第3話 間合い

 野球は時間が重要なスポーツである。いや、時間が関係ないスポーツなどないだろうが。

 この時間の中にも色々な意味があるが、野球でよく言われるのはテンポよくとかリズムよく投げるといったところか。試合時間についてはやたらと長くなった時ぐらいしか言及されない。

 時間ではないが時間と関係したところに、時速として測られる球速が存在する。

 ピッチャーが投げるボールを打つところから、野球は始まる。

 当然ながら速ければ速いほど、反応出来る時間も短くなるので、打ちにくくなる。

 だが大介は単純なスピードならば、170km/hまでは全く問題なく打てる。


 速球に強い大介が、最初に手こずったのは高校時代の細田。

 サウスポーの投げるカーブの横変化が大きく、捉えるのが難しかった。

 そしてそれ以上に封じられたのが、真田のスライダー。

 だが真田はスライダーばかりを投げていたわけでもなく、当時は150km/hに満たなかったストレートでも空振りを奪えていた。


 プロ入り後は上杉の170km/hオーバーを、打てたこともあれば打てなかったこともある。

 だが直史のボールは一度しか攻略出来ていない。

 それもホームランではなく、試合を決定付けるものではなかった。

 比較的、と枕詞はつくが遅い直史を、どうして打てないのか。

 変化球による緩急差などは、思考のスピードを奪う。

 多くの状況を設定しなければいけないため、単純に反応して打つにはリソースが足りないのだ。

 だが直史も、全く打たれないわけではない。

 そこに攻略の鍵はあるのだ。


 直史のやっていたことと、明日美のやっていたことを思い出す。

 明日美は自然と発生していた誤差を、その投球のメカニックの途中で修正していた。

 あれはあれでもちろん凄いが、直史はあそこから、わざとフォームを崩すのを積極的に学んだらしい。

 確かにこれまでも、タイミングが取れなかった。

 高校時代に使っていたサイドスローやアンダースローは、その一環であったのだろう。

 だが自主トレの中でやっていた、フォームの微小な変化。

 バッターからは見えないところで、アームのトップの位置を変えたりしていた。


 普通投球のメカニックというのは、一人のピッチャーは一つしか持っていない。

 それがずれてしまうことはあり、試合中に修正出来ることもあれば、ベテランでも難しく序盤ノックアウトということがある。

 上杉などはずれたら、そのままパワーだけで押してしまうが、それで負けたこともある、

 だが直史は自在に、その細部を変えてしまうのだ。

 さすがに最速のストレートは、最も効率的なフォームでしか投げられない。……はずだ。

 しかしそれを除けば、言うなれば直史の投げるボールは、全てチェンジアップなのだ。


 チェンジアップがさらに速度差があって、ぐりぐりと変化していく。

 あれを打つために必要な練習というのは、初打席の初球を確実に打つような技術につながる。

 もっともそれは大介にとって、それほど難しいものではない。

 おそらく直史がストレートだけで組み立てた方が、他のピッチャーのコンビネーションよりも打ちにくい。

 MLBのセットアッパーやクローザーの中には、投げるボールの90%がツーシームだったりカッターだったりするピッチャーもいるのだ。


 直史のボールを打つのに必要なのは、リズムでもタイミングでもない。

 間合いだ。

 そう言われてもおそらく、他の誰も理解出来ないだろう。

 だが大介は自分自身の実感として、その言葉を使う。

 タイミングという言葉でも、間違いではないのだと思う。

 だが直史のボールを打つには、まさに見切りの一瞬が必要になる。


 その一瞬を身に付けるために、今日も元気にホームランを打つ。

 こちらはこちらでまた別方向の、悩みが湧いてくる。

 オープン戦だというのに、勝負を避けたがるピッチャーが出てくるのだ。

 大介を封じればアピールになるのではなく、大介は勝負を避けても当たり前。

 それでも申告敬遠ではないので、やや甘く入るとボール球でも打っていく。

 そんなことをすると、ますます勝負してもらえなくなるのだが。




 勝負させる手段が必要だ。

 かつて日本では、自分から三振を奪えたピッチャーには、飯を奢るなどして勝負させていた。

 だがそれもチームの申告敬遠の前には無意味。

 もちろんあまりに逃げるばかりでは、ホームでの試合でさえブーイングを食らうことになっていくだろう。

 野球はルールの範囲で勝負する競技であるが、同時に興行でもあるのだから。

 その一番の華はホームランである。


 イリヤが、流れを作ってくれた。

 野球ファンのインフルエンサーに対して、大介との勝負を放棄することへの軽蔑を。

 その流れは今も消えていない。

 彼女が作った曲は、直史と白富東のためのもので、むしろ大介を苦手としていたのだが、あの曲は大介のための曲となっているきらいがある。


 アメリカというのは多様性を声高に叫ぶが、実のところは同調圧力が大変に高い。

 多様性がなくてはいけない、というのは立派な同調圧力である。

 アメリカ人は不健康なまでに健康的な生活を求めるというブラックジョークもあるが、これもまた同調圧力の一つだ。

 とりあえず一年はアメリカで過ごした大介は何度も「お前らがそれ言うのか?」という驚きに満たされたことがある。

 ただ大衆の声というのは日本でも存在したし、それをある程度誘導することは出来る。

 大介はあまり得意ではないと自分で思っているので、何やらツインズが色々とやっているが。


 競争を是として、成功しようとすることへの同調圧力。

 アメリカの経済を世界一にしているこれが、大介にとっての頼みの綱である。

 エンターテインメントは、対決がなければ面白くない。

 大介という体格に恵まれなかった選手が、ホームランを連発する。

 そこには驚きと感動が発生する。

 人間は、あんなことが出来るのだ、という。


 アメリカ人のフィジカル信仰を大介は否定しないし、確かに効率だけを考えるなら、フィジカルに優れた人間を最初から選び、それに技術を教えた方がいい。

 大介にしても体格が小さく見えるのと体重が軽いだけで、実際にはフィジカルモンスターであるのだ。

 反応速度が一般的なスポーツエリートよりも、さらに半分ほどの時間しか必要ない。

 神経系の伝達速度という、これはもう天性のものでしかないのではという、圧倒的な才能を持っている。

 だから誰も、大介の真似は出来ない。


 ピッチャーはたとえ大介が相手でも、五割を打たれることはまずない。

 クラッチゾーンに入った大介は別だが、レギュラーシーズンはそうであった。

 だから挑んで、倒さなくてはいけない。

 技巧や投球術による、頭脳も含めた真剣勝負。

 大介はこれを求めている。




 エースの最大の条件は何か。

 大介はバッターであるが、そんなことを考える。

 直史は間違いなくエースで、その特徴は何か。

 それは、チームを勝たせるピッチャーだということだ。


 甲子園でも、神宮でも、そしてプロにおいても。

 あのセンバツでの敗退以来、直史は重要な試合で、一度も負けていない。

 防御率とかパーフェクトとかMVPとか、そんなものは直史の本質ではないのだ。

 ただ直史はひたすらに、チームを勝たせるピッチャーだ。


 だから、と大介は願望の混じった確信を抱く。

(ワールドシリーズで戦うのは、ナオの方だ)

 上杉はチームがまだ、コンテンダーとして優勝を狙う状態にない。

 惜しいことだがオープン戦での対決を待つのみだ。

 せめて同じリーグで、他の地区のチームに入っていてくれたら。

 そしたら対戦する機会も、もう少し作れただろうに。


 たとえばロスアンゼルス・トローリーズなら。

 同じリーグなので七試合ほどは対戦があるし、それに近くのアナハイムとのカードが組まれている。

(ヤキュガミ様、ちょっと調整を間違ってるよ)

 近場ということでロスアンゼルスとアナハイムは、フリーウェイ・シリーズとして年間四回の試合が組まれている。

 そこならば直史と上杉の投げあいは、成立するはずなのだ。

 トローリーズがナ・リーグ西地区で優勝すれば、ポストシーズンでメトロズと当たる可能性は高い。

 そこで大介と勝負出来る。


 最終的にはア・リーグ代表のアナハイムとは、ワールドシリーズで対戦。

 これが一番盛り上がる展開だと思うのだ。

(でもトローリーズは選手補強終わらせてるしなあ)

 それに直史と上杉の投げあいも、上杉がクローザーとして使われる気配である現在、エース対決として盛り上がるわけではない。


 おそらくヤキュガミ様が考えたのは、ア・リーグのポストシーズンで直史と上杉と対戦させ、ワールドシリーズで大介と対戦させるというものだ。

 だがアナハイムはともかく、今年のボストンにそこまでの力があるのかどうか。

(いや、あるか)

 上杉は一人で、スターズを日本一にした。

 もちろん一人の力だけではないが、周囲へ与える影響力の大きさは、大介よりも直史よりも大きい。

 あのカリスマがいるというだけで、ボストンはコンテンダーとなりうる。

 クローザーならば九回の時点で勝っていれば、もうそれで自動的に勝てるということだ。


 短いイニングを投げている、上杉の情報は入ってきている。

 三振を奪いまくって、Kの旗が振られているそうだ。

 ただ……メトロズがリードした展開だと、出てこないのではないか?

 オープン戦で大介と戦わせ、日本人対決で盛り上げる。

 その機会が回ってくる可能性が低い。

 それにボストンとアナハイムとの試合では、直史が投げた場合、ボストンが完封される可能性が高いと思う。

 そしたらやはり、上杉の出番はやってこない。


 やはり現実という名の物語の展開を、神様は間違えている。

「やり直しを要求する!」

 自宅でそんなことを叫んで、家族から不思議そうな視線を向けられる大介であった。

 まあwebと書籍で展開が違うということはあるんだろう。最近はそれが主流になっているのだとか、いやコミカライズだとか。




 大介は舞台が整っていくのを待つ。

 無駄にボール球を長打にするのはやめて、出塁率を稼いだ。

 大介がまだ更新で来ていない、シーズン記録。

 それは最高出塁率である。


 打率が四割に達しながらも、200以上もフォアボールで歩きながらも、出塁率は六割に達しなかった。

 ただそれは大介が、ゾーンの球を打つのではなく、打てる球を打っていたからだ。

 またプレイオフの試合であれば、それは達してしまう。

 だが安定してシーズンを、六割の出塁率で過ごせないものか。


 出塁率が五割をはるかに超えていて、OPSが1.5を超える大介。

 プロ入り後出塁率が五割を切ったことはなく、OPSが1.4を下回ったこともない。

 ただ月間の記録だけを見れば、不調の時は間違いなくある。

 むしろ不調の時がなければ、対戦してもらえる機会はもっと少なくなったのかもしれない。


 オープン戦において大介は、甘い球をホームランに、ゾーンの球をヒットに、そしてボール球に手を出さないことを心がけている。

 あるいはこれで打点やホームランは、数が減ってしまうかもしれない。

 だが全ては、ポストシーズンを見据えてのことだ。


 ボール球ですら打って、点を取らなければいけない展開。

 それは確かにあるが、申告敬遠のある今となっては、打つべき時ではない時に打っても、勝利にはつながらない。

 勝負してもらわなければ、打って点を取ることは出来ないのだ。

 去年の大介は打点より、得点の方が40点以上も多かった。

 ホームランで自分で得点を取ったこともあるが、誰かのバットで返してもらった方がずっと多い。

 今年の打順も、おそらくは二番が多くなる。

 オーナーもGMもFMも、大介に期待するのは打つことである。

 だが盗塁王まで取ってしまっていると、本当になんでも出来ることになる。


 5ツールプレイヤーや6ツールプレイヤーというのは、確かに過去にもいた。

 だがそういった選手の中で、どこが一番弱いかというと、だいたいは走力になる。

 単純な話で、走ってクロスプレイになったり、手から滑り込んだら、怪我をしやすいからだ。

 無事是名馬の言葉がある通り、試合に出られなければ、どれだけ優れた能力を持っていても無意味。

 その中でも故障につながりやすい走塁で、大介は怪我をしないタイプなのだ。


 近年のMLBでは、盗塁の重要性が薄れている。

 瞬発力勝負のMLBでは、巨体の筋肉の塊が、走塁で故障する可能性は高い。

 それよりは打ってもらうほうが、結果的にはいいというのが、統計から明らかになっている。

 だが大介は、走らなければいけない。

 走らなければこれまで以上に、歩かされてしまうからだ。


 大介のプレイスタイルの変化には、当然ながら他のチームも気が付く。

 ただしこれはオープン戦。

 あくまでも参考にする程度の話なのだ。

 そして味方にとっても、あくまでもこれは参考程度。

 しかしボール球を無理に打たないことによって、当然ながら出塁率と共に打率も上がる。

 あくまで参考ではあるが、オープン戦の試合の中で、大介の打率は0.460を超えている。


 打率、出塁利率は上がっているが、長打率はさほど上がっていない。

 そしてOPSもさほど上がっていない。

 かなり不思議な現象が起こっているような気はするが、実のところそれほど不思議でもない。

 バットコントロールでミート出来る場合は、大介は強く打つのではなく、野手のいないところに打つからだ。

 なのでヒットは単打までになる。

 本気で叩けば、その打球はフェンスまで届くのかもしれないが。


 う~む、とメトロズの首脳陣は悩む。

 大介は一年目で、多くの記録を破ってきた。

 これならもう、絶対に不可能と言うか、破ったらむしろ統計的には悪い、あの記録を破ってもらうべきではないか。

 それは、シーズン打率記録だ。

 19世紀の近代野球以前には、0.440が、そして20世紀以降は0.426がシーズン記録だ。

 もっとも他に、リーグが分かれていた時には、違う記録もあったりするが。

 また大介には、通算打率記録も期待できる。

 警戒される今年、そしてMLBデビューが既に28歳のシーズンだったことを考えると、通算ホームラン記録を抜くのは難しい。

 だがここから、4000打数以上のバッターの通算打率記録を抜くのは、ひょっとしたら可能ではないのか。


 首位打者に12回も輝いた男タイ・カッブ。

 MLB史上最高の技術と、最低の人格を備えたと言われる、殿堂入りの選手。

 彼はあくまで人格はひどくても、不正などで成績を残したわけではないし、その人格のひどさのエピソードも捏造がかなりひどい。

 ただそれでも、伝説の選手の記録が、目の前で破られるのを見られるのか。

 現代を生きる人々は、昔を大切にすることよりも、伝説の更新を望むらしい。


 こんな期待を込められても、大介としては困るのだ。

 そもそも大介は昭和ぐらいの過去の選手については、日本人選手でさえあまり知らない。

 ピッチャーの運用などがあまりに違うため、知ろうともしなかった。

 ただ分かりやすい、21世紀以降の記録ならば狙える。

 日米通算のホームラン記録は現在649本。

 おそらくこの通算世界記録は抜けるだろう。不幸な事故がない限りは。


 ただ大介としては、野球を打つだけの楽しみ方はしていない。

 守るのは好きだし、走るのも好きだ。

 バッティングに特化したプレイスタイルなど、想像も出来ない。

 実際に運動神経がすさまじいのだから、下手にバッティングだけに特化する必要はない。

(単なるパワーだけじゃなく、技術だろ)

 大介はパワーでも技術でも、自分を上回る存在を知っている。

 だからこそ下手に慢心し、おかしな記録を目指そうとも思わない。


 ただそういった謙虚さとは別に、しっかりと足は見せ付けていく。

 いざという時は、確実に勝負してもらうために。

 いやそれでももちろん、逃げられることは確実なのだが。

(大事なのは勝つことだよな)

 直史と上杉は、絶対に逃げない。

 いや直史は作戦の都合の上なら、歩かせて塁を埋めることはあるかもしれないが。

 ただその本質は、あの壮行試合の四打席目だ。

 あれが直史の最大のエゴの発露だと、大介は分かっている。


 ワールドシリーズで対決するためには、そこまで勝たなければいけない。

 そして勝つためには、自分が打つのではなく、チームが勝つ必要があるのだ。

 そのためにも、塁に出れば走る。

 確実に二塁を襲う。

(そういえば、盗塁の記録はまだ、全然破れていないんだよな)

 ホームランと盗塁の合わせ技なら、とんでもない記録になっているのであるが。


 課題はまだまだ多い。

 そしてその先に、望んだ対決が待っているのだろう。

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