第150話 死線

 シュミットとペレスに、なるだけ少ない球数で、内野ゴロを打たせる。

 その組み立ては完全に、樋口が行った。

 果たして直史はどれだけ、消耗しているのか。

 ベンチに座った直史は、スポーツ飲料を口に含み、ブドウ糖の塊であるラムネをむしゃむしゃと補給する。

 九回が終わったところで、直史の球数は107球。

 だがこの事態は、球数がどうこうというものではないだろう。


 分かりやすく言うなら、直史が使っているのはHPではなくMPだとでも言おうか。

 もちろん比喩的な表現であり、実際は脳を多く使っているのだ。

 大介相手に限界まで使い、その後のシュミットとペレスには、樋口に組み立てを任せた。

 そしてそれを果たすのが、樋口の仕事である。


 10回の表は、アナハイムはシュタイナーからの打順。

 その間に樋口は、直史がどうやって大介を打ち取ったのか、確認しようと試みる。

 だがぼんやりとしている直史は、それについては分かっていない。

「分からない。思考じゃなくてもっと、感覚的なものなんだ」

 普段は計算して投げているのに、ここにきて直感に従う。

 直史のその選択に呆れる樋口であるが、大介がどうしてナックルカーブを空振りしたのか、あれだけはどうにか解明しておきたい。

「なんと言うか、頭の中にばーっとボールのコースが浮かんで、空振りを取れそうなのがあそこだけだったんだよな」

 なんだそれは。


 直史としても、分からないものは仕方がないのだ。

 だが鼻血まで出して、どうにか導き出した解答が、正解であったということの方が重要である。

 そしてもう一つ重要なのが、再現性があるのかどうか。

 もう一度あの状態にまでなって、大介の五打席目を打ち取るのか。

 それはちょっと無理な気がする。


 このまま三人で終わらせていけば、12回の先頭打者が大介となる。

 出来れば打ち取ってしまいたいが、単打までならぎりぎりOKか。

 しかしさっきの打席において、直史が消費したカロリーは大きい。

 あそこまで潜っていくことは、不可能のように思える。

 そして大事なことだが、直史自身が潜りたくはないと思っている。


 肩や肘が壊れても、おおよそ日常生活には支障はない。

 だがあの領域に到ってしまえば、もっと深刻なダメージが残りかねない。

「回復するから、そっとしておいてくれ」

 直史から情報を引き出すことも出来ず、樋口は次の回のコンビネーションを考える。


 10回の表、武史のストレートの球速は、わずかに低下した。

 普段どおりとは言えず、103マイル前後で安定している。

 それでも充分なスピードであり、打たせて取ることも出来れば、三振でしとめることも出来る。

 三者凡退で、アナハイムの攻撃は終了。

 だがそこそこの時間は、稼いでくれた。




 限界が近いな、と直史は感じている。

 これまでにも倒れたことはあるが、あれは限界の一歩手前で、ヒューズが切れてくれているものだと分かっていた。

 今はリミッターをかけず、大介に対して投げている。

 自分の限界は、いったいどこにあるのか。


 わずかに肘を痛めたり、脇腹の肉離れなどになったりはした。

 だがそれらは確実に、本当の限界を迎えるまでの、事前の段階の故障である。

 証拠と言っていいのか、後遺症は残っていない。

 もちろん適切に治療をしたからだ、とも言える。

 しかしこのゾーンのさらに深く、自分でも理解していないピッチングをする方法。

 おそらくこれはあまり、いいことではない。


 宗教的なトランス状態に近いのか、と考えたこともある。

 ゾーンの感覚に似てはいるが、知覚の増大と言うか、視覚の先鋭化とも言える。

 そもそも立体的に捉えられたあれは、視覚であったのか。

 そのあたりは直史にも分からない。

 あるいはこれが、超能力などとでも言えるものなのか。

「オカルトかよ……」

 マウンドに立つ直史は、かすかな笑みを隠すため、口元を覆った。


 頭痛もしてくる。

 おそらく脳の酷使が、これらの全ての状態につながっている。

 もう一度同じ方法で大介を抑えるなら、おそらくもっとひどいことになる。

 あるいはあの状態に入るのは、脳の神経細胞を、いくつか破壊しているのではないかとも思ったのだ。


 そこまでしてでも、大介に勝ちたいのか。

 単純にチームの勝利と優勝を狙うだけなら、もっといい方法はある。

 だがその敬遠を望まないのだから、直史はそこまでやるしかないのだ。

 大介を相手に、もう一度だけあの領域へ。

 ならば他のバッターは、もっと少ない労力で抑えないといけない。

 四番のシュレンプを打ち取って、五番には八回の得点を取った坂本。

 厄介なバッターのはずであるが、直史にはさっきの余韻が残っていた。


 坂本が何を狙っているのか分かる。

 そこだけを外して投げれば、それで打ち取れる。

 内野フライでツーアウト。

 そして最後の三つ目は、三振でアウトを奪った。




 本当に良かったのか、と樋口は思っている。

 今の10回の裏、六番を塁に出しておくべきではなかったか。

 さもなければ11回の裏を三人で抑えて、12回の攻防に入ったとしても、12回の裏にノーアウトから大介の打席が始まる。

 ただあれだけ前の打席では苦労して相手をした坂本を、この四打席目ではあっさりとアウトに出来た。

 直史は確かに、限界まで深く潜ったはずだ。

 しかしそれは同時に、一つの壁を越えたのではないかとも、樋口は思う。


 一時的なものであるのかもしれないが、感覚の拡大。

 直史は坂本に対して、はっきりと確信をもって投げていた。

 まるで未来を予知するようなピッチング。

 なぜそれで打ち取れるのか、樋口の計算の中にはない。


 樋口は自分が、直史の計算機にならなければいけないと思っている。

 おそらく大介を打ち取るのは量子コンピューターが必要で、直史の脳はその領域に入っている。

 だがそれを動かすには、凄まじいまでの負担がかかるのだ。

 大介以外のバッターには、それを使うわけにはいかない。

 坂本相手には使ってしまったが。


 11回の表は、アナハイムは七番からの下位打線。

 武史の電池切れでもなければ、おそらく点は取れない。

 107マイルという脅威の数字は、もう出てこない。

 それどころか103マイルから、それ以下に落ちていってしまっている。


 電池切れ、あるいは故障か。

 だが普段の武史の電池切れのような、コントロールの乱れはない。

 限界を超えた反動かもしれないが、それでも100マイルは突破してくる。

 坂本のリードにより、どうにか打たせて取ることが出来ている。

 だがまだ140球程度なのに、武史がこれだけ落ちてくるとは。


 アナハイムからしてみれば、これこそ勝つためのチャンスである。

 だが下位打線ということもあるし、これだけ球速が落ちてもなお、まだ超一流のレベルにある。

 チェンジアップとナックルカーブを組み立てに使い、フォーシームストレートはやや少なめに。

 下位打線はこれで、内野ゴロ二つと三振で抑えることが出来た。


 12回の表、アナハイムは一番のアレクからの打順となる。

 パフォーマンスの落ちてきた武史ならば、打てるのではないか。

 既に球数も、ほぼ150球に到達。

 もちろんそのためには、11回の裏を抑える必要がある。

 メトロズも七番からの攻撃。

 一人でもランナーに出れば、大介に回る。


 樋口としては、次の直史のピッチングが、大介を抑えられるかは微妙だと思う。

 抑えられるにしても、激しく消耗しすぎるのではないか。

 メトロズもだがアナハイムも、リリーフの準備は始まっている。

 果たしてこの試合、二人のスーパーエース以外が、投げるような舞台となるのか。

 アナハイムは本来は先発のヴィエラと、クローザーのピアースが待機。

 対するメトロズは、どうやらレノンを重点的に投げさせている。


 先にエースを降ろした方が負ける。

 そんなイメージがあるが、まずは下位打線をしのぐ。

 七番には内野ゴロを打たせた。

 八番にはチェンジアップを使って空振り三振。

 九番の打った球は、前進してきたレフトがキャッチ。

 全て樋口のリードによるものである。


 武史は148球、直史は丁度130球。

 球数はどちらも、それなりと言えるだろう。

 武史の球速が落ちているのは、どこかを致命的に痛めたのかもしれない。

 一方の直史も、完全に技術だけで抑えている。


 だが12回の表は、どちらの上位打線から。

 特にアナハイムは、今日既に二本のヒットを打っているアレクから。

 対してメトロズは、今日の得点にクリーンヒットが絡んだものはない。

 武史の限界がもう近いのか。

 先頭打者のアレクは、それを見定めるべく、バッターボックスに入る。




 アレクは今でも、球速のイメージはkm/h表示である。

 本当にアメリカは、頑なにフィートインチ法を守っている。

 マイル表示もそうであるが、弾速だとkm/h表示であったりする。

 このあたりはむしろ、日本の法が統一出来ているのだろうか。


 160km/hなら打てる。

 MLBでの160km/hというのは、いくらでもいるというほどではないが、普通に1チームに一人ぐらいはいる。 

 もっとも武史はコントロールもあるので、確実に打てるなどとは言わない。

 だが今の武史は化け物から、普通の超一流にまで落ちてきている。

 そう思っていたアレクに投げたストレートは、105マイル。

 それがずしんとアウトローに決まった。


 疲れてきて、限界が近づいているのは確かなのだろう。

 だから打ち取れる相手には、少し力を抜いて投げている。

 だがアレクなどに全力で投げるぐらいは、まだまだ体力が残っているのか。

 左バッターのアレクには、ナックルカーブも効果的だ。

 これとムービングでカウントを稼ぎ、最後にはまたストレート。

 105マイルはキャッチャーフライとなって、これでワンナウトである。


 蝋燭の最後の輝きなのか、まだまだ予備タンクに燃料が残っているのか。

 樋口としては、まだ投げられるのではないか、と思っている。

 ただもし懸念することがあるとすれば、それは肉体の消耗。

 肩や肘などに、問題が起きていないのか、樋口は敵ながら心配してしまう。


 坂本のリードの傾向や、自分と武史との関係性。

 それらも考えて、樋口が選択したのは、インコース狙い。

 アウトローに入ったボールが、二球連続したものの、片方のみがストライク。

 その部分の出し入れだけで、樋口を打ち取るつもりなのか。

 だがその後に内角に入ってきたストレートを、樋口は叩き返した。

 レフト前へのクリーンヒットだが、どうしても大介の守備範囲を意識してしまう。

 この守備によるプレッシャーというのも、大介は評価されるべきではなかろうか。

 何はともあれ、ワンナウトからランナーが出た。

 そしてアナハイムは、ターナーの打順となる。

 九回に限界突破レベルのピッチングを誘発したターナー。

 ランナーを置いた上での彼の打撃で、試合は決まるかもしれない。



 ターナーには、今度こそという意識がある。

 見逃し三振をしてしまったことは、彼にとっては間違いのない屈辱だ。

 たとえそれが、107マイルのストレートであったとしても。

 105マイルまでならば、普通にマシーンで打っている。

 もちろん人の投げるボールとマシーンでは、全く違うのは分かっているが。

 ターナーは最初から、スイングのトップを作っておく。

 ホームランにはならないかもしれないが、長打ならこれで打てるのだ。


 一点がほしい。

 九回の裏に、直史は大介を封じてくれた。

 そこからずっと、三者凡退で抑えてきている。

 だがこの回の裏には、大介の打順が回ってくる。

 せめて先に点を取り、バッターにプレッシャーを与えたい。

 ターナーはそんな思いを秘めて、バッターボックスに立っている。


 坂本はもう、武史に全力のストレートを投げさせるつもりはない。

 いや、全開突破のストレートと言うべきか。

 明らかに武史のエネルギーは、枯渇寸前となっている。

 ならば後は、投球術でどうにかするしかない。

 

 ムービングとチェンジアップ。

 ターナーはゾーンの球だけを、確実に狙いにきている。

 追い込むことは出来たが、ボールカウントも増えてフルカウント。

 ここで107マイルを投げ込めるなら、それでも三振は取れるだろう。

 だがこの裏の攻撃で、試合が終わるとは限らない。

 坂本はリリーフ陣よりも、今の疲労した武史を信じる。

 なので出したサインは、スプリットであった。


 ここまでほとんど投げてこなかったスプリット。

 あるいはターナーには、抜けた球と見えたかもしれない。

 だがそのボールは、手元で沈んだ。

 ターナーは空振りし、これで三振。

 だが落ちたボールはバウンドし、坂本のミットから弾かれる。

 一塁に樋口がいるので、振り逃げの権利は発生しない。

 ただし、坂本がキャッチミスしたのを見て、樋口は二塁に走っていた。


 坂本が投げたボールより先に、樋口は二塁に到達。

 三振であるが、実質的には進塁打となった。

 もちろんこれでツーアウトであるので、得点の確率は減っている。

 ツーアウト二塁で、四番のシュタイナー。

 シングルヒットでも、ホームに帰ってこられるかもしれない。


 メトロズのベンチはしっかりと動いた。

 シュタイナーを申告敬遠し、次の五番との対戦を望む。

 塁を埋めるというのもだが、バッターの能力差で、これを選んだのだろう。

 坂本としても、これには、異議はない。


 ツーアウト一二塁。

 長打が出れば、一気に二点を勝ち越すチャンス。

 しかし武史のボールは、いまだに100マイルオーバーを記録し、最後にはチェンジアップで空振り三振。

 ここでもボールはバウンドし、振り逃げの権利は発生した。

 だがあっさりとボールは一塁に送られることもなく、坂本がそのままタッチして、スリーアウト成立。

 12回の表、チャンスは作ったものの、アナハイムは無得点に終わった。




 一点がほしかった。

 ただ武史もかなり、体力の限界に近づいているのは分かる。

 特に強力な四番までで、点を取ることが出来なかった。

 メトロズの12回の攻撃は、大介から始まる。

 坂本がやったように、足を使って一点が取れるか。

 ホームランを打てば、もちろん試合は決着する。

 12回にまで及ぶ最終戦。

 それを投げ合うピッチャーが兄弟であるというのが、なんともドラマチックだ。


 メトロズもおそらく、武史の限界が近いのは感じている。

 球数も向こうは、150球を超えたのだ。

 直史もここまで、既に130球を投げている。

 どこで限界が来て弾けても、全くおかしくはない。


 それでもここで、大介だけは抑えなければいけない。

 マウンドに立つ直史の姿は、呼吸で肩が動くことすらない。

 彫像のように立った姿から、大介に対して投げる。

 インローのボールは、ほんのわずかにカット気味に入った。


 大介のスイングは、それを打った。

 ライト側のファールスタンドへ、大きな当たりが飛んで行く。

 しかしファールはファールであり、点数には何も結びつかない。

 むしろこれで、ストライクカウントが一つ増えた。


 組み立ては樋口が行っている。

 ツーストライクまではどうにか、樋口がリードしていけばいい。

 最後のボールだけは、直史が投げればいい。

 そして二球目は、インハイストレート。

 これもまた、大介は振っていった。

 ボールはバックネットに突き刺さり、これでツーストライク。

 二球で追い込むことには成功していた。


(さすがは)

 ここから大介を打ち取るのは、自分の仕事だ。

 深い呼吸と、心臓の鼓動を意識する。

 リミッターを自分で外して、エネルギーを過剰に脳に送り込む。

(これ、何か名前をつけたいよな)

 ラプラスとか、アカシック・レコードとか、デミウルゴスとか。

 あるいはオラクルなどというのもいいかもしれない。


 大介を確実に打ち取るような、そんなコースを。

 今度はあの打席ほどは、はっきりとしたコースは見えない。

 だがそれでも、隙らしきところに投げ込んでいくのだ。

 足を上げて、スルーを。

 インローのバットの届く範囲へと。


 大介のスイングは、そのボールを捉えた。

 だが打球がスタンドに届くように上がらないというのは、インパクトの瞬間に分かった。

 それでも今は、この一振りに全力を注ぐ。

 ボールは正面、ピッチャーライナー。


 直史のグラブを、ボールは弾き飛ばした。

 そしてそのボールが転がった方向は、セカンドの真正面。

 捕球したセカンドは、一塁へとボールを送る。

 大介の足よりも早く、そのボールはキャッチされた。

 ピッチャー強襲。なれどヒットにはならず。

 ここでもまたほんのわずかに、直史が大介を上回っていた。




 グラブの中の手が、じんじんと痺れている。

 幸いにも、痛みとはなっていない。

(折れたかな?)

 あるいは指が、脱臼でもしたのか。


 痺れが残っているのは、それでいいのだ。

 戻ってきたボールをキャッチした時も、痺れのままで痛みにはならない。

 大介の打球は、本当に殺人級のものである。

 それを無事にアウトに出来たのだから、これは喜ぶべきなのだ。

(しかし満身創痍だな)

 頭痛はするし、目はかすむし、耳鳴りも激しい。

 心臓の鼓動で送られる血液は、末端の毛細血管が破裂して、ずきずきとしている。


 だがまだいける。

 肩や肘、それに足腰や背中など、重要なところは壊れていない。

 頭の中はぐちゃぐちゃのような気もするが、これは一時的なものだと思っておこう。

 そんな直史に対して、樋口はまたサインを出してくる。


 二番シュミットの打球は、センター定位置のフライに終わった。

 そしてペレスの打球は、サードライナー。

 少しずつ、打たれるボールのハードヒット率が、上がってきているように思う。

 懸命に組み立ててはいるが、さすがに限界が近いのか。

 ベンチに戻った直史は、グラブを外す。

 やや赤くはなっているが、骨折や脱臼などといった、深刻な症状は見られない。

 まだ投げられるし、まだ守れる。


 樋口は深刻そうな顔で、それを覗き込んでくる。

 首脳陣も視線を向けてくるが、直史はサムズアップで応えた。

 13回の表、アナハイムは打順が悪いので、おそらく点は取れない。

 13回の裏も、直史が投げなければいけない。

 球数は138球なので、まだ限界には遠い数だ。

 しかし実際には、もうほとんど限界に近い。

 過去に倒れたような、そういう限界とも違う。

 脇腹を痛めたような、そういう限界でもない。


 思い起こせば、甲子園では15回までを投げきっていたではないか。

 もちろん相手のレベルが違うことは承知しているが、それでもまだ12回が終わっただけだ。

 ただ直史は完全に忘れているが、彼は昨日から続いて連投である。

 二日間で既に、19イニングを投げている。

 人間の、ピッチャーの限界は、もうこのあたりにあってもおかしくない。


 13回の表、武史はフォアボールのランナーを出したが、三塁を踏ませることもない。

 ややコントロールが乱れても、その球威だけで抑える。

 出すところでは、まだ105マイルを出すのだ。

 延長戦でもう、25奪三振。

 あちらもあちらで、限界が近い。


 まさか弟と投げ合って、ここまで追い込まれるとは。

 直史はグラブをはめて、13回の裏のマウンドに向かう。

 武史に対してもだが、直史に対しても、スタンドからは拍手が送られる。

 もうホームだとかアウェイだとか、そういう次元の話ではない。

 傑出した二人のピッチャーによって、この舞台は出来上がった。

 単純に直史と大介の勝負だけでは、既にアナハイムの勝利が決まっていただろう。

 スーパーエースを獲得するというメトロズの狙いは、完全に正しかった。


 シュレンプから始まり、坂本にも回るというこの13回の裏。

 直史はその二人を、内野ゴロと外野フライで、なんとか抑えた。

 シュレンプに対しては、ボールに逃げていく球で、ファールを打たせてカウントを稼ぐ。

 そして最後はチェンジアップで、ショート正面に打たせたものである。

 坂本は、早打ちをしてきた。

 投げたボールは二球目のストレートで、これは案外ふらふらと上がる。


 センターアレクの守備により、ヒット性の当たりがアウトになる。

 そして六番バッターも、また外野フライに倒れた。

 アレクが二つ、微妙にポテンヒットになりそうな当たりを、二つとも外野フライでアウトにしてくれたのだ。


 14回の表。

 アナハイムの上位打線から始まる、おそらくは最大のチャンス。

 ベンチからそれを見つめる直史の目は、もう光を失いかけていた。

「野球ってこんなしんどかったか?」

 その呟きに対して、樋口は呆れたように笑みを浮かべた。

 直史のユーモアの才能は、意外なところで発揮されるようである。


 直史の呟きは、完全に本音であろう。

 この回に点を取れなければ、おそらくアナハイムは負ける。

 もしもここで点を取れれば、14回の裏を三人で抑えれば、大介の六打席目は回ってこない。

 勝負を避けることもなく、試合に勝つことが出来る。

 樋口は自分のバットを握り締め、ネクストバッターズサークルにオンデッキする。

 マウンドの上の武史は、直史に比べればまだ、体力自体は残っているだろう。

 だが精密な動作は、出来なくなってきている。

 エネルギー切れと、オイル切れの差とでも言おうか。

(ここで勝つ)

 そしてもう、大介には回さない。

 死闘の終わりも、さすがにもう近くなってきていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る