第81話 休息の後
移動日でもない日の休日は、貴重な休養日だ。
野球漬けではない、人間らしい日を送ることが出来る。
大介は子供たちで遊んでいる。
子供たちとではない。主体は大介である。
そろそろ桜のお腹も膨らんできて、激しい運動は出来ない。今度はなにしろ二人分だ。
実質二人目と三人目も、双子のように育ててはいるのだが。
長男の昇馬はそろそろ、言葉による意思疎通が上手くなってきている。
ただ将来的に普通に学校に通わせるか、日本語学校に通わせるか、そのあたりは迷うところである。
セントラル・パークに遊びに出かけると、とりあえず大介はゴムボールを与えておく。
ボールは投げて遊ぶものだという意識が、果たしてあるのだろうか。
野球中継は見ているので、投げ方は分かっている。
ただし両方の手のどちらで投げるのが正解か、まだ分かっていないらしい。
椿さん、両手で投げられるような英才教育を施すのはやめなさい。
椿もそろそろ痺れる足ではあっても、キャッチボールぐらいは問題ないように、体の動かし方を変えていっている。
かつての彼女のあの身体能力からしたら、ひどく不便に感じているのだろう。
だがそんな椿を桜が世話し、椿もそれに甘えるという、相互依存をツインズは続けている。
大介としては子供が大きくなってくると、この状況を説明するのは難しいな、と考えている。
アメリカのニューヨークだと、個人の自由でどうにか通せているのだが、同調圧力の強い日本ではどうか。
もっともアメリカはアメリカで、個人の自由を絶対に尊重せよ、という逆の同調圧力があるのだが。
シーズン序盤でチームは絶好調なので、それほど大介も疲労は溜まっていない。
ただ歩かされることがとにかく多いのが、不満と言えば不満である。
おかげでいまいち集中できず、少し盗塁を控える傾向にある。
走りまくった方が、勝負されることは増えると思うのだが。
セントラル・パークの人工的だが不自然ではない公園を見ていると、アメリカ人の価値観に触れられる気がする。
結局のところアメリカ人は、歴史を背景とした教養をあまり持っていない。
それは日本人にとってみれば、建国の神話だとかそういうものである。
聖書の教えを信じる者が、一番多いと言われるアメリカ。
だが実のところ、訳の分からないカルトも多い。
散歩をしたり遊んだりと、家族の時間を過ごす大介。
二人の女の子は、まだまだ自由に歩くところまではいかない。
ただ伊里野の方は、何もないところを見て、全く動かないことがあったりする。
不思議な感覚を、遺伝的に母親から受け継いでいるのだろうか。
あるいはそこに、母がいるのか。
「そこにいるの?」
死ねばそれで、全ては無に帰る。
むしろ死んだ後のことまであれば、それこそ大変なものだ。
だがイリヤの存在感は、まだ世界から消えない。
今日もどこかのスピーカーから、彼女の音楽が流れている。
武史と恵美理の家庭では、恵美理も働き始めている。
日本語学校で音楽の教師を担当したり、あるいは頼まれてバック演奏に入ったり。
自分自身の肉体に身につけた技術というのは、どんな場所でも役に立つものだ。
ただし今日は一日休暇で、旦那とデートだ。
マザコン気味に育ちつつある長男を筆頭に、子供たちをシッターに預けて街に出る。
武史が想像していた以上に、MLBのシーズンというのは過酷であった。
いや、肉体的にはそれほどでもないのだが、メンタルの方のコントロールが問題となる。
NPB時代はなんだかんだ言って、自宅にいることが多かった武史。
おそらく他の一般家庭と比べても、家族と過ごす時間は長かったのではないか。
MLBは本当に、拘束時間が違う。
おそらく日本人選手がMLBで成功しない原因は、これが大きな理由だと、成功しつつある武史は考える。
「ニューヨークはやっぱり東京と似てるかな」
「東京の方がもっと、派手な印象があるけど」
東京もニューヨークも広いので、そう一言でまとめることは乱暴であろう。
二人はこの日、主に恵美理の趣味に合わせて、観光客のように過ごした。
スケジュールを確認すると、一日移動日でもなく休みが取れるのは、ほとんどないのだ。
これがNPB時代のレックスであると、月曜日は試合が休みで、先発は前日と翌日はほとんど投げることがない。
なんなら恵美理に合わせて、軽く調整をしてからお出かけ、などということもありえたのだ。
大介のところよりも、武史の長男は一歳年上だ。
このぐらいの年齢になると、目鼻立ちも両親のどちらに似てくるか、ある程度は分かる。
武史の息子は圧倒的に母親似である。
それを父親である武史は、素直によかったと思う。
まだはっきりしないが、下の女の子二人は、武史に似ているような気がする。
どうせなら恵美理に似ていれば、将来モテモテ間違いなしであったろうが、それはそれで心配になったかもしれない。
ちなみに直史の娘である真琴は、父親である直史に似ている。
元から女顔と言われることは多かったので、そんなに違和感はないそうだ。
大介の息子である昇馬は、両親にちょっとずつ似ている。
目が三白眼なので、そこは大介に似ているだろうが。
日本であれば子供と一緒に、気安く外出が出来た。
だが事前に言われていたこともあるが、ニューヨークでは目の届かない範囲に行かないよう、恵美理が子供たちを全員連れて外出することはない。
友人が死んだこの街を、二人は警戒している。
基本的にニューヨークは、安全なところを進めば安全ではあるのだが。
それでもその安全なはずのストリートで、イリヤは死んだ。
おそらく佐藤家の人間や、白石家の人間が、ニューヨークという街に完全に気を許すことはないだろう。
それでも日常を送るのに、ニューヨークはそれなりに便利な街だ。
「物価高いなあ」
武史などはそんな世俗な感想を抱いたものである。
たった一日の休暇の後、選手たちは戦場に戻る。
ニューヨークでのアトランタとの三連戦だ。
そう思っていたのに、雨で第一戦は中止。
ここで大介はもう二年もMLBにいるので、げんなりとした表情になる。
もっとも本当に困っているのは、首脳陣であろうが。
ピッチャーの運用が変わってしまう。
「MLBの場合雨が降ったらどうすんの?」
武史の質問に、大介はちゃんと答えられる。
「日本と同じで後日のカードにねじ込まれるんだけど、日本と違って日程が詰められてるからなあ」
大介も改めて確認したところ、かなり後の試合に、ダブルヘッダーが組まれるそうだ。
ニューヨークはそこそこ雨が降るため、こういったことは珍しくない。
こういうこともあるのは分かっているだろうに、どうしてアメリカの野球はドーム球場が少ないのか。
「単に必要がないからじゃ」
坂本は元はアナハイムにいただけに、アメリカの気候にはそれなりに詳しい。
「アメリカは広いからの」
日本のドーム球場と違って、アメリカのドームは野球専用である場合が多い。
あとは密閉型のドームにすると、人工芝のグラウンドになるというのも理由であろう。
人工芝のグラウンドが、選手の足腰に負担をかけるのは、よく知られていることだ。
かつての札幌ドームからNPBチームが移転した理由の一つにもなっている。
天然芝のグラウンドであると、陽光が必要になる。
アメリカは国土は広いが、日本のような梅雨がないため、それほど雨天中止を気にしなくてもいい。
もちろん雨の多い土地では、開閉型のドーム球場がある。
それでも基本的には、芝を育てるために、球場は野天で行われるものとなっている。
あとは野球というスポーツは空の下で行うという意識が、アメリカ人全体に刻まれているということもあるだろう。
ダブルヘッダーで試合をするにしても、移動日の関係でそれが不可能な場合もある。
そういった条件まで考えると、なんとこの試合の代替日は、九月になってしまうそうだ。
カリフォルニア、特にアナハイムなどでは、あまりそういうことはなかった。
またこれがインターリーグで年に三回しかない試合だったりすると、第二戦の日にいきなりダブルヘッダーになったりもする。
日程に余裕を持たせていない、これがMLBの弱点と言おうか。
その点ではNPBの試合は、シーズン終盤は一試合だけのために移動をすることが多かった。
アメリカだと距離と時間の関係上、なかなかそうはいかないらしい。
NPBではなかなか開閉式のドームが作れないため、予備日があると考えるべきか。
フロリダのチームなどは雨が多い季節もあるため、開閉式であったりする。
この試合に投げなかったウィッツを、NPBであればそのまま他のピッチャーも含め、一日ずつずらすことがある。
特にエースクラスであればそれは間違いないが、MLBだと基本的にそのローテは飛ばす。
第二戦の先発はオットーで、雨から一夜明けて、曇り空の中で試合は行われた。
「まあこれはもう慣れるしかないな」
ピッチャーの運用については、大介としては門外漢だ。
一応リリーフを使いたくないときに、試合で投げたことはある。
だがやはりピッチャーの心理は分からないし、MLBの投手運用はさらに分からない。
第三戦に投げる予定の武史は、この試合には絶対に出番はない。
そして二日間試合をしなかったのが、かえって悪かったのか。
先発のオットーも打たれたが、メトロズ打線もそれをひっくり返すことが出来ない。
休養日と中止日が一日ずつ入っているが、これで今季二度目の二連敗。
微妙な空気になった中で、武史の五試合目の先発がやってくる。
また雨がしとしとと降っている。
試合が出来なくはないが、ピッチャーとしては投げにくいコンディション。
ただ武史はそんなに、雨が苦手でもない。もちろん好きではないが。
先日の雨に比べれば、確かに試合は可能だろう。
それでも濡れながらプレイするのは、心地のいいことではない。
試合の前からしっかりと肩を暖めておく必要があった。
それと今日の相手の強さから、エラーなども絡んで一点ぐらいは取られるであろう。
またさらに一点取られてもおかしくはない。
武史としてはこの雨の試合になって初めて、MLBのボールの握りにくさを実感した。
最後まで指でしっかり押し込まないと、スピンがかからない。
MLBではピッチャーの故障が多いというのは、このボールが要因であるとも言われている。
確かに普段より握力が必要になり、力がかかっているのは分かる。
ただ武史はだからと言って、気にするような性格ではないが。
無事に一回の表は抑えた。
今日は相手を探るのと、立ち上がりを確認するため、やや球数が多い。
坂本のリードは、少しボール球を使ってでも、失点を回避するというもの。
それは試合単体で見れば間違いではないのだが、武史が早いイニングで交代となると、リリーフを多く使わなくてはいけなくなる。
ただそれを理由に、単調なリードをしていいというわけでは、もちろんない。
一回の裏の攻撃で、メトロズは一点を先取。
しかし連敗に加えて雨天中止もあり、どうもチーム全体の調子がおかしい。
噛み合っていないのは、二回以降も確かであった。
ただその二回の表も、武史はしっかりとアトランタを抑える。
もしもこの試合に負けたとしたら、メトロズは雨天中止を挟んで三連敗ということになる。
強いチームであっても、上手く流れを止めることが出来ず、試合に負けることはある。
だが強いチームと弱いチームの、最大の違いはそこにある。
強いチームは負けたとしても、長く連敗はしないのだ。
二勝一敗ぐらいのペースを、ずっと続けていく。
連勝をするのはピッチャーの能力により、ある程度限度がある。
やはり強いチームは、エースのピッチャーが強いため、連敗を食い止めることが出来る。
この試合はロースコアで展開している。
メトロズの攻撃の軸は、とにかく大介である。
だが大介は雨天のプレイは、あまり好きではない。
どうしても思い出すのは、あの甲子園の雨の中の試合。
二度目の勝利した試合ではなく、最初の敗北した試合だ。
まともにやって直史が負けた、最後の試合と言えば武史にも通じるか。
もっともあの試合は、そもそも戦力差が大きかった頃の話だ。
あの敗北からほんの数日後、新入生に即戦力が入り、白富東は頂点を目指せるようになったのだ。
(苦手意識と言うか、雨の中で試合なんか、普通はしたくないよな)
大介の意識は、子供の頃からの野球にある。
雨天の場合は危険があるため、練習試合は普通に中止になっていた。
そしてその後の敗北が、やはりトラウマの一つとなっている。
五回を終えたところで、1-0とメトロズのリードは一点のまま。
ただしアトランタも内野安打一本と、ほぼ完全に抑えられている。
雨天の守備が難しいのは、武史も知っている。
なのでこの試合は、三振でアウトを取りたい。
ピッチャーが三振を取りたいと思っても、相手がいる以上はそう簡単にはいかない。
だがこの小雨の中の試合は、武史のムービングがかえってよく曲がるようになっているようだった。
もっともわずかなコントロールミスで、フォアボールも出している。
パワーピッチャーは雨に強い、などというのは嘘である。
野球選手は普通、誰だって雨の試合は苦手だ。
フォーシームストレートが、いまいち走らない試合になった。
やはりわずかでもグリップが効かないようになると、ストレートの質は落ちてしまう。
それでもムービング系のコンビネーションで、それなりに三振も奪える。
ここで重要になるのは、やはりチェンジアップとナックルカーブだ。
ナックルカーブは落差があるため、ストライクを取ってもらいにくい傾向にある。
もっとも武史の場合は、ゾーンを切断しているのが、はっきりと分かるボールであるが。
ボールが滑ると使いにくい球種だ。
だが普通のカーブではあまり曲がらない武史には、重要なボールである。
メトロズの追加点のチャンスは、意外な形で訪れた。
大介がフォアボールで出塁した後、シュミットへのデッドボールでランナーがたまる。
雨によって多少は、コントロールが難しくなっているのか。
「ロージンちゃんと使えよ」
シュミットのデッドボールは肩付近で、ちょっと危険なボールであった。
ボールの勢いがそれほどはなかったことから、すっぽ抜けたのだとは分かる。
ここで一本ヒットが出て、ようやく七回に二点目。
残り二イニングを封じれば、今日も無事に勝つことが出来る。
「雨は投げにくいな」
そんな雨にも関わらず、メトロズのシティ・スタジアムは満員御礼。
武史もなんだかんだ言いながら、普通に二桁の三振は奪っている。
ここまで四本のヒットを打たれていて、フォアボールも合わせれば普通のいい投手という内容。
だが無失点であるので、直史による判定なら問題ない。
実際に投げている武史は、どうしても握りに意識が向かうため、制球が乱れる。
個人的に武史が考える、雨のときこそ三振が取りたいという要望。
それを今日はあまり果たせていない。
だがあと二イニングなのだ。
そして選択されたのがナックルカーブ。
すっぽ抜けたそれは、バッターのヘルメットを直撃した。
「あ」
これはリードをしている坂本の不注意でもあった。
雨の試合の少ないアナハイムでは、坂本は雨天でのリードの経験が少なかった。
武史のナックルカーブへの理解も、やや不足していた。
ただこれで、デッドボールの後にデッドボールが続いた。
違う。報復じゃない。
そう思ってはいるのだが、普段はコントロールのいい武史であるので、審判としてもそういう判定にするのだろう。
先ほどのシュミットへのデッドボール。
顔に近い場所だったので、警告は出ていた。
そちらもこれも、雨天でのグリップ不足が原因だ。
だが警告の後のデッドボールで、ピッチャー退場となる。
スタンドからはブーイングが鳴らされるが、これは状況的に仕方がない。
報復死球退場である。
ここまでは仕方がないと言えたかもしれない。
だがここからの対処が、メトロズはまずかった。
確かにやや球数は多いが、まだ限界は遠いと思われた武史に、リリーフが肩を作るのは遅れている。
心構えの問題もあっただろう。
スクランブル登板は、明らかに嫌な雰囲気をかもし出していた。
七回までを投げた武史には、当然ながら勝利投手の権利がある。
一人ランナーを出してしまったが、点差は二点。
どうにかリリーフ陣が止めてくれるかと、そう考えはする。
だがこの展開は、明らかに悪い気配しかしない。
準備不充分なピッチャーがマウンドに上がり、フォアボールを与える。
そしてノーアウト一二塁となったところで、初球に甘くストライクを取りにいってしまう。
狙っていたバッターのスイングに、打球はスタンドへと到達。
一発逆転のスリーランホームランで、武史の勝ち星が消えた。
仕方のないことではある。
武史も別にリリーフのピッチャーを責めようとは思わないし、別に自分の評価が下がるわけではない。
だが日本時代からも、既に武史は言われていたのだ。
雨の日の武史は、ややパフォーマンスが落ちると。
具体的にはフォーシームストレートの威力が落ちる。
それは坂本も感じて、それでも打ち取れるリードをしていたのだ。
しかし付き合いの長い樋口なら、もっと安全マージンを取っていただろう。
全てはタラレバになるが、樋口であればこの試合は勝てただろう。
また直史であっても、この試合は勝てただろう。
残り二イニング、まだメトロズの攻撃もある。
しかしその攻撃に移る前に、またアトランタのバッティングが爆発する。
野球には、シーズンに一度や二度ぐらい、こういうことはある。
雨の日には特に、そういったことはあるのだ。
八回の表、五点を取られて逆転されたメトロズ。
八回の裏には点を取ることが出来ず、三点差のまま。
九回の表には追加点は取られなかったが、いよいよ最終回。
ワンナウトとなって、大介の打席が回ってきた。
三点差のこの状況で、まさか勝負を避けることなどあるまいな。
アトランタとしてもこの試合、三点差ならば勝てると思っている。
大介と勝負して、少しでもその攻略のきっかけを掴みたい。
そんなことを考えるから、お約束のようにホームランを打たれるのである。
二点差になった。
そしてバッターはシュミット。
しかしここからさらに二点は、メトロズでも厳しかった。
勝負されてあっさりと打つ、大介の方が異常なのだ。
5-3にてメトロズは、中止を挟んで三連敗。
それでも地区では首位を走るが、どうにも釈然としない敗北である。
武史も負けなかったが、勝ちがつかなかった。
あのまま投げていたら、無事に九回まで完封できただろうに。
「ままならぬものよ」
のんびりと呟いたその顔は、悔しさでもなくしんみりとしたものが浮かんでいた。
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