第152話 沈黙と吐息
※ AL編152話が先となります。
×××
音が消えていた。
本来ならば応援のための声援などが、スタンドから届けられるはずなのに。
機械的な音のみが、スタジアムを支配していた。
それだけ呼吸すらせず、二人の対決を見守っていた。
これは野球の試合ではない。
決闘を眺める、観衆たち。
緊張感に、喉を鳴らすぐらいしかない。
一球ごとに、大きな吐息が漏れる。
上空からはこの試合を中継する中でも特殊な、ヘリの動作音。
優勝決定の瞬間を、たった一瞬の映像を、カメラはひたすら待っている。
(無粋)
彼女はそう思うが、それも人間なのだろう。
人間の営みは、美しいものも醜いものも、本来は全てを認めるものなのだ。
認めてから初めて、それに真に向き合うことが出来る。
この瞬間を、どれぐらいの人間が見ているのか。
あと数分後に、全ての決着がつく。
『……スタンドが静かになっていますが』
『静かに』
『……』
アナウンサーも解説も、説明を放棄した。
ただラジオのアナウンサーだけは、小さな声で囁き続けた。
ニューヨークという大都市から発される音が、明らかに小さくなっていた。
世界最大の都市に、ここまでの影響を与えてしまう。
これはおそらく、イリヤでも出来なかっただろう。
二人の天才……いや、とてもそんな言葉には収まらない存在が、これだけの影響力を発する。
だがそれでも、眠らないニューヨークを支配してしまうには足りない。
とても大きな影響力でも、それでもまだ、ささやかなもの。
それでもとても、多くの人々にこだましていくもの。
長かった一つの試合は、終わりを迎える。
最後の瞬間の前の、わずかな静寂。
誰もがそれを待っている。
直史の投げるボール。
それに対して大介は、スイングするかしないか。
ツーストライクまでは追い込まれる。
だがそこからカットして、三つ目のストライクを取らせない。
一球ごとに、観客のみならず、二人の主役と二人の助演、それ以外が大きく息をつく。
眺めているのが、あまりにも緊張感が増していて辛い。
だがそれなのに、目を離すことが出来ない。
樋口としては、自分がやるべきことは、この静謐な勝負に雑音を持ち込まないこと。
そして審判も、全神経を傾けて、この対決をジャッジする。
よりにもよってコントロールのいい直史なだけに、下手な判定は下せない。
後に彼は、あの一打席の審判をしたことで、寿命が一年は縮まっただろう、と言った。
テレビの中継も、画面は試合を映すだけで、アナウンサーの声が聞こえない。
地球の裏側であっても、それは変わらなかった。
日本においては、まだ昼間の時間帯。
これをリアルタイムで見られる幸運な者は、おそらく一生話の種にするだろう。
野球で食っていく、もしくは食っていた者たち。
おおよそ思うのは、どうして大介が打てないのか、ということであった。
直史の球速は、NPB時代と比べても、そう上がっているわけではない。
そしてコンビネーションにしても、最初のど真ん中カーブ以外は、それほど特筆するべきものではない。
なのに大介が打てない。
直史は魔法を使っているのか。
それでもかろうじてカットして、三振にはならない。
直史の変化球を、フライにもゴロにもせず、ちゃんとファールゾーンに飛ばす。
それだけでも充分に、直史を追い詰めているのではないか。
だんだんと直史は、投げるボールがなくなってくるはずだ。
大介と対決したことのあるピッチャーは、そう思っている。
だが直史と対決したバッターは、逆に考えている。
ボール球が投げられるカウントのうちは、まだまだ直史に余裕がある。
スルーかチェンジアップ。
勝負が決まるとしたら、それを投げてくるのだろう。
スタンドにおいては、異様な空気が舞台を支配していた。
とても野球の試合とは思えない、緊迫した空気。
熱量はそのままに、しかし渦を巻いて制止している。
爆発寸前とも思える、その膨大な熱量。
直史の球数が増えるたびに、エネルギーは圧縮されていく。
これは、どうなるのか。
下手をすれば視聴者や観客に、死人が出るのではないか。
試合の結果で興奮してしまって、死者が出たという話はある。
特にこのスタンドの中は、まるで日本の真夏のように、熱く息苦しい。
それでも、瑞希のペンは動いていた。
二人の対決ではなく、むしろそれを見つめる自分たちのことを。
これが最後の対決になるのかもしれない。
来年はインターリーグの対決はなく、戦力の入れ替えがある。
これが二人の、最後の対決になってもおかしくない。
彼女は観測者だ。
芸術家ではない。
音楽や演劇、そしてスポーツ。
それらは全て、己の肉体で芸術を表現する。
あるいは文章を書く者なども、芸術家の内ではあるのか。
ただ瑞希は常に、自分は散文的な人間であろうと思っている。
それでもこの対決に、心を動かされることを否定は出来ない。
うちの旦那はなんてかっこいいのだろう。
愚かなどとは思わない。
勝敗よりも、もっと大切なものがある。
そういう境地に、あの二人は立っているのだ。
そして、最後の一球。
直史のボールは、まるで空間を歪めているかのように見えた。
だが一瞬の断絶。
風景を正常なものとする、大介の一撃。
打球音は聞こえた。だが、ボールの行方はどこか。
瑞希はグラウンドの、アレクの疾走を視界に捉えた。
高く上がったボールが、果たしてどうなるのか。
大介のいつもの弾道とは違うので、すぐに分かる者は少なかった。
去年も結局は、外野フライに倒れている。
だが風のないこのスタジアムで、ボールは高く遠くへと。
精一杯伸ばしたアレクのグラブでも、とても届かないところへと。
バックスクリーンで、ポーンと白いボールが跳ねた。
それはひどく見やすく、勝負の結果を教えてくれた。
ほとんどの観客は、身内のエネルギーを爆発させるように、絶叫しながら立ち上がる。
だがほんのわずかの人間は、己の内に発生したエネルギーを、発散させることなく蓄えた。
多くの人間が、感動の中にあった。
そしてただの感動で終わらせない人間も、かなり多くはあった。
MLBのワールドシリーズ、その最終戦。
歴史に残るどころか、神話としてさえ記憶されるであろう。
この対決を、誰が一番望んだのだろうか。
あるいは対決した両者こそが、一番望んだのだろう。
熱量がスタジアムの外にあふれた。
入れなかったファンは、それでも色々な端末の画面で、この決着を見ていた。
ニューヨークで、あるいはアナハイムで。
また地球の裏の日本でさえも。
二人が勝負をしている間は、むしろ静かであったネットの海。
しかし決着の数秒後からは、世界のネットの海が沸騰し始めた。
そして予想通り、いくつものサーバーが落ちた。
落ちなかったサーバーを探して、観衆たちはずっと語り合うことになる。
豪奢な椅子に座って、拳を握り締めて、彼はずっと見守っていた。
FMの判断、またそれを促した直史の判断には、合理的に考えれば疑念も湧く。
だがそれでもこの結果は、素晴らしいものであったのだ。
歩かせれば良かった、などとは思わない。
思ったとしても、すぐにそれは消えていく。
全ての感情が抜け落ちた表情で、メトロズベンチの騒動を見つめている。
やがて大きく息をして、ようやく言葉を吐いた。
「歩かせていれば、勝てていたな……」
それを聞いたセイバーは、果たしてどうだろうか、と思っていた。
大介を敬遠して、次のバッターはシュミット。
さすがに疲労していたであろう直史が、モチベーションを保って投げることが出来ただろうか。
ベンチからの連絡で、直史が鼻血を出したことは知っていた。
これからは念のため、病院に連れていかなければいけないだろう。
直史のピッチングは、傍目から見ていても異常なものであった。
合理的な思考では、結果の説明がつかないピッチング。
大介を三打席も、三振に取ったのだ。
大介が一試合に三振三つとは、過去にあっただろうか。
上杉と対戦した時に、そこそこ三振したのは記憶している。
少なくともMLBに来てからは、一試合に三三振はない。
それを考えれば、直史のピッチングは素晴らしかった。
延長14回で、球数は150球を超えていて、しかもMLB最強のメトロズ打線が相手。
運が絡む一点がなければ、間違いなく勝っていたのだ。
この試合は結局、163球目をホームランにされて、アナハイムは敗北した。
だが奪三振も15個と、あとは珍しくフォアボールが一個。
打たれたヒットはたったの四本だけであった。
大介のツーベース、坂本のバントヒット、代打のヒットに、大介のホームラン。
出したランナーにしても、武史の方がすっと多い。
確かに勝敗という結果は出たが、これが即ち実力の上下とは限らないのだ。
どちらが勝つのかは、セイバーも分かっていなかった。
ただ、見たいものを見ることは出来た。
だからこそ、こう言うしかない。
「ナイスゲームでした」
そして彼女は、VIPルームを立ち去った。
もう深夜近くのニューヨークは、喧騒の中にあった。
普段から眠らない街であるということは変わらない。
だが今日は、繁華街でもないあちこちで、人々が集まるだろう。
あるいはネットの海で、国境線を越えて、集まって話すだろうか。
犯罪が多くなるかもしれないし、あるいは眠れない人間が多くなるだろう。
そして明日の朝には、第一声で挨拶するのだ。
昨日の試合は見たかい?と。
メトロズのロッカールームでは、シャンパンファイトが始まっていた。
それに巻き込まれるようにしながら、カメラも入っていく。
NPBのビールかけと同じで、もったいないものだなと、武史はそれを眺める。
もうほとんど、このまま眠りたいという気分で。
肩も肘も足も腰も背中も、あちこちが痛い。
後でドクターに診てもらおうかと、ぼんやりと考えている。
そんな武史に対しても、シャンパンは浴びせかけられた。
それを拒むほどの気力も、もう残っていない武史である。
大介はインタビューを受けていたが、正直あの瞬間のことは憶えていない。
目を閉じて打ったはずで、それは直史にも言ったはずだ。
だが頭の中には、確実にジャストミートしたという記憶がある。
この記憶は、視覚的にもあったことではと、記憶の捏造を開始している。
ただマスコミに問われても、憶えていないとしか答えようがない。
ただ無心で、バットを振ったのだ。
これまで欠かさずバットを振ってきた、その歴史があの一打にあった。
だから記憶がないというのは、ある意味正直なことであった。
考えていたら勝てなかった。
直感的に、正解を選んでいたのだ。
直史に勝ったという、そういう実感はない。
あの場で直史は、対決を避けることも出来たのだ。
六打席も回ってきて、ようやく最後の一打で結果が出た。
今は狂乱の中にあっても、しばらくして落ち着けば、あの状況の対決についてはケチをつける者も出てくるだろう。
野球を、勝敗が全てだと考えているなら。
そんなように考えているなら、野球など見なければいいのだ。
勝敗が全てだと考えるなら、スモールベースボールをすればいい。
それでもあの状況なら、勝負という選択が、世界にとっての正解だったと思う。
大介には、また質問がなされた。
今の気分はどうかと。
「野球をやってきた中で、多分二番目に最高の気分かな」
本当は幾つか、同じような感覚は味わっているのだが。
「では一番は?」
当然のように重ねられた質問に、大介は答えた。
「それは、これから経験するのさ」
未来はまだ、多くの可能性を残している。
歴史に残る試合となり、直史の不敗神話は崩壊した。
だがそれでも、物語は続いていくのだ。
第七章 了 エピローグへと続く
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