第138話 第五戦

 灰色の世界をとぼとぼと歩く。

 自分が他の人間よりも賢いのは、日の射さない屋内を歩いていることぐらい。

 生き残った灰色と黒の人間は、それほど高くもない丘に整然と登っていって、そこで真っ黒になって壊れながら消えていく。

 延々とその葬列は続く。

 自らの死を確定させる葬列は、自殺と何が違うのだろうか。


 そこに行けば解放されるのだろう。

 苦しみも悲しみも、そして悩みもない世界に、解放されるのだろう。

 自分にとっての世界の終わりであるが、この世界はもう終わっている。

 人類は死に絶える。

 自分の歩いていく先に、いったい何があるのだろうか。


 悪い夢だ。

 おそらくこの悪夢は、昔から何度も見ている。

 高校生ぐらいまでは、それなりに頻繁に見ていたはずなのだ。

 それがなぜここで見ることになるのか。

 俺はもう大人で、妻がいて子供がいて、自分が死んでも何かが残る。

 魂があるのかないのかは分からないが、自分の痕跡であるものは、必ず残る。

 死後の世界はあるのかないのか知らないが、少なくとも必要はない。

 やがて宇宙が消えるまでに、人間は宇宙の外へと広がる手段を手に入れるだろう。




 と、目が覚めた。

 思考が夢を洗い流すが、あれこそがまさに自分の持っている、死のイメージなのではなかろうか。

 ここは日本の東京……ではない。もっと遠い場所だ。

 アメリカのカリフォルニア州アナハイム。

 広いベッドの少し離れたところに、瑞希の寝ていた痕跡がある。。

(何時だ?)

 時刻は朝の九時であった。

 何をするべきなのか、思考がはっきりとまとまらない。


 粘りつく喉の感触に、ふらつきながらベッドから立ち上がり、分厚いカーテンを開ける。

 カリフォルニアの空は、今日も青い。

(あの夢か)

 高校生になってからは、もうほとんど見ることがなくなっていたのだが。

 そうだ大人になってからは、あまり見なくなった。

 大人というのがどういう基準なのか、それははっきりとはしていないが。


 あの夢と言っても、パターンは色々とある。

 だが灰色で、終末を感じさせる、そのイメージだけは共通のものだ。

 中学生ぐらいにはよく見ていたが、やがて夢自体を見ることが少なくなっていった。

 ただどんな夢を見ても、まだ自分の年齢は、その中では20歳ぐらいまでに感じた。

(子供の想像力の暴走だと思ってたんだが)

 どうやらそういうものでもないらしい。


 夢の内容や、それに対して感じたことは、急速に時間が溶かしていってくれる。

 だがその意味などは、なんとなく分かってきた。

 未来への不安なのだ。

 だから高校や大学、そして司法試験などを経験し、社会の中での立場が強固になるにつれ、そういうものは減っていった。

 固定化された未来は、幸福か不幸か。

 少なくとも直史は、未来の可能性というものは、あまり幸福とは感じていなかった。


 最も近い記憶も、ようやく思い出してくる。

 そんな状態であの夢を見たというのは、これ以上先には進まないほうがいいという、無意識の警告なのか。

(脳の使いすぎなのかな?)

 直史の感覚器官は、あの記憶のなかった時間帯で、かなりハードに使われていたという感触だけが残っている。

 使いすぎた脳の神経細胞に、ダメージがあったということなのだろうか。

 いくら思考に費やしても、脳細胞がダメージを受けることはないと思っていたのだが。

 むしろ人間の脳はクロックアップすればするほど、その能力の上限が上がっていくのではないか。

 もっともそういった脳に関する知識さえ、まだまだ分かっていないものだとは言われている。




 リビングではツインズが、子供たちで遊んでいた。

 自分の子供たちも甥姪も一緒に、子犬や子猫とじゃれあうように遊んでいる。

 真琴をジャイアントスイングするのは危険だが、されてる本人は大変に喜んでいる。

 これを海やプールでやって、最後には投げ飛ばしてもらうのが、真琴のお気に入りである。

 昇馬もそうであるらしい。


 騒がしい子供たちと妹たちであるが、直史は本来こういった、大家族に慣れている。

 なので出来ればあと二人ぐらいは、子供がいてもいいかなと思うのだ。

 さすがにアメリカにいる間は、大変なので避けておきたいが。

(五感が少し鈍くなっているかな?)

 不思議なもので夢のことはすっきりと忘れると、昨日の試合のことを思い出してきた。

 その後のインタビューで、記憶がないと話したことも。

 脳のどこかにしっかりと残っていて、それが睡眠中に整理されたのだろうか。

 その代わりに視覚や聴覚、また触覚さえも、薄皮一枚を通したような感じがしている。


 実際に投げてみないと分からないが、今日は普段のようには、体を動かすことも出来ないかもしれない。

 直史は投げず、リリーフに出ることも出来ない。

 せいぜいがブルペンに待機して、相手にプレッシャーを与えるぐらいか。

 ……充分すぎる気もする。


 今日も球団職員に迎えられて、スタジアムに到着。

 そして体を軽く動かして、ストレッチなどを行う。

 肩や肘には特に痛みも張りもない。

 だがキャッチボールをしてみると、やはり体の感覚がおかしいと分かる。

 軽いキャッチボールを10回ほどして、今日は投げるのはやめる。

 そしてオリバーに、今日は投げられないと報告をしておく。


 フルイニングを投げた先発ピッチャーが、次の日に投げないのは当たり前のことだ。

 だが直史の場合は、投げたのがそもそも100球にも満たず、肉体的な消耗はないという。

 だが感覚自体の狂いが、自分でもはっきりと分かるという。

 直史がそう言うなら、間違いはないのだろう。

 ピッチングコーチのオリバーは、敬虔なナオフミストであった。


 これは機密ではあるが、樋口には言わないわけにはいかない。

 第五戦や第六戦、終盤にわずかなリードであれば、直史を投入して逃げ切るという作戦は、前から考えていたのだ。

 あるいは今日の第五戦を落としてしまったら、第六戦は中二日で直史が先発ということさえ。

 いくら第七戦を予定していても、それまでに決着がついてしまっては意味がない。

 だがさすがに第五戦に続いて連投で先発というのは、MLBでもはるかな過去に遡らなければ前例はない。

 一つのチームにエースピッチャーが一人いて、年間に60試合も70試合も投げていた時代だ。


 第六戦ならば、移動日を休養日として、中二日で投げることが出来る。

 ただその場合は第七戦に、先発することは難しい。

 プロ一年目で第六戦と第七戦、連投で完投した直史。

 あの時に比べれば、ちゃんと樋口がいてくれる分、このカードの方が楽だろう。

「ただ、白石と連投で戦えるのか?」

 特別な一人。

 直史にとって大介は、まさにそう言えるバッターだ。

 どうしても勝たなければいけない試合では、しっかりと打ってくれる。

 敵に回せばこれ以上面倒な相手は、ちょっと他にはいない。

 それこそ樋口ぐらいであるか。

 あとは坂本の動きにも、注意しておいた方がいいだろう。


 今日のアナハイムの先発は、中三日のスターンバック。

 第二戦の先発であり、八回118球を投げたところで交代した。

 レギュラーシーズンではこんな使い方、絶対にしないであろう。

「メトロズは誰が投げてくると思う?」

「そりゃあロビンソンだろう。中四日で球数もそこまでいってない」

 樋口としてはキャッチャーのリードと、バッターとしての得点。

 どちらもやらなければいけないということが、とても大変なことなのだ。


 大介をちゃんと、危険な場面では敬遠する。

 それが出来ていれば、もうアナハイムは優勝にリーチをかけていたはずなのだ。

 ただスターンバックにしても、既に第一戦で逆転ホームランを打たれている。

 勝負を避けて勝ち投手となるのは、打算で計算してくれるだろうか。

 直史としては何も出来ない。

 これがプロの世界のピッチャーの、もどかしいところである。


 忘れてはいけないのは、これで負けてもまだ優勝は決まらないということだ。

 第六戦までの二日間で、どうにかコンディションを戻す。

 今の直史がすべきことは、それだけである。


 直史が第六戦で勝ったとしたら、第七戦ではヴィエラを中四日で使える。

 武史はおそらく、そこで使われるのではないか。

 こちらはヴィエラだけではなく、スターンバックを中二日で短いイニングを投げさせたり、レナードを使っていってもいい。

 なんなら直史に連投させる。

 短いイニングならば、どうにかなるだろう。

 とにかく今日の第五戦が、大きなキーポイントになる。

 お互いに鬼札のピッチャーが使えない状態。

 ここを取ったチームの方が、圧倒的に優位になる。




 エースのノーヒットノーランで、勢いを取り戻したアナハイム。

 今日の先発はスターンバックで、メトロズはジュニアである。

 おおよそチームの二番手エースと言っても間違いではないだろう。

 スターンバックは24勝3敗、ジュニアは21勝2敗と、どちらもとんでもない成績を残している。

 だがMLBにおいてはもう完全に、勝ち負けではピッチャーの評価を決めていない。

 防御率さえも、ある程度の参考までにしかならないのだ。


 WHIPにしても、完全な評価指標ではない。

 奪三振能力と与四球の数値は、さすがにかなりそのまま評価されるが、守備力による底上げというものはある。

 それによるとスターンバックの方が、ジュニアよりはそこそこ上の評価となる。

 ただし対戦する打線の得点力を考えれば、ジュニアの方が有利であるかもしれない。


 アナハイムは今日も、スタメンはベストメンバーだ。

 前日最後に打球を体で止めたターナーも、問題なくノックを受けていた。

 実際は問題があっても、我慢して出場してしまうだろうが。

 それがワールドシリーズというものなのだ。

 ロッカールームからは分からないが、街全体がわくわくとした気分になっている。

 アナハイムのオーナーであるモートンが、街のあちこちに大画面のモニターで試合を視聴できるようにして、そこで出店などを出しているのだ。

 チケット代にはならないが、そこで人が動くのは、そのまま利益につながる。

 遊園地の中でも試合中継をあちこちでして、施設の待ち時間に見られるようにしているのだとか。

 顧客満足度を高めるための手段は、さすがに熟知しているモートンである。


 太陽が西に傾き、試合が迫ってくる。

 直史は途中で昼寝をして、体調を戻すことに務めた。

 この第五戦を取ってくれれば、第六戦で無理に投げる必要はなくなる。

 正直なところ調子が戻るのに、何日かかるか分からない。

 昼寝をしたら、少し感覚が戻ってきたような気はする。

 だが目の奥が痛いという現象は、まだ続いている。


 頭痛については一応、球団の医師にも見てもらった。

 スキャンしてすぐに結果が出てくるのが、資本力に優れた組織がバックにあるだけはある。

 特に問題はなさそうで、痛み止めを処方された。

 だが痛みを止めるというのは、神経の伝達を鈍くするということ。

 直史にはそれは許されないことだ。

 冷えたアイマスクをして、一時間半ほど眠った。

 目が疲れた感覚は、ようやく消えてくれている。

 だがわずかな頭痛はまだ続いている。


 情報を短期間で処理するという点では、やはり映像の情報が一番早くて多いものなのだろう。

 ゾーンをさらに深く潜っていったが、人間には限界がある。

 出来ることならこのさらに深いゾーンへの侵入を、自在に出来るようになりたい。

 だがこれは自分の意思だけでは、どうにかなるというものでもないのだ。


 対戦する相手、そして舞台。

 強敵相手に観客が多いからこそ、集中していけるものなのだ。

 直史の強いところは、肉体的な能力ではない。

 もちろん体の柔らかさや、器用さは他のピッチャーよりもずば抜けている。

 コントロールがよくなければ、直史の技術は全て活用できない。

 もっともそれならばそれで、他の技術を追求していただろうが。


 ベンチの奥から、試合の開始前、守備位置に散る味方陣営を見守る。

 いきなり大介と対決するという、後攻の試合はこれが最後。

 第六戦と第七戦は、ニューヨークに戻って先攻で戦うことが出来るのだ。

(この試合に勝ってくれたらありがたいんだが)

 先にリーチのかかったチームの方が、有利なのは当たり前のことである。

 初回から試合の動く、アナハイムとメトロズの対決。

 第五戦の開始である。




 アナハイムの先発スターンバックは、前回の試合の後で、悩むことが多かった。

 それはSNSやBBSなどでは、大介とは勝負するべきではなかったという意見が多かったからだ。

 もちろん反対する意見もあった。ポストシーズンまで進んで、相手が三冠王だからといって、勝負を避けてどうするのかと。

 大介がバッターボックスで、ランナーが二塁にいたならば、スターンバックも敬遠でいいと思っただろう。

 だが同点のランナーを二塁に進めるというのは、ピッチャーのプライドが許容しない。

 単純に勝てばいいという効率と合理の野球は、レギュラーシーズンだけでいい。

 先発のピッチャーが思うままに勝負出来るのは、やはりこのポストシーズンなのだ。


 あとは対抗心というのもある。

 スターンバックにはボール球を基本に歩かせていいと言った首脳陣が、直史には何も言わない。

 樋口にしてもスターンバックでは、抑えられないと分かっているのだ。

 そしてスターンバック自身が、そうなのだろうなと認めてしまっている。


 ピッチャーがエゴイスティックなのは、日米に変わりはない。

 ただ直史は平然と、ブリアンは敬遠してしまった。

 それなのに大介を相手には敬遠せず、実際に試合にも勝っている。

 パーフェクトを狙って達成できる、唯一の存在。

 スターンバックとしてもその実力は認めるが、それでも対抗意識を持ってしまう。


 勝つために成長する。

 そして限界を越えていく。

 直史のようなピッチングは、自分には出来ない。

 だが自分にしか出来ないピッチングで、どうにか大介に勝ちたい。

 樋口には呆れられたが、それでも諦められない。

 一回の表から、大介の打席である。


 この先頭打者を抑えることは、樋口も賛成している。

 だがコンビネーションが通じずにカウントが悪くなれば、歩かせることにも同意している。

 ノーアウトのランナーとして大介が出ることは、メトロズにとっては絶好の得点チャンスだ。

 ただ初回の大介を相手に、対戦を許可したことは、樋口としても勝算がないわけではない。


 大介は確かに、初回の先頭打者ホームランというのも打ってくる。

 だが普段の試合であれば、初回は出塁を重視するのだ。

 下手にソロホームランを打つよりも、ランナーとして引っかき回すほうがより効果的だ。

 そういう判断なのだろうと、アナハイムの頭脳陣は分析している。


 スターンバックは基本的に、スライダーを調整して投げて、カーブで緩急を取る。

 空振りを取れる外に逃げるスライダーや、内野ゴロを打たせるカットボールもスライダーのうちだ。

 ストレートのMAXは99マイルで、これで今年は凄まじい勝ち星を上げた。

 だが大介に通用するかと言うと、かなり怪しいものである。


 樋口としても大介が相手なら、初回の一点までは覚悟している。

 問題はこの大介をきっかけに、相手の打線が勢いに乗らないかということだ。

「基本は低めに投げるべきだな)

 そして樋口のリードに、スターンバックは素直に頷いた。




 バックドアでインローに入ってきたスターンバックのボールを大介はジャストミートする。

 だがわずかにミートポイントが、バットの根元に近かった。

 ライト方向のポールを切るファールフライ。

 初球からこの大きな辺りに、スタジアムはざわめいた。


 サウスポーのスライダーにあの反応。 

 日本時代はサウスポーのスライダーには、それなりに苦手意識があったはずだ。

(克服したのか、スターンバックのスライダーが通用しないのか)

 これまでの対戦成績を見ると、どちらかと言うと後者であろうとは思うのだ。


 普通のスライダーを、アウトローに逃げるように投げてみる。

 わずかにゾーンを通っているはずだが、これはボールと判定される。

 大介も全く反応していないので、これをボールと見切ったか。

 なんとかあと一つ、ストライクカウントを稼ぎたい。

 インローの完全にボールの球を投げ、振らせることなくボールカウントが先行。

 そしてそこから、カーブを投げさせた。


 ストライクと判定されて、大介はわずかに顔をしかめた。

 確かに今のボールは、ボールと判定されても仕方がない。

 だが審判の心理を考えれば、ここはストライクを取っておいて、あまり大介有利にしすぎたくはないのだろう。

 これがツーストライクからであれば、ボールと判定したに違いない。


 カウントによって、ストライクゾーンが変わるのは、ほとんどの審判にとって共通していることである。

 そしてバッターの力量によっても、ゾーンは変化する。

 今のボールは打たれても、おそらくホームランにはならなかった。

 大介は野手のいないところに今の球を打って、普通に塁に出れば良かったのだ。


 ホームランを打つことを、既に本能としている大介。

 この大舞台においては、その本能が刺激されてしまうのか。

 なんとか打ち取るのは、おそらく幸運がないとどうにもならない。

 樋口が出したサインは、またもインローを攻めるもの。

 単純にボール球のインローではなく、ストライクを取るためのインローだ。

 そこにしっかりカットボールが投げ込めるか。


 スターンバックはその勇気でボールを投げ込んだ。

 大介はその長いバットを、腕を上手くたたんでボールに叩きつける。

 打球は低い弾道で、右方向に。

 ファースト真正面に飛んで、掴んだミットを弾き飛ばしそうになった。

 ライナーアウトで、まずはワンナウト。

 キャッチしたファーストが尻餅をつくほどの、強力な打球であった。




 メトロズもアナハイムも、初回の得点が多いチームである。

 それをどうにかヒットこそ出したものの、無失点に抑えたスターンバック。

 だが一回で球数はもう多く、じっとりと汗をかいている。

 暖かいカリフォルニアだからというわけではなく、プレッシャーがものすごいのだろう。


 ただしそれだけ集中して投げているため、上手く一回は乗り越えた。

 なんとか六回までは投げて、そこからはリリーフを上手く使っていきたい。

 直史は投げられないと言っていたが、他のリリーフ陣でも回またぎで投げられるはずだ。

 ジュニアから先取点を取って、逃げ切ることがアナハイムの勝利への手段。

 もっともメトロズのクローザーは、前年の上杉に比べれば、まだどうにかなる程度だ。


 初回に点を取られても、それ以上の点をその裏で取ること。

 これがアナハイムにとって、勝利へと到る筋道の一つ。

 ジュニアの投げたボールを、アレクは内野の頭を越えたところへすとんと落とす。

 長打力もかなりあるため、下手に前進守備を敷くことも出来ない。

 それが分かった上での、アレクの巧みな一打である。


 二番の樋口は、ここは送りバントも考える。

 ただスターンバックの調子から考えて、たったの一点では足りない。

 まずは一点という考えも、間違ってはいないだろう。

 しかしメトロズに勝つなら、ハイスコアゲームを覚悟するべきだ。


 初球からバントの姿勢をわずかに見せる。 

 だがアレクは盗塁はしかけず、樋口が何かサインを出すのを待つ。

 この一番と二番の厄介さは、特にア・リーグ西地区では有名なものだ。

 今年から組んだ一番と二番のデュオとも言えるが、本当に相手の嫌がることを知っている。

 日本人はそういうスモールベースボールが上手いのだ。


 ボールが先行し、樋口はバントの構えをとった。

 ここはランナーを進ませても、着実にワンナウトを取るべきだろう。

 注意すべきはゆっくりとアウトを取っている間に、アレクが三塁まで進んでしまうことだが。

 ファーストとサードは、やや前進守備をする。


 外さないボールカウントで、アレクは走る。

 バントの構えをしていた樋口は、バットを引いた。

 そしてそこから、右方向へのバスター。

 さほどの勢いもないが、ファーストのすぐ横を転がって、ライトにまで到達する。

 これまた前進していたライトが、素早く捕球したため、アレクは三塁までは進まない。

 ノーアウト一二塁。

 出来れば一三塁にしておきたかった。


 そしてアナハイムは、一番の強打者ターナーに回る。

 ノーアウトのこの場面、もしもホームランでも出たら、一気に三点を先取。

 ハイスコアゲームを覚悟していても、初回の三点差は大きい。

 特にアナハイムの場合、対戦相手がセットプレイを仕掛けると、ほぼ確実に樋口が見抜いてくる。

 去年のワールドシリーズも、直史以外にヴィエラが一勝を上げていた。

 この試合で三勝目を上げるなら、第七戦で直史が投げて、勝ててしまうのではないか。

 確かに第一戦は、大介がホームランを打って、直史のポストシーズン無失点記録を途絶えさせた。

 しかし去年から数えても、その一点だけしか失っていないのである。


 バッターボックスに立つターナー。

 ジュニアとはほぼ同い年の、これからも何度も対戦していく相手。

 アナハイムの主砲を相手に、ピンチではありながらも、ジュニアの精神は高揚していた。

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