第52話 振り切る
このポストシーズンで、最も割りを食らったメトロズのピッチャーは、スタントンであったろう。
第一戦と第五戦に登板し、共に敗戦投手となっている。
だが失点は他の、勝った試合の先発ピッチャーより、特に多いわけでもない。
第一戦は本多との投げ合いに負けたようなものであるが、第五戦は本多もそこまでの制圧力はなかった。
それでもリードした状況でリリーフにつなぎ、継投によってどうにか逃げ切る。
一点差の5-6でトローリーズは地元での敗退を阻止した。
メトロズとしては、ここまでは織り込み済みである。
先発の四人は、誰もがそれなりのピッチングをする。
なのでトローリーズとの試合が長引いても、ワールドシリーズでの投手陣の戦力低下はあまりないと考えたのだ。
逆にギリギリまで緊張感を高めて、アナハイムとの対決には臨みたい。
幸いなことにワールドシリーズは勝率の高いほうからホームゲームを行う。
つまりトローリーズに勝てばそのまま、ワールドシリーズはメトロズのホームで開催されるのだ。
ただこの辺りの考えを大介が知っていたら、むしろ憂慮したかもしれない。
今季アナハイムは初めて、メトロズのホームフィールドで戦うことになる。
そういった緊張する場面では、逆方向の結果を出してしまうのが、直史であるのだ。
甲子園に初めて登板した試合で、いきなりノーヒットノーランを達成した。
また甲子園の決勝や、日本シリーズの優勝決定戦。
直史はプレッシャーのかかる場面で、すさまじく強い。
(つーかあいつは、追い込まれてやっと本気を出してるような気もするが)
もっともあの限界領域の力を、自由自在に使えるわけではない。
限界に達したピッチングの後は、倒れて意識を失っている。
そんな直史のみならず、気を失うまで練習をするようなチームは、未だに日本の高校野球には存在する。
前時代の遺物だと言ってしまうのは簡単だし、それで潰れる選手の方がはるかに多いだろう。
だが、純粋な合理的科学的トレーニングでは到達し得ない、人間の限界の突破。
そのためにはやってしまう人間がいるのだ。
たとえば大介の知る限りでは、西郷がそうだ。
まあ西郷と言うよりは、桜島がおかしいのだが。
あそこは一年生は、練習中に気絶するのは当たり前で、それが問題になって対外試合禁止となったわけだ。
もっともその中で西郷は、気絶どころか倒れることすらなく、練習をこなしていた化け物であったのだが。
大介は自分が、意識的にリミッターを外しているのが分かる。
正確に言うとリミッターが何段階かあって、それを瞬間的に外しては、バッティングに活かしているのだ。
走塁や守備に関しては、通常の身体能力だけを使っている。
だがバッティングだけは完全に別だ。
反射神経と動体視力だけでは、肉体の制御に追いつかない。
なので絶大なスイングスピードを、その瞬間だけリミッターを振り切る。
おそらくこれは、別に自分だけの特技ではない。
直史も時折、限界異常の球速を出したり、スピンをかけたりする。
他の選手だけではなく、アスリート全般は、おそらく意識的に肉体の限界を超えるのだ。
そしてこの限界を超えた幅を大きくするために、練習やトレーニングをする。
あるいはこの限界を、制御して超越するか。
大介は今日も、その限界を見定める。
そしてスイング一つで、その境界を渡る。
ニューヨークに戻ってきたメトロズは、第六戦を迎える。
残り二試合をホームで行い、そのうちのどちらかを勝てばワールドシリーズ進出。
ホームというアドバンテージもあるし、純粋に第七戦まで至れば、トローリーズの三枚目のピッチャーは落ちる。
計算では七戦目で勝てる可能性が高い。
だが次がある、などと考えていたら、次も負けるに決まっているのだ。
いざ試合に挑むとならば、覚悟を決めるのはもう一人いる。
上杉はいざとなれば、長く投げてしまえる。
第五戦には登板していないので、移動日も合わせて二日を休養に当てている。
本来ならば上杉の契約は、回またぎで二回まで。
だがチームが勝つためには、いくらでも無理をしてしまえる。
そんな上杉が、なぜここまでは無理をしてこなかったか。
簡単なことである。メトロズは自分のチームではないと考えているからだ。
それも当たり前の話であり、一年間を治療で過ごしたボストンから、ニューヨークへやってきて二ヶ月。
この短期間の間に、チームへの帰属意識などが芽生えるはずもない。
ただそれでも、勝ちたいと心の底から思えば、それに共感するのが上杉だ。
上杉にはメトロズの弱点が、はっきりと分かっている。
投手力の差でごり押しすれば、勝つことが出来るのだ。
メトロズの先発ローテ四人は、トローリーズとの戦いを見ても分かる通り、決して突出した力を持ってはいない。
平均より少し上で安定していて、それゆえに打線の援護が強烈であれば勝てる。
なにしろメトロズは、今年完封されたことがないどころか、レギュラーシーズンで三点以上は必ず取っていたチームなのだ。
とは言えピッチャーの力が足りないのは間違いない。
今年完封した試合は二試合、一失点の試合は四試合。
平均して一試合に、四点以上は取られている。
もっともその中で、リリーフ陣に関しては、上杉が存在する。
ポストシーズンの上杉なら、レギュラーシーズンより本気を出していける。
最多でもあと七試合、投げれば終わるのだ。
防御率0の男。
それはポストシーズンに入ってからも、継続中なのだ。
第六戦はメトロズにとっては、理想どおりの打撃戦になった。
トローリーズとしても、先発ピッチャーで完投完封を狙えるような選手は、それほど多くない。
とはいえこの試合はエースのフィッシャーが先発。
しかし一回から、大介がフォアボールでランナーに出ていた。
メトロズもウィッツが、必死に一回の表を無失点で抑えていた。
ブルペンから何から、総力戦の様相である。
第七戦にまで、もつれ込むようなことは避けたい。
そう考えて全力でピッチャーも投げている。
ワールドシリーズに進めたなら、メトロズはホームのアドバンテージを持って、第一戦を戦うことが出来る。
移動の時間を休養に充てられるのだとしたら、ピッチャーの疲労もそこそこ取れる。
だがこの試合においては、メトロズはもっと大胆な投手運用を考えている。
それは上杉の存在である。
ロングリリーフが可能であるのか。
上杉としては、可能であると言うしかない。
だがメトロズは上杉の起用については、ボストンとの契約を引き継いでいる。
つまり回またぎは本来、二イニングまで。
そしてリリーフとしての運用しかしてはいけないのだ。
だがメトロズのビーンズは、もちろん契約は守るが、裏技とも言えるが正攻法を上杉に対して仕掛けてきた。
即ち、新しい契約を作るということだ。
今の契約では三イニング以上投げることを、禁止されている。
だがそれは別に、上杉が望んだことではない。
リハビリの意味も込めて、多くても二イニングまで。
また休日を挟まないのなら、連投は二日までというのもある。
新しい契約の打診に、上杉は前向きである。
契約社会アメリカでは、絶対的に重要なものだ。
だがそもそも本人である上杉が、これに関しては変更してもいいと考えている。
もちろん舐めた条件を出してくれば、さすがにご破算であるが。
上杉にしてもこのアメリカで、やり残したことはあるのだ。
それは直史との対決である。
日本時代は結局一敗一分というのが上杉の認識だ。
直史からしたらあれは、内容的に両方が引き分けだと思うのだが。
打線の援護に差はある。
野球というのは個人競技ではないのだから、チームが強い方が勝つのは当たり前だ。
ただ最強と最高のピッチャーが投げ合ったらどうなるのか。
12回パーフェクト引き分けという、今後100年は出てこないであろう結果が、その問いに答えを出している。
上杉は直史のことを、正確に理解している。
分からない部分はもちろん多いが、分かっている部分は間違えない。
直史は結局のところ、とんでもない負けず嫌いなのだ。
今年の七月、ボストンにいた頃の上杉は、直史と対戦している。
そしてお互いの勝負という形にはならなかったが、試合はボストンが勝った。
ベンチの中でじっと己のチームが負けていくのを見る姿。
あれが直史の本質なのであろう。
日本時代、そして去年のエキシビションを見るに、おそらくこのままではメトロズはアナハイムに勝てたとしても、大介は直史に勝てない。
下手をしなくてもマダックスぐらいは、されてしまうのが当たり前だろう。
直史が先発するのは、どうやっても三試合が限界。
他の試合を全て負ければ、アナハイムはワールドチャンピオンにはなれない。
上杉はチームのために、自分のために、大介のために投げる。
それはひょっとしたら、直史のためでもあるかもしれない。
その上杉がビーンズと結んだ新たな契約は、ポストシーズンにおける投手起用を、リリーフでの二イニングまでと限定しない、というものであった。
六回の裏の攻撃で、メトロズはトローリーズを逆転した。
6-5とわずか一点差ではあるが、リードしたことは大きい。
一回の裏に先制はしたのだが、さすがにその場面では、上杉のロングリリーフは考えられなかった。
そう思っているうちに、逆転されてしまっていた。
FMのディバッツとしても、不安はあったのだ。
元は先発だとは聞いているが、今季の上杉は完全にリリーフとしての運用。
確かに回またぎも平然とこなしているが、果たしてどれぐらいを投げられるのか。
ただ六回が終わってしまった。
試合を見ているビーンズからも、上杉を使えコールがやってくる。
そして当の上杉は、五回の時点から既に、ブルペンで肩を作っていた。
七回の表の、トローリーズの攻撃。
ここでアナウンスが入り、メトロズのピッチャーが上杉に代わる。
今季一度もセーブ失敗がなく、失点すらもない守護神。
上杉がマウンドに登り、メトロズのシティ・スタジアムが大歓声に包まれる。
これで勝った、と球場内の空気がメトロズ一色に染まる。
実際にメトロズの選手たちも、そのつもりでいた。
上杉は前に出てくるタイプではないが、ただそこにいるだけで存在感が大きい。
マウンドに登れば、それでもう勝ったと思えるのだ。
トローリーズ側のベンチでは、本多が顔を歪めていた。
七回の表に逆転できなkれば、八回には上杉が出てきて終わる。
そう思っていた上杉が、七回から出てきたのだ。
本多は上杉を高校時代から知っている。
高校最初の夏を、本多の帝都一は甲子園の決勝で上杉の春日山と対決し、勝利している。
1-0でどうにか勝利、というものであった。
あの時から既に、160km/h近く出ていたが、それはキャッチャーがそこまでしか捕れないからだった。
最後の夏の上杉は、160km/hを出して当たり前、というスペックで甲子園を投げぬいた。
樋口が入ったことで、限界まで投げてもキャッチャーが壊れなくなったからだ。
だが球数制限が、彼に優勝の栄誉をもたらさなかった。
試合に勝って、上杉に負けた。
大阪光陰はその言葉を払拭すべく、次のセンバツでも優勝してみせた。
春夏春の三連覇の偉業は、その後の白富東の四連覇によって上書きされてしまった。
決勝のカードが夏春夏と、全く同じカードであったあの時代。
高校野球が最も異常であった時代だ。
そんなわけなので本多は、もうこの試合がどうなるか分かっていた。
バッターとしても卓越していた本多は、普通にNPB時代に上杉と対戦したことがある。
だがほとんど歯が立たなかった。
そもそも上杉と、まともに勝負らしい勝負が出来たのは、大介だけとさえ言える。
スピードボールに強い外国人助っ人さえ、上杉のボールを打てたのは数えるほどでしかない。
七回の表、八回の表と、上杉はランナーを出さない。
単なるスピードボールなら打てるバッターであっても、上杉のボールはアウトローにインハイと、その組み合わせだけでバッターを打ち取ることが出来る。
たまに低めに球を外したり、101マイルほどのツーシームを投げても、それがまともに打たれることはない。
そして八回の裏、メトロズは追加点を入れた。
二点差となって、勝負の行方は見えた。
九回の表、三イニング目の上杉は、球威が衰えない。
ほんのわずかに、ベンチは心配していたのだ。
そしてトローリーズの、ほんのわずかな希望は砕けた。
本多としてはあの甲子園を知っているだけに、上杉ならもう打てないだろうな、とは思っていた。
105マイルのボールを投げてくる。
どこに限界があるのか、それは本人すらも分からない。
先発時代には、最後のイニングに173km/hなどを投げていたのが、上杉というピッチャーだ。
今はまだ、そこまで回復していない。
本当にこれで完全ではないのかと、対戦する相手は絶望する。
先頭打者を三球三振。
振ることすら出来なかった。
次の打者も、三球三振。
振ったが当たらなかった。
そして最後の打者。これを打ち取ればワールドシリーズ。
二年連続のワールドシリーズで、ア・リーグのアナハイムと対戦。
連覇の夢がかかっている。
上杉の顔に緊張の色はない。
ぎらぎらとした目が、バッターを威嚇している。
そんな程度で恐れるものかと思うが、別に上杉自身には、威嚇の意図などはないのだ。
ストレートに強い代打であったが、上杉のストレートには当てられない。
当たったとしても前に飛ばない。
目がとても、ボールに追いついていないのだ。
最後のボールはファールチップのままミットに入る。
スリーアウト。ゲームセット。
メトロズのワールドシリーズ進出が決まった瞬間であった。
今年のメトロズは地区優勝が決まったときは、それほど大騒ぎはしなかった。
勝率での一位が、まだ決まっていなかったからだ。
西海岸のアナハイムが、最後の最後まで追いつく可能性があった。
それだけに馬鹿騒ぎはしていられない、という思いがあったのだ。
去年のままであれば、どこのチームが来ても負けるわけがない。
そう思えていたのは、本当にシーズンの序盤のことだけであった。
とにかくアナハイムが不気味であったのだ。
投手力と言うよりは、一人のスーパーエースが、圧倒的な力を持っていた。
31登板で30勝0敗というのは、空前絶後の大記録だ。
これはもう、二度と出ない記録であろう。
そのアナハイムと、ワールドシリーズを戦う。
去年のエキシビションマッチ、試合の前はせいぜいお祭りの、オールスターに近い交流戦と思っていたものだ。
正確な脅威を理解していたのは、大介だけであった。
投手陣はまだ取られた点数を、忘れることが出来た。
しかし打線は一人として、あの悪夢のようなピッチングを忘れることは出来ない。
もう一度対戦しなければいけない。
そう思ってメトロズに残ったバッターは、それなりに多いはずだ。
少なくとも事実として、去年の上位打線は、全員がそのままであったのだ。
先に待っていたアナハイムへの挑戦が決まったとき、メトロズはまだ、本当の意味でシャンパンファイトをする気分ではなかった。
そもそも挑戦と言うなら、本来は去年のチャンピオンチームであるメトロズが、本拠地で待ち構えているのだ。
挑戦される側が、メトロズのはずなのだ。
だが、シーズン中の勝率などで上回っていても、勝っているのだという意識にはならない。
一晩明けた次の朝、大介はゆっくりと眠りから覚めた。
しっかりシャワーを浴びたのに、まだシャンパンの匂いがする気がする。
ワールドシリーズは勝率で上回った、メトロズのホームから開催される。
そしてアナハイムは当然ながら、直史が第一戦の先発をしてくる。
朝の食卓でも、ツインズの口数は少ない。
子供たちは変わらず、キャッキャと騒いではいるが。
まだこの子たちには、自分が何をしているか、はっきりとは分からないのだろうな、と大介は思う。
どうにか昇馬が物心つくころまでは、活躍していたいものだ。
あと二年か三年。
そうしたらどうにか、記憶に残るぐらいにはなっているだろうと思う。
約束した五年のうち、今年は三年目。
色々とややこしいことがあって、一年は棒に振ってしまった。
そして今年も、直接対決はオールスターまで待つ必要があった。
そのオールスターで直史は、ファンサービスらしい珍しいことをやっていたのだが。
本当に、やっとここまで来た。
ここからが今年のシーズンの、本当の対決となる。
凄まじく長い前哨戦が、やっと終わった。
下手をすれば前哨戦で、物語が終わってしまうところであったが。
大介はこの日、本来なら休養のはずであった。
だが調整のために、スタジアムにやってくる。
第一戦の先発は、アナハイムが直史なのに対して、メトロズはジュニア。
どうにか一点か二点までに、アナハイムを抑えられるものか。
アナハイムの打線は平均よりやや上だが、得点が一点以下だったのは六試合だけ。
そして驚異的なことに、そのうちの三試合で、1-0のスコアでアナハイムは勝っている。
ポストシーズンを含めれば四試合を1-0で勝利。
全て投げたのは直史である。
一点も取れずに負けた試合も、直史が投げていた。
ボストン相手の試合で、球数から交代させられて、負け投手にはならなかったが試合は負けた。
(二点……いや、それは厳しいかな)
メトロズは今季、一失点までに抑えた試合は、六試合しかない。
そしてレギュラーシーズンは全ての試合で三点以上取っているため、二点以内に抑えれば勝てるのだ。
ただ直史から、三点を奪えるとは思えない。
身内びいきというわけでもなく、直史はプロ入り後に大介の前に立ちはだかった、最大の障壁だ。
上杉のように勝ったり負けたり、負けているほうが多いというものではない。
直史には、勝ったことがない。
ヒットは打ったことがあるが、点につながっていないので、引き分けか判定負けといったところだろう。
それでも大介は、直史と戦いたかった。
完全な世界。
言葉にしてしまえば、なんだか意味の分からないものになってしまう。
だが直史との対決においては、大介はまた違う方向から、人間の限界を超えられる気がするのだ。
(……勝たないとな)
この場合の勝つとは、チームが試合に勝つことなのか、それとも優勝することなのか。
またチームが負けてでも、自分は直史に勝つということなのか。
勝利を定義づけることもせず、大介はそう思っていた。
第二章 了
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