第142話 投げない男
第六戦は武史を温存し、ウィッツが投げる。
登板間隔を考えれば、おかしなことではない。
必勝の信念を持つなら、武史を第六戦に出しても良かったのか。
だがそうなると武史としては今季初めての、中三日での登板となる。
疲労が溜まっているというわけではないのだが、調整のことを考えれば、第七戦でいい。
それに直接対決をすれば、自分が兄に勝てるとは思っていない武史である。
それぞれ別の時代にいれば、戦うこともなかったのだ。
さらに言うなら大介が望まなければ、直史はプロの世界には入ってこなかった。
レックスにおいては圧倒的な力によって、連覇の最大の力となった。
もっとも直史に言わせれば、一番の貢献者は樋口になるのだが。
直史が抜けた翌年も、レックスは日本一になっている。
だから樋口と武史の力が大きかったというのは、確かに嘘ではない。
それでもやはり、武史と樋口が離脱しても優勝したのは、直史が一人で全ての勝ち星を上げたからだ。
日本シリーズでもそんな離れ業を成し遂げた例は過去にあるが、それはピッチャーの運用が今とは違った時代の話である。
エースが一人では勝てないという、世界の常識の変遷を、一人で叩き潰している。
それが直史であると、実の弟さえも思っていたりする。
大介もたいがいおかしな人間であるが、ちゃんと負ける時は負けている。
野球はチームスポーツなので、大介が打っても勝てない時はあるのだ。
だが直史はもうどれぐらい、自分の投げた試合で負けていないのか。
クラブチーム時代の短いイニングをリリーフした試合などは、練習試合で負けていたりする。
またスプリングトレーニングでの公式オープン戦でも、負け星が付くような場面で点を取られている。
しかし実際にはそういったスコアが残されても、参考にもならない。
上杉と投げ合って、引き分けたことはある。
だが負けを最後に記録したのは、高校二年生の春のことだ。
一つの競技において、確実に上のステージに上がっているのに、無敗続きであること。
これはいったいどういうことであるのか。
個人競技であればまだ、相当の連勝記録は存在する。
ただ直史は勝ち負けつかずと引き分けを除いた場合、プロ入り後だけでも112連勝をしているのだ。
相撲の連勝記録や、ボクシングの連勝記録や、将棋の連勝記録よりも長い。
なおアマチュア野球で見るならば、キューバ代表の国際試合での連勝記録が、151連勝であったりする。
だがまあ多少の引き分けをはさんだり、勝ち負けなしを挟んでいても、それでも圧倒的な数字には違いない。
MLBにおいてはとにかく、無敗記録や無失点記録、そしてパーフェクトにノーヒットノーランと、記録のオンパレードであるのだ。
それでも直史が負けるとしたら、武史と当たる時だろうと、メトロズの人間は思っている。
この第六戦に投げてくるのが分かって、むしろ第七戦で勝てると判断した。
連投の記録は過去にあり、しかもそのパフォーマンスは落としていない。
だが去年の試合を見れば。MLBレベルでは不可能だと思ったのだ。
その判断は甘いな、とかつてチームメイトであった日本人三人が、それぞれの立場から考えている。
去年は直史とバッテリーを組んでいた坂本。
生まれてからずっと、目標として兄の背中があった武史。
そして高校時代は投打の両輪として、全国制覇を成した大介。
国際大会の実績などを見ても、直史は完封程度なら、普通にやってのけるのだ。
(それでもこの試合で、どれだけ消耗させられるかが問題か?)
おそらく明日の最終戦も、リリーフとしてなら投げてくると思うのだ。
ならば二日間をかけて、直史を攻略する。
釈然としない気もするが、削りきって勝つ。
大介はそういう、かっこ悪い勝ち方すらも、覚悟の上で対決するのだ。
まずは初回のアナハイムの攻撃。
ウィッツには完封までは求めないが、直史がマウンドを降りるのをためらうぐらいには、アナハイム打線を封じてほしい。
一点ぐらいなら、直史から取ってもいい。
と言うか直史はおそらく、味方の援護があるならば、大介にはそれなりに打たせてくるだろう。
限界まで振り絞らなければ、直史でも勝てなくなってきているのだ。
ウィッツの左のサイドスローから、特徴的なボールがリリースされる。
アナハイムの先頭打者アレクは、器用にサウスポーも打ってしまうバッターだ。
だがさすがにサイドスローを打つのは難しい。
(アンダースローの練習もしてなかったしな)
日本時代は淳が、左のアンダースローという、世にも珍しい存在であった。
それがプロで通用するのだから、やはり投げ方には希少価値というものがある。
アレクは粘っていったが、最終的には内野フライ。
まずはワンナウトである。
ベンチの中から武史は、第六戦を眺める。
この試合に限っては、彼の出番は絶対にない。
第七戦の先発予定でもあるし、元々リリーフ適性が絶望的にないのだ。
ただ終盤ぎりぎりの試合になれば、ブルペンに向かうことはあると言われている。
常識的に考えて、武史の球種やコントロール、奪三振能力といったものは、クローザーに向いているのだ。
実際には絶対に投げない。
だがほんの少しでも、アナハイムの注意をかく乱することが出来たなら。
それだけで充分に、武史の役割は果たせたと言えるだろう。
(ただまあ、この試合ではそんな出番すらないかなあ)
アナハイムの二番樋口は、ウィッツの難しい変化球にも、ミートとパワーをバランスよく混ぜて合わせていく。
ライト方向に、なんとスリーベースヒット。
いきなり先制点のチャンスである。
メトロズ側から見れば、一点は覚悟するピンチ。
アナハイムの三番ターナーは、大介のような別格を除くなら、MLBでもトップクラスの選手と言える。
ウィッツは奪三振能力はあまり高くないので、ここでゴロを打たれて一点か、タッチアップで一点は避けられないだろう。
問題なのはその後だ。ピンチを最少失点で抑えて、こちらの攻撃につなげなければいけない。
考えてみれば、と武史は今更考える。
どちらのチームも上位打線の得点力が高いため、先攻の方が絶対に有利なのだ。
ただそういうことを考えても、アナハイムは運が悪かったな、と思うことはある。
第五戦の最終回にしても、メトロズの代打をアナハイムはどれだけ知っていたか。
九番の代打に出たラッセルは、確かに長打力があった。
だが彼がメジャーに上がってきたのは、その勝負強さが理由であるのだ。
セイバー・メトリクスというのは、基本的に勝負強さを重視しない。
安定してどういう成績を残せるか、それが問題になるからだ。
ラッセルにしても、守備力はあまりないし、走塁も足は遅い。
なので使うとしたら、代打かDHと言われていたのだ。
もっともファーストあたりならなんとか、などとも言われたが、現代の野球はそれぞれのポジションの役割が、はっきりとしているのだ。
確かに守備貢献度は低いと言われるファーストであるが、それでも上手い選手は必要なのだ。
今日もスタメンでは出ていないが、代打としての出番はあるだろうか。
(兄貴が投げている限りはないだろうな)
アナハイムでの第五戦は本当に、紙一重の差の勝負であった。
九回の裏は、メトロズも先発の守備力の高い選手を代えていたため、やや不安はあったのだ。
だがアナハイムはそこを突くことが出来なかった。
打球の方向などの、運の悪い面もあったのだが。
しかしそれでも、逆転したメトロズが、単に運に恵まれていたわけではない。
運の要素を完全になくしてしまう。
そのために武史は、三振を狙っていくのだ。
「あ」
そんなことを考えている間に、ターナーの打球はシティ・スタジアムのスタンドまで飛んでいった。
一点に抑えて、こちらのチャンスを待つ。
それが二点を先制されてしまった。
(やっぱり強いなあ)
今日の戦力配分では、アナハイムの方が絶対に有利なはずなのだ。
ターナーを抑えることは、明日の武史の課題でもある。
もっともアレクに樋口という、厄介な元チームメイトまで存在するのだが。
確実に狙っていたであろう先制点。
ホームランという最悪の形で、メトロズはそれを取られてしまった。
大介としては第一戦の直史と、第四戦の直史、それぞれ別人のようにレベルが違うな、と感じていた。
第一戦は四打数の二安打で、ホームランとツーベース。
他の打球もいい当たりであった。
しかし第四戦は、四打数でノーヒット。
おまけに三振も奪われている。
第一戦では機械的な、隙のないピッチングであった。
それでも力技で対抗し、負けてはいないと言えるような結果となった。
だが第四戦は、チームとしてノーヒットノーラン。
精魂使い果たしたといって試合後の雰囲気であったが、大介が感じていたものは、もっと何か得体のしれないものである。
この試合の直史はどうであるのか。
大介が感じたのは、全く響かない壁のような印象だ。
アウトローストレートと、内に入るカーブという平凡な組み立て。
だがそれをしとめることが出来なかった。
拍子抜けしていたところに、またも内角。
そして四球目は、スルーをそのまま投げてきた。
ジャストミート、にはあと半歩足りない。
ライトライナーという珍しい記録で、第一打席はアウト。
そして続くバッター二人も凡退で、三者凡退として終わった。
今日の直史の調子は、今のところ良く分からない。
だが少なくともはっきりと分かる、あの支配者の威圧感は感じられない。
もっとも大介が打てた第一戦にしても、他には誰もヒットを打っていなかったのだ。
試合後の様子を窺うに、さすがに第四戦のピッチングが、直史の限界だとは思うのだが。
大介の意識は、攻撃に傾いている。
だが守備に入れば、難しい打球を余裕をもって処理していく。
ウィッツは最初の一発を打たれてからも、自分のスタイルを崩していない。
序盤にさらに追加点を取られさえしなければ、回が進むに従って、安定してくるだろう。
(それでもあと一点ぐらいか? あとはリリーフ次第か)
直史から一点を取るのは、なんとかなるかもしれない。
だが二点というのは、かなり不可能と同義ではないかと思えるのだ。
二回の表は、アナハイムの攻撃は三者凡退。
しかしメトロズの二回の裏の攻撃も、三者凡退である。
同じ三者凡退でも、意味は全く違う。
直史の投げた場合は、これで試合開始から、まだ一人もランナーが出ていないのだから。
そして三回の表は、アナハイムはまた上位打線に回る。
もっとも打線は九番からなので、初回よりは簡単なものとなるかもしれないが。
先頭打者は内野フライという安定したアウト。
ここからが上位打線に回るのだ。
アレクは厄介なバッターであるが、今のところ今日のウィッツとは相性が悪い。
球数は使ったが、なんとか二打席目もアウトとなっている。
しかしアレクで使った球数を、樋口で稼ごうとも出来ない。
樋口は打率の方に注目されるが、ホームランも20本以上打っているのだ。
そう思うとなかなか、安易に勝負も出来ない。
フォアボールで歩かせたところで、二打席目のターナー。
ウィッツとしては今日の鬼門かもしれない。
低めを意識して、サイドスローのボールが入る。
だが右打者にとっては、懐に飛び込んでくる球。
リリースはやや見づらいかもしれないが、球の軌道はしっかりしている。
そのボールを打って、またも外野を抜けていく。
素早く追いついたセンターであったが、一塁走者の樋口は、余裕で三塁まで到達した。
失点しなかっただけ、儲け物といったところであろうか。
ツーアウトながら二三塁。
長打でなくとも普通のヒットで、一気に二人が帰ってきてもおかしくない。
この場合、どういうシフトを敷くかで、ベンチの思考は分かる。
四番のシュタイナーもまた、長打力のある選手だ。
深く守れば、内野を越えられたら、一気に二点が入る。
だが浅く守ったとしても、ヒットならば確実に一点は入る。
考えるべきは、アナハイムのピッチャーが誰なのか、ということだ。
既に二点差であるのに、三点差ともなれば、試合はほぼ決まりであろう。
メトロズのベンチは、外野を前進守備させて、内野は深く守らせる。
外野の頭を越されたら、どうせそれでも二点だという考えだ。
攻撃的な守備配置と言えるだろう。
バッターボックスのシュタイナーも、当然それは分かっている。
基本的にはプルヒッターのシュタイナーであるが、小器用さも持っていないわけではない。
(普通のヒットでいいな)
左のシュタイナーにとっては、ウィッツのボールを遠くに飛ばすのは、かなり難しいことなのだ。
外のボールに、バットを合わせていった。
引っ張るのではなく、上手く合わせていく。
そのボールは内野の頭を越え、外野の手前に上手く落ちるかに思われた。
だがショートの大介が、後退しながらジャンピングキャッチする。
スタジアムが湧きあがる、ナイスセービングである。
アナハイムからすれば、確かに守備力の高さは分かっているが、あれを取るのかと驚かされるばかりである。
地元のニューヨークであるため、観客の拍手や口笛は長く続いた。
ランナーであった樋口はそれを考えて、ゆっくりとプロテクターを着ける。
「あれもアウトにするんだからなあ」
「もうちょっと強く叩いて、センターに引っ張れればな」
「いや、今のボールは打ったらダメだったな」
樋口はそうダメだしをするが、本当に厄介なショートである。
ここでメトロズに、勢いがつくのはまずい。
野球というのは戦術の勝負であるが、同時に流れや勢いというのも存在する。
下位打線で打たれれば、それだけ勢いづくだろう。
だがもちろん、それは杞憂であった。
三回の裏、メトロズの攻撃。
直史の前に三者凡退に終わり、これで第六戦の序盤は、ランナーを一人も出せずに終わったのである。
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