第107話 八月を迎えて

 マダックスを普通に達成しただけなので、ちょっと調子が落ちてきたんじゃないか、と心配される直史である。

 普通とは。


 クリーブランドとの試合も、四安打完封に抑えた直史。

 ここ最近はパーフェクトしてないよな、と期待外れの声が聞こえる。

 期待とは。

「三振を取れないピッチャーの欠点だな」

 奪三振ショーは見ている者を爽快にさせる。

 そう自分で納得のふりをしているが、マニアックな楽しみ方をしている観戦者がいることを、直史はまだ知らない。

 MLBでは様々な投手指標の数字が出るため、


 そんな世間の声を聞き流し、直史はアナハイムの七月最終戦を迎える。

 トロントとのカード三連戦が終了すると、七月は終了。

 いよいよレギュラーシーズンも、二ヶ月となる。

 まだ二ヶ月、もう二ヶ月。

 とりあえずはこのトロントとのカードが重要だ。


 今年のトロントはボストンの調子がいいため、地区三位となっている。

 トロントの勝率は余裕で五割を超えているのだから、大変であるのは間違いない。

 ボストンがそもそも、去年は主力の怪我が重なったというのが大きい。

 もしも本来の戦力のまま、上杉を確保していたとしたら、ポストシーズンでアナハイムは負けていたかもしれない。

 たらればの話だが。


 ただボストン戦では少し不調かな、という程度のスターンバックが負けて全勝とはいかず、クリーブランドとの試合もマクダイスが一つ落とした。

 以前に直史と樋口は、マクダイスのトレードの可能性について話したことがある。

 今のところのそんな噂は出ていないが、こういうのは噂にならずにいきなり決まるものである。

 獲得したリッチモンドは、先発経験があり長いイニングも投げられる。

 こういうタイプのリリーフであれば、先発転向はあるのではないか。


 プロ野球は全ての試合を勝つ必要はないのだ。

 このまま勝てる試合だけを勝っていけば、ポストシーズンへの進出は果たせる。

 そしてポストシーズンでは、微妙なレベルの先発やリリーフは、どうせ敗戦処理でしか使わない。

 勝ちパターンを担えるリリーフを、もう一枚補強すべきではないか。

 そのためにマクダイスを出すのは、それなりに理解出来ることだ。


 アナハイムは二遊間の野手は、バッティングよりもフィールディングを重視している。

 なんだかんだ言って打てないバッターの価値が低いMLBでは、守備に優れた二遊間を、それなりに安い値段で獲得している。

 リリーフより分かりやすい補強は打線になるのだろうが、五番にDHを置いているアナハイムは、上位打線でしっかりと点を取る。

 アレクがセンターとして外野の守備を多めに守っているので、ライトとレフトは打撃に優れた選手を試してみるべきだろうか。

 現時点でもそれなりの打撃力はあるので、無理に獲得する必要はないと思う。

 何よりそこまで明確に打てる二遊間は高い。




 トロントとの三連戦、二連勝して直史の登板。

 ノーヒットノーランが見られるか、パーフェクトが見られるか、マダックスが見られるか、サトーが見られるか。

 無責任な期待に対して、直史はいつも通りのピッチングを行う。

 三回までの打者一巡、出塁したランナーはなし。

 いつも通りである。


 本日の課題はスローカーブ。

 果たしてこの遅くて落差のあるボールを、バッターはどこまで飛ばせるかというものだ。

 ムービング系を重ねた後の、球速差50km/hのスローカーブ。

 バッターは当てることは出来ても、本当に当てるだけで打てなくなる。

 タイミングも崩されてしまうし、当たる角度も悪い。

 ただ決め球として使うには、カットされてしまう傾向が強い。


 スローカーブも心理的な死角を突けば、見逃しの三振が奪えるボールではある。

 ただカーブは直史の投球の最も多い割合を占める変化球だけに、ある程度の警戒を持たれてしまっている。

 それでも使う時は使うのだ。

 たとえば遅いチェンジアップを使った後、速いボールを待っている相手バッターに対して。

 今のように。

「ッターアウッ!」

 二巡目に入ってある程度慣れたと思ったバッターに対して、これまで使わなかったボールを使う。

 直史のバリエーションから言えば、ごく普通の対応である。


 緩急の緩い部分も、直史は色々な球種を持っている。

 落差や変化の違うチェンジアップがおよそ三種類に、カーブにシンカー。

 下手投げからの変則的なピッチングすらある。


 フライボール革命以降に、カーブは復権した。

 そのカーブにしても直史は、種類を明確に分けて投げている。

 カーブの軌道か、と相手が身構えたところに、今度は速いカーブが来ると打てない。

 それでも当てることが出来れば、内野の頭を越えることはある。


 ポテンヒットが一つに、内野がグラブで弾いたためにエラー扱いになったが、実質はヒットのエラーが一つ。

 つまり事実上の二安打で、試合が終了する。

 九回を92球で11奪三振。

 普通のマダックスを見て、損した気分になるのは、アウェイであるがゆえのことか。

 木っ端微塵に地元のチームが負けるなら、むしろ爽快感さえあっただろう。

 完封されて一方的に負けているのに、それほどのダメージにはならない。

 直史のピッチング内容への評価は、完全にバグっている。




 七月の直史は六戦全勝。

 ただ内容を見ると、あまり良くない。

 一試合もノーヒットノーランやパーフェクトがなく、マダックス未達成の試合もある。

 WHIPは0.28と相変わらずなのだが、七月の一ヶ月間で、それまでの三ヶ月に打たれたのと同じだけのヒットを打たれている。

 また奪三振率も、やや低くなっている。


 個人的には無理に三振を奪わないほうが、疲れは出てこない。

 どうしても打てないコンビネーションを作ると、最後に速いストレートが必要になってきたりする。

 球数だけを見るのではなく、そのあたりこそを見てほしい。

 直史はアナハイムの守備を過信していないが、それなりに便りにはしている。

 その中でヒットがポロリと打たれて、ノーヒッターをし損なうのだ。


 ヒットは一本しか打たれていない、あるいは一本も打たれていないのに、得点が入ることはある。

 直史が注意しているのは、そういう試合なのだ。

 ランナーがいる状態では、フライを打たせるか、あるいはゴロを打たせてダブルプレイを狙うか。

 このあたりの判断は難しい。それでも直史は点を取られない。

 フォアボールでランナーを出さないというのは、本当に重要なことなのだ。


 直史はともかくチームはどうであったかというと、18勝4敗。

 通算シーズン勝率は77%と、六月時点より向上している。

 このままの戦力でも、ポストシーズンを勝ち進んでいくことは出来るのではないか。

 そう思っていたらアナハイムに戻ってきた次の日、マクダイスのロッカーから荷物が消えていた。

 トレードである。

 相手は今年でFA権を獲得するリリーフピッチャーで、セットアッパーとしての役目をそれなりに務めていた。

 先発ローテのマクダイスを放出するということで、マイナーからまたガーネットが上がってくる。

 それにあるいは、リッチモンドを先発として使うこともあるのか。

 確かに樋口は、その可能性について言及していたが。


 さすがに樋口も、この期限ぎりぎりの移籍には、驚いていたようだった。

 前からトレードについては聞いていたが、実際に目の前で見ると感覚が変わる。

 それに入ってきたリリーフも、今年でFA権を獲得するので、シーズンが終われば放出するのが確定的だ。

 今年一年のためだけに、来年も使えるマクダイスを放出したのだ。

 今のアナハイムの打線の援護があるとはいえ、それなりにイニングをしっかりと投げて、負け越しているわけでもない。

 それでも放出するのか、と樋口は嫌な気分になった。


 普段はもっとドライな樋口であるが、ピッチャーのメンタルまでもある程度、計算して接していたのがこれまでのキャッチャーとしてのスタンスだ。

 おそらく移籍先でも、先発としてそれなりの働きを求められるのだろう。

 だが樋口のリードなしで、果たしてどれだけ通用するものか。

 17先発の7勝6敗というのが、ここまでのマクダイスの成績だ。

 キャッチャーのリードに加え、打線の援護も考えれば、それほどいい数字ではない。 

 だが向こうも今年でFAになるピッチャーなら、放出しても惜しくはないといったところか。

 樋口以上のドライさで、GMは移籍を決めたわけだ。


 気の毒にな、と樋口は思う。

 確かに自分の好きなタイプのピッチャーではなかったし、実力的にも微妙ではあった。

 それでも10試合をクオリティスタートに成功させていたという実績は残る。

 移籍先ではおそらく、求められた役目は果たせないだろう。

 アナハイムでFA権を得たなら、おそらくそこそこの契約を結べただろう。

 だが移籍した先で数字を落としてFA権を得れば、あまりいい契約にはならない。

 選手一人の生涯年俸が、この一つのGMの決断で決まる。

 

 おおよそ一般企業でも、人事の人間は冷徹な人間が多い。

 全社員の要望どおりの配属など出来ないから、どうしても恨まれることはある。

 加えて人員整理などがあれば、その恨みは通常の人事の比ではない。

 樋口はここまで、関わってきたピッチャーの成績を、底上げしてきたという自負がある。

 ピッチャーの成績を上げることが、キャッチャーとしての評価だと考えていた。

 MLBでは確かに、ピッチャーのエゴはNPBよりもはっきりしている。

 特にマクダイスは、あまり樋口の言うことを聞かないピッチャーでもあった。

 それでもこのトレードは、マクダイスにとってはマイナスしかないだろう。


「まあ、じゃあ移籍してきたピッチャーを使うしかないか」

 その日のゲームの始まる前には、既に割り切っていた。割り切るしかないからだ。

 日本ではプロ野球株式会社にいれば、どこかでまた会うことがある。

 だがアメリカの場合は、本当にこれで二度と会わなくなる可能性が高い。

 日本では今、トレードはあまり活発ではないし、FAはごく限られた人物のみに与えられた権利だ。取得しても行使しない選手は多くいる。

 あるいは行使した上で、現在のチームにとどまったりもする。


 MLBでは全選手が、権利の取得と同時に全員FAになる。

 メジャーリーガーとして稼いでいくのは、FA権を取ってから、とすら言える。

 NPBではFA権を使った移籍も、確かにレックスから出て行く選手はいた。

 どちらかというとレックスは、選手の年俸を抑えるチームであったからだ。


 今は樋口と武史、二人の高年俸選手を放出したことで、年俸のトータルには余裕があるだろう。

 だがたまに今年のNPBの順位を見てみれば、レックスは一気にBクラスに転落していたりする。

 それはまあ、左のエースと正捕手がいなくなれば、これも当たり前のことなのだろう。

 投手陣の成績は軒並み落ちており、多くのスタメンでマスクを被っている岸和田が叩かれている。

 俺のせいじゃないぞ、と樋口はすぐに画面を消してしまうものだが。

 佐竹と金原、左右のエースはまだそれなりに貯金を稼いでいる。

 だが先発が薄くなり、そしてリリーフ陣にも負担が大きくなっている。

 やはり佐藤兄弟がいた頃が、レックスの投手王国時代だったのは間違いない。




 MLBにおける選手寿命は、実はNBAやNFLに比べると長い。

 もっともこれはマイナーの期間や、契約はしているがマイナーにいる場合などを考えると、色々と差が出てくる。

 実際のところ、NPBよりも短いのは確かであるらしい。

 その理由としては、競争の激しさと、マイナーの環境もあるのだとか。

 ルーキーリーグからマイナーを駆け上がり、メジャーに上がってくる平均年齢は現在、24.5歳ぐらいとなっている。

 大卒やアーリーエントリーでも、三年ほどはマイナーで修行しているような感じだろうか。

 ここから引退までは、およそ五年前後。

 NPBよりも選手でいる期間は短そうだ。


 二年、あるいは三年はメジャーにいないと、年俸調停権がないため、最低年俸に近い金額でプレイすることとなる。

 それでもその最低年俸は、NPBに比べればはるかに高いが。

 あとはMLBの場合、年金があるためどうにかして、五年は選手を続けようと考える選手も多い。

 この平均選手寿命は一時期、四年を切るほどに短くなった。

 現在はまた、少しは伸びているが。


 アメリカという国家の仕組みが、そういうものである場合が多い。

 ドラフトで獲得する選手も、30球団が大量に獲得するので、傑出した選手を見逃す可能性も少ない。

 ただマイナーの環境では、野球に専念できず、メジャーにまで上れないというタイプの選手もいるだろうが。

 契約金の安い選手は、普通にシーズンオフはアルバイトなどをする。

 そして海外からの移籍も含めて、大量のタレントがやってくるわけだ。


 選手寿命の平均と、傑出した選手の稼動年数は、決定的に違う。

 当たり前だがそもそも傑出したスタープレイヤーは、少しぐらい数字が落ちても、それでも平均値よりははるかに上なのだ。

 たとえば大介が、打率三割でホームラン30本ともなれば、衰えたなと言われるだろう。

 直史が防御率2となって15勝ぐらいしか出来なくなれば、これも衰えたと言われるだろう。

 だがこの二人が、戦力にならないかと言うと、もちろんそんなことはない。

 殿堂入りするような選手の多くは、長期に渡る活躍が評価される。

 なので平均値というのは、間違っているわけではないが、完全にそこだけで評価できるものでもない。


 大介の成績は、毎年ほとんど成長していっている。

 不思議なことに直史と対決の機会があり、そこで抑えられることが多かった、日本のプロ九年目が、一番成績は良かったのだ。

 またMLBにおいても、二年目の方が成績は上がっている。

 このあたりはモチベーションの問題もあるだろう。

 競技は違うがNBAのマイケル・ジョーダンは、最初の引退の理由がモチベーションの低下であった。


 コーチ陣に呼ばれた樋口は、マイナーから上げたガーネットと、リッチモンドを先発として使っていく方針だと告げられた。

 これに伴って、アナハイムは一時的に六人ローテーションの体制となる。

 もっとも確実に計算できるのは、直史にスターンバック、ヴィエラ、レナードまでだろう。

 ポストシーズンは故障者が出ない限りは、先発は主に四人でなんとかなる。

 今のアナハイムの、直史がいるという状況においては、だが。

 今日からのフィラデルフィアとの試合、まずは第一戦でガーネットを使う。

 中五日に休養日がある場合は、四人+ガーネットで回し、休養日がなければリッチモンドを加える。

 そしてより先発として実績を残した方を、ローテに入れて九月に突入。


 そういえば九月はセプテンバーコールアップがあったな、と思い出す樋口である。

 セプテンバーコールアップは九月に入ると、アクティブ・ロースターが40人となり、それだけ出場できる選手が増えるというものだ。

 一時期は廃止と言うわけではないが縮小され、28人となっていた。

 もっともこの中でも、ポストシーズンに進出できるのは、やはり26人まで。

 この時期に有望な新人は、メジャーデビューを果たすことも多い。

 打線に関しては今のままでいいとして、ほしいのは守備職人やリリーフ陣の新戦力。

 ここで結果を残せば、来年からはスプリングトレーニングからメジャー帯同ということもありうる。


 去年の場合はアナハイムは、ギリギリまでメトロズと勝率争いをしていたため、あまり新戦力を試す余裕がなかった。

 今年は少し差をつけられているため、むしろ新戦力は試しやすいかもしれない。

 これは両チームの首脳陣にとって、重要な駆け引きとなるだろう。

 



 インターリーグのフィラデルフィア戦、アナハイムはホームでナ・リーグ東地区のチームを迎え撃つことになる。

 メトロズに圧倒的にボコボコにされているフィラデルフィア。

 大型契約の主力が、この数年故障がちで戦力が揃わないため、本来の力を発揮していない。

 ブルペンでガーネットのボールを受けていた樋口は、良かった頃に戻っているな、と判断する。

 今なら樋口の忠告も、ちゃんと聞くことがあるだろうか。


 そう思っていた樋口に対して、ガーネットは告げた。

「今日は投げるだけに集中したいから、基本的にリードは任せる」

 上から目線であるが、判断を樋口に委ねたということは間違いない。

 おそらくマイナーでプレイしていて、内省することもあったのだろう。

 ただ樋口としてはまだ、己に対する過信が残っているな、と思うのみだが。


 やはり今季ヴィエラの代わりにメジャーに上がってきて、ポンポンと勝ち星を積み上げた成功体験が大きいのか。

 確かに成功体験によって、人間は自信をつけて、冒険的な選択が出来るようになる。

 だがその成功体験をいつまでも残しておくと、実力と現実が乖離する。

 樋口としてはモチベーションを、あまり下げさせるわけにもいかない。

 ややこしいリードになるかもしれないが、それは別にキャッチャーであれば同じである。

 正確に言えば、日本のキャッチャーなら、といったところだが。


 MLBのキャッチャーは、本当に壁として扱われることが多い。

 そもそもの役割が違うのだから、それを怒っても仕方がない。

 それに分かるピッチャーはそれなりに、樋口を上手く使って自分の成績を上げている。

 マクダイスは頼る時と頼らない時がバラバラであったので、それも問題であったのだが。

「六回三失点だ。そこまでは保証する」

 樋口は自分のリードで、相手を0点に抑えようとは思っていない。

 そもそも最終的には、ボールを投げるのはピッチャーなのだ。

 いくらいいリードをしても、コントロールのバラける日には、どうしようもないことがある。

 ただ樋口が断言したためガーネットとしても頷くしかなかった。


 フィラデルフィアは現在、ナ・リーグ東地区三位。

 実質この地区は、メトロズとアトランタの二つが有力になっている。

 正確にはメトロズが大本命で、二位もアトランタで間違いない。

 テイエムオペラオーとメイショウドトウの並びぐらい確実に、一位と二位は決まっているようなものだ。

 鉄板の二チームに対して、フィラデルフィアは試合ごとの当たり外れが激しい。

 それでも樋口はミーティングで、しっかりと勝つ算段はしていた。




 ガーネットとしては確かに、マイナーに戻されてから、自分のピッチングを思い返すことは当然であった。

 そしてだいたい、樋口のサインに首を振った場面で、打たれていたのだ。

 樋口のリードの仕方は、ガーネットがこれまで経験してきた、統計的にする野球とは外れたものであった。

 だからそれに反発する気持ちが、なかったとは言えない。


 相手の虚を突く、というのが日本のキャッチャーの考えの主流だ。

 初球は振らないバッターに対しては、ど真ん中さえ要求する。

 MLBはピッチャーに主導権があり、力と力の対決になることが多い。

 それがアメリカの、本来のベースボールでもある。


 ただ直史がそんな常識を無視して、しかも駆け引きと言うよりは翻弄するように、相手打線を簡単に封じている。

 そして樋口のサインには首を振らないのを、ガーネットも見ているのだ。

 去年に比べてほとんどのピッチャーは、投手成績を上げている。

 コーチは変わっていないのだから、やはりキャッチャーのおかげと見るべきか。

 一回の表から樋口は、ガーネットに正面対決を提案しない。

 マクダイスを出してしまった以上、ガーネットかリッチモンドを使う必要があるのだ。

 そして来年以降のことを考えれば、ガーネットを育てる方が、確実にチームのためにはいいだろう。


 ランナー一人を出しながらも、ダブルプレイを絡めて三人で終わらせる。

 しかし球数は少し多めで、このままなら確かに、六回で100球前後になるだろう。

 ヒットでランナーが出れば、それだけ球数も増えるのではないか。

 ただ五回まで投げれば充分だな、と樋口は本心では思っている。


 樋口はドライに、しかしちゃんと計算して、サインを出し続けた。

 とりあえずこの試合はサイン通りに投げてみようと、ガーネットが思っているのが分かる。

 最初の数試合は、ちゃんとメジャーで通用したのだ。

 そこから落ちていったのは、今から考えれば、調子に乗って投げていたということもあると思う。

 頑固さと柔軟さ。

 それを己の思考の中で混ぜ合わせ、上手く折り合いをつけること。

 才能ではなく、適性。

 プロスポーツ選手にとっては、それが必要なのだ。

 進化論ではなく、適者生存と考えればいい。


 この試合ガーネットは、七回までを投げて二失点。

 見事に勝ち投手となったが、途中から樋口のリードが変わったのが分かった。

 具体的にはアナハイムが、五点の差をフィラデルフィアにつけてから。

 それ以降は一発を打たれるかもしれないが、逆に凡退もするかもしれないという、過激なリードに変わっていた。


 樋口からすると、負けてもトーナメント敗退とはならないプロの世界は、本当の一発勝負の高校野球よりは楽だ。

 もちろん投げるピッチャーからすれば、負けたら次の機会まで、ローテで数日空けなければいけないのは分かる。

 だからこそ負けた理由は、キャッチャーに持たせればいい。

 そうやってキャッチャーを使っていくことが、ピッチャーの成績につながる。


 自分のピッチングなどにこだわるには、まだガーネットは未成熟だ。

 だがそれでもしっかりと、結果を残すだけの素質はある。

 樋口としては計算して、無理をさせない範囲で打たせて取ればいい。 

 この試合ガーネットは、ホームランを打たれていない。

(これで俺の指示通りに投げればいいんだが、いつまでもそうというわけにもいかないしな)

 そんな樋口の脳裏に浮かんだのは、樋口のサインに直史以上に首を振らない、武史のことであった。


 戦力の調整が済んで、八月の試合が始まる。

 若手に加えて、ベテランも出場の機会がある。

 樋口の楽しみであり、そして苦労である、キャッチャーの仕事が大変な時期になってきた。



×××



 ※ セプテンバーコールアップのルールは、近未来に2019年までのルールで復活したという設定になっております。

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