第33話 閑話 その頃、日本では
※ 本日も大きなネタバレがAL編33話に先にあります。
×××
怪獣と怪物と名状しがたき者が去っても、NPBは盛り上がっていた。
セは相変わらず今年も、レックスとライガースのペナントレース争い。
打撃のライガースに対して、投手のレックス。
そうは言われているが、ライガースはエース真田にベテラン山田、それに加えて阿部が先発として大ブレイクしている。
投手力ではそうそう、レックスに劣るものではない。
レックスは対して、やはりキャッチャーのリードが大きいのだろう。
打撃においても三番に入り、高い出塁率を誇る樋口。
そして三年目の小此木が、外野にコンバートされてから打撃に覚醒したのが大きい。
投手が揃ったチームと言われているが、実際に最も貢献度が高いのは樋口だ。
もちろん樋口がリードしても、勝てない試合は勝てない。
今年は沢村賞争いが、かなりの激戦になっている。
セでは武史と真田、そしてパでは蓮池が、素晴らしい成績を上げている。
しかしその中でも、一歩先んじているのは、やはり武史になるだろうか。
ルーキーイヤーに上杉の離脱という幸運で、沢村賞を獲得した武史。
相棒が樋口という時点で既に、その幸運度は高くなっている。
七月の終わった時点で、沢村賞のみならず、各種タイトルを争うこの三者。
もっとも蓮池は、リーグが違うのでタイトルに関しては、武史や真田よりは有利である。
だがパも他にピッチャーがいないというわけでもなく、またジャガースは今チームの流れが良くない。
援護が少ないため、どうしても勝ち星が伸びていかないというのはある。
武史 13勝1敗
真田 10勝0敗
蓮池 9勝1敗
これだけを見ると負け星がない真田が有利に見えるが、防御率では武史と蓮池の方が上であったりする。
真田が勝てるのは、左打者を確実に抑えるからだ。
また沢村賞の選考基準の一つである、完投勝利の数。
これは武史が六連続完封を果たしていて、やはり頭一つ前に出ている。
何より奪三振が、武史は多い。
一試合あたりの平均奪三振率は16を超える。
これでイニングイーターでもあるのだから、やはり先発としての価値は高いのだろう。
真田などはむしろ状況によっては、セットアッパーかクローザーで、左の多い打順を封じるのには向いている。
また蓮池は全体的にバランスがいい球を初回からむらなく投げているので、安定感は高い。
蓮池は今年がプロ入り七年目。
高卒ルーキーの頃から一軍で投げていたので、来年にはFA権が発生する。
そして本人はMLB志向のため、おそらく今年が日本でのラストイヤー。
パでは上杉の支配力が存在せず、また直史が蹂躙したりもしなかったので、しっかりとタイトルはいくつか取っていた。
MLBの球団は既に、その調査を完了している。
190cmオーバーの体格から投げる球は、現在でも163km/hを記録している。
もっとも球速だけなら、同じジャガースの毒島は、164km/hを出しているのだが。
単純な球速なら、169km/hを出す武史が一番である。
しかしMAXで154km/hの真田が、スピードだけのピッチャーを上回る。
ピッチャーはスピードが全てではない。
まさに今のNPBでは、真田のためにあるような言葉か。
もっともNPB全体で見るなら、球速以外の部分で勝負していると言うなら、それは東北の淳であろう。
勝ち星や防御率などで、毎年上位に入る左のアンダースロー。
MAXの球速は140km/hに達しないのだから、アンダースローの特異さは分かるというものだ。
今年のオフにはNPBは、かなり大きな選手の移動があるだろうと言われている。
蓮池がポスティングをする以外にも、FA権を得る大物がいるのだ。
その中にはやはりジャガースの悟もいる。
アベレージヒッターとしてショートでMLBでも通用するのではと言われていたが、本人が国内志向なのだ。
他には西郷も今年どう動くのかが不明だ。
大卒七年目で国内FA権を取得した去年、これを行使しなかった。
だが今年はどう動くのか、まだ不明なところがある。
あとは本人の意向とは別に、球団の事情というものもある。
具体的にはレックスの選手総年俸だ。
樋口と武史の二人だけで、インセンティブを込みで10億にはなるだろう。
神宮を本拠地とするレックスは、長らく東京の人気のないほうとして、球団自体の経営は赤字が続いていた。
だがこの五年連続のペナントレース制覇と、相次いで出現したスター選手により、爆発的にその経営状態は改善していた。
それでもまだ、高年俸選手を複数抱えるのは難しい。
直史のポスティングで、かなりの余裕が出来たのは確かだ。
しかしそれはあくまでも一時的な収入。
金原や佐竹も複数年の高年俸で、そのくせしっかりと成績を残している。
高まった人気でどうにかその年俸分を賄っているが、新たな戦力を獲得する余裕はあまりない。
星のような微妙なポジションで、年俸に反映されにくい働きをしてくれるピッチャーが、本当にありがたかった。
だが今はリリーフ陣も含んで、とにかく投手陣の成績が良すぎる。
おかげで外国人助っ人の高い者は必要としないのだが、若手をどうしていくか。
打線陣も小此木の成長など、戦力的にはありがたいことはありがたい。
だが選手の人気を、そのまま球団の収益につなげることが難しい。
去年まではセイバーが、正確には彼女の雇ったマーケティングスタッフが、そのあたりの仕事をやってくれていたのだが。
「というわけで武史君、ポスティングしませんか?」
「いやいきなりどうして?」
「かくかくしかじかです」
「なるほど」
一応納得する武史であった。
給料が高くなりすぎて払えなくなるから、移籍してほしい。
けれど国内の他球団に行ってもらうと困るし、そもそも武史はレックス以外なら、タイタンズかスターズと決めていた。
恵美理と結婚するために、在京球団で、それもセ・リーグと考えていたのだ。
そして今、義兄と実兄がMLBで活躍しているだけに、自分もたくさん年俸はほしいかな、と考えている。
武史は俗物なのだ。
武史はMLBへの挑戦というか移籍に、それなりに前向きではある。
現在のレックスでは特に投手陣に、高い年俸を払うのが難しいとも分かっている。
そしてレックスの他のピッチャーは、多くが複数年契約を既に結んでいる。
武史は来年がプロ入り七年目で、大卒なので国内FA権が発生する。
それならばこの六年目で、MLBに売り飛ばした方がいい。
それがレックスのフロントの考え方だ。
ただ武史は、自分だけでそれを決めようとは思わない。
それを承知の上で、セイバーはわざわざ武史の自宅にまで来たのだろう。
つまり、配偶者である恵美理も説得するために。
「アメリカに行くこと自体はいいけれど……」
武史よりよほど英語の話せる恵美理は、アメリカに行った経験はそれなりに多い。
自らの体内にも海外の血が流れているので、抵抗感は薄い。
そもそも父は今も、主にヨーロッパを拠点に仕事をしているのだし。
恵美理が考えるのは、アメリカのどこに住むかということだ。
子供を二人抱えて、治安の悪い街には住みたくない。
ただアメリカの場合は、同じ街でも治安のいいところと、悪いところがあるのだが。
「そういったことは、もう根回しが済んでいます。ニューヨークに行きませんか?」
「へ~、ニューヨークかあ。どう思う?」
「ニューヨークって、球団二つありませんでした?」
「あ、そうなの?」
つくづくMLBに興味のない武史は、本気でそれを知らなかった。
もちろん大介の在籍する、メトロズのことは知っていたが。
「私がオススメするのは、そのメトロズの方ですね」
大介のいるところに、武史が行く。
それはつまり、直史との対決が実現するということだ。
「兄貴とは対戦したくないなあ」
ただセイバーの見る限り、MLBで狙って完封が出来そうなピッチャーは、今の日本ではもう武史ぐらいしかいない。
他にもいいピッチャーは確かにいるが、完封を狙って出来るのか。
そして三振を奪いまくるのは、武史にしか無理だと思う。
セイバーは既に、そのあたりの根回しを終えている。
もちろん完全にタンパリングで、バレたらやばいことである。
だが今のセイバーはレックスのフロントから手を引いている。
MLBにもNPBにも様々な伝手はあるが、どこかの球団一つに絞って便宜を図っているわけではない。
ただオーナーが少なく、権限が大きく、資産価値が高い球団に積極的につなぎをつけている。
「実は七月のぎりぎりに、上杉君がボストンからメトロズへ移籍するのが決まっています」
セイバーの言った内容は、完全に機密事項である。
だがこの手はずを整えたのが、ほかならぬセイバーであった。
実を言うと最初からこんなつもりではなかった。
上杉が向こうでリハビリをするのに、もっと時間がかかると思っていたのだ。
しかし上杉はわずか一年で復活し、そしてボストンの絶対的なクローザーとなった。
だがその契約は一年だ。
「メトロズは上杉君を得るのと引き換えに、何人かの若手の有望株、プロスペクトと呼んでいるのですが、これを放出するでしょう。中堅どころのピッチャーも一人か二人は付けて。すると上杉君がいなくなる来年、メトロズはピッチャーが不足することになります」
「ああ、だからそこに俺を?」
来年以降に期待する、安く使える若手を放出してしまう以上、メトロズは今年のシーズンオフでFAによるピッチャーの補強をする必要がある。
特に今年の試合を見ていても分かるが、不足しているのはピッチャーだ。
大介を3000万ドルという安い年俸で使える今、ある程度の長さを安定して使えるエースが、メトロズもほしいだろう。
「今の時点で五年一億ドルは準備してますし、他の球団もちょっかいを出してくるなら、それ以上の額を用意しますよ」
「え、俺って兄貴より高いの?」
「そもそも直史君が安すぎるんですよね」
誰のせいだと思っているのか。
恵美理としては、武史が望むならニューヨークはいいと思う。
「私はいいと思うけど。ニューヨークなら知り合いも何人かいるし」
「ニューヨーク。……そうか、ニューヨークか……」
去年のオフに一度、武史はニューヨークに行っている。
イリヤの墓前に花を供えるために。
「イリヤの遺言もあるから」
彼女の娘が望むなら、恵美理に音楽の教えを乞うてほしい。
そのためにはニューヨークにいるのが、都合がいいことになる。
もっともMLBの世界では、移籍がしょっちゅうあるので、そこは色々大変だろうが。
直史や大介、そして上杉などと比べて、一番俗物なのは武史である。
いやこれを俗物と呼んでいいのか、いささかの疑念は残るが。
「他のチームがよりいい条件を出してきたら、ニューヨークも条件を積んでくるかな?」
「そうですね。ただなかなか他の球団はないと思いますよ。あるとしたらそれこそ、ボストンかアナハイムか」
日本人ピッチャーは、野手ほどではないが当たりはずれがある。
なので最初から五年契約というのは、ある程度の冒険と言える。
ただセイバーの持つ各種データによると、少なくともMLBに対しては、武史は適性がある。
一つだけ問題があるとすれば、NPBよりもきつい日程に、文句が出ないかどうかだが。
29歳から33歳という、ピッチャーにとっては最も充実した時期を、MLBで送るということ。
「メトロズにした方がいいという理由は、メトロズであれば私の方から、全チームへのトレード拒否権をつけるように言えるからでもあります」
「何それ」
MLBに興味のない人間からしたら、さっぱりといったところだろう。
本当にどうして、こんなにも興味のない分野に、これだけの才能が与えられたのか。
「MLBはNPBと違って、移籍が頻繁なのです。たとえば上杉君のボストンからメトロズへの移籍も、本当はトレードを拒否する権利はあったんです」
「こんな時期にトレードって、確かに日本じゃないですよね」
NPBは本当にトレードが少ないし、FA権での移動もそれほど多くはない。
FA権に限って言えば、日本の場合は取得が難しいし、それを行使する人間も少なかったりする。
ただ選手の移動が少ないというのは、それだけ選手と球団が結びつき、選手のファンが球団のファンになることも多くなる。
フランチャイズのシステムで成り立っている現在のNPBなので、以前よりはトレードが多くなってもいい気がする。
しかしFAは一時は大流行したものの、本当に高く売れる選手は限られている。
もっとも数年前の佐竹のような例は、明らかに売り手市場であったろう。
球団も金を出して、必死でつなぎとめた。
また樋口なども、在京球団以外には行く気がないので、そこそこ安めに契約が出来る。
FAといっても何も、全て金だけで動くわけではないのだ、と言える選手は、球団から充分な年俸を保証される選手である。
細かいことはともかくとして、武史はおおよそセイバーの提案に同意した。
「良かったの?」
彼女が去ってから恵美理はそう尋ねるが、武史は恵美理さえ文句がなければ、特に注文をつけるつもりはなかったのだ。
「俺の人生って、他人に決めてもらった方が上手くいくんだよな」
武史はもう、そう割り切っている。
高卒時に既に、プロからの誘いはあった。
だがいきなり18歳、すぐに19歳となるのだが、そんな年齢で働きたくなかったので、大学に行った。
結果的には兄や樋口などのチームメイトに恵まれ、さらに評価は高まった。
大卒からプロに行くときも、在京球団以外は拒否と言ったら、第一候補のレックスがクジを当ててくれた。
直史とセイバーに相談すれば、おおよそ人生の分岐点では上手くいく。
あとはそこにどれだけ、自分の要望を付け足していくかだ。
五年間で120億円以上という年俸は、直史はもちろん大介よりも最初の金額としては多い。
それは武史が、大味なアメリカ人にも分かりやすい、パワーピッチャーだからだろう。
大介は身長が、直史は体重が、どうしてもMLBでは通用するものだとは思われなかった。
だが武史はアメリカ人の好きな6フィートを越える身長を持っていて、そこから100マイル以上の速球をコントロールよく投げる。
ノーヒットノーランも達成していて、とても分かりやすい選手だ。
日本でも分かりやすい怪我以外の故障はなく、ほぼ毎年20勝以上をしている。
直史と大介が異常すぎるだけで、武史も充分に異常なピッチャーなのだ。
それにぶっちゃけ武史は、メトロズならば大介もいるし、ニューヨークならツインズもいるし、そのあたりは頼れると思っている。
武史自身はツインズのことは苦手だが、恵美理はツインズのことを苦手ではない。
「でもどうせ上杉さんがいるなら、そのまま残ってほしかったかも」
恵美理が呟くのは、そうすれば明日美ともニューヨークで一緒にいられるからだ。
ニューヨーク。イリヤの愛した街。
彼女はそこを、世界で最も無国籍な街、と呼んでいた。
今年の直史と大介の対決を、彼女は見たかっただろう。
そして来年の、武史がニューヨークで投げる姿も。
あまりにも彼女は、死ぬのが早すぎた。
それでも後に残したものは、とてつもなく大きく多い。
自分がアメリカで働くことになるなどとは、欠片も思っていなかった武史である。
確かに将来的なMLBへの挑戦は、などと問われることもあった。
だが本人の中には、別にMLBへの憧れなどはない。
しかしアメリカとなれば、あれである。
NBAの試合が生で見られるではないか。
そう思うとニューヨークよりも、ロスアンゼルスの方が良かっただろうか。
あるいはボストンでも良かったか。
NBAの優勝回数は、この二チームがとにかく突出している。
中でも最近は、ロスアンゼルスはだいたいスタープレイヤーが集まる。
ただロスアンゼルスには、とても強い方とまだ優勝したことがない方という、明確な区別がある二チームが存在する。
他のチームで実績を残してチャンピオンリングを取ったら、あとはレイカーズで高年俸。
そんな傾向がNBAにはあるが、もっともNBAはMLBと違って、サラリーキャップというものが存在する。
ただ昔と違ってMLBもNBAも、キャリアを一つのチームで終える、フランチャイズプレイヤーは少なくなってきているかなと思える。
自分の将来を、そんなところで決めるのか。
恵美理は少しどころではなく呆れたが、ただ武史の言っていることは実感している。
彼は本当に、運がいい。
自分の思い通りに、人生が進んでいる。
プロ入りなどするはずもなかった直史や、アメリカに渡るつもりもなかった大介とは、そのあたりが違う。
流されるような人生だと思えるかもしれないが、それは他の人々が、武史に期待しているからだ。
そして流されながらも、その期待に応える。これが武史の人生であった。
本人はあまり意識いていないが、今年は沢村賞を取れるだろうか。
奪三振と勝ち星で大きく先行しているので、このままなら取れそうではある。
考えてみれば上杉がNPBに登場して以来、沢村賞は上杉と佐藤兄弟で独占している。
まったくもって、とんでもない足跡を残している才能だ。
恵美理は子供のころ、イリヤという圧倒的な才能を前にして、完全に挫折した。
だが一つのことに挫折しても、まだそこから人生は続いていくのだ。
むしろ子供の頃に挫折したことは、良かったのだと今なら思える。
そしてそのイリヤが、自分の娘について、恵美理に託したということ。
それはイリヤにとっても、自分は特別な存在だったのではないか。
あの天才に認められたということは、恵美理の自尊心を満足させている。
ニューヨーク。あの灰色の、それでいて彩りに満ちた街。
そこで武史がどう活躍し、恵美理はどういう人生を送るのか。
二人の人生が大きく転換していくのは、まだまだこれからのことであった。
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