第151話 到達点

 武史が不安定になってきている。

 それは分かるのだが、分かっていてもなお、武史を使った方がいいだろうと、メトロズは考えている。

 しかしそれも、180球を超えてしまう。

 武史の場合は純粋に、肉体的な疲労が大きい。

 それも限界を突破してしまってから、肉体の疲労が損傷に近くなっている。


 14回の表はアレクが先頭打者。

 ここを抑えることが出来たら、もうさすがに降板か、と武史も考えている。

 体が熱を持っているのだ。

 筋肉などは普段より、急激に収縮しているかもしれない。

 だが本気で力を出さないと、球が行かない。

 肩が重くなってきているのが分かる。


 対するアレクとしても、チームとしての余裕はない。

 ベンチの中でも直史は、相手の守備などを見て、情報を更新するのが常であった。

 だが今日は途中から、氷を頭に乗せて、タオルで覆ってしまっている。

 完然に目を休ませて、そして頭を冷やしているように。


 人間が疲れていると言うよりは、機械が高熱になっているような。

 そんな印象を感じてはいるし、おそらく間違いではないのだろう。

 ここで一点を取れれば、14回の裏はメトロズの攻撃は七番から。

 三人で終わってくれれば、大介に回らない。

 もっともさすがにリードされていれば、メトロズも代打をどんどんと出してくるだろうが。


 武史の初球は、ツーシームであった。

 アレクの内角に入ってきたボールだが、球速は100マイルを割っている。

 もちろんそれでも充分なスピードボールなのだが、やはり普段よりは遅いし、これぐらいならば他にも投げるピッチャーはいる。

(内角はダメだ)

 当てることは出来るコースであったが、アレクはバットを出さなかった。

 今必要なのは、着実に出塁すること。

 ただ左方向に打つと、大介が守っているという障害があるが。


 低めにムービング系を集めてこられると、とてもボールを掬い上げるのは難しい。

 なのでアレクは、外のボールをあえて当てるだけで、サード方向に転がす。

 バットコントロールの極致は、飛ばすのではなく転がす方向に進化した。

 アレクの俊足と合わせると、内野安打が可能になる。

 ヘッドスライディングなどせずに、一塁を駆け抜ける。

 一塁塁審の判定はセーフであった。




 ノーアウトからのランナーが出た。

 アレクは本当に昔から、チャンスを作るのが上手い。

 なんなら盗塁も決めようか、とリードをするアレク。

 さすがにサウスポーの武史から、盗塁を奪うのは難しいが。


 ただメトロズのキャッチャー坂本は、世にも珍しい左利きのキャッチャー。

 そして二番の樋口は右バッターと、やや走りやすい条件にはなっている。

 樋口はここで、進塁打は狙わない。

 もしも一塁が空いてしまえば、次のターナーは敬遠されるだろう。

 武史の球速は、限界を突破した。

 だがその反動が残り、ストレート以外の球速も落ちている。


 ドーパミンだのが出ていて、ひょっとしたら自分の故障に気がついていないのではないか。

 樋口は武史の性格や、その他諸々もよく知っている。

 無茶なことはしないピッチャーで、その才能の底はついに分からなかった。

 だがよりにもよって敵となったこの舞台で、壁を乗り越えてしまったのか。

(どうせならもっと早く、こうなってほしかったもんだ)

 最低でも、アウトカウントを一つ増やすなら、アレクを三塁まで送りたい。

 そのためならほんの少しずつでも、作戦が成功するように布石を打っておかなければいけないだろう。

 単なる進塁打になってしまうにしても、左方向には打ってはいけない。

 そちらは大介が守っているからだ。


 初球狙いというのが、お互いに手の内が知れている場合、バッターの打率は一番高くなる。

 ここからボール球が先行すると、より打率や長打率は高くなっていくが。

 今の武史はどうやら、球速は100マイルオーバーが精一杯。

 疲労が出てきたにしては、いつものようなコントロールの乱れがない。

 ひょっとしたら本当に、故障してしまっているのか。


 もちろん樋口は、そうであろうと容赦はしない。

 相手の弱点を突くのは、作戦として当然のことだ。

 だがボール先行した後のストレートが、また105マイルを計測した。

 武史の体力は、まだほんの少し残っていると言えるのか。


 地味に効果的なことは何か、樋口にはもちろん分かっている。

(削っていくか)

 非情であるが、それもまた作戦だ。

(高校野球の空気に近いか)

 夜中にやっている分、どこかアダルトな雰囲気ではあるが、確かにこの熱狂は夏の甲子園に近い。


 樋口は進塁打ではなく、粘っていくことを選択する。

 この、相手の嫌なことを徹底してやるプレイヤーは、ガス欠寸前の後輩相手にも、全く容赦がない。

 直史がプロ入りするまでは、最強バッテリーとまで言われたものだが、それは昔の話。

 昨日の友は今日の敵。

 100マイルオーバーのボールを、どうにかカットする。

 出塁できたらいいのだが、武史もまた基本はゾーン内で勝負してくる。

 よって粘って出塁、までは目指していない。


 だが樋口は、やはり樋口であった。

 坂本のリードの特徴を掴んで、狙うべき球を見極める。

 そしてそこから出されたサイン。

 武史がチェンジアップを投げたその時、アレクがスタートしていた。


 アレクのスタート、そして樋口はバントの構え。

 ボールの軌道を途中まで隠すための、当たり前の作戦。

 バットは引いたが、そこからボールは落ちてくる。

 チェンジアップはワンバウンドして、坂本はボールをプロテクターで止める。

 これでは二塁にボールを投げることは出来ない。


 サウスポーで、直史ほどではないがクイックで投げられる武史から、盗塁をしてくるとは。

 いや、確かにワンバウンドするチェンジアップであれば、確かにそれは可能性がある。

 だがバントの姿勢で軌道を隠すなど、完全に配球を読みきっていなければ出来ない。

 伝えたのは樋口か。

(読まれちゅうがか)

 坂本はここまで、意外性のあるリードで意表を突くことを第一にしていた。

 セオリーよりは意識の死角を突いてきたのだ。

 ただここでは武史のストレートで樋口を抑えるために、一球遅い球を投げてもらう必要があった。

 それを読まれたということか。


 読み合いでの対決は、ここは樋口の勝ちとなる。

 だが樋口をどうにか、三振に打ち取れば。

 そう思って投げさせたストレートは、間違いなく105マイルが出ていた。

 しかし樋口は、それを送りバントするのに成功した。

 右方向。チャージしてきたファーストの横。

 上手くすれば自分もセーフになるかという打球であったが、さすがに一塁ではアウト。


 これでワンナウト三塁。

 俊足のアレクが、三塁ランナーになった。

 サウスポーの武史にとっては、なんとアレクのリードは見難くなっているという状況。

 内野ゴロを打たれても、外野フライを打たれても、一点が入るだろう。

 全てを託されたのは、アナハイムの三番ターナー。

 だが果たしてここで、メトロズは勝負してくるのか。


 武史が万全の状態であれば、勝負もありうるだろう。

 しかしもう球数は180球にもなり、限界は近い。

 申告敬遠をするか、あるいはピッチャーを代えるか。

 前の打席は、スプリットで三振を奪っている。

 その前の打席も、107マイルのストレートで三振であった。

 だがここでもう一度、あのボールを投げられるのか。

(無理無理無理)

 武史は素直であった。




 メトロズ首脳陣としても、最初の打席以外は押さえているターナーと、勝負してほしいという気持ちはある。

 メジャーリーガーであれば、ここは勝負しなければいけない場面だ。

 だが状況は、外野フライでも勝ち越しの一点。

 そして武史の限界は、間違いなくもう近い。


 ターナーと勝負するのは、あまりにも危険だ。

 マウンドを見ると、武史は肩を竦めた。

 よってベンチからは、申告敬遠が審判に告げられる。


 まさかターナーは、自分が敬遠されるとは思っていなかった。

 確かに最初の打席はホームランを打ったが、その後は抑えられている。

 特に107マイルの空振りと、スプリットの空振り。

 あれはターナーの完敗といってもいいものだったろう。


 だが同時に、武史の限界も、球速だけを見ても分かる。

 ここで自分と勝負しないことを、卑怯などとは思わない。

 これまで敬遠などすることなく、ちゃんと勝負はしてきたのだ。

 悔しいが、これまでの時点で既に負けている。

 歩かされたと言っても、延長14回で、180球も投げているピッチャーなのだ。

 勝負を避けられるのは、むしろ名誉と思うべきだろう。


 アナハイムとしては、この可能性もあるとは思っていた。

 ワンナウト一三塁にした方が、次のバッターでダブルプレイに出来る確率なども上がる。

 ただターナーの次のシュタイナーまで敬遠されたら、それはさすがに困るが。

 メトロズはどう動くのか。


 シュタイナーに対しては、申告敬遠はされなかった。

 ワンナウト一三塁で、四番のシュタイナー。

 前の打席では歩かされているが、ここでは勝負をするのか。

 満塁にしてしまった方が、守るには楽であろうに。

 球威の落ちてきた武史ならば、長打とまではいかないが、単打か外野フライは狙っていける。

 完全に合理的に考えるなら、満塁にしてアウトを取りやすくした方がいい。

 ターナーほどではないがシュタイナーもまた、優れたバッターなのだ。

 第一既に、一度は歩かせているではないか。


 そのあたりメトロズも、完全に合理的には考えていない。

 確かに満塁にするのはより得点の機会は上がるが、シュタイナーと五番打者では、バッターとしての実力が違う。

 ターナーを歩かせる侘びとでも言うのか。

 それならいっそのこと、普通にターナーと勝負してもいいだろうに。


 単純に二人連続で歩かせるのを、みっともないとでも思ったのか。

 だが自分なら二人とも歩かせるな、と樋口は思っていた。

 ただ勝負を選んだなら、あとは対決するのみである。

 直史はタオルで目を覆い、この対決を見ていない。

 それでも耳は、しっかりと状況を伝えているだろう。


 シュタイナーに投げる武史のボールは、またも100マイルを超えてきた。

 本当に限界なのだと、そのコントロールを見ていれば分かる。

 耐久力の限界と、体力の限界。

(そうか、下手に弱い相手と対決させたら、気を抜いて打たれてしまうからか?)

 武史の気質をよく知っている樋口は、だからシュタイナーとの勝負までなのか、と頷けるものがあった。

 ただそれなら満塁にしたところで、レノンと交代しても良かろうに。

(いや、この攻防だけは、武史に任せるのか)

 おそらく三振を奪ってシュタイナーをしとめても、もしくはヒットや外野フライで一点が入っても、そこまでは武史に投げさせる。

 シュタイナーをしとめたとしても、おそらくそこで武史は限界。

 気を抜いて打たれるというのが、樋口の予想だ。

 そしてメトロズの首脳陣も、武史の性質をよく理解している。


 低めに投げられた、ツーシーム。

 左バッターのシュタイナーにとっては、膝元に入ってくるボール。

 バットはそれをミートした。

 どこまで飛ぶかはともかく、手応えはある。

(これが!)

 凡人の意地だ。


 ライト方向に上がったボールは、定位置よりもやや深い。

 ライトはそこからやや下がって、ボールをキャッチした勢いをそのままに、ホームでアレクを刺そうと考える。

 そこそこフライ性になったため、そんな助走が取れるのが、外野としては有利な点。

 距離とアレクの足を考えれば、タイミングは微妙だ。


 わずかに進んでキャッチする。

 コーチャーの声で、アレクはスタート。

 ライトは己の強肩を信じ、中継もなしにホームへと投げる。

 どちらが速いか。

 どちらが早いか。


 アレクが滑り込み、上がりかけた審判の腕が、転がったボールを見て水平に広げられる。

 キャッチャーのミスと言うのは酷であろうか、だが転がったボールを確保した坂本は、そのボールをすぐ二塁へ送球。

 進塁しようとしていたターナーは、手前でアウトにされていた。

 スリーアウトチェンジ。

 だがアナハイムはこれで、待望の勝ち越し点を手に入れた。




 膠着していた延長戦が、ついに動いた。

 ややランナーを出すようになっていた武史は、やはり限界であったのだ。

 180球以上も投げて、14回で25奪三振。

 それなりにヒットは打たれていたが、失点はわずかに二点である。

 他のリリーフに任せていたら、もっと早く失点していたであろう。

 ベンチに引き上げてくるメトロズナインに、スタンドからは拍手が送られる。

 特にその拍手は、武史に送られているはずだ。

 107マイルという世界を見た。

 MLBの歴史が変わる瞬間を、確かに見たのだ。

 初回のホームランを除けば、あとは連打などによる失点はない。

 アナハイムのギャンブル的な作戦が、たまたま上手くいった。

 観客の立場からすれば、そう見えていてもおかしくはない。


 失点した武史は、グラブを叩きつけることもなく、どっかりとベンチに座った。

 自分は最後まで坂本のリードの通りに投げた。

 だが最後のボール、わずかに甘く入ったとは思う。

 わずかなコントロールの乱れが、あったことは否めない。

 それでも打たれてしまった事実は変わらない。

「疲れたな」

 坂本はそう言って、隣に座る。

 リードして打たれたキャッチャーと、リードされて打たれたピッチャー。

 どちらに責任があるのだろうか。

 ただフライ性の打球を打たせたわけだし、普通ならば致命傷にはならない。

 普通でなかったのが、二人にとっては不幸であった。

 状況があまりにも、整いすぎていたのだ。


 武史としては、もう投げられない。

 肩は重いし、肘は熱いし、指先は痺れている。

 ベンチにまで戻ってくるのも、大変であったのだ。

「今日はもうここまでだ」

 武史の言葉が伝わって、首脳陣はブルペンに準備をさせる。

 これはもう、アナハイムが勝つ流れになっている。

 だが万一にも、この裏にもう一点が入れば。


 15回は、クローザーのレノンに投げてもらう。

 本来なら1イニング限定のクローザーだが、稀には2イニング投げることもある。

 他のピッチャーも用意はする。

 一人でもランナーが出れば、大介が長打を打って、一点が入るかもしれない。

 そもそもランナーが出る可能性すら低く、大介も打てる可能性は、輪をかけて低いだろうが。

 それでも最後まで、試合を諦めるわけにはいかないのが、メトロズの首脳陣である。


 武史の役割は終わった。

 あとはもう、傍観者として試合の結末を眺めるのみ。

 14回の裏は、七番からの打順。

 一人でも出れば、大介に回る。

 ただ直史が、そんな甘いピッチングをするだろうか。

 既に球数は147球。

 それでも最終回のマウンドに登るのは、直史である。


 メトロズが代打を送ってくることは、予想されていた。

 その代打攻勢によって、アナハイムは一戦を落としている。

 樋口の頭の中に、そのデータはより深く刻まれている。

 今度は、今度こそは、三人で終わらせる。

 樋口はそう思っているのだろうが、直史の無表情には何も浮かばない。




 七番バッターは、三振で終わった。

 カーブとストレートとチェンジアップで、問題なく三振であった。

 八番にも、代打が投入される。

 ただこの間の試合には出ていない、データの少ないバッターだ。

 ならばボール球も使って、慎重に対応する必要がある。

 直史の球数も、普通ならば限界である。

 さらに今日の直史は、また新しい扉を開いてしまった。

 反動のダメージは、確実にある。

 それでも樋口の求める、コントロールに応えていく。

 

 ただ、その慎重に外したボールを、代打のバッターは打ってしまった。

 三遊間を抜けていく、少しでも左右のどちらかに寄っていれば、内野ゴロになっていたであろうボール。

 しかし直史であっても、全ての打球の方向を操れるわけではない。

 彼も、神ではないのだから。

 多くの人間が、勘違いしているようであるが。


 九番バッターには代打は送られない。

 樋口が考えるのは、おそらく三振するためのバッター。

 下手に代打を送って、もしも同点に追いついたら、15回のメトロズは守備力が低下する。

 だからこのバッターには、通常の注意しかしていない。

 空振りもせず、見送り三振をして、大介につなぐのが役目のはず。

 しかしここで、送りバントをしてきた。

(正気か?)

 戸惑ったものの樋口は、冷静に一塁を指示する。

 ランナーは二塁に進んだが、ファーストでアウトが取れた。


 ツーアウトでランナーは二塁。

 スコアリングポジションにランナーを置いて、バッターは大介。

 最高に盛り上がるシチュエーションであるはずだが、スタジアムの観衆は戸惑っている。

 そう、一塁が空いているのだ。

 大介を歩かせる、大義名分が存在する。

 直前には武史が、ターナーを歩かせているのだ。

 それ以外にもこの試合では、メトロズは申告敬遠を使っている。

 二塁にランナーがいれば、単打でホームに帰ってこれる。

 まさかアナハイムは逃げないと、そう思って送りバントなどをしたのか。

 ここで大介を敬遠する妥当性は、メトロズのファンであっても理解出来るのだ。

 せめてランナーが、一塁にいたならば。




 いくらここまで大介を封じてきた直史であっても、この状況である。

 今までの試合、大介を敬遠しなかったことで、どれだけの逆転を許してきたか。

 普通に九イニングまでのどこかなら、勝負していたかもしれない。

 だが延長で、もう直史の球数も150球を超えた。

 メトロズベンチとしても、ここは歩かせる方が常識である。

 今までは、雰囲気などで判断を鈍らせてきた。

 本当ならばもっと前に、優勝が決まっていたのだ。

 

 それにこの試合、大介とはもう、五打席も勝負したのだ。

 そのうちの三つは三振を奪っている。

 ツーベースは一本打たれたが、得点にはつながっていない。

 ピッチャーとバッターの勝負と考えれば、明らかに直史が勝利していると考えていいだろう。

 それなのに、これだけピッチャーに不利な状況で、勝負させる意味などはない。

 ブーイングは覚悟で、申告敬遠だ。

 FMのブライアンはそう決めたが、そこに待ったがかかる。

 タイムを取った直史が、ベンチに向かってきていたのだ。


 まさか、と首脳陣は固まる。

 まさか、と脳裏には浮かぶ。

「申告敬遠をするのか?」

 慌てて通訳が入るが、おおよそ予想していた内容である。

「これがまだ9イニングまでなら、勝負させていた。だがお前はもう、150球も投げている」

「それに前の打席の打球は、勢いだけならヒット性のものだった」

「ここまでずっと勝負してきたんだ。あちらも勝負を避けているから、こちらだって勝負を避けていい」


 そう言葉を尽くしてくるが、直史は頷かない。

「……勝負したいのか?」

 ブライアンの問いに、直史は軽く頷いた。

「ただ、勝てる自信は全くない」

 そんなことを聞かされては、ますます申告敬遠が必要になるだろうに。


 審判も空気を読んだのか、ベンチの方には寄ってこない。

 だが審判のみならず、相手のベンチも、大介も、そしてスタンドのほとんども、アナハイムベンチに注目しているのが分かる。

 こんな状況で、直史がタイムを取って、自分でベンチに向かったのだ。

 あるいは交代の要望なのかもしれないと思った人間もいるかもしれないが、それならわざわざベンチにまで行かなくていいだろう。


 期待している。

 直史がベンチに何を言っているのか、この状況であればおおよそは、察することが出来るだろう。

 直史は、大介と勝負しようとしているのだ。

 この流れならそうなるだろう。申告敬遠を止めるために向かったのだろう。

 無茶である。そういった判断は、首脳陣がするものだ。

 選手がいかに支配的であっても、そんな我儘を通すべきではない。


 メトロズ首脳陣としては、ここは冷徹に判断すべきだ。

 だが直史も説得の材料はある。

「もし歩かせるなら、ピッチャーも交代してくれ。私も正直、限界なんだ」

 球数的に、確かにそう言われても無理はない。

 ツーアウト二塁で、大介を歩かせて、シュミットと勝負させる。

 確かにピッチャーには、念のためにブルペンで準備させていた。

 だが確かにシュミットに、打たれる可能性もある。

 それが長打になれば、一気に逆転もあるだろう。


 ただ理屈の上では、やはり大介とは勝負するべきではない。

 しかし感情が訴えてくる。

 ワールドシリーズここまでの采配のミスを考えれば、ここでもし逆転などされたら、確実にクビが飛ぶであろう。

 もっともそんな個人の利害を抜きにして考えれば、この先の展開はどうなるのが望ましいのか。


 直史と大介の対決を見たい。

 こんなひりひりする勝負など、おそらく今後10年、20年かけても、絶対にお目にかかることはないだろう。

 つまりたとえ負けるとしても、勝負を見てみたい。

 勝敗を預かる者としては、明らかに間違った判断なのは分かっている。

 しかしベースボールを愛するならば、こちらの判断が正しい。

「勝負は、私の一存だ。コーチ陣に責任はない」

 ブライアンの言葉を聞いて、かすかに直史は笑みを浮かべた。


 マウンドに直史が戻り、そしてアナハイムベンチからは申告敬遠が出ない。

 スタジアムに歓声が戻り、多くの観客が立ち上がる。

 勝負だ。

 そしてここで、試合は終わる。

 誰もがそう、予感している。


 14回の裏、メトロズの攻撃、六打席目の大介。

 ホームランを打てばサヨナラという場面で、歩かせてもいい一塁が空いている場面で。

 大介だけではなく、メトロズも、直史も、そして観客の誰もが望んでいる勝負を、最後の選択として選んだのであった。

 なぜならそれが、ベースボールであるのだから。




  次話 最終回 AL編より先にお読みください。

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