肘とか、そういう分かりきったところではなく、もっと重要な部分にダメージを負ってしまっているのではないか。


 どうか無事に、帰ってきて欲しい。

 勝敗などは、瑞希にとってはどうでもいい。

 直史が勝つ方法など、本当はもっとあるのだ。

 それなのにこの試合は、直史に不利な縛りをつけてやっている。


 10回の表、アナハイムの攻撃。

 それに対して投げる武史も、もう限界が近いのではないか。

 球数だけならまだ、150球には全く届かない。

 だがあの義弟も、本来なら出来ないようなピッチングを、この大舞台でやってしまっている。


 ピッチャーの削り合い。

 単に故障するだけならば、別にそれは問題ない。

 いっそのこと選手生命に関わるぐらいの怪我になっても、それはそれで大丈夫だ。

 ここから先に、まだまだ直史の人生は、続いていくはずなのだから。


 試合へと送り出した自分の気持ちは、どんなものであったろうか。

 ピッチャーが酷使されるポストシーズンと言うが、直史はもう四試合目。

 たとえ負けたとしても、直史の貢献度は、一番高いものであるだろう。

 瑞希が願うのは、少しでも早い試合の決着。

 そして無事に、直史が帰ってくること。


 限界を超えた延長戦が、今から始まる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る