五章 パワー&パワー

第74話 西の兄と東の弟

 アトランタは去年もその前も、地区二位のチームであった。

 ポストシーズンにも進出していて、ナ・リーグ東地区では安定して強いチームと言える。

 開幕戦にはエースのリチャードを持ってきたが、この左腕は武史と比べられることになってしまった。

 フォーシームとツーシーム、そしてスライダー。

 スライダーの横変化以外は、武史に優るものはない。

 伸びのあるストレートとツーシームで、上手くゴロを打たせるピッチャーではあった。

 スライダーは左打者から空振りを奪うもの。

 対大介を考えれば、悪いものではない。


 一回の表はまだ、肩が暖まっていない。

 それを承知の坂本は、とりあえずアウトローに投げてもらう。

 兄のようなミリ単位のコントロールではないが、構えたところにしっかりとボールが来る。

 それだけである程度は、充分なコマンドなのだ。

 あっさりと内野ゴロと三振でしとめて、無難なスタートを切る。


 そして一回の裏、メトロズの先頭は、大介であった。

 もう一度言う。先頭打者は大介であった。

 一番ショート白石大介。

 カーペンターが去ったメトロズは、リードオフマンとなる一番打者をまだ固定できていない。

 中途半端な出塁率があるバッターでは、大介の前に置いても足を使えなくするだけだ。

 よってレギュラーシーズンで様子を見つつ、あとはマイナーから上がってくる選手を待って、それまでは大介を一番で使うという体制。


 対するピッチャーにとっては、最初からいきなりクライマックス。

 開幕戦の初回の先頭打者として、大介は自分の役割が分かっている。

 スライダーで大介を打ち取ろうとしたリチャードだが、そのスライダーをあっさりとライト前に運ばれる。

 打った直後に少し体勢を崩していたので、足が遅ければライトゴロになっていたかもしれない。

 大介を相手に単打なら、充分と言える。

 だがここからメトロズは、シュミット、ペレス、シュレンプ、坂本とバッターが並んでいる。


 サウスポーのリチャードから、初球あえて大介はスチールをかけた。

 落ちる球を持たないリチャードは、なかなか盗塁のしにくいピッチャーではある。

 だが完全に、この初球は無警戒であった。

 投げたボールが動揺して、少し大きく外れたため、キャッチャーの送球は間に合わない。

 まずはこれで、盗塁も一つ記録である。


 これでシュミットはダブルプレイのことを考えず、自由に打っていくことが出来る。

 リチャードのスライダーもシュミットに対してはさほど効果的ではない。

 ツーシームを上手く打てば、レフト線を転がる。

 大介は一気にベースを蹴りながら加速して、三塁を回る。

 サードまでボールが戻ってきたが、大介は余裕で駆け抜けてセーフ。

 二人でまずは先制点を取った。




 坂本は去年、アナハイムのキャッチャーとして、メトロズと対戦した。

 よって大介の打撃と足の脅威は、よく分かっているつもりである。

 それでもサウスポーから盗塁して、次の長打であっさりと帰ってくる。

 この破壊力は凄まじいな、と思わざるをえない。

 

 この後もペレスが進塁打、シュレンプが外野フライで犠牲フライとなり、もう一点を追加する。

 ここは打つべきかな、と坂本は考える。

 だが読みで打つ坂本は、ある程度相手が油断してくれていると、より打ちやすくなる。

 今日の武史の調子を見るに、おそらく二点あれば大丈夫。

 それにまだまだ大介が、次の打席で追加点を取ってくれそうだ。


 ツーアウトからなので、地道にリチャードに球数を投げさせて最後にはフライアウト。

 さて二回の面となる。


 立ち上がりが微妙だという認識なので、やや多めにボールを投げさせる。

 しかし想像していた以上に、ムービングが動いてくれる。

 この変化量を計算して要求しないと、ボールになってしまう。

 それで100マイルは普通に超えているので、相手のバッターも振ってくれない。


 100マイルオーバーで手元で動く。

 悪夢のようなボールだが、上杉でそれは経験した。

 おそらく今のMLBのバッティング技術では、これを攻略する手段はない。

 アトランタのバッターは、途中からこれを振るのをやめてくる。

 すると坂本としては、普通のストレートをアウトローに要求するだけの簡単なお仕事になるわけだ。


 三者三振で、ベンチへと戻る。

 その途中で武史は、応援スタンドに向かって手を振っていた。

「調子はいいがか?」

「いいね」

 そう武史は答えるが、正確には調子がいいのではなく、調子に乗っているのだ。

「嫁さん見に来てるからな。うちの女房が子供預かってるんだ」

 え、どいつだどいつだ、とベンチからチームメイトが溢れてくる。

 MLBのキャンプはパートナー同伴も許可されているのだが、武史は大介の家から通っていたので、他の者は知らないのだ。

「あの辺にいる女の人で一番の美人」

 ものすごく雑な大介の説明に、白い視線が向けられる。

「しゃーねーだろ! 実際に女優みてえな美人なんだから」

 妻を二人持つ男であるが、大介は浮気はしない。

 ただ客観的に見て自分の義理の妹になる恵美理は、100人選出したらまず間違いなく一番の美人と言われる美貌の持ち主だ。

「ジャパニーズなら黒髪か?」

「いや、確かイギリスの血がかなり入ってるんだよな? 茶色い髪だ」

「東洋人っぽいのが見当たらないが……」

「お前ら! 試合中だぞ!」

 FMのディバッツの叱責に、選手たちはベンチの中に戻る。

「で、どれがサトーの嫁さんだって?」

 美人に興味があるのは、男の性であるらしい。




 初回からチェンジアップ以外は100マイルを超えていた武史のボールは、三回までで七つの三振を奪った。

 ちなみにまだ一人もランナーは出ていない。

 球数は32球と、充分に完投のペース。

 追加点も取ってもらった上で、四回の表のマウンドに立つ武史。

 そしてまた奪三振ショーが繰り広げられる。


 ボールを受ける坂本は、だんだんと球威が上がっていくのを感じていた。

 ミットを弾き飛ばすような衝撃は、スピン量が増しているからか。

 球速も普通に104マイルとか105マイルとか、現在のMLB最速を出してくる。

 四回は一度バットにボールが当たったが、前には飛ばない。

 10球で三振三つを奪って、そのままチェンジである。


 まだ42球。

 本当ならここから、武史のエンジンはさらに馬力を上げる。

「そういや嫁ブーストがあったか」

「なんがか、それは」

「佐藤一族の人間は恋人の応援を受けるとパフォーマンスが30%ぐらいアップするんだ」

「……」

 坂本は沈黙したが、反論するのが難しかったからである。

 現象だけを見ればそれは事実であるのだし。


 しかし、あれである。

 初回に二つゴロを打たせたが、それ以降は全て三振。

 外野まで一度もボールが飛んでいない。

 レフトのシュミットなど、帽子を反対にかぶったり、グラブを右手につけたりして遊んでいる。

 いや確かに飛んでいないが、少しは真面目にやるべきだろう。


 去年の上杉が投げていた時、最終回がこんな感じであった。

 ほとんどが三振でのアウトなので、守備陣がやる気を失う。

 もちろんいざとなればすぐに、ボールの行方を追っていくのだろう。

 だが五回にようやくボールが前に飛んだが、ピッチャーへの小フライ。

 武史自身が処理して、スリーアウト。

 五回を終えて既に12奪三振。

 上杉のあの記録は超えられないが、それでも異常なペースだ。


 サトーの弟、ということで注目していたファンは多い。

 それとは別にメトロズは、大介のおかげでこの数年チケットの完売は続いている。

 相手がアトランタと、かなりの好カードであることも影響した。

 その中で武史は、三振を奪いまくっているのだ。




 武史も学習する。

 プロ入り後はノーヒットノーランは達成しても、パーフェクトは達成していない武史。

 その理由としては、詰めの甘さが挙げられる。

 村岡のせいばかりにしてはいけない。

 村岡はどこにでもいるのだから。


 六回にはバットを叩き折って、そのままミットにボールが収まるという離れ業も披露。

 アメリカ人は熱狂している。

 ベースボールの華はホームランと奪三振。

 大介は歩かされて打てていないが、代わりとばかりに着実にホームにまで戻ってくる。

 アトランタはこの開幕戦を、割と早い段階で見切りをつけた。

 五回までに先発リチャードが四点を取られたところで降板。

 打たれたヒットの数などは、さほど多くはなかったのだが。


 そして大介の四打席目が回ってくる。

 代わったばかりのピッチャーは、この試合は捨てるとしても、自分のピッチングのアピールはしたい。

 そう思って、愚かにも大介に正面から挑んでしまった。

 その一球を、確実に大介は打っていった。


 ライト側スタンド、最上段へのソロホームラン。

 四打席連続出塁の、これが今年の第一号。

 大介は去年もその前も、なんならNPB時代を含めても、ほとんど開幕戦でホームランを打っている。

 どうしても抑えようとして歩かされるならともかく、開幕戦から既にテンションが上がっているのだ。

 アドレナリンを大放出し、今年もまずは一発。

 だが今日の試合は、主役の座を譲ることになりそうだ。


 七回を終える。

 三振は既に17個。

 フォアボールもなくエラーもなく、そしてヒットもない。

 つまりはパーフェクトピッチングである。


 MLBにおいて、過去に開幕戦でパーフェクトを達成した例はない。

 ノーヒットノーランは一応ある。100年近くも前の話だ。

 だが新人が、つまり初先発が、ノーヒットノーランを達成した例はない。

 初先発でノーヒットノーランという例なら、NPBには記録がある。

「まさか行けるのか?」

「それどころかまだ100球以内のペースですが」

「化け物の弟もまた化け物か……」

 義弟である大介も含めて「サトー」と関わるとひどいことになるらしい。


 八回の表、武史はマウンドに登る前に、坂本と話す。

「打たせるとエラーになるかもしれんき、もう三振でよかろうが」

 いやそう思っても、三振はそう簡単に取れるものでもないはずだが。

 坂本はそうは思わない。

 高校時代に見た武史のボールとは違う。

 これから出塁しようとするなら、それこそキャッチャーのミスを期待するぐらいだ。

 対する武史としては、じゃあ一応は三振を狙おうか、という程度だが。


 


 八回の表、さすがにアトランタも状況が分かってきている。

 今年もまたナ・リーグの東地区では、メトロズと優勝を争うはずであったのだ。

 確かにメトロズはピッチャーを補強していたが、それでもまだまだ打撃偏重。

 間違ってはいないが、正しくもない。

 一人のスーパーエースがどれだけ、他のピッチャーを楽にしてくれるか。

 上杉しかり、直史しかり。

 本来の実力ならば、武史にもそれぐらいの影響力はあってもおかしくない。


 二球粘られた四番は、最後には空振り三振。

 高めの下をバットは潜った。

 続く二人は、ボール球を振っていった。

 先にフォーシームストレートを投げて、次に少し遅い球が来れば、それは振りたくもなるだろう。

 もっとも動くボールはボールに外れて、それにバットが届かなかったわけだが。


 八回を終えて、84球20奪三振。

 パーフェクトが続いている。

 点差は五点で、もう試合の趨勢は問題ない。

 あとはアトランタが、どれだけのダメージを受けてくれるかだ。

「新人が、開幕で、パーフェクト?」

 ディバッツの変な笑みは、ベンチの中に感染していく。


 そもそも新人が開幕戦で投げることがありえない。

 オープン戦でガンガン三振を奪っていたので、どれだけのパワーがあるのか試してみたかった。

 しかしこの数字がおかしい。

 単純に三振が多いのではなく、ゾーンの中のボールをほとんど打てていない。

 ムービングはまだ当たるが、四回ぐらいから投げ始めたフォーシームは、もう本当に当たらなくなっている。

 ストレートを打てない。

 バッターとしてのプライドを粉々に打ち砕く。

 悪魔のごとき所業である。


 本人は無邪気に、スタンドの嫁に向かってグラブを掲げている。

 本当に残酷なものは、悪意からは生まれない。

 別にどうでもいいという無関心。

 あるいはちょっといいところを見せようという稚気が、生贄を必要としたのか。


 スーパースターは確かに圧倒的なパフォーマンスから誕生する。

 しかしその噛ませ役として、必ず一般的な、だが自分自身にとっては主人公の人間がいるのだ。

 一人のスーパースターは、どれだけの人間を叩き潰してきたのか。

 武史はそういう思考とは、全く無縁の人間である。

 自分に才能があったのは自分の責任ではないし、自分のほしかった才能はこういった才能ではない。

 いくらでも傲慢に贅沢になれるのが、武史という人間である。

 悪気がないだけに性質が悪い。


 九回のアトランタは、とにかくスピードボールに強い代打を出してきた。

 それは確かにかろうじて武史のボールをバットに当てたが、内野フライに倒れる。

 想定の軌道のずっと上を振ったのに、まだボールの下を叩いている。

 ホップ成分が強烈なので、下手をすると途中でボールが消える。

 上杉のストレートとは、スピードは同じぐらいであるが、また違うストレートだ。

「ジャストミート出来れば飛んでいきそうな球だ」

 そうは思っても空振り三振。

 これであと一人でパーフェクト達成となる。


 あと一人。

(なんか絶対に起こりそうな気がするぞ)

 ショートの位置で大介は、どんな事態にも対応できるように構える。

 キャッチャーの坂本は去年アナハイムで直史と組んでいたからともかく、他のメトロズの守備陣は、こういった試合には慣れていない。

 慣れているのは大介だけだ。

(せめて俺のところに来い)

 大介の祈りは無駄になる。


 


 おおよそNPBのチームよりも打者のレベルの高い、アトランタを相手にパーフェクト。

 武史は別に緊張はしていない。

 武史は野球で困ったことはあっても、緊張したことはないのだ。

 いい格好をしたい嫁さんの前で、最高のパフォーマンスを見せる。

 開幕戦だからこそ、完璧な状態で投げることが出来た。


 これがシーズンが進んでいけば、次第に研究されてボールにも慣れて、普通に打たれるとまではいかなくても、それなりに打たれることになるだろう。

 初対決はピッチャーが有利。

 オープン戦でのデータからも、ハイになった武史の状態は分析出来ていない。

 当たり前のことだ。

 武史はおそらく、プロ入りしてからでさえ、本当に限界を意識したことはない。

 それを意識したのは、おそらく高校の時に一度ぐらい。

(ああ、そうか)

 あの時、叱咤したのは恵美理ではなかった。

 罵声を飛ばして武史を奮い立たせたのは、もういない彼女であった。

(そこにいるのか?)

 武史は最後のバッターに向かって、久しぶりに自由に投げる。


 高めに外れた球を振って、ものすごくボールとの間の開いた空振りとなった。

 とりあえずど真ん中か、その近辺に集めよう。

 そう考えて投げる武史は、坂本のサインには適当に応じる。

 坂本も適当にサインを出していたので、お互いさまである。


 武史の存在は、直史とは正反対のように見える。

 だが直史の正反対に見える大介とも、また違ったように見える。

 あの二人とさえ比べて、異質なのだ。

(なんかアシに似ちゅうがか)

 坂本はなんとなく、そんなことも思った。


 追い込んでからのストレートは、ど真ん中からは外れた。

 アウトローいっぱいのストレートに、審判の手が上がる。

 ストライクバッターアウトでゲームセット。

 パーフェクト達成。

 息を潜めていたスタジアムが、爆発したような歓声に満たされた。

 

 武史は恵美理に手を振ってから、視線に気づいて振り返る。

 ずっと遠くの、バックスクリーンの上。

 もちろんそんなところには、誰かがいるはずもない。

 だがきっと、そういったちょっと気取ったところに、あいつはいたのだろう。

(薄情者で悪かったな)

 少し寂しく思いながら、武史は興奮したチームメイトたちに迎えられた。




 東海岸と西海岸で、佐藤兄弟が開幕戦に登板した。

 もちろんニューヨークの試合の方が早く終わったが、西海岸の方も西海岸で、おかしなことをやっていたらしい。

 いや、直史がおかしいのはいつものことなので、通常運転と言うべきだろうか。

 武史のニュースは向こうに伝わったが、直史のニュースが伝わるのは、もう試合が終わってインタビューも終わってからであった。

 アメリカの東海岸と西海岸では、これだけ時差と言うものがある。


 武史が西海岸の試合の結果を聞いたのは、実に寓話的な状況であった。

 夜中の墓地には人はいない。

 だが別に武史は怖いとは思わない。


 本人は望まなかったであろう、豪勢な墓の前に一人。

 多くの花が捧げられたその墓は、こんな夜にも輝いて見える。

 一度は訪れたが、死んだ人間に武史はあまり興味がない。

 田舎であれば近所で葬儀が行われれば、出席することは多い。

 ただその役割は佐藤家では、長男の直史の役目であることがほとんどであった。


 武史は人が死ねばどうなるか、ほとんど考えたことがない。

 形而上の問題であり、それでも多くの人間が、思春期までには考えること。

 自分が生きる意味や、死後の世界のこと。

 そんなことを考えないように、精神の回路が出来ている。


 人生の選択肢は、何度もあった。

 だが自然と、一番分かりやすい道を歩んできた。

 悩まず、そして後悔せず。

 おそらくその部分で、武史はまだ子供なのだ。

 結婚をして、子供が生まれて、家族を守るために働いて。

 だが働いているという意識は薄く、子育てもかなりは任せっきりで、実感があまりない。

 大介とはまた違った少年的な感覚。

 大介が野球少年だとしたら、武史は単に幼いだけなのだ。


 物心付いた頃から、兄は既に大人だと思っていた。

 たった一歳しか違わないが、絶対にかなわない存在。

 そう思っていたのに、対決しなくてはいけなくなっている。

(おかしいな)

 兄弟対決が実現するのか、とマスコミは煽り立てていた。

 武史が直史と勝負したのは、高校や大学、そしてプロでの紅白戦のみ。

 あくまでも味方同士という前提があっての対決。

 それが今は、優勝への最大の障壁となっている。

 自分にとって兄が、兄にとって自分が。


 武史は怖くなった。

 直史と、あの兄と戦って、勝てるはずがない。

 ごく自然とそう思っていたのに、今は状況が違う。

 大介と共に、直史と対決するのだ。

 大介が一本打ってくれるまで、自分が相手を封じ続けたら、それは勝利につながる。

 勝つことは出来ないと思う。

 だが引き分けを維持することは、かろうじて可能だ。

 そしてMLBのルールの中では、いずれ一本ぐらい大介が打ってくれるだろう。

 

 勝てる条件が整っている。

 おそらく二度とは成立しない。

 MLBの世界の端を、わずかに武史は覗いた。

 今年と来年、直史が野球の世界にいるのはそれが最後。

 それを逃せばもう、武史に兄を超える機会は与えられない。

 いや、それどころかチャンスは、今年が最後かもしれない。

 メトロズもアナハイムも、今年で契約げ切れたりFAになる選手が多い。

 来年があるとは限らないのだ。


 イリヤには来年がなかった。

 生きていたら絶対に、兄弟の対決を嬉しそうに見ていただろう。

 MLBの舞台で直史と大介の対決も見たかったはずだ。

 自分は?


 武史の試合を見に、何度か神宮を訪れていたことは知っている。

 だがイリヤにとってのスーパースターは直史であったのだ。

 別にそれが悔しいとか、嫉妬しているとかではない。

 イリヤは武史にとって、なんだかよく分からないものだった。

 恋愛感情などは全くなかったが、単なる友人でもなかった。

 彼女が妊娠したと聞いた時も、あれを満足させるなんてどんな男だ、と驚いただけだ。


 挑戦してみたい。

 絶対に到達しないはずの、兄のみている光景に。

 今年はおそらく、ただ一度のチャンスとなる。

「お前も多分、それを見たかったんだろうしな」

 武史はわずかに、イリヤの墓に声をかけた。




 武史がイリヤの墓参りに行った。

 夜中に危ないことだと思いながらも、恵美理はちゃんと家に置いていくだけの、ニューヨークの常識は見に付いてきたらしい。

「そろそろかな」

 椿はそう言うが、桜は珍しく相方が、自分とは違う考えなのに驚く。

「伊里野が14歳になるまでは待つんでしょ」

 そう、彼女がルーツを知りたいと思ったら。

 彼女が、自分たちが大介と出会った年齢になれば。


 人が自分の人生を、自分で決められるのは、それぐらいの年齢になってからだ。

 双子の人生は、もっと早かったが。

 彼女たちは色々と巻き込まれ、そしてそれを力技で解決してきた。

 だが自分の子供たちに、それを強制しようとは思わない。


 この秘密を知るのは、まだ誰にとっても早い。

 イリヤがそう望んでいたし、伊里野は自分たちの娘として育てる。

 おそらくこれが本当に問題になるのは、当人たちが大人になってからだ。

 これは次の世代に残していくもの。

 負債となるかそれとも運命となるか。

 その時が来れば、自然と分かることだろう。



×××


 ※ 期間限定パラレル第八部公開中です。

 ※ 限定ノートに いとこ同士・後編 を公開しています。

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