第75話 本拠地開幕

 オークランドをスウィープで虐殺したアナハイムは、いよいよフランチャイズでの開催を迎える。

 対戦相手のシアトルは今年、いきなりコンテンダーとして優勝を狙っていくよりは、数年後に戦力が充実するような補強をした。

 野球は統計のスポーツだ。戦力が充実していないと、一人の活躍だけでは勝てるものではない。

 その言葉は正しいかもしれないが、実際には開幕してしまえば、一気に勝ち続けるチームというのも存在する。

 逆にあれだけ戦力を整えたのに、完全に不発に終わってポストシーズンにも届かなかったりすることもあるが。

 選手の故障離脱による不振は、仕方のないものもある。

 シアトルは去年の成績とストーブリーグでの動きから判断して、今年はとてもポストシーズンには進めないと判断した。

 だがそれならそれで、球団運営としてはなんとか、利益を出さなければいけない。


 MLBにとってありがたいのは、大介のような選手だ。

 毎試合出場する野手は、必ずというわけではないが、ほとんどの試合でその姿を見ることが出来る。

 どうしてもローテで投げたり、勝っている試合で出てくるクローザーなどは、それを目当てに見に行くというのは難しい。

 もっともMLBのローテはかなり厳密なので、その日を狙ってチケットを取ろうという動きはあるが。

 直史の場合など明らかに、出場する試合ではチケットの争奪戦が繰り広げられる。

 幸いと言うべきか現在では、MLBではチケット転売対策はほぼ完全になされており、アナハイムなども公認の転売サイト以外での販売は不可能だ。

 ただチームによってはこの数年全く完売など起こらなかったため、対策が後手に回っているところもある。


 マイアミなどは極端に地区の恩恵を受けたチームである。

 普段は一万人も入らないスタジアムであるが、相手がメトロズであると、そのカードは完売。

 大介を見るために、地元のライトなファンが集まるということだ。

 これに対してアナハイムなどは、去年の途中からはもうずっと、完売が続いている。

 直史が投げない試合においても、完売が続いているのだ。

 それはやはりチームが強ければ、それだけ地元は応援したくなるということ。

 また一人の選手に注目していて、他の選手のファンにもなるという現象が出てくるからだ。


 アナハイムのGMがかなりお高めの選手であるアレクを獲得できたのは、そのトリッキーなバッティングスタイルが、観客動員に効果的だとオーナーが判断したからだ。

 ターナーのブレイクによって、正統派のスラッガーも揃っている。

 投手陣は見事な成績を残しており、点の取り合いの方が喜ばれるMLBであっても、緊張感のある試合が演出できるようになっている。

 それでもやはり直史の投げる試合は、人気が段違いなのだが。

 年間チケットなどを買ってでも、その姿を見たい。

 そういう熱心なファンが多くなると、球団経営がある程度安定する。

 またそのためにチャンネル契約をしても、それは大きな資金になる。

 ナ・リーグ東地区とア・リーグ西地区は、対戦するチームの人気によって、放映権料が高くなるかもしれないという状況だ。

 単年で契約しているわけではないので、この機会に一気に放映権料を上げようという動きもあったりするが。


 アメリカのショースポーツにおける放映権料のバブルは、まだ弾ける様子を見せない。

 それでビジネスが成立している間は、弾けるはずもないのだ。

 それによって選手の年俸も高くなるのは、ありがたいことである。

 もっともMLBの場合はFAや年俸調停など、選手の活躍に見合った年俸が払われているかと言うと、日本の方が良かったりもする。


 上杉も大介も直史も、二年目から一億円+インセンティブという年俸であった。

 これはMLBの年俸よりも高い。

 日本人選手が一番稼ぐなら、高校生ならNPBで六年、大卒なら25歳までプレイして、ポスティングでMLBに来ることだ。

 貧乏球団である千葉からMLBに渡った織田などは、今は年単位だと2000万ドルを超える年俸をもらっていて、日本時代とは雲泥の差である。

 昨今の交流戦で日米の試合が行われると、一試合限定だと日本の勝つことが圧倒的に多かった。

 日本のリーグの位置をMLBから見て、どう判断するのがいいのか難しくなっている。

 年俸だけは高いリーグ。

 もっとも直史はそれに加え、やたら選手を酷使するブラックなリーグとも思っている。

 日程が詰まりすぎて、登板間隔も短い。

 ただここは逆に、NPBがピッチャーは楽すぎるかな、と思わないでもない。


 佐藤直史は無敗のピッチャーである。

 アマチュア時代にいくら春夏連覇などをしても、プロでは七割勝てたらすごいのが、普通のトップエースだ。

 そのあたりの認識は、上杉の登場以降変化してしまったが。

 中六日の日程に球数制限がかなり徹底されるようになって、先発ピッチャーは上手く調整して登板出来るようになった。

 真田、武史、蓮池、直史と、極端なまでに負けないピッチャーは多くなってきている。

 その極致が直史であるが。




 二度目のカードとなるシアトルとの試合は、第一戦はマクダイスが先発となる。

 去年のアナハイムの先発は、直史を含む三人が強力であった。

 途中からリリーフに転向したマクヘイルに、途中からローテに入ってきたレナードの六人で、ローテを回していた。

 それでも回らないときはリリーフデーであった。


 マクダイスは最終的な五人のローテーションピッチャーの中では、一番数字は悪かった。

 それでも勝敗だけを見れば、13勝9敗と立派にローテを回している。

 28先発でクオリティスタート11回。

 そして失点しても、五回まではどうにかマウンドに立っていた。

 その回まで粘って投げられれば、ベンチはブルペンに無理をさせずに済む。

 イニングイーターとまでは言わないが、弱いローテがこれだけ強かったのも、アナハイムが優勝できた理由だろう。


 対するシアトルは今年はもう、育成のシーズンと割り切っている。

 選手の起用は若手を中心としたいが、かといって戦力を全く出さないというわけではない。

 リードオフマンである織田は、四割近い出塁率を誇る。

 日本時代は同じパの一番打者として、今はアナハイムのアレクと比較されることはあった。

 高いレベルで堅実、と称された織田は、今日も先頭打者としてバッターボックスに入る。

「やっと来たな」

 語りかけたのは樋口に対してだ。


 織田が樋口とNPBで交わった期間は長くない。

 リーグも違うためそれほどの対戦経験もないのだ。

 だがワールドカップなど、また織田の最後の甲子園では樋口の春日山が優勝していたり、印象は強い。

 それにあの直史と、大学からバッテリーを組んでいるというだけで、色々と思うところはある。

 日本人最強バッターは大介であるが、樋口も早々にホームランを打っていて、厄介なやつには違いない。


 織田の探るような言葉に、樋口は無言である。

「俺も人のことは言えないが、お前はちょっと女癖が悪すぎるよな」

 アメリカに渡る前から織田には、結婚を前提としないお付き合いをしている女性なら、何人かいたのだ。

 それはアメリカに渡ってきてからも、それなりにパートナーの代役として確保している。

 本命相手の執着は両者同じであっても、他の女性は完全にトロフィーのように飾る性質の悪さ。

 樋口の場合は都合がよければ、女のブランドになどはあまり関心はないが。

 そこを除けば、二人はよく似ている。


 樋口はそんなことを言われても、とりあえずは試合のことだけを考える。

 織田は冷静な男だ。これは会話のジャブであるに過ぎない。

 MLBだとかなりひどいことを言っても、審判には分からない。

 日本語はマイナー言語である。


 四連勝をしているアナハイムに最初に土をつける。

 そのことの意味を織田は、しっかりと理解しているはずなのだ。

 プロとして、手段を選んで攻撃してくる。

 対する樋口としては、もちろん手段を選んで反撃する。

 即ち無視である。


 今のアナハイムにとって重要なのは、安定して高い勝率を保っていくことだ。

 樋口の目から見ても、今日の試合は勝率は低めと思える。

 先発が弱いので、点の取り合いになる。

 しかしそういうときこそ、どうやってピッチャーをリードするかが重要なのだ。


 キャッチャーはグラウンドの中の第二のFMだと樋口は思っている。

 特に守備時においては、バッターをどう攻略するか、多くがキャッチャーに任せられる。

 NPBに比べればまだMLBは、キャッチャーの指揮官としての役割は薄い。

 だがそれはキャッチャーにその力量がない場合に限られる。

(織田さんはなんだかんだ言いながら、打率三割をキープしてるからな)

 意外性のアレクも悪くはないのだが、実際のところ樋口であれば、アレクよりも織田の方が一番打者としてはありがたい。

 そんな織田を、まず最初のこの打席で打ち取る。


 マクダイスは確かに樋口の目から見ても、それほどピッチャーとして優れているとは思えない。

 使えるローテのピッチャーが出てくれば、それで入れ替わってしまうだろう。

 だが需要はあるタイプだ。

 今年は26歳で、来年にはFA権が取れる予定。

(そこそこの契約のためにも、今年もある程度は成績を残させてやるか)

 ナチュラルに傲慢な樋口は、そう考えてサインを出した。




 中五日で投げる直史は、シアトルとの三戦目が今年二度目の登板となる。

 試合の展開を見ているが、アナハイムが優勢に進めている。

 キャッチャーとして見ると、樋口と坂本は能力差よりも、個性の差の方が大きく感じる。

 だがゲームをコントロールする能力は、明らかに樋口が上だ。

 坂本はジョーカーと呼ぶべきかトリックスターと呼ぶべきか、意外性のある仕事はしてくれる。

 だが試合の流れを見ながら、正しい選択をしていく能力は、樋口の方が適しているのだ。


 勝負強さという点では、坂本もいいプレイヤーであった。

 だがけれんみに過ぎたところがあり、そのクセが問題と言えなくもなかった。

 樋口は基本的に、統計に従ったプレイをする。

 エラーのような流れの淀みを発見しても、あまりそこを突こうとは思わない。

 坂本などはダボハゼのごとくそういったところを攻撃するが、樋口は見逃すのだ。

 そして必要な時に突く。


 レギュラーシーズンとポストシーズンで、明らかに戦い方が違う。

 全ての試合を楽しむ坂本と違い、樋口は最終的な目的のためにプレイする。

 出す数字は似たようなものであっても、結果から逆算すれば、樋口のプレイスタイルの方が、覇権を握るのには適しているのだ。


 六回を終えて4-2とアナハイムがリード。

 そしてここで先発のマクダイスは降板。

 六回二失点はクオリティスタート。

 ただし取られていい失点というのは、相手との点差によって変化する。


 七回からは勝ちパターンで、まずはマクへイル。

 去年先発からリリーフに転向したことで、おおいに成績をアップさせた選手だ。

 樋口としては短いイニングを、全力で投げるピッチャーだなという分かりやすいリリーフのイメージだ。

 実際に七回の表は、シアトルの攻撃を無失点で抑える。

 これで残り二イニングで、シアトルは二点を取らないといけない。

(取れなくはないけど、さあどうする?)

 直史としては信頼して、ベンチの中でのんびりとしていられる。


 七回の裏、樋口に四打席目が回ってきた。

 守備の配置などはともかく、攻撃には口を出さない樋口。

 だが今日のアナハイムは、やや効率の悪い点の取り方をしていた。

 采配を結果論だけで判定するのは簡単だ。

 だがここで自分に打席が回ってきたことは、アナハイムにとってもいいことである。


 ツーアウトから一二塁で、次はターナー。

 まさか満塁にして、ターナーと勝負しようとは思わないだろう。

 今日の樋口はノーヒットなので、勝負してくるのは間違いない。

 樋口はそのあたりは、当然の判断だろうなと考えている。


 ホームランはいらない。

 そこまで打ってしまうと、今後のマークがきつくなる。

 一塁にはアレクがいるので、長打を打てばほぼ確実に、二点目も入れてくれるだろう。

 今日は打っていない樋口を避けて、ターナーと勝負する選択肢などはありえない。

 なので自分はその、勝負してきた球を打てばいい。


 ごく当然のことではあるが、実際に出来るかは難しい、ここで長打を打つということ。

(外野も前進守備だし、それほどは難しくないか)

 一球目を外に外して、二球目の低め。 

 懐に入ってきたところを、樋口は狙い打った。

 打球は外野の頭を越えて、フェンスにまで届く。

 二塁ランナー、一塁ランナーと帰ってきて、樋口自身も三塁まで進塁。

 ただもっと楽に行けるかなと思ったら、メジャーの外野の肩が強くて驚いたが。


 一つ一つの要素は、確かにメジャーの方が出力は上だ。

 だが野球は技術のスポーツだ。

 フィジカルだけで全てが決まるなら、それは競技ではない。

 日本人は技で力に勝つのだ。

 もっとも技というのが、練習量だと勘違いしている人間もいるが。


 樋口はいわゆる、天才というのとは少し違う。

 だが判断力に技術、そして何よりそれを最適の状況で使うこと。

 センスとでも称するべきものは、間違いなく天才をも上回るものであった。




 まだ開幕から五試合である。

 なのであまり大きなことは言えないが、今年のアナハイムは得点が伸びて失点を抑えている。

 開幕から五連勝、そしてリリーフ陣で回す開幕第六戦。

 もしもこれに勝てば、七連勝まではほぼ確定である。

 直史の二戦目が回ってくるのだから。


 投手陣からの樋口の評価は、安定していて投げやすい、というものであった。

 坂本などはピッチャーを挑発するようなサインを出してきて、それを楽しむこともあった。

 樋口もそういったものがないわけではない。

 ピッチャーにとっても予想外というのは、バッターも当然読みにくい。

 坂本のそれに比べると樋口のリードは、坂本のように挑戦的ではないが、ピッチャーを導くようなものなのだ。


 NPB時代の樋口のリードを見れば、それがどれだけ優れているか分かる。

 ピッチャーによってしっかりと、その特徴に合わせたリードをしているのだ。

 だいたいのピッチャーが樋口がリードすると、最終的な防御率が一点は下がるのでは、などとも言われた。

 実績だけを見ると、それはあながち誇張でもない。


 第六戦は、アナハイムはリリーフ陣を、短く継投させて戦っていく。

 ここまで圧勝が多かったため、リリーフ陣は消耗していない。

 それなのに失点も少なく、全てがいい方向に動いているように思える。

 直史と樋口が同じチームになると、投手陣全体がものすごく良くなって、チーム状態も上がる。


 大学四年間、リーグ戦は八回中七回優勝し、全国一も何度も達成。

 直史がプロ入りした二年間は、連続して日本一。

 直史自身に優勝請負人的なところはあるが、それが樋口と組むとより顕著になる。

 ワールドカップにしろ大学時代にしろWBCにしろ、この二人が組んでいるのに負けるというのは、指揮官の采配が大爆死したときぐらいだ。

 日本においてはこの二人が組んだことにより「もうアナハイムしか勝たん」などとまで言われているのだ。


 ただ樋口は油断してはいない。

 去年のMLBのワールドカップを、彼はしっかりと見ていた。

 第七戦にまでもつれこみ、本当にぎりぎりでアナハイムが優勝した。

 それも最終戦が終わってから、直史がしばらくボロボロだったのも知っている。

 今年のメトロズに、もう上杉はいない。

 あの周囲の人間の能力さえ、限界以上に引き出してしまう、巨大なカリスマはいない。

 しかし直史と一年組んでいた坂本がキャッチャーをして、ちゃんとしたクローザーを備えて、そして武史が加入している。


 直史は基本的に誰かをうらやむような人間ではないが、普通に弟のような球速はうらやましいと言った。

 それ以外の全ての面で上回り、武史ほどではなくても直史より、速い球を投げるピッチャーはいるのに。

 直史と武史が、紅白戦などとは違う、公式戦で対戦したことはない。

 もしも直史を倒すことが出来るとしたら、それは大介と武史の組み合わせではないだろうか、とは樋口も思う。

(まあ、あいつを打てるのはアナハイムだと俺と……)

 強打者ターナーではあるが、どちらかというと単純なパワーピッチャーを打つより、甘い球を痛打するのに長けている。

 ともあれ今は、このシアトル相手の第二戦である。




 アナハイムの先発はウォルソンで、二回か三回までを全力で投げる。

 試合の展開しだいで、そこから継投していくピッチャーは変わる。

 ピッチングコーチからしたら、一番の腕の見せ所といったところだろう。

 各ピッチャーの特徴はつかんでいる樋口だが、今日のそれぞれの調子がどうかまでは、ブルペンを見ているわけではないので分からない。


 とりあえず確かなのは、ウォルソンの調子は悪くないということ。

 それでも一回の先頭打者の織田は、厄介なバッターではある。

 一戦目はヒットこそ打たれたものの、ホームは踏ませず仕事をさせなかった。

 完全に封じることは難しいし、コスパが悪い。

 直史が大介相手に、単打であれば充分としているのと似たようなものだ。


 織田は去年、直史から唯一のホームランを打っている。

 MLBのレギュラーシーズンでは、毎年10本前後のホームランしか打っていないが、二桁打てれば本当は充分なのだ。

 自分の役割を知っているからこそ、普段はヒットを打つことに徹している。

 足を使ってかき回すことが、MLBでは今軽視されていることだ。

 その軽視されている部分だからこそ、織田は自分が生きる道とした。


 NPBから移籍してきて六年、ほぼ全シーズンをスタメンで出場している。

 一番バッターとして、理想的な選手だと思われて。

 だが狙ったときは、長打もしっかりと打てる。

 外野はそう思って定位置にいるからこそ、織田はヒットで出塁することが可能になる。


 この試合の第一打席も、上手くバウンドさせた球でショートの頭を越えた。

 ノーアウト一塁となって、先制点のチャンスを作る。

 樋口としてはこの程度は計算の範囲内。

 そしてここからは、バッター織田とではなく、ランナー織田との対決になる。


 盗塁が以前ほどはされなくなったMLBだが、大介のような凶悪な数字を残す選手もいるし、織田も足でチャンスを広げてくる。

 そして樋口は織田が、どう動いてくるかを観察している。

 カウントが悪くなってからでは、バッターを追い詰めることになりやすい。

 なので基本的には、初球か二球目で二塁を狙っていく。


 初球、織田がスタートを切る。

 ウォルソンに外させていた樋口は、キャッチからスローまでスムーズに行う。

 二塁のベース際に、ストライク送球。

 審判のコールはアウトで、ランナーを消すことに成功。

 マウンドのウォルソンは安堵しているが、こうやってランナーがいなくなった後が、案外怖かったりするものなのだ。


 それでも樋口はしっかりとリードをして、初回のシアトルの攻撃を無失点に抑える。

 そしてここからアナハイムは、鬼のような攻撃を開始する。

 開幕から第五戦まで、アナハイムが初回に得点できなかった試合はまだない。

 今のところではあるが、去年のメトロズよりも、さらに高い得点力を誇っている。


 隙のないチームを作るのは、樋口の特異とするところだ。

 まだ一年目の樋口には、チーム全体に与える影響力は大きくない。

 だが直史が今度は、樋口よりも先にアナハイムにいる。

 レックス時代とは逆の状況だ。

 アナハイムのピッチングコーチオリバーは、間違いのない直史の崇拝者である。

 その直史が信頼する樋口を、彼も信頼する。

 あまりその信頼が、偏ったようには見えないように。

 極めて日本人らしく、樋口は配慮している。

 強烈な個性を持っていながら、そのあたり樋口はキャッチャーであり、そして日本人なのであった。




 シアトルは絶望しかけている。

 この第五戦はアナハイムの打線を、そこそこ抑えていた。

 バッティングは水物などと言うが、やたらとヒットを打つアレクに加えて、今日はターナーも一発がない。

 それでもちょこちょこと点が入って、シアトルはチャンスを壊される。


 去年のアナハイムも驚くほどの防御率を誇るチームであったが、今年はそれ以上だ。

 一試合あたりの平均失点が、一点以下というここまでの試合。

 なんとかこの試合は、二点は取った。

 だがアナハイムはまるでそれが予定通りと考えているのか、三点を取っている。

 九回の表に、どうにか追いつく。

 しかし九回の裏には、アナハイムはまた上位打線に回っていくのだ。


 アレクは下手に長打ばかりを狙うのではなく、地面に叩きつけて内野の頭を越えさせたりする。

 それが無理であっても、高くバウンドしたボールを捕球する間に、しっかりと一塁に到達している。

 そして盗塁をするのではなく、その素振りを見せる。

 アレクは織田のように性格がまっとうではない。

 なにしろ育ちが悪いので。

 生まれたところは田舎であったが、たまに行く都会では、夜中に女が一人で歩いていたら、事件に巻きこまれることが普通にあった。

 そういう危機感のあるところで育ったので、織田よりはずっと狡猾であり、直感に優れているのだ。


 ピッチャーの意識をそうやって追い込めば、樋口にはもう充分だ。

 低めに投げ込まれた球を、スタンドには入らない程度に、外野の頭を越える球を打つ。

 まだ母数が少ないので気づいていないかもしれないが、樋口はホームランを二本打っている以外にも、長打率が高い。

 そしてその長打で、アレクはホームに帰ってきた。

 サヨナラのヒットで、アナハイムの六連勝が決定した。


 絶望が始まる。

 第三戦の先発は、中五日で直史が投げる。

 去年は確かに織田の一刺しで、唯一の自責点を奪った。

 だが全体を見れば、四試合で全敗している。

 仕方のないことではある。

 去年の直史と対戦して、負けなかった試合のあるチームは、ボストンだけだったのだから。

 今年はまら準備の年だと、フロント陣も分かっているのだ。


 ただ観客や観衆は期待する。

 直史がどれだけひどいことをやってしまうかを。

 そのための犠牲の羊に、シアトルは思われている。

 人々は残酷なショーが好きなのだ。

 サヨナラヒットを打った樋口は、すぐに切り替えて、翌日の試合の構想を練っていた。

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