第5話 カリスマ
※ 本日はAL編を先に読むことを推奨します
×××
セイバーにとって制御しにくいのになぜか制御できるのが直史であり、制御しやすそうなのに制御できないのが上杉である。
シーズン前のオープン戦から、上杉はさらっとMLBの球速記録を更新してしまった。
それでもまだ、NPB時代の最速には及ばない。
いや、ここまで回復したのが、むしろ奇跡と言えるのだろう。
「気になりますか?」
練習を見ていたセイバーは声をかけられ、ぎょっとしてしまう。
長男を肩車し、次男を背負い、生まれて間もない長女を前に抱いている明日美。
夫のキャンプを見に来ることは、MLBでは別に珍しいことではない。
ただ活発な生命体を三つもくっつけて、いつの間にセイバーの隣に出現していたのか。
制御とかどうとかいうレベルでないのは、彼女もだなとセイバーは思う。
今は上杉明日美であるが、彼女がもしも何かのスポーツを本気でやっていれば、どんなものでもチャンピオンになっただろう。
それが同じ肉体による表現であっても、芸能界に入ったというのは、かなり意外な動きであった。
ただアクション女優ではなく、カリスマ女優になったのも、彼女らしいと言えば彼女らしい。
今も別に引退してはいないのだが、子育てに専念している。
しかし三人も産んで、全く肉体に衰えが見えないのは、セイバーとしては訳が分からない。
あのツインズでさえ、少しは消耗していたのに。
肩車していた長男は、じっとセイバーを見て挨拶をする。
「おっす」
「おっすじゃなくてこんにちわでしょ」
「こんにちわ」
「ちゃ~」
「あ~う?」
子供たち三人を抱えて、体軸が全くブレない。
女で、しかも161cmの身長で、140km/hのボールを投げる。
これが男であったなら、それこそ上杉と対抗する存在になっていたかもしれない。
どちらに似るのかは分からないが、どちらに似ても怪物になるのが、期待されている子供たち。
ただそういった過度の期待は、子供たちをスポイルすることになったりする。
セイバーは「こんにちわ」と返してから明日美の問いに答える。
「ドクターから話は聞いているの」
「守秘義務」
ナチュラルにそういったところは守らないセイバーである。
「元の状態には戻っていないと聞いているけど」
「本人もそう言ってました」
そんな悲しいことを口にしながらも、明日美の視線は強い。
「でも元に戻らなくても、あの人はあの人ですから」
その信頼が凄い。
常識的にというか、これまでの医学的実績からして、上杉のスピードが最盛期まで戻らないのは当たり前のことだった。
そもそも肩を壊したら、ピッチャーは終わりなのだ。
そこから復帰しただけでもすごい。ただ先発としては、クエスチョンマークが付けられている。
だがそちらも微妙な話で、投げる球数は少ないにしても、登板間隔が短くて大丈夫なのか。
肩を作るための球数を考えれば、クローザーの負担はむしろ、先発よりも重いとさえ言える。
ただそれでも、明日美は信じるのだろう。
信じることもまた才能だ。
セイバーにもまた才能はある。
極論してしまえば今の世界ではもっとも普遍的な、金を稼ぐ才能だ。
だがこれはあまりにも数字で示され、そして誰もが認めるがゆえに、逆にオンリーワンにはなりえない。
彼女が動かなくても、マネーは動く。
そのあたりのコンプレックスが、セイバーがスポーツや芸術に肩入れする理由になったのかもしれない。
かつて芸術もスポーツも、パトロンというスポンサーが必要であった。
本質的には今も、それは変わっていない。
歌うにしても、それは誰もが出来ること。
野球にしてもそれは、誰もがやり始めればいいこと。
ただそこに価値を作り出してしまうのが、セイバーのしなければいけないこと。
彼女は1を100にするが、0から1を作り出したことは一度もないと、自分のことを考えている。
タイプが違うだけで、同じ天才ではある。
それに金融は経済が発達した現代、絶対に必要なものである。
しかし、それゆえに、だからこそ。
虚業によって光り輝く人々に、眩しさを感じるのだ。
オープン戦二度目のボストンとの対決が迫る。
ここで対決がなければ、今シーズンの上杉との対決は、ないかもしれない大介である。
そして上杉は、今年限りのレンタル移籍。
直史もそうだが上杉も、MLB自体には価値など感じていない。
まだ世間ずれした直史よりも、上杉の方が経済成功には興味がない。
あるいは今年は、ボストンがワールドシリーズに進んでくれるのを望むべきか。
直史とはまだ、来年戦えるのだから。
「どっちとも当たらないのは嫌だけどなあ」
なんだかんだ言って大介も、野球を個人競技として楽しんでいる節がある。
三月も下旬、舞台はボストンの地元フェンウェイ・スタジアム。
フロリダの気候に慣れた肉体は、肌寒さを感じている。
入念にアップを行い、怪我をしない準備をする。
消耗を防ぐためと言ってあまりアップをしない選手は、MLBにおいてもいまだにいたりするが、それは単に全力を出していないから怪我をしないだけだ。
大介は全力を出している。
基本的に体格と筋量とパワーは比例するのだ。
その中で大介の体格で成績を残すなら、限界ぎりぎりどころか限界を超えた力が必要になる。
火事場の馬鹿力のように、リミッターを外す。
ただ意識してリミッターを外して、慣らしておく必要がある。
普通の人間もリミッターは切れてしまうことがあるのだが、多くは後に体の故障を伴う。
それでも故障しないために、アスリートは鍛える付けるのである。
この試合はある程度、大介の期待通りに進んだ。
ボストンが先取点を挙げて、リードを得ている展開。
このままリードして点差が少ない状況で終盤に至れば、上杉の出番が出てくる。
ただオープン戦であるので、完全にそうと言える起用をしてくるとも思えないのだが。
(どうかな?)
上杉が投げてくるなら、ボストンの首脳陣がまず、ブルペンで肩を作らせるはずだ。
とりあえずリリーフ陣は、四回からは肩を作り始める。
(うちに負けても勝手も、あんまりシリーズには関係ないからなあ)
レギュラーシーズンでは当たらないのだ。
なので大介を相手にしても、少しでも弱点を探ろうとしてくる。
大介はその中で、ちゃんと打てるためではなく、ゾーンの球だけを打っていった。
なおゾーンの球でも、ある程度は打たずに見逃す。
この試合ではあまり関係ないが、審判を味方につける手段の一つだ。
ゾーンのボールを全て打っていては、審判には大介はゾーンのボールを打つという印象付けが出来る。
だが中には人格の曲がった審判がいて、勝手にゾーンを変えてしまったりするのだ。
それを大介は矯正する。
厳しいコースをストライクと取ったら、WOWだのOKだのと審判に聞こえる程度に呟く。
そして間違ったコールには、無言で通すのだ。
大介の選球眼は、おそらくMLBの中で一番優れている。
目が良くなければ、ミートは出来ないからだ。
その大介が、今のは違うとアピールする。
いや、アピールなどしたら、審判は逆にムキになるのだが。
人間は抗議されるとムキになる。
なので大介は、誉めてやるのだ。
今のジャッジは正解であるぞと。
そしてストライクをコールしても反応がないと、自分が間違っていたのかと不安になっていく。
人間の心理の問題だ。
実際のところ審判の目とバッターの目では、正面から見ているという点が違うが、バッターの目の方が正確なはずである。
ただ正面から見ると、左右のコースは分かりやすいのだ。
だがミットに収まった位置はともかく、ベースを通過した位置はどうなのか。
フレーミングの上手いキャッチャーは、そこまで計算してミットを動かす。
この試合も大介は、そういったことをしていた。
上杉への対策ではなく、直史への対策だ。
直史は抜群のコントロールで、ストライクに見えるボール球を投げることが出来る。
やや広くゾーンを考えていれば対処可能なのだが、直史相手だとそれが難しくなる。
ボールをストライクにしてしまえるし、150km/hを170km/hに見せる。
それが直史のピッチングだ。コンビネーションとはそういうものなのだ。
順調に試合は進み、大介は引き離されない程度に、点につながるバッティングをしていた。
去年の大介は自分が打って入れた点も多いが、打点よりは得点の方が多い。
もちろん自分でホームランを打ちまくっているので、それでホームを踏んでいるというのもある。
打つだけではなく、走ることと守ること、それもやって全て野球だ。
本心から言えば大介は、DH制もあまり好きではないのだ。
なおボストンは上杉を打席に立たせていることはない。
クローザーとして運用していれば、当たり前だが打席に立つことはないのだ。
試合は進んでいく。
一点差から三点差の間で、常にボストンがリード。
大介にしても神ではないので、自分に都合のいいところで、上杉との対決が実現するとは思っていない。
だが既に前の試合では、対決が実現しないという過去が確定している。
ならば次には偏りから考えれば、対決が実現してもおかしくないのだ。
九回の表、二点差の場面。
ボストンは上杉を出してきた。
(……微妙だ)
バッターは七番から。
今日は一番で打っている大介には、一人出ないと回ってこない。
ここまで双方の乱打戦であったが、上杉ならその流れを断ち切るだろう。
つまり普通に、三人で終わる可能性が高い。
ここで対決がなかったら、おそらく次の機会はオールスター。
そこではあっても、一打席だけの勝負になるだろう。
やはりワールドシリーズか。
そこならばあるいは、七戦全てで対決があるかもしれない。
もっともあったとしても、一試合につき一打席ずつの勝負だろうが。
クローザーとの対決は、案外していない大介である。
なぜならクローザーであっても、普通に打ってしまうので。
クローザーが狙って、フォアボールを出しにきたら、さすがに大介も打ちにくい。
基本的には先発を打つのが、大介のスタイルである。
チームはなので、大介の前にランナーをためなければいけない。
下手に盗塁して、一塁を空けてはいけない。
それが今のメトロズの方針だ。
これはやっぱり無理なのかな、と大介は思い始めている。
七番と八番が、連続で三振。
しかもバットに当たることすらない。
メトロズは代打を出すが、果たしてそれで打てるものか。
170km/hを上杉は出している。
大介はそれ以上を知っているが、上杉もそこまでは回復出来ないのか。
肩を壊すというのは、本来それぐらい無茶なことなのだ。
それなのにどうにかここまで戻しただけでも、上杉は充分に超人だ。
代打に出たバッターも、ツーストライクと追い込まれる。
外の球であるが、それを打っていかないといけない。
内角の球は確かに目からの距離が短いため、本来であれば打ちやすい。
だが上杉ほどのスピードになると、内角だと見極める距離が短い。
気が付けばもう、キャッチャーのミットに入っているのだ。
三球目のストレートが、内角へ――。
「お」
内角いっぱいだと思った。
だがそれは日本のストライクゾーンの話。
MLBではそのコースはボール球で、内角にびびったバッターは、金縛りにあった。
そしてその袖を、上杉のボールは掠めたのだ。
なるほど、こういうめぐり合わせもあるのか。
大介はネクストバッターズサークルにいた。いわゆるオンデッキの状態であった。
テイクワンベースが告げられて、ランナーが一塁となる。
(これは、どうだ?)
九回の表の二点差。
ランナーが一人いて、ホームランが出れば同点の場面。
これがレギュラーシーズンなら、歩かせるという選択もあるだろう。
だがオープン戦なのだ。
ここで申告敬遠など、そんな馬鹿な真似はしてこない。
マウンドの上に、仁王立ちの上杉。
それに向けてバットを構える大介。
舞台が整った。勝負だ。
初球のインハイ。
わずかに外れていたが、大介は振っていった。
完全にバットの芯を外していて、打球は一塁のファールグラウンドでコロコロと。
ちなみにこのスタジアムは、外野のファールグラウンドが極めて狭い。
レフト側のフェンスは馬鹿高いグリーンモンスターだが、それでもフライを打てば普通に入ってしまう。
右に打っても広くはないし、ファールグラウンドでのフライアウトが少ない、打者有利のスタジアムなのだ。
二球目、またもインコース。
ボールは真後ろへ飛んでいった。
歓声が上がったのは、球速表示を見てのことだろう。
106マイル。
ここまで投げてきた上杉の球速を、さらに上回っている。
(そうか)
大介は静かな気持ちでいる。
五感とそれ以上の何かが、スタジアムを包むこの感覚。
目で見て打つのではなく、それ以外も含めた全てで打つ。
大介は大きく深呼吸をして、酸素を脳にたっぷりと送る。
反射で打つしかないのだ。
だから考えていては間に合わない。
しかし肉体を動かすのは脳。
たっぷりと活動してもらわないと困る。
ここまでの二球はストレート。
高速チェンジアップが、おそらくは選択肢にある。
上杉であっても、今の球速ならば、大介が打てることを悟っているだろう。
もっとも大介は球速どうこうではなく、上杉のストレートだからこそ打てないのだが。
外にチェンジアップ。そして次にカッター。
どちらも外に意識を向けさせるものだ。
(来るな)
単純な組み立てだが、キャッチャーはそれでいいと思っているだろう。
そして上杉は正面からやってくる。
(これが樋口だったらな)
おそらく自分は、三振はしないにしても打ち取られている。
そのあたらい上杉も、今は恵まれていない。
マウンド上の上杉の肉体が、一回り大きくなったような気がした。
内角にストレート。それは分かっている。
上杉もその結果がどうなるか、分かっているのだろう。だが投げる。
今の上杉の限界を。
インコースのボールを打った。
その打球は鋭いものではなく、ふわりと浮かんでいった。
だがライトスタンドに入った。
そして打球の質の原因、バットは途中から折れていた。
ツーランホームラン。
球速はまだ、たったの107マイルしか出ていなかった。
ちなみに試合は九回の裏、ボストンがサヨナラで勝利。
また上杉がオープン戦で打たれた失点は、この大介の二点だけであった。
二人が直史がおかしなことをしたことを知るのは、二日後のこと。
序 了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます