第137話 限界の果て
肉体の回復について考える。
ピッチャーの投げるボールというのは、スピードのあるストレートが単純に分かりやすく強い。
なので肉体への負荷を分かった上で、全力でスピードのあるボールを投げる。
一説によるとMLBの100マイルオーバーの選手の投げるストレートは、25kgのボールを投げるのと同じだけの負荷を、肩や肘にかけるという。
そしておおよそは肩よりも先に、細い肘の靭帯が限界を迎える。
この肘の靭帯を、より強いものにしてしまうのが、トミージョン手術だ。
かつてはあくまで、投手としての再生のための技術であったトミージョン。
だが今では学生時代はマイナー時代に肘を故障し、靭帯を強靭なものにするというのが、当たり前になりつつある。
自分の体の靭帯を、同じ自分の体の靭帯で補う。
なのでこれはドーピングなどではない。
ただここまで医療の力を借りていると、果たしてどこまで人間は、自分の体を痛めつけるのか、と思わないでもない。
軽い運動や趣味の運動を除いては、人々が観戦するほどのレベルに達したものは、かなりが己の肉体を削りながら、パフォーマンスを発揮している。
そういった無茶とは無縁に見える直史も、わずかずつ体が削れていくのは感じている。
人間の肉体というのは、特に柔軟性などは、かなり若い頃にピークを迎えるのだ。
また回復力も、若いうちにピークを迎える。
そんな中で直史は、技術と知性で勝負をしている。
しかしゾーンに入ることは、脳をオーバークロックすることに似ている。
単純にこれまでの組み立てから、相手の狙いを窺うことは出来るのか。
これまでのデータだけでは、とても足りないのだ。
今、この時に。
直接対峙している相手から、どれだけのデータを拾うことが出来るか。
低いざわめきが満たすこのスタジアムの中から、大介の呼吸音を拾うことが出来るのか。
人間の聴覚は、音の中から選別して、それを聞くことが出来る。
聴覚から得られる情報は、視覚に比べると少ない。
そして視覚から得られる情報を完全に処理するには、聴覚の処理に使っている部分まで、脳に負荷をかける。
ゾーンに入ってきた。
音が消え、色が消える。
立体的な線の動きが、その本質を見せてくれる。
バッターボックスで構えている大介。
そのどちらの足により体重がかかっているか。
そんなものは分からないはずなのに、視覚で見えてきている。
(もっと奥まで)
呼吸を読むのだ。
スポーツにおいてというか、人間の運動について。
力を出す時には息を止めるか、吐かなければいけない。
息を吸いながら力を入れても、全力にはならない。
また歯を食いしばらなければ、やはり全力は出せない。
顎を外した人間が、全く力を入れられなくなるように、人間の筋肉というのは、不思議なところでつながっている。
上手く力を抜いて立っている。
バットを構える腕にも、ほとんど力が入っていない。
高校時代にセイバーは、基本的にはMLBのメソッドで選手たちを鍛えたが、どこからそんな人を、という臨時コーチも呼んできたりした。
いや、あれをコーチと言っていいのかどうかは疑問だが。
体の使い方というのを、手を握ったり開いたり、また掌を上に向けるか内に向けるかで、力が変わったりした。
最適な体の使い方というのは、人によって違う。
単純なフィジカルではなく、正しく力を使うこと。
そうしなければ本当に、スポーツ選手というのは体を壊すのだ。
思えばあの頃から、大介の体の使い方は、他の人間とは違うと言われていたりした。
力点、支点、作用点の三つから、それを解説されていた。
アベレージではなく、ミートを心がけること。
その先に大介の、求める飛距離があると言われた。
直史の場合は、あまり指導されていない。
今のまま、素直に伸びていけばいいと言われたりはした。
あのコーチの言っていたことは、元は古武術が元だと、後には聞かされたりした。
そして同じことは、中国拳法などにあると。
欧米の中では何が近いかと言うと、武術などではない。
バレエダンスのメソッドが、一番近いと言われたりもしたのだ。
せっかくバレエなどは、人間の肉体の解剖学などから、最適な運動を見つけている。
なのにどうしてそれを、スポーツには利用しないのか。
これを自然と利用していたのがツインズである。
あの二人は基本的に、運動神経がずば抜けている。
だが本来ならあの体格では、出せないであろうという出力も出しているのだ。
自分の肉体を完全に操作すると、本来の限界を超えてしまうことがある。
そういう時はだいたい、脳内物質が過剰に分泌されて、火事場の馬鹿力が出ているのと同じ状態であったりする。
直史が投げた第一球。
それは前の試合でホームランを打たれたスライダーであった。
大介のバットも自然と出てくる。
前の試合で打ったイメージに、体が反応していたのか。
だがやはり反射で、これは打てないと判断する。
当てたボールはそのまま、後方に飛んでいった。
樋口はわずかにその行方を見たが、さすがに追いつけるはずもなくバックネットに。
そこで高い席に座っている、顔見知りを見つけたりする。
ワールドシリーズまで進めなかった者、そもそもポストシーズンに進めなかった者。
それに比べれば樋口は、随分と恵まれているはずだ。
(この、レギュラーシーズンだけで終わった方が楽というのは、どうにかした方がいいんじゃないかな)
樋口は日本時代から、ずっとそんなことを思っている。
シーズンはさっさと終わって、あとは自由に過ごしたい。
もちろんインセンティブにポストシーズン案件があれば別なのだが、実は樋口にはそういった条件がついていない。
傷がついたボールを新しいものに代えて、直史へと投げる。
そしてサインを出すのだが、珍しくも二回も首を振られた。
(まさか、これなのか?)
樋口は完全に論理立てて、配球を考える。
基本的には直史もそうなのだが、最後の最後で感覚的になることもある。
直史のその直感は、後から考えれば確かに、相手が狙っていたのだなと分かることもある。
だがなぜそれに気付いたのか。
確かに配球の組み合わせで、相手を惑わすことは出来る。
しかし直史の場合はそのピッチングのフォームを微妙に変えて、タイミングをずらすことまでやってのけるのだ。
(やっぱりこれか~)
サインに頷く直史を見て、樋口も納得する。
なるほど確かにこれは、投げてみるのもいいだろう。
初球のスライダーは、ホームランを打つつもりで振った。
だが結局は前に飛ばず、バックネットに飛んでいったのだ。
(ボールの下を叩いた?)
スライーダーというのは普通に、やや落ちながら横に変化していくものだ。
そのスライダーの下を売ってしまったというのは、スライダーが思ったよりも沈まなかったことを指す。
(俺が見誤ったのか?)
我ながら不思議である。
直史のスライダーは確かに鋭くなっていたが、前回は打てたのだ。
沈まない軌道のスライダー?
(なるほど、スルーの回転を使ったわけか)
ボールの下を叩いたのではなく、詰まったので後ろに飛んだのだ。
スピンによってキレを増したボールが、減速を少なくさせた、のか?
理屈はどうだか分からない。
だがミスショットをしたという事実はある。
そして第二球、直史はフォームのタイミングを変えてきた。
おそらく歩幅をほんの少し大きくして、球もちをよくしたのか。
投げられたのは、おそらくカットボール。
これは打てると思ったが、球は鋭く斜めに沈んだ。
バットには当てて、一塁側のベンチ近くにまで飛ばしていく。
(フォームがわずかに変わったのか)
ほんのわずかの変化に、大介がアジャストしきれていない。
そもそもピッチャーのフォームというのは、簡単にいじれるものではないのだ。
本人があえていじって、そしてコントロールを保つということは、まず不可能なことなのだ。
その不可能なはずのことを、直史はやっている。
直史と対決しているのだと、考えていては負ける。
直史に関するデータは、一度消去すべきだ。
全く知らないピッチャーと、一から勝負をする。
その方がおそらく、勝率は上がる。
(いやいや、確かにこの一打席に限れば、そうなのかもしれなけど)
直史のボールは一球ごとに、性質が違っている。
単純に球種が違うわけではないのだ。
三球目、直史の投げたボール。
(失投?)
中途半端な速度のボールが、外に外れた。
樋口が後逸するぐらいに、外に完全に外れていた。
(何を投げるつもりだったんだ?)
あんなにすっぽ抜けるというのは、それほど多くないはずだ。
(ナックルカーブ?)
確かにあの握りなら、ものすごくすっぽ抜けることはあるだろうが。
これでカウントはワンツー。
まだまだボール球を投げることは出来る。
内に二球投げられて、そして外と言うよりは暴投。
だがどうせこの暴投も、ピッチングの中の一環なのだろうと大介は考えている。
記録の上では直史は、少しは暴投をしている。
だが追い込んでからの暴投でランナーが帰ってきたとか、そういうことはない。
集中力が高まっていく。
そんなボールであっても、必ず打っていく。
試合の勝敗とは全く別のところで、盛り上がりを見せている。
本当ならアナハイムは、点差のついた八回あたりで、リリーフに交代してもよかったのに。
直史が大介に打たれないこと、そして完全にメトロズ打線を封じてしまうこと。
これにこだわっているので、直史が最後まで投げることになるのだ。
圧勝して勢いをつけることが、次の第五戦のためには必要なことになる。
ただ直史としては、もっと先のことも考えている。
第五戦に勝てなかった場合はどうするか。
第六戦に中二日で先発というのも、最終手段としては存在する。
あと一つ、ストライクを取ればそれで終わりだ。
だが大介はここからは、空振りも見逃しもしてこないだろう。
内野フライを打たせるのが一番危険性は低いが、内野ゴロでもいい。
正直言ってエラーでの出塁なら、メトロズの勢いにもつながらないと思うのだ。
直史はここから何を投げるか、もう決めている。
さっきの暴投によって、大介の意識は外にいっている。
そこでやはり内角を攻める、というのも一つの手段ではあるだろう。
だが野球偏差値の高い大介は、そこまで単純に打ち取れるものではない。
マウンドの上から、大介を観察する。
力のベクトルがどうかかるかなど、はっきりと分かることは少ない。
だが今日はあと一球なのだ。
ここで封じてしまえば、もうこれ以上投げることはない。
そう思って投げたのはスローカーブ。
だがそれは外角から、さらに外に投げたもの。
大介のバットなら、ぎりぎり届くかというものだ。
しかしこれは見送って、ボールカウントが増える。
遅いボールを見せた。
そして大介の肉体が、その遅さにわずかにアジャストしたのを感じる。
返球されてきたボールをキャッチし、プレートの位置を調整する。
大介の方もまた、わずかに足場を固める。
次で決めるという暗黙の了解が、ピッチャーとバッターの間で成立する。
普段よりも力をためた、直史のフォーム。
爆発的な力が、肩や肘にかかっていく。
そして最後には、ボールに伝わってリリースされる。
ボールの軌道は外。
大介の目には、100マイル近いスピードボールに映る。
スルーだと分かった。
バットコントロールで上手く当てて、飛距離を稼ぐことが出来るか。
だがこれはアウトローに決まるコース。
どうにかカットして、他の球を投げさせることが出来るか?
バットに当たったボールは、三塁線よりも内側。
これはサードに止められる。
ターナーのグラブが間に合わず、体で止める。
意地で前に落として、そのボールをファーストへ。
打球が速かったことが、ここでは幸いした。
大介の足よりも早く、ファーストのミットに収まる。
スリーアウトでゲームセット。
第四戦をアナハイムが制した。
最後のボールを体で止めたターナーは、念のためということで医務室から病院へ向かう。
大介のボールをゴロとはいえ受けたのだから、その勢いはとんでもないものであったろう。
事実痛みが収まらず、医務室では精密な検査は出来ないということになったのだ。
残りの試合は大丈夫なのかという心配が、わずかに残る。
もしも胸骨に皹などが入っていたら、さすがに残りの試合は出られないだろう。
どこかの誰かさんのように、亀裂骨折を二日で治す化け物もいるが。
そういった心配事はあるが、試合自体はアナハイムの完勝であった。
93球10奪三振ノーヒットノーラン。
エラーがなければまたもパーフェクトという、マダックスの達成である。
去年のワールドシリーズも、第五戦ではパーフェクトを達成していた。
ポストシーズンであるというのに、直史の残す結果は変わらない。
直史としては大介を相手に、大きな外野フライを打たれなかったのが大きい。
メトロズのベンチはお通夜とまではいかないが、意気消沈しているのは間違いなかった。
試合後のインタビューでは、最後の打席でバッテリーの、サインが合わなかったことを指摘された。
だが樋口としては、結果が全てというものだ。
特に二球連続で、内角を攻めるというのは思考の外にあった。
いくらなんでもそんな危険なことは、と樋口が選択肢から除外していた。
だが直史はそれを、有効だと信じたのである。
いくらなんでもそれを投げさせるほど、キャッチャーは無責任ではないか。
それも全ては結果によって、正解であったと記録されることになる。
反省点がないわけではない。
もっと緩いゴロを、打たせることは出来なかったのか、というものだ。
打球の勢いからいって、左右にちゃんとずれていれば、ヒットにはなっていた。
もっとも単打までであれば、それは許容すべきだとは思うのだが。
むしろあそこで、ぼてぼての当たりながら、内野を抜けていたほうが、大介の幸運と思われたかもしれない。
ターナーがほぼ正面のゴロを、体で止めるしかなかった。
そんな勢いの打球であれば、ごくわずかな幸運によって、内野を抜けていってもおかしくなかったのだ。
最後に投げたスルーのスピードは、94マイル。
速球派なら普通に投げてくる球速であるが、直史の上限に近い。
そのボールを大介は詰まらせて、内野ゴロアウトとなったのだ。
最強の打者を最後に抑えて、ノーヒットノーラン達成。
直史としてはもう何度やったのやらという話になるが、これでチームには勢いがつくだろう。
明日の先発はスターンバック。
直史と同じく中三日であるが、第二戦の屈辱を晴らすことを全力で考えている。
直史に対しては、あの暴投についての質問もあった。
だがそれに答えることは出来ない。
「あの時に何を投げていたのか、私はもう憶えていない」
大介の最終打席、スルーを最後に投げたことは憶えている。
だがそこに至るまでの全ての配球を、直史は忘失していた。
そんなことがあるわけないだろう、という話になる。
だが直史としては、本当にもう記憶がないのだ。
正解を出すために必死で働かせた脳は、記憶する能力をストップさせていた。
もちろんこういう配球ではあると、スコアにはしっかり残っている。
それを見せられてもなお、直史はどうして樋口のサインに首を振り、こんな組み立てをしたのか分からない。
おそらくはバッターと対峙していた時にしか分からない、何かがあったのだろう。
普段はこんなことはなく、むしろ投げた打席は一年ぐらい、ほとんど記憶しているのが直史である。
過去に屈辱的なアウトを記録していれば、それを再現するフリをする。
そして裏を書いて、アウトにしてしまうのだ。
投球術というのは、ボールを投げることだけが大切なのではない。
コントロールも大切だが、アバウトなコントロールしか持たないピッチャーにも、それに合った投球術はあるのだ。
本来なら武史ぐらいのスピードを持っていれば、ど真ん中を狙ってわずかに散らしていけば、それだけでほぼ打たれない。
だがそれはボールの速度に慣れることのない、リリーフ、特にクローザーとして必要なことだ。
クローザー適性の全くない武史は、ちゃんと投球術が必要となる。
しかし直史がそんな無茶苦茶な脳の使い方をしているというのは、それはそれでおいしい記事に仕上がる。
アナハイムの夜は、まだまだ続く。
勝利に気を良くしたファンたちは、球場近くの店などで、衝撃の試合について語り合うのであった。
試合中の記憶が飛んでいるなど、これはボクシングではないのだぞ、と樋口は言いたい。
だが基本的に文系の彼は、脳の仕組みについては通り一遍の知識しかない。
たとえばピッチャーやキャッチャーは、試合においてその前頭葉の部分を多く使われる。
複雑な思考をする部分なのだ。
これがバッティングになると、大脳基底核が多く働く。
おおよそ思考ではなく、直感を司る部分なのだ。
理屈の上ではおそらく、直史はその脳に膨大な働きをさせて、メモリとCPUをフル活動させたのであろう。
そしてHDDなりSSDなりに、記憶させる作業を起こさせなかった。
それほど脳をフルに、対峙した場面に使っていたのだ。
樋口としては基本的に、全てはデータから計算し、類推するものである。
だが直感的にまずいな、という部分が分からないでもない。
もっともバッティングにおいても、樋口は読みを大事にする。
そのため単純なスピードボールや変化球が、合理的ではない組み立てで投げられると、ミートに要点を置いて飛ばすことは出来なくなる。
直史はおそらくその計算を、その場の情報全てを仕入れて行っている。
それだけの計算能力は、通常の状態では脳には不可能なのだ。
(絶対に打たれないボールをその場で計算するなんて、それは人間の出来ることじゃないぞ)
ゾーンのさらに先にある領域なのだろうか。
間違いなくそれは、天才と言うよりももはや、怪物の領域だ。
不機嫌そうに見えるが、実は眠たいだけという直史は、球団の車でマンションに帰る。
そしてその中で眠ってしまって、気がついたら三時間ほども経過していた。
ユニフォームを抜いだだけの姿で、ベッドの上で。
瑞希だけではもちろん無理で、ツインズの力も借りて寝かせたらしい。
瑞希もまた、インタビューについては聞いていた。
直史のやっていることは、脳のオーバークロックなのではと思う。
人間の脳はある物質を加えることにより、限界を超えて力を出したり、処理能力を上げて体感時間を引き延ばすことがある。
ただ目覚めた直史は、試合直後のインタビューの記憶さえ忘れていた。
これは一つの病気なのでは、と瑞希も心配をしたものである。
だが直史としては、ちゃんと実感できている。
通常の読みや駆け引きとは違う、相手の情報を全て把握してしまうということ。
これはおそらく通常の人間には、そう出来ることではない。
いや直史であっても、そう簡単にやってしまってはよくない。
繰り返して使っていれば、いずれは脳にダメージがいくのでは。
あるいは逆に使うことによって、脳が鍛えられる可能性もあるのかもしれないが。
「思えば近いことは、高校時代からやってたな」
甲子園の決勝など、自分の中に全知全能感があった。
完全に相手バッターを打ち取るための組み合わせが分かった。
大介を相手にする場合、それがより強力になっているのだ。
(今年はあと一試合)
そして来年は、どれぐらい当たることになるのか。
心配そうな顔をする瑞希の肩を、そっと抱きしめる直史。
なお空気を読んだツインズは、子供たちと一緒にリビングへ避難していたりした。
ここから夫婦の営みへ発展することはなく、直史はシャワーを浴びて食事をし、明日に向けて眠りに就く。
とても深い眠りは、いつもよりもずっと長いものになった。
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