第110話 檄
贅沢になったのかな、と樋口は今の自分の気持ちを考える。
言うことを聞かないピッチャーが多すぎる。
少なくとも高校と大学は、どうしようもないピッチャーは少なかったし、NPBでもレックスはかなりホワイトなピッチャー事情を誇っていた。
(いや、求められるレベルが違うのに、同じ継投のピッチャーが多いからか)
MLBの一番効率的な、ピッチャーが球速を高めてコントロールを良くし、変化球を覚える方法。
おそらくそれは、選手の可能性を奪ってしまっている。
(もっとアンダースローが多くてもいいだろうに)
特にリリーフ陣には、三振をまるで取れなくても、内野ゴロばかり打たせるようなピッチャーが、一人はいてもいいと思う。
ピッチャーの評価が画一的になったため、集められるピッチャーも画一的になったのか。
アウトが取れるピッチャーであれば、他に何も理由はいらないだろう。
(星が全盛期でここに来てたら、かなり役に立ってくれるぞ)
中途半端なスピードや変化球に自信のあるピッチャーは、もうちょっとコテンパンにのしてもらうべきだろうか。
シアトルとの第三戦と第四戦。
せっかく直史があそこまで頑張ったのに、先発のピッチャーが崩れた。
半ば予想はしていたので、失望もしない樋口。
ただもう勝率五割をキープすれば、メトロズ以外には勝率で負けることはない。
ヴィエラの復帰するまでは、公式戦で若手に経験を積んでもらおうと、既に追いつくのは諦めている。
直史、スターンバック、ヴィエラにレナードの四人までが、先発でポストシーズンを戦える範囲だ。
去年のアナハイムのポストシーズンの記録を見ても、先発はこの四人のうち、レナードをマクダイスに変えたぐらいであった。
これはポストシーズン、やはり四人で勝負するべきだろう。
他の先発は、試合が早めに決まってしまった時の、敗戦処理に使うべきだ。
樋口としてはドライに、そんな判断をしている。
最終的なスコアはどちらも、4-6でシアトルの勝利。
確かに先発は点を取られていたが、リッチモンドの方はクオリティスタートには成功していた。
アナハイムが普段の得点力を発揮していたら、少なくとも黒星がつくことはなかっただろう。
その意味ではこれは、チーム力での敗北と言ってもいい。
もちろんガーネットとリッチモンド、二人の力が不足しているという面も間違いではない。
直史とも確認したが、今のMLBの制度の中では、重要なのはとにかくポストシーズンに出ること。
これに出れば理屈の上では、ワールドチャンピオンの可能性は消えない。
そしてポストシーズンに確実に出るには、地区優勝するのが一番である。
問答無用で地区優勝チームは、第三シードまでに入るのだから。
ただし地区優勝でも、リーグ二位の勝率で優勝するのと、リーグ三位の勝率で優勝するのとでは、全く意味が違う。
一位と二位はポストシーズンでも、対戦しなければいけないカードが一つ減る。
ホームのアドバンテージを無視するなら、疲労の蓄積の少ないであろう、二位以内に入っておけばいいのだ。
現状から考えれば、ア・リーグ西地区で優勝し、ア・リーグ内ではトップの勝率になるのはアナハイムであろう。
ミネソタがトップになる可能性もあるが、現実的ではない。
東地区はかなりの潰し合いがあるので、おそらく優勝したチームの勝率は三位か、それ以下になってしまう。
だが地区優勝したチームは、第三シードまでに入るのが今のシステムだ。
アナハイムの状況は、第二シードまで入れるのは間違いない。
現実的に考えた範囲内で、負け星がそこまで増えるはずはないからだ。
ただ違うリーグの、メトロズの勝率を抜くことは、おそらく不可能になった。
それでもアドバンテージは去年と同じく、メトロズのホームゲームがワールドシリーズで一つ増えるだけ。
「現時点で92勝だからな」
樋口は計算して、直史にスケジュールを渡す。
直史とスターンバックだけで勝てる星が、おそらく15勝はある。
107勝まで届けば、間違いなく地区優勝と、ア・リーグ二位以内の勝率は確保できる。
ヴィエラが復帰して110勝オーバー。
あとは普通にレナードたちもそこそこ勝てるだろう。
「控えめに見て、120勝には届くか?」
「だな」
樋口の計算は、やや悲観的に見たものだ。
ただ直史とスターンバックが離脱などしたら、とても悲惨な事態になるだろうか。
ワールドシリーズに到達する前に、ミネソタと対決する可能性は高い。
そこで勝つには直史だけでは不充分で、スターンバックとヴィエラの活躍は不可欠だ。
なにも完封しろなどとは言わない。
だがアナハイムの攻撃と合わせれば、充分に勝つ試合を演出することは出来る。
去年目メトロズから、直史以外に勝ったのはヴィエラであったのだ。
ミネソタを倒した時点で、消耗していない状態でいたい。
ワールドシリーズでは、三試合には投げる覚悟をしている直史だ。
だが大介を抑えて、メトロズに確実に勝てるのは、二試合ぐらいまでだ。いや、それでも確実とまでは言えないか。
日程からして二試合は、投げるのも無理はない。
あとはリリーフでどう投げるか。
(先のことを考えすぎか)
ここからワシントン、ボルチモアと比較的楽なカードが続いていく。
そこで確実に勝っていき、少しでも恵まれた状態でポストシーズンに進出しなければいけない。
(ミネソタには追いつかれないといいな)
ワシントンとの二連戦が始まる。
やはり強いピッチャーだと確実に勝てる。
ワシントンとの二連戦、まずは初戦、スターンバックが七回までを一失点で勝利。
そして第二戦に、直史が登板する。
前回の対決では、ノーヒットノーランもマダックスもない、普通の完封で破れていたワシントン。
同じ地区のメトロズとの対戦は、まだまだこの先もある。
他人の手を借りるようであるが、メトロズに少しでも勝ってほしい。
そう思っていたが、アナハイムがメトロズに追いつくのは、おそらくもう不可能になっているだろう。
ならば変な忖度もなく、全力で相手を封じてくれる。
直史は全く容赦はせず、ただそれでいて冷静に、ワシントンを封じ込めた。
九回84球10奪三振。
被安打一の失策一。
もちろんフォアボールのランナーは出していない。
五試合連続でマダックス達成。
だが本人の顔に笑みはなく、樋口もまた鉄面皮を保つ。
これで直史は無傷の24勝。
負け星がないだけではなく、先発した試合で全て勝利している。
その点、武史は負け星こそないものの、自分が先発した試合で、後続の打たれた試合はある。
負け星はついていないが、登板数と勝ち星が同じではないということだ。チームを勝たせていない。
八月中盤の時点で24勝。
残された先発予定は8試合。
全部勝って32勝に達するだろうか。
少なくとも去年と同じ、30勝はするのではと思われている。
試合後のインタビューでも、己の記録の更新について質問される。
別に自分の記録を更新することなど、珍しくもないだろうと、直史は回答する。
だがもう半世紀以上も出ていない、21世紀では唯一の30勝投手なのだ。
そして年間無敗の、最多勝利投手。
そもそもMLBにおいては、レギュラーシーズン無敗で最多勝を取るなど、その時点でありえない存在であった。
しかし直史はその後のポストシーズンも連勝し、レギュラーシーズンで後続が打たれた以外には、チームを必ず勝たせてきた。
男なら誰もが一度は考える、生涯無敗。
直史はそれをまさに実践している。
NPB時代から合わせて、引き分けなどはともかくとして無傷の連勝記録。
もう104連勝しているのだ。
いつの間にか日米通算、100勝を突破してきた。
ポストシーズンまで含めれば、117連勝。
ごく一部の者しか知らない、プロ生活五年の約束。
この四年目まで一度も、敗北を知らない。
敗北を知りたい、などとは直史は思わない。
負けて得るものはあるだろうが、直史にはそれはもう充分すぎる。
中学時代の未勝利記録、そして高校時代の不甲斐ない記録。
高校三年以降は、自分の満足するピッチングが出来ているが。
どうせなら達成したいと言うよりは、そもそも負けるのが嫌いだ。
そのくせ逃げることを封じられているので、直史としては極めて有効なはずの手段、対決の回避が許されていない。
無敗であるということ以上に、直史はフォアボールを意識的に出していない。
球数を少なくするために、しっかりとゾーンに投げてカウントを稼いでいるのだ。
そのくせボール球を投げた時も、空振りさせたりミスショットさせたり、ストライク一つを取るよりも効率的なピッチングをしている。
だが時には単純な、パワー対決に持ち込むように見せたりもする。
この記録がどこまで伸びていくのか。
通算完封記録などは、既にNPBの記録を更新した。
基本的に完封するのが、直史のピッチングなのだ。
さすがにMLBの通算完封記録は、まだまだ遠いところにある。
だがこの時点で、歴代29位タイにまでは上がっていた。
MLBにきてまだ通算二年目なのだが。
今年中に歴代20位タイまでには上がってくるだろう。
この記録がひょっとしたら、一番ありえない記録なのかもしれない。
勝率100%も、一度でも負ければ100には戻らないので、とんでもない記録だとは思うが。
ここからアナハイムは、ボルチモアに移動する。
そしてまたしても格下のはずのボルチモア相手に、先に二連敗。
三試合目はスターンバックが投げて、七回一失点から継投で勝利したが、明らかに投手陣の数字が落ちている。
チーム全体がメトロズに追いつけないことを悟って、ややモチベーションが落ちたのか。
それならそれで安定して投げて、五分程度の勝率は保っておくべきなのだろうに。
チームの士気の管理は、FMにとって重要なことである。
基本的には積極的に勝ちにいくのが、チームとしては大前提だ。
しかし負けている時に士気を維持し、勝っている時に手綱を引く。
そのあたりを上手く出来ていないと、パフォーマンスが落ちたり怪我人が出たりする。
勢いで勝ち続けることも出来る。
勢いだけでは勝ち続けることは出来ない。
両方の場合があるので、判断は難しいのだ。
ある程度の勢いがなければ、頂点に上るのは無理であるのだし。
直史のピッチングの場合は、味方を勢いづかせると言うよりは、相手の勢いを止めるものだ。
全く勢いづいていない相手などは、さらに瀕死に追いやられるが。
ボルチモアからアナハイムに戻ってきて、今度はテキサスとの対戦。
四連戦の二試合目が、直史の先発である。
そして第一試合がガーネット。
前の試合では五回五失点で、味方の援護が及ばずに敗戦投手となった。
ただ五回で五点、自責点での敗北は、これはもうピッチャーの責任だろう。
アナハイムは客観的に見て、守備力は高いチームなのだ。
二遊間でしっかりアウトが取れるため、内野の守備力がかなり高い。
それでいて直史がマウンドに立てば、野手としても打球をしっかりと処理している。
ガーネットがこの試合で勝てるかどうかは、彼にとってかなり重要な問題である。
もちろん実際は単純に勝ち負けではなく、その内容次第で待遇は変わる。
ヴィエラが戻ってきた時、明確にローテから外れるのは、ガーネットなのかリッチモンドなのか。
将来性を考えればガーネットの方が、与えられるチャンスは多い。
ただその敗北をどこまで許容することが出来るか。
ピッチャー一人の敗北が、これまで常勝に慣れていたアナハイムに、不協和音をもたらす。
そこまで深刻ではないにしても、歯車が狂えば、他の部分も狂っていく。
たとえばリリーフが多く使われることにより、その消耗度が高くなれば、他の先発も自分の勝ち星が消されることになる。
打線は点を取ることにあせり、凡打が多くなる。
悪循環が進んでいくのだ。
ガーネットはこの試合、なんとか無難に投げることは出来た。
六回までは三失点で、クオリティスタートの許容範囲。
だが勝ちパターンのリリーフが、この試合は崩れる。
ガーネットにしても三点に抑えたとは言っても、だらだらとランナーを出すことが多かった。
幸いにも翌日は、直史の投げる日だ。
即ち勝利の約束された試合である。
樋口は冷静に見えるが、内心で苛立っている。
ガーネットもリッチモンドも、キャッチャーの言うことを聞かない。
だがそれがMLBの文化だと、諦めてはいる。
しかしここまで結果が出ないのだから、もう少し素直にリードに従ってほしい。
だいたい打たれている球は、樋口のリードに逆らったものが大半ではないか。
樋口の性格は、勝利のためには自制するというのが基本である。
だが正直なところこの二人では、勝てないのではないかとも思う。
メトロズが強いところと当たって負けてくれているのに、ピッチャー全体の力が弱くなってしまっている。
もっとも極端な責任論を述べるなら、故障してしまったヴィエラが悪いのであるが。
それはさすがに仕方がない。故障したくてする選手はいないのだから。
そんな樋口の苛立ちを、直史はしっかりと理解していた。
テキサスとの第二戦、直史の登板である。
この試合も当たり前のように投げて、当たり前のように完封するのだろうな、と味方でさえもが思ってしまっている。
内野陣はともかく、外野はあまり注意もしていないだろう。
アレクはそれなりに、高校時代に打たれることを、憶えているから大丈夫だろうが。
直史は今日は投げないローテ陣のところへ向かう。
一応万一にもない話であるが、投げる可能性は0ではない。
直史が言いたかったのは、ガーネットとリッチモンドの二人に対してだ。
特にまだ未熟すぎるガーネットに、告げておきたいことがあった。
「今日の試合、俺は樋口のサインに一度も首を振らないからな」
その直史の言葉に驚く二人だが、元々直史は首を振らないピッチャーではある。
「結果がどうなるか、ちゃんと見ておいてくれ」
そしてそこで、ちゃんと反省してくれればいいのだが。
ガーネットもリッチモンドも、アメリカのピッチャーとしてはごく普通の思考をしている。
そもそもアメリカと日本の違いは、バッターからしてみればはっきりと分かるのだ。
日本に出稼ぎに来たアメリカ人バッターが、よく言うことである。
アメリカではバッターは、ピッチャーと勝負している。だが日本においてはバッターは、キャッチャーと勝負している気持ちになる。
首を振ることはあっても、基本的に配球を考えるのは、キャッチャーの仕事であるのが日本式の野球だ。
そのため日本においてはキャッチャーは、育つのに時間がかかると言われるが。
やることがとにかく多いのである。
樋口にしても即戦力と言われ、一年目から一軍にいたが、当初は控えとしてベンチにいたのだ。
当時の正捕手丸川が怪我をし、そこから交代していった。
そして自身の怪我など以外では、二度と他のキャッチャーに正捕手の座を譲ることはなかった。
二年目になれば打撃の方までクリーンナップを打ち、トリプルスリーの達成。
同年に武史が入ってきたこともあって、レックスはペナントレースを制覇し、日本シリーズでも優勝した。
その後も二年、ペナントレースには優勝していて、しかしクライマックスシリーズでライガースに負けて、直史が入ってくるまで日本一になることはなかった。
直史がいなかった去年も、レックスは優勝している。
もちろん他の選手も優秀で戦力が揃っていたが、レックスは樋口のチームであったのだ。
昔から名捕手がいることがあるレックスにおいても、おそらく史上最強級のキャッチャー。
走力も含めた総合的な力では、ひょっとしたら最高ではないのか。
少なくともNPBの同年代のキャッチャーの中では、一番優れていた。
ほんの少し総合力で劣るのが、フェニックスの竹中であったか。
あちらもあちらで高校時代、大阪光陰の三連覇を支える名捕手であった。
別に日本式になれ、と直史は言っているわけではない。
だが今はガーネットは、樋口から学ぶ時期だと思っている。
リッチモンドにしても次の契約を手にするためには、ここで結果を残す必要があるはずだ。
今の時点でも安売りすれば、それこそもう一度アナハイムが契約してくれるかもしれない。
ただそのためには、しっかりと成績を残す必要がある。
ちなみにアナハイムはリッチモンドの数字が多少は上向いても、来年の契約をするつもりはなかった。
格安になったとしても、今のリッチモンドにはついたイメージが悪すぎる。
数字で評価をするのがMLBだとしても、リッチモンドの数字は根本的なところが、完全に悪いのだ。
ヒットを打たれても点があまり入らないのは、アナハイムの守備陣が優れているため。
外野に打たれたフライを、アレクがしっかりとアウトにしてくれている。
完全に成功した補強であるし、チーム内の誰もが満足している戦力だ。
この日の直史は、本当に一度も首を振らなかった。
ガーネットとリッチモンドのみならず、投手陣は全員が、そのピッチングを見続けていた。
直史から話を聞いて、樋口もちゃんとこの試合の意味を理解はしている。
だが樋口は二番打者として、打つほうでもしっかりと仕事をしなくてはいけないのだ。
軽く三割を超える二番バッターが、この日は進塁打にとどまる。
それでも点が取れるところが、今のアナハイムである。
一点取れれば充分なのだ。
見せ付けるように、直史は投げた。いや、まさに見せ付けていたのだが。
樋口としても相手がテキサスだけに、元チームメイトのアレクから、数字以外の情報をしっかりと仕入れている。
そしてリードするのだが、直史がしっかりと投げるつもりがあるのなら、いくらでも簡単なアウトは取れるのだ。
試合が進んでいくにつれ、静かな熱狂がヘイロースタジアムを包んでいく。
普段のような精密なピッチングだが、今日はそれに輪をかけたものになっている。
だがそれぞれのボールの内容を見ると、なぜそこでそれを投げる? というものもある。
しかし結局は、相手の打線を抑えてしまうのだ。
あまりにも直史が鮮烈であるので忘れている人間もいるかもしれないが、あるいは逆に思い当たっていないのかもしれないが、樋口はもうこの時点で、最も多くのパーフェクトを達成しているキャッチャーである。
なぜなら高校時代は上杉、大学では直史に武史、プロでもその二人と、長きに渡って組んでいるからだ。
実は直史の達成回数より、樋口の達成させた回数の方が多い。
そしてそれは、今日も同じ結果をもたらす。
九回を投げて、27人に98球のパーフェクトピッチング。
奪三振もかなり多めの17奪三振。
ただし直史も樋口も、これは不本意な内容であるのだ。
本当ならばもっと球数を減らして、投げるボールにかける力を減らしたかった。
それでも当初の予定通り、効果はアナハイムの投手陣に与えられたようである。
今季六度目のパーフェクトピッチング。
果たしてこのピッチング内容が、どこまで続いていくのか。
そしてここから、アナハイムの投手陣の内容は良化していく。
キャッチャーではなく、同じピッチャーから与えられたメッセージ。
下手糞は足を引っ張らず、樋口の言うことを聞いていろ。
まさにそうとしか思えないピッチングの内容であった。
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