第112話 残り一ヶ月

 今日の直史のピッチングに、特に制限はない。

 無理にパーフェクトを狙うことはなく、三振を奪うこともない。

 すると確率的に、一本や二本はヒットが出てきてしまう。

 全力を出せば、どうしてパーフェクトが出来るのか。

 それは投げている本人さえ、運だ、と言っている。

 もちろん特殊な技術はあるが、結局のところ最後には運がある。

 その運の要素を最小限にするために、ピッチングは組み立てているだけだ。


 オークランドと書いて生贄と読む。

 日本界隈では行われている魔術的儀式だ。

 実は日本という国は、言葉にすると悪いことが起こるというのを、それなりに迷信でなく信じている人間がいる。

 オークランドに、直史が登板。

 するともう、どういう負け方をしたのだろうか、という方向に話が行ってしまう。


 実際のところ直史は、狙ってオークランド相手にパーフェクトをしているわけではない。

 そもそもパーフェクトを二回達成したのは去年のことで、今年はまだノーヒットノーランを二回しか達成していない。

 ……何かがおかしい気がするが、いったい何がおかしいのだろう。

 ここまで直史は、オークランド相手に八回先発している。

 確かに去年は、パーフェクト二回にノーヒットノーラン一回にノーヒッター一回と、四試合全てが尋常ではない結果を残していた。

 ノーヒッター以外はマダックスを達成しているし、うち一回はサトーだ。

 だが今年はマダックスとサトーのノーヒットノーランが一回ずつにサトー、マダックスが一回ずつと、去年に比べたらまだマシな成績になっているのだ。

 ……マシなのか?


 直史としては九月のスケジュールに、中四日が二回あることを気にしている。

 痛くないと思っている間に、本当に痛さを忘れる無茶をするようなピッチャーと、直史は違う。

 自分の肉体の調子を、客観的にも主観的にも、冷静に見ようとしている。

 内野ゴロは打たせることが出来るか?

 完璧ではない。だが許容範囲だ。

 内野フライを打たせることが出来るか?

 完璧ではない。だが許容範囲だ。

 三振を奪うことが出来るか?

 完璧ではない。ファールならともかくゴロになるのは、少し問題かもしれない。


 打順一巡目で下位打線からヒットが出て、オークランドの選手たちはほぼ全員がガッツポーズをした。

 そのランナーがダブルプレイでアウトになっても、とにかくこれでパーフェクト負けは防げたのだ。

 チミたち、ちょっと目標が低くなりすぎていないかね?

 それにこの日はアナハイム打線が序盤から爆発し、既に六点を取っていた。

 これだけの点差があると、直史としてもいくつかは試したいことが試せるわけだ。


 小さなスプリットを打たせて、それがゴロになった。

 アッパースイングのメジャーリーガーに対して、打率が二割ちょっとしかないスラッガーに対して、内野ゴロを打たせたのだ。

 打率二割でホームラン30本というのは、本当にロマン砲だ。

 だが今ではホームランの力が評価されているからこそ、しっかりと需要があるのだ。

 オークランドが貧乏だからという、世知辛い理由ももちろんあるが。


 ヘイロースタジアムの観客は、やや失望している。

 年に一回もないパーフェクトを、お手軽に提供してくれるのが直史である。

 それが失敗したからと言って、さすがに即座に帰ることはない。

 ダブルプレイでランナーを消していると、マダックスが見られる可能性があるからだ。

 ノーヒットノーランよりは簡単だ、と言われていたマダックスも、近年ではよりピッチャーの分業制が盛んになって、年に一回見られるかどうか。

 だが直史はそれを、当たり前のように達成する。

 



 本日も球数のペースは、余裕でマダックス。

 サトーはかなり難しいだろう。

 オークランドのピッチャーは、順調に点を取られていった。

 直史と当たると分かっていれば、ローテを少しずらせるのは当然だ。

 ただ最下位がほぼ確定しているオークランドが、今更少しだけ勝とうとするのは、あまり意味がないとも思えたが。


 かつては完全ウェーバー制であったドラフトは、タンキング防止のためにウェーバー制を廃止した。

 MLBのチームはたとえ負けなくても、MLBの再分配分だけで、充分に利益を上げてしまえる。

 サイン盗みなども問題であったが、あれはあくまでも限定されたチームの問題。

 タンキングは、本来全てのチームが勝利を目指すところを、負けて年俸を安くするという行為だ。

 主力選手も放出し、FAになった選手はよほど安い限りは契約しない。

 負けて当たり前というチームは、リーグを白けさせる。

 それが有利になりすぎないように、ドラフトの制度も改訂されたのだ。


 本来なら戦力均衡のために、ドラフトのウェーバー制が実施された。

 ただ現在は弱いチームは、利益のためにタンキングを行っている。

 オークランドにしても個人成績だけを見れば、そこそこ勝負出来る面子が揃った、と思える時があるのだ。

 だが高くなった選手は放出する。

 トレードであれば高く売れて、プロスペクトをそろえる。

 戦力が本当に上手く揃えば、ポストシーズンも倣えるというのが、チーム再建のためには必要だ。

 だが資本主義や自由経済の原理からすれば、ちゃんと金をかけたチームが勝てる方が、理論的には正しいはずだ。


 それでも数年に一度、ちゃんと強くなってくれるなら、地元は盛り上がることだろう。

 しかいしオークランドはずいぶんと、ポストシーズンに出るのが精一杯。出てもそこで負ける。

 歴史のある球団だけに、実はワールドチャンピオンの数などは、それなりに多い。

 だが古豪という言い方が精一杯で、とても実力のあるチームとは思えない。


 もはやオークランドは勝ち方を忘れてしまった。

 オーナーもGMもFMもポストシーズン進出を目指していないから、いっそ清々しい。

 フロントが刷新されるまで、この体制は維持されるだろう。

 そして利益が出ている限り、フロントは球団を手放さない。

 歪なことだ。NPBの場合はむしろフロント企業にとって、宣伝媒体として優秀なため、球団単体での利益にはそこまでこだわらない。

 だからこそ強いチームに暗黒期が来たり、弱いチームに黄金期が来たりする。

 ……もうずっと来てないチームもあるぞ、と言ってはいけない。

 MLBはいまだに一度もワールドチャンピオンになったことのないチームもあるのだから。

 そのあたりもアメリカはスケールが違う。


 本日の結果は、ヒットを三本打たれてエラーが一つあった。

 ダブルプレイが二つあったので、対戦した相手は29人。

 球数は91球で、意外なほど少なく済んだ。

 ただランナー四人を出しても、ダブルプレイがあるのだから、それだけ球数は節約出来たとも言える。

 ごく普通のマダックス。

 なんだか損をした気分になるのは、俄のアナハイムファンである。

 セイバーの数字を見て、にちょにちょと笑う訓練されたファンは、むしろこれこそが直史のピッチングだと、なぜか上から目線で評価するのだ。




 この後の二戦も、アナハイムは勝利する。

 これにて八月の試合は全て終了。

 ただもう直史に完封させることが、あまりにも日常的になりすぎたため、あまりオーランドもショックを受けていなかったらしい。

 打撃で上回って、それなりに安心して勝つことは出来た。

 だが心折れることなく、オークランドはある程度打っていった。

 既に心は完全に折れ、砕かれ、その残骸の上に立ったオークランドの選手たちは、それなりに手を伸ばすことが出来たのだ。

 手が届くことはなかった。


 残りは28試合。

 地区優勝はほぼ決定している。

 あとはどれだけ勝率を稼ぐかだが、NPBのクライマックスシリーズほどには、勝率は影響しない。

 消化した試合は完全に並んで、ゲーム差も明確になる。

 ここで5ゲーム差というのは、直接対決がないので絶望的だ。

 ただヴィエラも復帰してきたし、悪い条件はそれほどないとも言える。


 去年もレギュラーシーズンはわずかに差があったが、アナハイムがワールドシリーズで逆転したのだ。

 そもそも野球というスポーツの特性上、短期決戦では番狂わせが起こる。

 それを起こさせないほど、二つのチームは圧倒的であったわけだが。

 メトロズはトローリーズとの対戦成績があまり良くないし、アナハイムも同じリーグにミネソタがいる。

 最有力候補ではあるが、鉄板とまでは言い切れない。

 野球とはそういうスポーツなのだ。


 ただ去年のポストシーズン、アナハイムはワールドシリーズまでは全てスウィープであった。

 短期決戦であれば、むしろアナハイムの方が強かったと言えるだろう。

 メトロズは今年、ひょっとしたら勝ちすぎているかもしれない。

 あまりに勝ちすぎて、負ければショックが大きくなる。

 あるいはレギュラーシーズン中に、力をかけすぎる。

 今年のメトロズを見ている限りでは、主力で長期離脱した選手はいない。

 チームのコンディションをどう保つか。

 それが首脳陣にとっての悩みとなるだろう。


 アナハイムはそろそろ、調整の期間に入ってくる。

 九月に入ればベンチが増員されるため、有力な若手はここからデビューしていく。

 あと五勝ほどもすれば、ミネソタに勝率で追いつかれることもない。

 そうなれば特にピッチャーには無理をさせず、若手に経験を積ませていくことになるだろう。

 ただこの時点で40人枠に入っていなければ、もう絶対にポストシーズンでも試合に出ることは出来ない。

 もっともアナハイムとしては、主力の調整用に、他の若手を使っていくということはあるだろう。


 ア・リーグのホームラン王は、ブリアンがおそらく確定している。

 ターナーは現在二位であるが、10本もの差があるのだ。

 ただそのブリアンよりもさらに、大介の方が10本ほども多い。

 今年一カード対戦したとはいえ、わずかにその一カードでもある。

 ア・リーグであるアナハイムは。大介との対戦が少なくて助かったと思う。

 直史が投げれば、どうにかこうにか勝ってしまうのだが。




 一日の休みがあって、そこでテキサスに移動する。

 直史の先発予定は、残り六試合。

 全て勝てば32勝となる。

 今のところWHIPは去年よりも良化していて、奪三振率はやや低くなっている。

 それでも10を超えているのだから、先発としては立派なものであろう。


 奪三振は268個。

 去年の同じ時期は、258個であった。

 リーグが別なため、武史とここで争わずに済むのは幸運だ。

 向こうは400奪三振というこれまでのMLBの常識を超えて、さらにどんどんとその記録を積み上げている。

 サイ・ヤング賞はもう、とって当たり前と言える。

 ここから何かの間違いで、全ての試合で負けたとしても、数字は嘘をつかない。

 

 地味な記録と言われるかもしれないが、直史はピッチャー・オブ・ザ・マンスを連続で取っている。

 MLBデビューからずっとである。

 いかに安定して投げて、そして勝っているかを示している。

 あまりにもピッチング内容が完璧すぎる。

 スーパースターであってもどこか人間味は必要だが、直史にはそれを感じさせるものがあまりない。

 日本までおいかけていけば、むしろその人間らしさを感じることが出来ただろう。

 だが直史はこのアメリカにおいて、間違いなく客人。

 やがては去る者として、MLBの世界でプレイしている。


 大介の成績は、打率意外は去年を上回りそうなものはあまりない。

 ただその打率が上回るというのが、既に異常事態であるのだが。

 現代野球においては、四割打者など出ないはずであった。

 なので海の向こうからやってきた。


 その大介の数字に、直史は迫ることが出来るのか。

 もちろんバッターとピッチャーでは、まったく評価の基準が違う。

 しかし傑出度合いという意味では、直史は大介を上回る。

 六ヶ月のレギュラーシーズンのうち、残りは一ヶ月。

 そこでどのような記録を残すのか。


 アナハイムは九月の始まりから、九試合遠征が続く。

 その中ではそれほど、注意すべき相手はない。

 シアトルがそうかもしれないが、それでも脅威とまでは言いがたい。

 ピッチャーの弱いところに当たれば、確かに試合には負けるだろう。

 だが5ゲーム差を逆転するのが難しい今、アナハイムは調整程度に勝っていけばいいのだ。

 捨てる試合はあっさり捨てる。

 本当ならレギュラーシーズンの終盤からは、ポストシーズンに向けていい状態で入っていくべきだ。

 だが勝率で一位と二位の地区優勝チームは、試合までに少しだけ間がある。

 せっかくの勢いもそこで消えてしまうし、逆に不調になってもそこで戻す処理が出来る。

 ならばここからは、無理に勝っていく必要はない。


 勝てる試合だけを勝つ。

 そもそもチーム力があるため、勝てる試合が圧倒的に多い。

 残りの試合で当たるヒューストンにしても、二位通過を目指すためには、アナハイム以外のチームに確実に勝った方がいい。

 ローテーションをどうにか組みかえるのも、ポストシーズン通過のためには、当然行うべきこと。

 もちろんアナハイムでどのピッチャーが強いか、計算にも入れている。

 アナハイムが相手でも、勝てそうならば勝ちにいく。

 それがヒューストンの後ろ向きだが確実性の高い作戦であった。




 テキサスの大地は、基本的には田舎である。

 などと言ってもやはり大きなのがテキサス州で、そもそも大都市ヒューストンも、テキサス州にあるのだ。

 テキサス・レイダースはアーリントンにある。

 テキサスでは牧場や農場が多いのでも有名だが、ちゃんと都市部も当たり前のようにあるのだ。

 田舎と言ってもその中心は大都会。

 たとえば東京にしても、西方に行けば人家の閑散とした山の中になるではないか。

 アーリントンの場合は周辺にも都市があり、ダラス・フォートワース都市圏を形成している。

 ちなみに都市としての規模は、アーリントンよりダラスの方が大きい。


 このテキサスでアレクは、三年間プレイした。

 比較的高温多湿なこのテキサスでは、アレクの日本時代の経験が活きたと言ってもいい。

 まさかこんなに活躍するとは思っていなかったテキサスは、再契約に失敗し、そこそこ近いアナハイムに移籍してきた。

 試合の前の練習にしても、観客から声をかけられることが多い。

 アレクとしても年俸にさえ不満がなかったら、移籍することはなかっただろう。

 だがアナハイムとしては、センターを守れる一番打者は、ものすごくほしい存在であったのだ。


 試合前の練習を終え、ホテルに戻る。

 そして試合までに、アレクに案内されて街を観光などしたりする。

 鬼畜眼鏡の樋口は度の入ったサングラスをかけ、直史は普通にメガネをかけるのみ。

 これだけで変装になってしまうあたり、二人の体育会系っぽい雰囲気のなさは、筋金入りであると言ってもいい。


 日本人と日系人三人で、ガイドのようなものも連れて街を歩く。

 治安は比較的いいのだが、それでも日本には比べるべくもない。

 この雇ったガイドは、どちらかというとボディガードである。

 まだ夏場の時期だがジャケットを着ているのは、銃をその下に持っているからである。

 アメリカだなあと思うバッテリーに対して、アレクは慣れたものである。

 自分一人なら大丈夫でも、念のために注意しているのだ。


 テキサス時代にはアレクも、普通に銃を持っていた。

 ブラジルで育っていた時も、それなりに普通に銃は手に入ったのだ。

 子供の頃から普通に銃はあって、普通に銃で殺される人間がいる環境。

 さすがにアレクの育った田舎の近辺では、滅多にそういうことはなかったが。

「時々はあるのか」

 樋口は呆れていたが、国土の広い国であれば、自衛の手段として銃を持つのはかなり普通だ。


 直史にしても祖父の友人には、狩猟免許で銃を持っている人間がそれなりにいる。

 椿が銃で撃たれたこともあって、それなりにはその危険性を分かっている。

 格闘技経験者であっても、普通に制圧可能な二人が、銃を相手にしては重傷を負ったのだ。

「地元以外ではホテルに篭っていた方が良さそうだな」

 樋口としてはそう言うしかないが、アレクにとってはサッカーの試合で銃の乱射が起こるのは、それほど珍しいことではない。

 パーティーの最中にも銃をぶっ放す人間はいるのだ。もちろんその方向は上を向けて、人がいないのを確認しているが。

 アメリカはそういう国である。(あまり偏見でもない


 このテキサスの後はオークランド、シアトルへと移動する。

 そしてやっとアナハイムに戻るのだ。

「うちも銃とか持っておいた方がいいのかな?」

 直史はそう言ったが、あくまでも冗談のつもりであった。

「瑞希さんは持たない方がいいんじゃないかな?」

「……そうだな」

 発射の反動で怪我をしそうな、妻の細腕を思い出した直史であった。

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