第77話 キャッチャーのお仕事

 直史はNPBにてプロ入り二年目、シーズン途中から中四日で投げていた。

 理由としては先発ローテに入っていた、吉村と武史の離脱が大きい。

 それに加えて翌年、MLB行きが決まっていたからだ。

 ファンの間からは「潰す気か!」という球団首脳陣への非難があったが、それも直史が結果を出すまで。

 本気を出していなかったピッチャーが、少し本気を出した結果、八月の酷暑シーズン、ノーヒットノーランやマダックスを連発したわけである。

 今、ヴィエラの抜けた穴を、中四日で回して投げられないか。

「出来なくはないな」

 試合前のロッカールームで、樋口と将棋をしながら、直史はそんなことを言う。


 MLBの中五日はおそらく過酷であるから、より過酷な中四日でNPBを投げてみよう。

 そんな無茶苦茶な発想が、そもそもの始まりであったはずだ。

「やるとしたらヴィエラが実際に抜けてしまった今なんだろうけど、それは同時に他の若手にチャンスを与えることでもある」

 直史はプレイヤーであり、選手起用の決定権を持つFMではない。

 ただベテランとして、そういうことも出来る、と言うぐらいは言ってもいいかもしれない。

「俺はプロ四年目の若手だけどな」

「……」

 MLBにいたっては二年目の新人であるが、間もなく30歳になる直史のことを、誰もそうは扱わないだろう。

 さすがにMLB一年目の樋口の意見では通らないだろうか。

「俺としてはどうしてそんなに焦るのか、そっちの方が不思議だな」

 短期的に見れば直史を使うことは、確かに勝ち星をつけるのには効果的だ。

 だが直史の引退後もプレイする樋口にとっては、若手の育成の方が、重要なことのはずだ。

「別に球団がどうなろうがかまわない」

 樋口の視点は、さらに大局的、極めて露悪的なものであった。

「お前の残す記録に乗っかった方が、俺の知名度も評価も上がる」

「なるほど」

 そこで笑うほどには、直史も諧謔という言葉を理解している。


 直史と樋口の気が合う部分は、根本的にここなのだ。

 野球選手であることに価値をさほど認めず、その引退後の人生を考えている。

 さすがに日本語の分かる人間のいる場所では、出来ない話である。

 通訳たちがいないため、二人は将棋盤をはさんで、こんな話をしているのだ。

「チェスみたいだな?」と言われれば「あれよりずっと難しいぞ」と言うぐらいには二人は将棋もする。

 だいたい棋力が同じぐらいなので、頭をアイドリングさせるにはちょうどいいのだ。


 それをニコニコと聞いているアレクも「相変わらずだなあ」と思うのみ。

 アレクもまた野球に対して、必要以上の神聖視はしていない。

 ブラジルの農村部に生まれた少年が、成り上がるには手段はあまりない。

 犯罪組織に入って出世するなり、麻薬のルートを開拓するなり。

 とにかくそんな環境の中で、アレクの身体能力を見抜いた上で、野球をやらせた秦野は褒められていい。


 これからの対戦相手であるテキサスは、アレクが前年まで所属していた。

 アナハイムのあまりの強さに、ヒューストンとシアトルが戦力を整えているため、チームは解体している。

 去年は地区四位であったが、今年はそれよりも弱い。

 圧倒的にボロボロにされているオークランドがいるので、最下位にはならなくて済むだろうが。


 樋口は基本的に、ロスアンゼルス、ニューヨーク、ワシントン以外の球団はあまり選択に入れていない。

 自分のコネクションを作るのに、あまり都合のいい場所ではないからだ。

 その点ではボストンなども、球団人気が地元で高いため、選手のカーストも高く見える。

 だがやはりアナハイムで結果を残せば、ニューヨークのどちらかの球団に行きたい。

 そこで数年もすれば、日本に戻ってもいい。

 年齢的に30代の半ば。

 プロを引退して、セカンドキャリアを歩み始めるには、成功者としては充分な年齢であろう。

 失敗者はもっと早く、セカンドキャリアを見つける必要があるが。




 テキサス相手に第一戦は、スターンバックの先発である。

 直史の開幕戦に引きずられるように、開幕二戦目を完封したスターンバック。

 球数はわずかに100球を超えたが、それほどの無理をしたわけではない。

 あれから中五日、充分に回復したはずだ。

 調整もしているし、樋口が上手くリードできればいい。


 空回ったスターンバックが初回に二点を取られたが、それでもまだ初回。

 本人は去年は一度も出来なかった完封を達成し、かなりハイになっていた。

 そういう時こそ逆に、一発などで先制される可能性は高い。

 実際に一発ではないが、先制点は取られた。

「この初回が重要だぞ」

 そう告げた樋口の言葉に、軽く頷くアレク。

 アウェイでのいいところは、必ず先攻で始まるため、先取点を得られる可能性が高いことだ。

 逆にホームだと、こういうことがありうる。

 ターナーまでの三人で、一点を取ってしまおう。

 それが樋口の考えだった。


 だがアレクは意外性の男である。

 初球からフルスイングして、打球はスタンドまで飛んでいく。

 直史はそれなりに見慣れた光景であるが、樋口としては呆気に取られる。


 アレクの体格からして、もちろん長打力がないわけがない。

 だが普段は上手くヒットを打って、狙うべきときは長打を狙う。

 どちらかというと、樋口のバッティング内容に、近いようなものだったのだが。

 それでも軽く拳を上げてベースを一周するアレクは、アウェイであれば去年まで応援してくれていたファンから、盛大なブーイングを浴びていただろう。

 もちろんこの新たなホームでは、大きな拍手で迎えられる。


 あまりにもあっさりと点を取ったな、と樋口はゆっくりバッターボックスに向かう。

 初球ホームランを打たれたピッチャーが、次の打者に最初からストライクを投げられるわけがない。

 まさにその通りで、アウトローに外れていた。

 クチャクチャとガムを噛むピッチャーは、ちゃんとそれにはストレス解消効果があるとは分かっていても、樋口の美意識が怒りを呼ぶ。

 野球選手としての美意識ではなく、人間としての美意識だ。

 ガムを噛むというその時点で、樋口の美意識には反する。

 もちろんこれが極端な価値観だとは、分かってはいる。


 ボールが続いたところへ、甘くストライクを取りに来た球を痛打。

 簡単にレフト前に運んで、打率を上げていく。

(目指すは200本安打かな)

 NPB時代は警戒されつつも、それぐらいは打っていた樋口。

 試合数の多いMLBならそれも楽だろうと、リーグのピッチャーのレベルの違いを、全く感じてはいなかった。




 二回以降はいったん試合は落ち着き、双方のピッチャーのピッチングが安定する。

 三連戦の初戦であり、アナハイムは明日の登板予定だったヴィエラが離脱した。

 この場合MLB流では本来、次の試合のピッチャーを前に持ってくるのではなく、ヴィエラの代わりのピッチャーをそこに入れる。

 だが幸いと言うべきか、試合日程の関係で、中五日でレナードが準備をしていた。

 おかげでまだ経験の少ないピッチャーを、先発させることはなくて済む。


 勘違いされているが、樋口もMLBとしては新人なのである。

 そこは武史と同じで、新人王に選ばれてもおかしくない。

 ただア・リーグは同じくメジャーに上がってきた新人で、恐ろしく打っているバッターがいる。

 昨年は地区最下位だったミネソタが、シーズン序盤とはいえ今年はトップにいる最大の理由。

 今年はホームラン王を狙うターナーの、最大のライバルとなるのかもしれない。


 樋口はもちろん直史も、対戦する相手のバッターの、分析には時間をかける。

 特に単純なスラッガーより、好打者の方が注意が必要だ。

 これまでに直史が打たれてきたバッターは、確かに強打者でもあったかもしれないが、打率の低いバッターは一人ぐらいであった。

 出会い頭が多いが、それを確実にミートする技術が必要なのだ。

 二人で見ていたとき思ったのが、こいつ、サイン盗みしてないか、ということだ。

 それよりはむしろ、相手のクセを盗むのが抜群に上手いのだ、と考えた方がいいのかとも思ったが。


 樋口とは関係性が薄いが、直史はこの世に、超能力者がいることを知っている。

 あるいはそれは、超能力ではなく、単なる共感性の極みであるのかもしれないが。

 たとえばイリヤの音楽は、聴いた人間を恍惚にいざなうことがあった。

 あれは洗脳なのか、それとも感動なのか、判断が怪しいところである。

 そして恵美理がそうであった。

 彼女もまた共感能力が高いのか、キャッチャーとして座っていると、バッターがどこを狙っているのか分かると言っていた。


 アスリートと言うよりは、アーティストの領分なのだろう。

 ペドロ・ブリアンのバッティングは、間違いなくボールを分かっていて、それを狙い打ちしている。

 ただ読みでそれを打つ樋口も、傍から見たら似たようなものだろう。

 もっともあちらは現在、四割を超える打率を誇っているので、ならば樋口よりも読みの能力が高いのか、という話になるが。


 この打者の宗教的な敬虔さから、その秘密はトランス状態にあるのではと思った。

 ゾーンに入ることを、ルーティンを行って達する人間がいる。

 どれだけ深く潜れるか、それは直史の特異とするところだ。

 それを宗教的恍惚から、同じ領域にまで入る。

 出来なくはないのかな、と思わないでもない。


 大介の場合なども、本当にギリギリの勝負になると、音が消えて色が消えるという。

 そのくせ投げられたボールの白さだけは、その縫い目まではっきりと分かるのだ。

 試合中でなければ、そこまで深く潜ることはない。

 そして舞台が大きくなればなるほど、舞台装置が深く潜るのを助けてくれる。


 チーム力の差から考えて、対決してもアナハイムが負ける確率は低い。 

 だがシーズン中にどれだけ強くなるか、若手の多いチームは予想しがたい。

 そんなことも考えるが、まずはこの試合である。

 スターンバックを上手く、クールダウンさせながらリードしていく。

 キャッチャーのリードと言うより、そういったメンタル面へのケアは、まるで競馬の騎手のようなものだ。

 こういうのはジンも上手かったな、と直史は思い出す。

 岩崎が高校三年間で、NPBにドラフト指名されたのは、指導陣の育成も大きいが、やはりジンの存在が元であろう。

 実際に指導者として、強いチームをどんどん作っているのだから。


 ただ岩崎の場合は、直史への対抗心が大きかった。

 自分とは全く違い、そして強いピッチャー。

 まったく太刀打ち出来ないような格上ではなく、どうにかついていくことが出来た。

 それも同じチームの間だけで、道を違えれば一気にその差は開いたが。


 そんな懐かしいことを考えながら、直史は試合を見続ける。

 中盤から追加点を取り、スターンバックは六回までを二失点。

 結局はあの初回の失点だけだった。

 球数はまだ充分だが、コントロールがやや乱れてきた。

 なのでそこから勝ちパターンのリリーフへとつないでいった。

 最終的には5-2でまずこの初戦を勝利。

 テキサス相手にも、アナハイムの優位は続く。




 今年のアナハイムは明らかに、去年よりも得点力が向上している。

 その大きな要因はやはり、去年ブレイクしたターナーが、安定して打点を稼いでいることによる。

 長打にしても単純にホームラン狙いなのではなく、逆方向に打つことも出来る。

 昔ほど極端なシフトを敷くことが出来なくなったMLBであるが、ターナーは特に変化球は、逆方向にも多く打てるようになっている。


 ターナーから見たらバットコントロールは、アレクや樋口の方が上手い。

 もっともアレクの場合は、体の延長がバットになっている、という感じもするが。

 樋口は基本的に、ミートが上手い。

 だがアレクは、ミートが上手いのも否定しないが、わざとボールをミートしない当たりにしていることもある。

 直史も高校時代、妙なバッターだなと思ったものだ。

 だが甲子園で通算、九本のホームランを打っている。

 歴代十傑に入るのだから、これはすごいことだ。

 もっとも通算記録なので、チーム力も当然必要だが。

 一年の夏には出場していないのに、30本とか打っている大介がおかしいのである。

 桜島というチームと当たったことも、記録が伸びた理由だが。


 テキサス相手の残り二戦も、この初回の一番から三番のバッターが大きな役割を果たした。

 ホームで後攻であっても、初回に先制点を取り、相手の先攻の試合を優位に持っていく。

 第二戦は去年のシーズン途中から、ローテに定着したレナード。

 直史や樋口から見れば、まだまだ伸び代の多い素材である。


 キャリア的にMLBではないが、プロの世界で長く飯を食っていることは、キャッチャーとして信頼される理由になる。

 レナードから見ても去年の直史のピッチングが、とても人間の技とは思えなかった。

 その直史のカレッジの相棒で、プロでも二年バッテリーを組んでいた。

 六年間で一度も負けていないバッテリーというのは、ちょっと意味が分からない。


 レナードに対する樋口の要求は、やはり狙ったところに投げられるコマンドの要素が大きい。

 去年の成績を見れば分かるのだが、レナードはWHIPの数値はかなり優秀な割りに、防御率が悪いのだ。

 それは打たれたボールが、長打になってしまうことが多かったことによる。

 ストレートを低めに投げるつもりが、浮いてしまったという一番悪いパターンだ。


 レナードは99マイルが投げられるサウスポーで、今年がまだ23歳。

 この先のアナハイムで、あと五年ほどは活躍してもらいたいピッチャーだ。

 スターンバックとヴィエラは、おそらく今年でチームを去る。

 ヴィエラは復帰後の調子次第では、一年契約で残る可能性もあるが。

 35歳になるFAのピッチャーとしては、まだまだ衰えていないと、見せ付ける必要があったシーズンだ。

 それだけに復帰後の奮起には、今から期待している樋口なのだが。


 樋口はレナードの低めを、無理に厳しく求めたりしない。

 このあたりは坂本と同じであるのだが、坂本よりもさらにはっきりと、高めのストレート要求する。

 当たれば飛ぶ、スピンのよく利いたストレートだ。

 だがこれにカットボールを上手く組み合わせれば、とにかくしっかり指にかかったストレートを投げれば、最悪でも外野フライで済むのだ。

 一回の表を三人で終わることが出来れば、樋口としてはもう、その日のピッチャーのお守は、半ば終わったようなものだ。

 ここからはバッティングの援護で、気楽に投げられるようにしてやればいい。


 レナードは前の試合、七回を92球の一失点で降板している。

 だが今日はストレートを打ち上げて、それが外野の守備範囲であることが多い。

 なかなかヒットにならず、つまり球数も増えない。

 樋口が上手く緩急をつけさせるので、テキサスのバッターも狙いがつきにくいのだ。

 無失点のまま、前回の試合の七回を終える。

 球数からして、もう少し投げることは出来る。


 打線の援護は六点と、充分な点差と言えるだろう。

 勝ちパターンのリリーフを使う必要はなく、このまま最後まで投げる。

 継投が当たり前の現在、完封というのは大きな自信につながる。

 MLBなどという過酷なリーグにおいて、ピッチャーとして投げるということ。

 それはやはり根本に、自信がないとやってられないのだ。


 まだ若いレナードに、その体験をさせる意味は大きい。

 首脳陣はそのままレナードを八回のマウンドに送る。

 それでもちゃんとブルペンでは、マクヘイルが準備をしていたりするのだが。


 ヴィエラが離脱している今、先発の若手が強化されるのは、ありがたいことだ。

 樋口は自信をもって、レナードなら行けるとミットを構える。

 高めのストレートを投げ込んでこい。

 今日はそれで打ち取れる日だ。


「随分過激なリードだね」

 アレクはこっそりと直史に話す。自分もピッチャーをしていたアレクとしては、樋口のリードは少し、相手を甘く見ているのではと思えたのだ。

 だがこれは見方によるものだ。

「もし打たれたとしても、リードが悪かったと言えるリードだからな」

 それでも打ち取れるなら、まさにピッチャーの力と言える。

 既に試合は勝ったも同然であるし、もしも偶然の一発があっても、完投に目的を変えてもいい。

 とにかく試合の最後まで投げきるということが、MLBのピッチャーは少ないのだ。

 もちろん割り切ることも重要だが、レナードぐらいの年齢であれば、まだここから積み上げるべきものが多いだろう。

 そしてこれは、樋口の実績にもなる。


 日本型のキャッチャーなど、MLBでは求められていない。

 だがここで実績で、日本型とかどうとかではなく、樋口が優れたキャッチャーだと認めさせるのだ。

 優れたキャッチャーであることは、もう既に数字が示している。

 おまけに打って援護もしてくれるので、とてもありがたいチームメイトだ。

 しかし樋口はもっと高い評価を求める。

 ただこのシーズンだけではなく、自分の影響力を高めるために。

 幸いにもアナハイムは、ピッチングコーチのオリバーが直史の崇拝者だ。

 樋口が直史とのつながりを見せれば、その意見をかなり尊重してくれる。


 そして八回の表も無失点に抑えた。

 おそらく100球は超えてしまうだろうが、それでも許容範囲内での完封まであと少し。

 同じくサウスポーのスターンバックが今年でいなくなっても、その穴を埋めるぐらいに。

 樋口は自分の都合のいいように、選手を育てようとしている。

 MLB移籍初年の、シーズン序盤であるのに。

 おそらくどんなピッチャーよりも、樋口の方が自信家である。

 キャッチャーは頭がよくないとダメであり、自分より頭のいいキャッチャーはいないというのが、樋口の強烈な自負だ。

 NPBのキャッチャーなら竹中も間違いなく頭脳派であったが、果たして樋口の評価はどうなのか。

 まあもう同じリーグで対戦することのない相手を、樋口としては無駄に意識はしないだろうが。


 九回までを投げきった。

 110球とやや球数は多めであったが、それでも九回を投げたらかなり少ない。

 直史を基準にしてはいけないのである。

 ヒットは六本打たれたが、フォアボールが一つもない。

 これもまたピッチャーにとっては、自信の源になるだろう。

 ただこれで次の試合、ボール球を投げたくないと思ったら、ちょっとそれも困ったことになるが。




 スターンバックがローテを順調に守り、そしてレナードが完封をした。

 メジャー昇格初完封で、これはチームに勢いをつけるピッチングとなった。

 テキサスとしてはさすがに、残り一試合ぐらいは勝っておきたかっただろう。

 だが先発マクダイスは、前日のレナードをみて、これまた奮起した。


 マクダイスはメジャーの先発ローテの基準からしたら、平均的なピッチャーだ。

 課題となるのはコントロールで、ここからフォアボールを出してそのランナーを帰される、というのが一般的な失点のパターンだ。

 樋口はまたここで、違うリードをマクダイスに行う。

 コマンドやコントロールではなく、球種での配球。

 ストレートは基本的に、ボールゾーンに投げるというものだ。


 球種でゾーンに投げ込むなら、マクダイスはスプリットとカーブとスライダーを持っている。

 緩急もつけられるため、これでストレートのコマンドが良ければ、もっと成績も上がるだろう。

 肝心のストレートのコマンドが悪いが、樋口はもうそれは後回しにする。

 変化球で緩急がつけられて、落ちる球と右打者から逃げる球を使える。

 ならばそれでストライクを稼げばいいのだ。


 坂本の場合はストレートをゾーンに投げ込みたがるマクダイスには、じゃあそうせいと普通に構えていた。

 相性が悪かったというほどでもないが、坂本は本質的な意味でキャッチャーではない。

 バッターを翻弄しようという気分はあるが、基本的にピッチャーの意思を尊重する。

 樋口のように、自軍のピッチャーをいかに乗せて、結果を出すかということまでは考えない。

 通じないのなら、それはピッチャーの実力不足。

 その考えも別に、間違っているわけではない。


 樋口は持っている札の中から、どうやって勝利するかを考える。

 とりあえず今の持ち札は、直史からの信頼、それに伴うオリバーからの信頼、そしてレナードに完封をさせたという実績。

 シアトル戦でもおおよそ言うとおりに投げて、六回を二失点で勝ち投手になれた。

 つまり、樋口を信頼する用意は出来ていたのだ。


 六回を球数98球で投げて、ヒットは三本のフォアボールは三つ。

 そして無失点。

 リリーフ陣もこうなると、一点も取られたくない。

 こういう点差がついた試合で、しっかりと抑えておくこと。

 それが単なるリリーフから、勝ちパターンへのリリーフへとつながる道だ。

 最終的には6-0にてアナハイムはテキサスに三連勝。

 そして開幕からの連勝も、二桁まで伸びていた。


 ただ、自信があったのはここまでだ。

 ヴィエラが離脱したことで、次の試合は経験の少ない先発を使うこととなる。

 中四日で直史というのは、出来なくはないがするべきではない。

 首脳陣もそれははっきりとしていた。

 舞台はアウェイ、地区の違うカンザスシティ。

 研究も不十分なため、樋口には珍しく自信がないのだ。


 それでも今年のアナハイムは、去年よりもさらに強い。

 とにかく攻撃力と得点力の、大幅な向上が目立っていた。

 あるいは次の試合、点の取り合いになるかもしれない。

 むしろそんな試合になった方が、アナハイムとしては勝ちやすいかもしれない。

(先発では二回しか投げたことがないピッチャーに、連勝記録を止めさせるのは酷だなあ)

 樋口としてはそう考えていたが、なんとかならぬものかと首脳陣に言うわけにもいかない。


 勘違いしてはいけない。10連勝したと言っても、試合はまだ152試合も残っている。

 ヴィエラの離脱している現在、少しぐらい負けたとしても、ピッチャーをローテで上手く回すのが重要なのだ。

 目の前の一勝ではなく、大切なのはワールドチャンピオンへの道。

 21世紀以降初めての連覇を狙える、唯一のチーム。

 去年はそれがメトロズであり、今年はアナハイムなのだ。


 MLB移籍一年目から、キャッチャーとして優勝を目指す。

 なかなかに大変なことであるが、樋口はしっかりとそれを視野に入れていた。

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