第133話 連続
二回の表、メトロズの攻撃を、ヴィエラは三者凡退で封じた。
大介としてはこれで、ホームランを狙うしかないかな、という気分になる。
三回の表は、八番からの打順。
ツーアウトから大介に回ってくるとしたら、ホームラン狙いが一番確実だろう。
ヴィエラが勝負してくれたら、という話になるが。
そして二回の裏、アナハイムの攻撃。
武史の奪三振ショーが始まった。
一人も、一球も、バットにボールをかすらせることが出来ず、三連続三球三振。
ただの三振ではない。
二回の裏にして、既に武史の、ギアが切り替わっている。
直史の80球以内で完封をするというよりも、さらに恐ろしいこと。
バットをボールに触れさせることもない三振を、武史は行っている。
次のイニングはまたアレクに回っていくので、さすがにそこでは当ててくるだろう。
だが武史が三振を奪うたびに、驚嘆のどよめきがスタジアムに満ちる。
105マイルという人間の限界に近づく数字。
もちろん野球は球速ではないと、直史ならば言うだろう。
直史のやっているパーフェクトの記録を、武史は破れない。
だがそれとは全く違う形で、武史は究極のピッチングをしているというわけだ。
ピッチングには正解はない。
あるいは正解への道が、一つではないのか。
試合に勝ちさえすれば、優勝しさえすれば、その過程が正解となる。
全ては結果論だ。少なくとも直史はそう思っている。
だが、試合に勝つことよりも、優勝するよりも、より困難な目的があればどうなのか。
基本的に直史は、優勝することを考えている。
チームスポーツであるのだから、チームが勝って、優勝することが最大の目的であるべきだ。
直史もそれをないがしろにするわけではないのだが、前提の条件が存在する。
それは大介と対決するというものだ。
直史の制圧力を考えるなら、先頭第一打席の大介はともかく、あとは打順調整をして、他のバッターでアウトを取った方がいい。
これは別に直史だけではなく、レギュラーシーズンには他のピッチャーも、チームぐるみでやっていることだ。
だが大介の回避は、直史にだけは許されていない。
そもそも回避するのならば、直史がプロの世界にいる必要がないのだ。
大介と勝負して、なおかつ試合にも勝って、さらには優勝しなければいけない。
今の直史は大介に打たれることを許容しているが、それは最終的には優勝という形で勝利するからだ。
だが去年は、直史は三勝しかしていない。
ヴィエラがもう一勝することで、どうにかワールドチャンピオンになれたのだ。
三回の表、メトロズの攻撃は既にツーアウト。
そして大介の二打席目が回ってくる。
直史は大介と戦う。
それは約束であり契約であるが、運命付けられたものでもあるのかもしれない。
樋口が知っている、直史と大介の関係。
本質的には優勝などどうでもいい樋口としては、そういう個人の約束を優先しても、別に文句は出ない。
直史は大介と勝負しても、試合には勝ってくれるからだ。
ただ、スターンバックの愚行には腹が立った。
そしてあれを愚行だと思っていない、MLBの価値観にも腹が立つ。
逆転されてから、さらにもう一点を取られていたが、それは逆転されたからこその投手運用によるものだ。
リードしたままであったなら、他にもやりようはあったのだ。
大介を素直に敬遠すれば、それで勝つことは出来た。
直史が残りの試合で二勝すれば、それで優勝はしていたのだ。
樋口は野球に対して、さほどの勝ちをもう見出してはいない。
だが優勝を続けるチームのキャッチャーというのは、引退後のセカンドライフにおいて、名刺代わりに通用するはずだ。
なので直史以外のピッチャーには、大介との対決など回避してほしい。
幸いにもヴィエラは、第一打席からしっかりと勝負を開始してくれた。
ただベンチの首脳陣は、申告敬遠をしてくれない。
ならば自分の裁量において、ヴィエラには敬遠のためにボール球を投げさせる。
それも大介相手ならば、外に限るのだ。
ヴィエラは幸いにも、そのリードに頷いてくれた。
アウトローに大きく外せば、それでいいのだ。
幸いにもホームであるので、ブーイングが雨のように降り注ぐということもない。
(野球は頭脳戦。避けられる相手は避けたほうがいい)
しかしヴィエラの投げたボールは、ストライクゾーンに近い。
(な!?)
なんでこんな甘いコースに、という樋口の動揺。
しかし何かの奇跡を祈る間もなく、大介のバットが振られていた。
特注品のそれは、他のバッターではまともにスイングも出来なかったりする。
硬いバットがしなやかに揺れるように見える錯覚。
完全なボール球を、大介のバットは叩いていた。
よく見た光景だ。
アウトローに外したはずのボールを、大介は体を傾けながらも、腰の回転で持っていく。
レフト方向へのフライは、大介にしては飛距離が出ない。
だが場外や、スタンド最上段などに打っていても、普通にギリギリであっても、ホームランはホームラン。
立ち上がった樋口が呆然とする中で、大介はベースランニングを開始した。
勝負にいって打たれたならともかく、勝負を避けたつもりで打たれた。
ボール球でも大介は、普通にヒットにはしていた。
しかしさすがにホームランにまで至ることは少なかったのだが、なかったわけではないのだ。
それなのに、あんなに力の入っていない球を投げてしまった。
いっそのこと立ち上がって、完全に敬遠すればよかったかな、と樋口は皮肉に後悔する。
申告敬遠の導入以来、そんなことは一度も樋口もしたことはない。
とりあえず問題なのは、ヴィエラのメンタルケアである。
(俺のメンタルも誰かにケアしてもらいたいもんだな)
マウンド上で頭を振っていたヴィエラとしたら、ショックは大きいだろう。
奇襲と同じで、まさかと思っていたところに攻撃をする。
樋口だってそうやって、相手のメンタルを揺さぶってきたのだ。
メトロズはここから、まだ点が取れる打線が続く。
シュミットの働き次第では、ヴィエラをここで代える必要もあるかもしれない。
アナハイムはこのワールドシリーズ、直史からレナードまでの四人しか、先発をさせる予定はない。
その中でヴィエラがこんなに早く降板するのは、かなりまずいことではあるのだ。
アナハイムのブルペンが、リリーフの準備をさせている。
「なんだか随分と、安く見られてるみたいだな」
樋口は奮い立たせるつもりで、ヴィエラにそんな声をかけた。
ヴィエラは深呼吸と帽子のツバを触って、自分なりのルーティンで冷静さを取り戻そうとする。
「このイニングは、俺にリードを任せてくれていいか?」
「ああ、そうだな」
甘い外し方だったが、樋口はそれを責めない。
もっと明確に、大介と勝負をしないという選択は取れたはずなのだ。
メトロズはここで、もう一点ほしいところだろう。
しかしツーアウトからであるので、長打が絡まないとそれは苦しい。
バッターボックスに入ったシュミットは、長打とフォアボールを意識している。
打って後ろにつなぐのが理想だが、フォアボールで相手の自滅を待っていてもいい。
だが初球に投じられたのは、インハイの威力のあるストレート。
バットが出てしまったが、これが平凡な内野フライ。
あんなボールをホームランにされたところへ、強気のインハイ攻め。
やはりベテランは違うなと思ったが、ベンチでの交代際に大介が言う。
「あれは樋口のリードだな」
自軍の坂本でも、ああいった攻撃的な球を要求するだろう。
ホームランを打たれたピッチャーに、強気の球を要求する。
それはキャッチャーがまだ、ピッチャーを見捨てていないことの証明になる。
ともあれこれで、試合に決定的な流れが生み出されるのは防がれた。
ただし膠着状態が続けば、有利なのは間違いなくメトロズだ。
三回の裏、先頭をまたも三球三振で、これで五者連続三球三振。
ボールにバットが当たらない。
これもまた、一つの魔法であるのか。
銃弾を避けることが出来ないのと似たような感じで、武史のボールも打つことが出来ない。
ワンナウトの状況から、アレクがバッターボックスに入る。
初球の高めのストレートに当てて、ファールながらどうにかバットに当てることには成功した。
武史のストレートのバックスピンは、ボールのホップ成分につながっている。
すさまじい速度のボールを投げてきて、手前でそのボールが浮き上がるのだ。
ボールを見逃すと言うよりは、ボールの圧力がバットを弾き飛ばす。
武史のストレートと対決した者の多くは、そんな無茶な証言を残している。
ストレートという名の魔球。
武史のストレートの本質は、高校生の頃から変わっていない。
アレクはかろうじて、そのボールに食らいつく。
だが最終的にはツーシームを空振りして、三振に倒れる。
これで六者連続三振。
アナハイム側のホームのスタジアムであるのに、衝撃の凄さがスタンドを揺るがしている。
大介のホームランの後を、なんとか無失点で抑えた。
あれで流れをどうにか、塞き止めようとはしたのだ。
だが武史のこのピッチングは、大介のバッティングと同じように破壊的だ。
そして性質が悪いのは、これは大介と違って、勝負を避けることが出来ないということ。
バットを持つ手に必要以上の力を入れない。
樋口はここで自分が打たないと、やはり流れも勢いも、メトロズのものになってしまうと考える。
そういったものはオカルトめいているが、実際にスタジアムの空気というのは、どちらかに力を与えるものなのだ。
それは高校時代、あの甲子園で散々に味わった。
ホーム球場であるのに、今のアナハイムはまるでアウェイの空気の中にいる。
バッターボックスの中で感じたストレートは、球速表示よりも速く感じた。
ボールはそのプレッシャーで、むしろ大きく見えてくる。
だがバスケットボールのような大きさに感じるストレートが、スイングの上を通り抜けていくのだ。
(ホップするはずはないんだが)
野球のボールがホップするのに必要な条件は、ピッチャーだけでは不充分だ。
向かい風が50km/hほどもあれば、その可能性も出てくるとは言われているが。
むしろ予測される軌道の上を、ふわりと通り過ぎていく。
そんなボールに対して、樋口はバントヒットを狙った。
当てたボールは高く浮いたが、上手くサードの前には落ちる。
樋口は俊足ではあるが、転がした打球の勢いを殺しきれていなかった。
ファーストアウトで、これで三者凡退である。
武史を打てる気がしない。
元々三回か四回あたりから、連続三振を奪ってくるスタイルである。
だが初回で点を取られて珍しく気合が入ったのか、それともワールドシリーズの空気をようやく感じ始めたのか。
ミート職人アレクが三振となり、樋口もバントを上手くしきれなかった。
これでヴィエラが追加点を取られたら、完全に試合は決まってしまう。
しかし四回の表も、ランナーは出したものの、無失点で切り抜ける。
スコアは1-1のまま。
だがベンチで見ている直史は、これは時間の問題だなと感じている。
四回の裏、アナハイムの攻撃は、チーム一の強打者ターナーから。
直史に投げてもらって変化球への対応力がましたことが、ターナーが一気に覚醒した背景である。
それ以前から、速球には強かった。
だが今の武史のストレートを打てるのか。
いや、武史のストレートを、純粋にストレートと言ってもいいものだろうか。
直史と樋口は、以前からそれについては話している。
「本来の原義的な意味のストレートと、世間で言われてるストレートは、完全に性質が違うよな」
直史は分かっているし、樋口も分かっている。
ターナーが打ってきたこれまでの速球と、武史のストレートとの違い。
同じスピードボールでも、上杉のストレートとも違う。
兄弟としてピッチングスタイルは、完全に違う直史と武史。
だがストレートに対する意識だけは、共通しているのだ。
ストレートか速いのは、全ての力が前にだけ働いているから……ではない。
野球を真横から見れば、マウンドから投げるピッチャーのボールは、落ちているのが分かる。
正確には最初から、落ちる角度がついているのだが。
アンダースローは途中までは、この落ちることがあまりない。
だからスピードの割りに、打ち取ることが出来る。
脳が情報を処理する時間が、普通のオーバースローやサイドスローよりも短いからだ。
武史のボールは、普通のストレートよりも、地面と平行に近い軌道で投げられる。
そして直史も、全力でスピンをかけたストレートは、他の同じスピードのストレートを投げるピッチャーより、その軌道に近い。
これが逆に棒球であると、スピードがあるのに上手く減速して手元で垂れて、ゴロを量産させることが出来る。
意識的にそれをやっているのが直史だ。
武史のストレートを一度は当てた。
だが結局は三振で、武史の三振量産体制は変わらない。
「調子に乗らせて、三振を狙わせた方がいいんだろうな」
直史は冷静に、武史のピッチングを観察している。
今日の武史は一回からフルスロットルに入っている。
そこからものすごい勢いで三振を奪っているが、アイドリングが足りていないのではないか。
抜いて投げて打ち取れる場面、ツーシームやカットボールでも、全力で投げている気がする。
150球を投げても、特に問題のないのが普段の武史だ。
だがそれはやはり、上限の力で投げているわけではないのだ。
八分で投げて100マイルオーバーなので、誰も気付かないのか。
今の武史は、全てのボールを全力で投げている。
坂本はもっと、ナックルカーブやチェンジアップのサインを出すべきだ。
このままでもおそらく、この試合の最後までは投げられるだろう。
だが次の登板までに、ちゃんと回復しているのだろうか。
おそらくメトロズは、中四日で最終戦で武史を使うつもりだろう。
普段のピッチングであれば、それでも充分に回復する。
しかし今日の武史は、限界ギリギリで投げている。
樋口がキャッチャーならば、あるいはジンがキャッチャーならば、またセイバーが管理しているなら、ちゃんと回復させるだろう。
あるいは大介が、途中で気付いてくれるだろうか。
武史のポテンシャルは、確かにとてつもなく高い。
だが適切に運用しなければ、肉体がそれに耐えられないだろう。
シュタイナーがキャッチャーフライを打ったが、その後はまた三振。
ボールが前に飛ばない現象が、ずっと続いている。
三打席目の大介相手に、樋口はちゃんと敬遠ではなく、最悪でもホームランにはならない組み立てで挑んだ。
試合の流れを変えるためには、大介か武史のどちらかを、どうにかしなければいけないと思ったからだ。
インローのボールを打たれたが、それはフェンス直撃までにとどまる。
確かにホームランこそ打たれなかったが、そこからメトロズの打線がつながってしまう。
最後はアナハイムのお株を奪うような、犠牲フライで勝ち越し点。
だがこれでもまだ一点差。
このワールドシリーズはとにかく、ホームランによる派手な一撃と、タッチアップによる自己犠牲の一点が、とても大きな意味を持っている。
「タケのストレートは見極めれば、外野フライを打つのには向いてるんだけどな」
「見極められるやつが、何人いると思ってるんだ?」
直史の言っていることは間違いないのだが、その条件を作り出すのには、どれだけの偶然が必要になるのか。
アレクでも三振し、樋口でもまともにバントすら出来なかった。
ターナーやシュタイナーなどのスラッガーでも、最高速のスピンがかかったボールは当てられない。
アナハイムブルペンでは、リリーフ陣が準備を始めている。
たったの一点差であるが、その一点が遠い。
アナハイムの上位打線には、あと一度はチャンスが巡ってくる。
だがその前に、大介の四打席目があるのだ。
ヴィエラをどこまで引っ張るか。
この試合を落としたと思うなら、早めに交代させて、次の登板機会に疲労を残さないようにするべきだ。
直史一人で、四勝することは、不可能ではないと樋口は知っている。
だが不可能と可能の間に、可能性という言葉があるのだ。
他のチーム、他の相手、他の状況ならともかく、大介と勝負しなければいけないという前提条件。
メトロズが武史か、そうでなくてもピッチャーを総動員してアナハイムを完封するなら、大介とその前後のバッターで、一点ぐらいは取られてもおかしくはない。
ナックルで与えたはずのダメージは、完全に癒えてしまったようだ。
むしろわずかな動揺は、さらに大介を強化してしまったのか。
八回の表、メトロズは大介の第四打席。
アナハイムは、まだヴィエラを交代させない。
武史の奪三振は、おそらく九回の裏で20に達する。
得点のチャンスは初回にしかないというのは、やはり結果的に正しかった。
しかしこの八回の表、樋口のリードによるアウトローツーシームを打った大介の打球は、サードのターナーのグラブの中に収まった。
正面近くでキャッチしたターナーが、その場で一回転して倒れるほどのものであった。
三点目が入らなかったのは、ぎりぎり最後のチャンスが残っていることを示す。
もっとも二回以降、武史は一人のランナーも許していない。
ここで点が入ると考えるのは、相当に都合のいい願望であろう。妄想に近い。
九回の裏、先頭のラストバッターは三振に倒れる。
ワンナウトから、アナハイムの高出塁率の一番へ。
制圧力の高い武史へ、アレクが対する。
今日はまだ一度も塁に出ていないと言うか、初回に樋口とターナーが打って以来、完全に封じられてしまっているのがアナハイムなのだ。
バッターボックスに入ったアレクは、マウンド上の武史を見る。
完全に普段とは、ノリが違う武史である。
初回に点を取られたことで、それほど怒っているのか。
それは武史らしくないな、と思うアレクである。
武史が本気になるのは、だいたいが女がらみであることが多い。
たとえばあの、甲子園の決勝にしても。
(でもあれは、どっちだったんだ?)
現在の配偶者である恵美理の声援と、当時からからかうように武史を応援していたイリヤの罵声。
確かに最後には、武史の馬力で大阪光陰を倒したものだが。
最終回になっても、球威は全く衰えない。
だがアレクはどうにか、当てることだけは出来ている。
わずかだがコントロールがアバウトになり、ボール球との見極めがしやすくなっているのか。
それでもスピードが速すぎるため、ボール際をどうにか見極めることなど出来ない。
なんとかバットに当てて、粘ることは出来る。
前に上手く飛ばないのは、むしろ幸運であろう。
これが下手に前に飛んでしまえば、内野フライか内野ゴロで、アウトになってしまう。
直史と樋口は、冷酷なことを言った。
たとえ打てず、点が入らず、負けてしまったとしても、それは無駄なことではない。
武史はレギュラーシーズンや、ポストシーズンでもこれまでのような、圧倒的なピッチングをしているわけではない。
一点を取られてからの今日のピッチングは、圧倒的ですらなく、蹂躙するものだ。
直史とは全く違う、触れるだけで振り払われるもの。
それが今日の武史なのだ。
普段以上の力を発揮しているのは、素晴らしいことかもしれない。
だが普段は余裕で投げている以上に、今の武史は投げている。
球速の上限が変わっていないので、あまりそんな印象は受けていない。
だが直史と樋口が言うならそれは間違いないのだろう。
ここで消耗させて、次の試合では全力で投げられないようにする。
それが目的であったアレクは、最後にはピッチャー横を抜ける打球を打った。
だがそれは、大介の守備範囲内。
ここまで全くゴロなど転がってこなかったのに、大介はしっかりと反応していた。
これでツーアウト。
後一人で、メトロズの二勝目が決定する。
まったくこれだけのスペックを持っているのに、どうして時代の中の最高のピッチャーにならないのか。
バッテリーを組んでいた期間の方が、敵として対した期間より、はるかに長い樋口はため息をつく。
同じチームに直史がいたこと、また同じ時代に上杉がいたこと。
それがこれまでの武史の、ナンバーワンになれなかった理由だ。
実際には沢村賞も取っているので、他の同時代のピッチャーに比べれば、はるかに恵まれているだろう。
セ・リーグのピッチャーは上杉や武史、直史のせいで長く、タイトルさえまともに取れなかったのだ。
樋口はアレクのように食らいついていくわけではない。
武史ではなく、坂本の心理を考えて、武史を攻略していかなければいけない。
もっとも坂本は樋口と違って、ピッチャーのやりたいようにやらせるのを前提とする。
そしてそこに、バッターを打ち取る意外性をねじ込んでいくのだ。
実際に組んだ直史からのデータと、坂本のリードのデータ。
状況によってリードを計算しているのは、樋口と変わらない。
ただメンタルを攻撃するのは、樋口よりも坂本の方が積極的だ。
もっともその読みに負けて、第一戦はホームランを打たれているわけだが。
次の第四戦、アナハイムは直史が投げる。
それだけでほぼ、勝利は確定しているようなものだろう。
実際のところ直史で負けたら、もうニューヨークに戻ることなく、そのままアナハイムで決着はつくだろうなとは樋口も思っている。
この第三戦で樋口を惑わしておけば、明日の第四戦、直史を大介が打ち崩す。
そうは言ってもメトロズ側も、強力な三人ではなく、やや落ちるオットーやスタントンを、直史に当てる用意はしているのだが。
ピッチャーを温存しておくのなら、第一戦にジュニアを持ってくるべきではなかった。
完全に第一戦を捨てて、第二戦からの巻き返しを考えるべきだったのだ。
そのあたりメトロズもアナハイムも、徹底できていない。
レギュラーシーズンでは合理と効率の決勝だったような、MLBにおける野球。
だがポストシーズンでは、まるでそれを忘れたかのように、原始的に勝負を求める。
そうは言っても大介あたりは、やはり敬遠されるのだが。
樋口にショックを与えるような打ち取り方とは、どういうものだろうか。
やはり読みを外される、というのが一番大きいだろう。
ラストバッターの樋口としては、ここでもう一打席ターナーに、武史のボールを経験させておきたい。
レギュラーシーズンとは違う、本気を引き出された武史のボールを。
そのためには、自分が塁に出る必要がある。
読みなどは関係なく、ターナーに打ってもらうために、ここは塁に出るのだ。
投げられたチェンジアップは、普段よりもずっと遅く感じた。
ゾーンから外れて落ちるこのボールを、樋口はさらにひきつけて打つ。
三遊間をふわりと浮いてレフト前に。
さすがに大介の守備範囲から外れているので、キャッチされることはなかった。
球威はまだまだ充分にあったが、コントロールがやや甘くなっていた。
なので低めにズドンと決まらないチェンジアップは、打てるものなのだ。
これで、もしもホームランが出たら、逆転という場面を作れた。
そしてアナハイムのベンチからは、直史がブルペンに向かう。
そんなに都合よく、逆転ホームランなど打てないであろう。
だがもしも同点にまで追いつけば、そこで直史を投入する事態は出てくるかもしれない。
四打席目の大介を、上手くアウトに出来たこと。
他のバッターならば、直史がどうにかしてくれる。
ただし同点の状況で直史を投入しては、どれだけ投げなければいけないか分からない。
プレッシャーを与えることが出来るのは、間違いないのだが。
野球というスポーツの中には、必ず逆転の道が隠されているのだ。
そしてそれは、かならず伏線と布石があるものなのだ。
※ NL編133話に続く
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