光り輝くピッチへ

T.KANEKO

光り輝くピッチへ

「今日はこれくらいにしておきましょう……」

 額の汗を滴らせ、苦悶の表情を浮かべている彼に声を掛ける。

「いや、いや…… もうワンセット行くでしょ!」

 苦しそうな顔をしていた彼は、笑顔を浮かべて、そう言った。


 大学病院のリハビリテーションセンター、理学療法士をしている私、そして過酷なリハビリに耐えている彼。

 彼がこの病院へやって来たのは五年前の事になる。

 大学のサッカー部に在籍していた彼は、U20の日本代表に選抜されるほど将来が有望視されている選手だった。

 国内外、数多のプロチームから声が掛かり、いずれは日本を引っ張っていく存在になる、と思われていた。

 あの事故が起こるまでは……


 それは大学の合宿地へ向かう途中で起きた。

 左右にカーブを繰り返す高速道路、前を走っていた乗用車が縁石に乗り上げ、それが引き金になり、多重事故を引き起こす……

 方向性を失った乗用車、それを避けようとした大型トラック、そしてその大型トラックに側面を激突された観光バス……

 その観光バスにサッカー部の部員達は乗っていた。


 バスは横転した。

 幸いな事に死者は出なかった。乗員三十人のうち軽傷者五名、重傷者一名、それだけを聞いたら、大事に至らなくて良かった、と思える交通事故……

 だけど、彼にとってはそうではなかった。

 脊椎の損傷により、彼は両足の自由を奪われてしまう。

 それはサッカー選手として致命的な怪我だった。

 誰よりも速く走る事が出来た彼が、車椅子生活を余儀なくされ、輝かしい筈だった未来が一転して、暗転する。


 彼は私の幼馴染だった。

 隣の家に住んでいた彼は、一つ年上のお兄ちゃんで、泣き虫だった私をいつも庇ってくれた。幼稚園、小学校、中学校…… 同じ道を進み、いじめっ子から守ってくれたのは彼だったし、逆上がりを教えてくれたのも、高校受験に失敗して落ち込んでいた私を救ってくれたのも彼だった。

 私がピンチに陥ると、いつも彼が現れる。

 一人っ子の私にとって、彼は兄であり、私だけのヒーローだった。


 だけど、高校、大学と進むにつれて、私たちは少しづつ離れていった。

 彼は運動神経が抜群に良くて、走っても、泳いでも、何をやっても秀でていて、いつも学年で一番目立つ存在だった。

 中でも所属していたサッカー部の中では特別な存在で、その名前は市から県へ、県から全国へと知られるようになっていく。

 大学はサッカー推薦で入学した。一年生の時からレギュラーメンバーで活躍し、U20の日本代表に選ばれると、サッカーファンならば、誰でも知っていると言う存在になる。

 そんな彼の事を、私は誇らしく思いながらも、一方で寂しさを感じていた。

 子供の頃からずっと、私だけのヒーローだった彼は、もう日本国民のヒーローになり、遠いところへ行ってしまった様な、そんな気分になったからだ。

 きっと彼はもう、私の事を救ってくれない。

 これからはどんなピンチに陥ろうとも、自分の力で乗り越えなければならないのだ。そう思ったら、急に心細くなった。

 もう大人なんだから…… そう思ってはいたが、それでもやはり、彼は私の精神的な支えであったから、もう近づく事が出来ないのだと思うと寂しかった。


 私が理学療法士の道を歩む事になったのは、彼の存在が大きい。

 私も彼の様に、誰かを助けられるような存在になりたい。そう思ってこの道を選んだ。リハビリをしている患者さんの頑張りに接していると、少しでもその助けになりたいと力が湧いてくる。うまくいく事ばかりではないけれど、頑張っている姿を、しっかりと目に焼き付けて、一緒になって苦しみも、喜びも分かち合う。

 患者さんから辛く当たられて、悲しい思いをする事もあるけれど、私はこの仕事を誇りに思っている。


 彼が、私が勤めている病院を訪れたのは偶然だった。

 だけど、何かが引き寄せてくれたような気もする。

 最初に会った時は、憔悴していて昔のような強さも、明るさも失われていた。

 いつも空を見上げて、上へ上へと駆け上がってきた彼が、俯いている姿は見るに耐えない酷い有様だった。

 だけど私はそれまでにも、何人ものそういった人達と接し、少しづつ希望の扉を開いて羽ばたいていく姿を見送ってきたから、悲観はしなかった。

 

 一緒にリハビリをするようになって、もうすぐ五年が経つ。

 彼は少しづつだけど回復し、今では車椅子から自力で立ち上がる事が出来るようになった。

 サッカー界から彼の名前は消え、多くの人からは忘れ去られてしまった。

 もう元の運動能力が戻る事は無いだろうと言われている。

 だけど、彼は一生懸命に頑張っている。私は彼の復活をひたすら信じてサポートしている。ずっと私の事を守ってくれた彼の事を、今度は私が助けるのだ。


 きっと彼はやり遂げる。

 そしていつの日か、光り輝くピッチに戻って行くだろう。

 だって、彼は私のヒーローなのだから……

 彼の強さは私が一番知っているから……


「さぁ、もうワンセット行くよ!」

 彼は、額から滝のような汗を滴らせ、苦悶の表情を浮かべて、一歩、また一歩と、前へ進んでいく……  そして私は、彼が再びみんなのヒーローになる日を夢見ている。


 了

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