3.裁き
産屋の天井から吊るされた太い紐にぶらさがり、産婦は歯を食いしばっていた。額には真珠に似た汗を滲ませ、波のように押し寄せる陣痛の痛みに耐えている。
その波に合わせていきめるよう、いねが頃合いを教えていた。
「頭が見えてきた。あともう一踏ん張りだよ」
つるの声に、お産がもうじき終わることを悟った産婦の顔が僅かに綻ぶ。力強く頷いた拍子に滴ってきた汗を、側にいた八重が拭き取った。
(このまま、無事に終わればいいんだけれども……)
八重は産屋を見渡す。死魔を見ることはできないが、気配を感じることはできまいかと思ったのだ。
ふと、八重の視界に入ったのは、四隅に貼られている加護の札。ちょうど北側の柱につけられているはずの札が、あろうことか破れていた。
加護の札は、お産の前に産婆が神社に行き、神職から貰い受けて四隅に貼るのが慣わしとなっている。今回のお産ではつるがその役を担っていたが、もしやつるが慌てて貼ったせいで破れてしまったのでは、などという疑念が頭をよぎる。しかし、人一倍慎重者のつるのことだ。いくら慌てていたといえ、そんな過ちを犯すものかとも思うのだ。
「さ、波が来るよ、一、二、三でいきむからね」
いねが産婦にかけた声で我に返った八重は、再びお産に集中した。
(うぶ様、どうか。どうか今宵は母子を守ってください)
八重の祈る気持ちは届いたか。窓から夜風がひゅうと流れ込むと、淀んでいた産屋の空気が澄んでいく。
産婆達や産婦に姿は見えない。だが確かに産屋の南の空間に、産神がいた。北側で蠢く黒い妖魔に大槍の切っ先を向けて。
死魔とはなんと悍ましい姿だ、と窓から産屋の中を覗き込んでいたていは背筋が凍った。
大人の熊ほどの大きさで、頭は蚊、胴体は蜘蛛、背中に
産神の姿を見るや、ケケケ、と不気味な笑い声が響く。
「ヨォ、産神ィ。今宵はさすがに間に合ったようだなァ?」
「お前に通じている産婆がこの中にいるはずだ。名を申せ」
「本当は分かってんじゃねェの?」
蚊の口の奥にある、もう一つの口でニヤリと笑う。三重にも並んだ鋭い牙が闇の中で光っている。母子の命を早く啜りたいと舌なめずりをすれば、唾液がダラダラと床にこぼれ落ちていく。
「お前の口から真実を聞こうと思っただけだ」
「言うわけねェヨ。それに、アンタは簡単にオレを殺すことはできない」
ゲラゲラと下品な笑い声は、産婆達や産婦には聞こえない。八個あるギョロ目のうちのひとつが、窓から中を覗きつつ身を縮こませているていに向けられているのは気のせいか。
「サァ、選択するんだ。どの命を優先するか」
「命は皆平等、皆優先して救う」
「綺麗事ほざいてっと、みーんな死んじまうゼェ? アンタは誰かを守るために誰かを諦めなきゃならねェんだからよ」
勝ち誇ったように高笑いをする死魔にも、産神は眉ひとつ動かさず堂々としていた。
「私は選択しない。全てを救う為にここに来た」
刹那、床を蹴り上げた産神が死魔に向けて突進した。切っ先が窓から差し込む月明かりを反射した直後、死魔の胴体目掛けて大槍を突き刺した。
一連の動きに無駄はない。尋常でない速さで遂行された為に死魔は抵抗する間もなく、大槍が胴体を貫いていった。
「ギャアアアアア!!」
耳をつんざく悲鳴と共に、死魔の体は黒い煙となって夜の闇に消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます