第63話 刻まれた傷

 六回の裏にメトロズの追加点がなかったのは、アナハイムがまだ元気なリリーフを出していったからである。

 試合の勝敗よりも、もう自分の個人成績を重視するタイプに交代させて、失点を防いだ。

 このあたりアナハイム首脳陣は、まだ判断力が残っていると言えよう。


 完全に手も足も出ないとは、まさにこのことだろう。

 直史もNPB時代、球数を使ってでも三振を多く取ったことはある。

 だが上杉はストライクだけで三振を取る。

 少し外れていても、速すぎて見極められない場合が多い。

 直史の奪三振が多くなるのは、かなり偶然の場合が多い。

 しかし上杉の奪三振は、完全に狙ったものである。


 七回の表、先頭打者をまたも三球三振。

 続くターナーに、珍しくも直史は願う。

 パーフェクトはまずい。

 どうにかしてパーフェクトは防がないと、完全に流れがメトロズに行ってしまう。

 流れなどという言葉を使うとオカルト臭くなるが、実際に選手たちの士気は下がったままになるだろう。

 どうにかそれを防げば、本当に気分だけでも最終戦で戦えるのではないか。


 ターナーが打てなければ、あとは坂本か。

 だが坂本は本来、読みと直感で打つタイプだ。

 何やら策があるらしいが、二打席目も歯が立たなかった。

 もっともターナーもパワーピッチャーへの対策よりも、技巧派系のピッチャーへの対策の方が上手い。

 それでもストレートが相手ならば、と直史は祈っている。

 おそらく自分自身に祈った方が、ターナーには効果的だろうが。


 106マイルのストレートを捉えられず、ターナーは三振。

 続くシュタイナーも三振し、このイニングはまたも三者三振。

 ツーストライクからターナーとシュタイナーが、一球ずつ粘っただけである。

(ほとんどゾーン内ばかりの勝負か)

 無茶苦茶なピッチャーだなと直史は考えるが、それは普段自分がやっていることだ。

 打たせて取ることと、三振を取ることで、違いはそれだけなのだ。


 唯一の救いと言うべきかは、直史の達成したパーフェクトに及びそうにないこと。

 それは直史が達成した、球数72球というパーフェクトだ。

 しかしもちろん打たせて取っていたので、その分の三振は増えていない。

 奪三振も、ホームランに続く野球の華だ。

 上杉が三振を奪うごとに、Kの旗が振られている。


 直史が考えているのは、上杉をどこまで引っ張るのかということ。

 メトロズの首脳陣は、ワールドチャンピオンを取りに行きたいのか、それとも上杉のパフォーマンスを見せ付けるのが目的なのか。

 どちらにしろここでパーフェクトをされたら、明日の最終戦でアナハイム打線は機能しない気もする。

 最終戦も先発で投げることを、直史は覚悟していた。

 ただ完封する確かな自信などは、さすがになかった。

 大介と勝負すれば、今度こそどこかでヒットを打たれるだろう。

 あるいはフォアボールで出塁もありえる。

 そこで後続を、進塁打さえ打たせずに抑えることは難しい。

 おそらく四打席のうち、一点はほぼ確実、二点目までは可能性が高い。

 ただそれでもメトロズが上杉以外のピッチャーならば、アナハイム打線は援護してくれると思っていたのだ。


 この試合で完全に封じられてしまうこと。

 パーフェクトを食らうことに、アナハイムの選手は最も慣れていない。

 スプリングトレーニングの直史は、まだ調整中でそこまで相手を圧倒することはなかった。

 ただボストンにいた頃の上杉とは、対戦した選手はいる。

 その時の上杉は、まだここまで回復していなかったが。


 今の上杉には、どの程度の余力があるのか。

 それによって最終戦、難易度が変わってくる。

 単純な球数ならば、おそらく100球程度で投げきってしまう。

 この一年はクローザーで、連投自体には慣れているはずだ。

 だが先発としては二年ぶりに投げて、どれぐらいの疲労が溜まるものなのか。


 もしも常識を疑うような、つまるところ直史がやったような、日本シリーズ連投が可能であったら。

 明日の先発までやってきたら、おそらくアナハイムは一点も取れない。

 それでなくとも三イニングも投げられるなら、他の六イニングで点を取らなければいけなくなる。

 このまま九回をパーフェクトに抑えられれば、おそらく打線陣の心が折れる。

 途中で降板してもらって、少しでも反撃できたなら、また条件は変わるだろうが。


 ここで最後まで完投して、パーフェクトを達成して、奪三振記録も更新する。

 そんなボロボロに負けた状態で、明日の第七戦に挑む。

 おそらく守備にまで影響を与えるだろう。

 野球選手としての尊厳破壊だ。

 普段は直史が相手にやっていることで、オークランドは今年120試合も負ける原因にもなった。


 上杉は、先発としての連投が可能であろうか。

 NPB時代はやってしまった直史も、このワールドシリーズでは、完投した次の日は体に疲労が蓄積していた。

 この第六戦に先発していたとしても、おそらく最後まではもたなかったであろう。

 だいたい大介を一打席抑えるのは、丸々一試合投げたのに近い疲労を感じる。

(あっちの方が戦力偏ってないか?)

 直史はそう思うし、実際にそうであって、色々と考えていたセイバーは頭を抱えているのだが。




 八回の表、まだ上杉がマウンドに登る。

 そして先頭打者の坂本。

 坂本がどうにも出来ないなら、おそらくはもうダメだ。

「坂本、なんとかしてくれ」

 さすがに直史もそう言うしかないが、具体的にどうすればいいのかは分からない。

 ただ、坂本はいつもの飄々として笑みを見せて、ゆったりとバッターボックスに歩いていった。


 条件が整っていない。

 だから点は取れない。

 ただ坂本も直感的な人間なので、直史の危惧していることは、それ以上に分かっている。

 ここで一方的な蹂躙を受けて、明日の試合までに精神状態を立て直せるか。

 ハングリーでタフなメジャーリーガーといっても、それは難しいだろう。

 それにメジャーリーガーは、ある意味ドライだ。

 チームではなく個人成績が、年俸に反映する。

 それでもワールドチャンピオンなど、そうそう目指せるものではない。

 これだけボコボコにやられて、どれだけまだ立ち上がれる選手がいるか。


 坂本の奇策は、条件が整ったところでしか使えない。

 ただ、どうせい上杉が相手なら、条件が整わない。

 クローザー、あるいは途中からのリリーフとして出てきたときに、使うつもりであった。

 だがもう、ここで使ってしまうべきだろう。

(上杉さんはまあ、この時代の神さんよ)

 直史も今のところ、実績では上杉を上回っているが、坂本としては最大出力では上杉に勝てないと思う。

 MLB史上最強のピッチャーがどちらか。

 強い方が勝つのか、勝った方が強いのか、その基準で答えは変わってしまう。

 だが自分が、直史を勝たせることが出来る。


 第七戦、直史は先発で投げるつもりだ。

 メトロズも上杉をまた使ってくるだろうが、さすがに先発はないだろう。

 序盤のうちに他のピッチャーから点を取って、直史が逃げ切る。

 中二日で、完封を目指してもらう。

 他のピッチャーなら絶対に無理だが、しかも大介を擁するメトロズが相手なら、直史なら出来る。

 出来たらいいなあ。


 そんな坂本はやはり、グリップを余して上杉と対峙する。

 上杉としても、バットを折って抑えた坂本には、わずかに注力しているだろう。

 二打席目はバットも振らせなかったが。

(まあ当てていけばいいだけぜよ)

 上杉のボールに対して、坂本は目を慣らしていく。

 初球からいきなり105マイルで、明らかに坂本を、さらに屈服させようとしてくる。

 パワーピッチャーのプライド。

 坂本としてはおちょくって調子を狂わせるのが得意なタイプだ、本来なら。

 だが上杉ぐらい隔絶していると、取れる手段などほとんどない。


 二球目も同じくストレートを、アウトローぎりぎりに決めてきた。

 このスピードでそこに入れられると、ほとんど手が出ない。

 坂本は余裕で見逃して、またすぐに構える。

(まあ普通にしちょると打てんが)

 おそらく上杉は、単純に坂本を打ち取ろうとは考えていない。

 アナハイム打線を完全に、屈服させるのが狙いなのだ。

 第七戦、おそらくメトロズは、さすがに直史が先発するとは考えていない。

 するとアナハイムとメトロズ、両方が最強のピッチャーを先発させずにゲームが始まると考えている。


 戦力の総合力での殴りあいなら、メトロズの方が有利。

 ましてやここで、アナハイムの打線を完全に沈黙させてしまえば。

 そう考えた上杉の105マイルを、坂本はどうにかカットした。

 待っているのはあの107マイル。

 おそらくあのスピードを出すのは、故障明けの上杉には、まだ負担が大きいのではないか。

 そんなボールを少しでも投げさせれば、肉体への負担が大きなままだろう。

 この一戦ではなく、次の試合までをも考える。

 坂本はここから、計略を使い出す。


 


 上杉には弱点がある。

 弱点と言うよりはもう、人間としての特質と言えようか。

 弱い相手には手を抜いてしまう。ただし大舞台になると、それも程度が少なくなる。

 そして強い相手にも、正面から挑んでしまう。


 力と力の勝負を、重視してしまうのだ。

 あるいはそれこそが、天才に許された、あるいは天才が持ってしまう傲慢なのかもしれない。

 坂本相手には高速チェンジアップを使えば、打たせて取ることは簡単なはずなのだ。

 だが自分が全力を出すに相応しいと思ってしまうと、正面からの対決を挑んでしまう。


 上杉は大介さえ敬遠すれば、いくらでも試合には勝てていた。

 だが負けるかもしれないと思っていても、それをさらに上回ってこそ勝負よ、と男の魂を貫いてしまう。

 そのあたり直史の、約束だから逃げない、というメンタルとは違う。

 まあ大介以外には、勝てる自信があるので結局勝負してしまうのだが。

 結果は同じでも思考の過程は違う。


 坂本に対しても、全力で投げるのは分かっていた。

 ツーストライクと追い込んでから粘られた。

 ここで正面から三振を奪いに行く。

 圧倒的な力で、正攻法で決着をつける。

 それが上杉の美学である。


 坂本にとって野球とは、騙し合いの勝負である。

 そこに上杉のような、ナチュラルボーンモンスターが混ざっては困るのだ。

 バッターの大介なら、まだしも敬遠という手段がある。

 だが上杉のボールから、逃げることは出来ない。

 前の打席と同じように、上杉の体が膨らんで見える。

 その覇気を坂本は、ゆるゆると受け流すように構える。


 ゆったりとしたフォームから、力を溜める。

 そして左足を着地させた瞬間、坂本はバットを寝かせた。

 セーフティバント。

 パーフェクトをピッチャーがしている間に、セーフティバントを仕掛けるというのは、MLBの暗黙の了解に反する。

 だがこれはワールドシリーズ。個人の記録にこだわる舞台ではない。

 MLBは建前上、個人の記録よりもチームの勝利が大切なのだ。

 上杉はバントの構えの坂本へ、全力のストレートを投げ込む。


 たとえ当てたとしても、まともに前には飛ばない。

 スリーバント失敗でアウト。そうなるのは坂本は承知している。

 だがこの高めに浮いた上杉のストレート。

(これでどうか)

 上杉のボールは坂本のバットに当たらない。

 坂本は無理にボールを追うのではなく、そのままバットを泳がせた。

 そして107マイルのボールは、キャッチャーのミットを外れて、そのマスクに激突した。


 空振りをしてから、坂本は走り出す。

 マスク越しとはいえ上杉のストレートを受けたキャッチャーは、ボールの行方を気にすることも出来ず、その場で転がった。

 一瞬の自失から回復しても、ボールの行方をすぐには見つけられない。

 その間に坂本は、一塁に到達していた。

 いわゆる一つの振り逃げ。

 こうして上杉のパーフェクトは途切れたのであった。




 坂本がバントヒットを狙っているのでは、というのは直史も予想していた。

 ただ上杉のボールは、バントすら難しいとも思っていたが。

 坂本は長打も打てるくせに、バントもうまいという、日本人らしい選手だ。

 もっとも最近では日本でも、バントを教えない指導者は増えているが。

 あと普通に日本でも、強打者はバントが下手である。

 そもそもプロのレベルのバッターは、アマチュアでは誰もが強打者。

 よってバントが上手い選手の割合は少ない。


 坂本はそれとは全く別に、作戦の上で有利なため、バントを好んだ。

 セーフティでピッチャーを悔しがらせた時など、心のそこからスカッとする。

 ただ、上杉のボールをバントでヒットに出来るとは思っていなかった。

 分かっていたのは上杉のスピードボールに対して、それほどキャッチングが上手いとも言えないメトロズのキャッチャーは、必死になっていたということぐらいか。


 ある程度の成算はあったが、確信していたわけではない。

 だがバントによって少しでもボールを隠すことで、こうなるかもしれないとは予想していたのだ。

 上杉を崩すなら、まずキャッチャーを崩す。

 柔らかいところから攻撃するのは、勝負における鉄則のようなものだ。

 メトロズのファンからは大ブーイングであるが、坂本はにこやかに手を振っていた。

 おそらく次の試合、報復死球を食らうであろう。


 なるほどなあ、と直史も苦笑するしかなかった。

 これが樋口であれば、絶対になかったミスだ。

 NPB時代もこんなことはなかったし、MLBのキャッチャーはスピードボールのキャチングには長けていたのだ。

 ただバントで球の軌道を隠されると、こんな結果になってしまう。

 ともあれこれで、上杉のパーフェクトに水を差したことは確かだ。

 釈然としないこの空気は、陰鬱たるこれまでのものよりは、よほどマシというものだ。


 坂本のやったことは、なかなか面白いものではあった。

 だが、諸刃の剣でもある。

 なにせこれで、上杉は三振を奪う機会を、一つ増やしてしまったのだ。

 一イニング四奪三振。

 珍しいものではあるが、前例がないわけではない。


 そしてメトロズは大事を取って、キャッターを交代した。

 攻撃力が重視されるメトロズの中では、守備的なキャッチャーだ。

 だが上杉を相手にボールを受けるなら、むしろスタメンのキャッチャーよりも向いていたかもしれない。

 直史の予想は正しく、ここから上杉は崩れることなく、三者連続三振。

 八回は四者三振で、これで23三振。

 MLBの一試合の奪三振の記録を、よりにもよってワールドシリーズで更新してしまったのであった。




 ベンチに戻ってきた坂本を、チームメイトたちは呆れた目で見ている。

 しかし直史だけはハイタッチをした。

「どうがよ」

「お見事」

 あの状況での最低限の仕事は、とにかく塁に出ることであったのだ。

 キャッチャーの捕逸により、パーフェクトはなくなった。

 ただノーヒットノーランは続いていて、それも九回の下位打線では、なかなか阻止するのは難しいだろう。

 代打を出しても上杉のスピードボール二、一打席の間に慣れることは難しい。

 どちらにしろ上杉が九回まで投げてくれば、勝てないことは間違いない。


 パーフェクトも途切れたことだし、九回は他のリリーフに任せてもいいのではないか。

 心が折れているアナハイム打線は、三点差をひっくり返すことは出来ないだろう。

 少しでも上杉を休ませることは、明日リリーフをしてもらうためには必要なことだ。

 なにしろ今日は今シーズン最も多くのイニングを投げて、最も速いボールを投げているのだから。


 八回の裏、アナハイムはクローザーのピアースを投入した。

 いくら守っても点を取れなければ勝てないのだが、アナハイムの首脳陣は、傷口をこれ以上広げないことを考えている。

 そしてそれは、間違ってはいないと直史は思う。

(九回、登板してくるのかな?)

 八イニングを投げて、MLBの九イニングの奪三振記録を更新してしまった。

 記録という点では、別にもうこれ以上は投げなくてもいいと思う。

 ただここまでくると、残りのバッターをどれだけ三振でしとめられるか、見たいと思う人間もいるだろう。

 

 ピアースがしっかりと八回を0に封じたが、九回のマウンドには上杉が登る。 

 ブルペンは準備をしていたが、もう球数とかではなく、とにかく上杉の存在感で、アナハイムを圧倒するつもりのようだ。

 それにパーフェクトは消えてしまったが、ノーヒットノーランは残っている。

 球数にしても、坂本が出てしまったわりには、それほど多くなっていない。


 九回、下位打線に対し、アナハイムは代打を出さない。

 とにかく一球でもいいから、粘っていけと指示を出すだけだ。

 だがあっという間に連続三振。

 上位の一番バッターに戻ってきたが、ヒットは期待出来ない。

 九回の表でも、まだ普通に105マイルを投げ込んでいるのだ。


 奪三振の数は、既に25個。

 野球というのは延長にならない限り、27個のアウトを取れば終わるスポーツのはずだ。

 ここまで既に26個のアウトを取っている。

 坂本が素直に三振にとどめておけば、24個のアウトで済んだのに。

 それでもMLBの奪三振記録は大幅に更新であるが。


 ひどくあっさりと、最後の三振を三球で、上杉は奪った。

 九回28人に対して、26奪三振。

 ちょっと聞くと一つのアウト以外、全て奪三振アウトだと勘違いしそうな記録である。

 観客もチームメイトも、そして対戦であるアナハイムも、驚嘆、感動、熱狂、呆然と色々な感情に支配されている。

 直史がパーフェクトをした時よりも、このリアクションは激しい。


 やはりピッチャーは、三振をとってこそなのだろう。

 そうでなければいまだに、投手三冠に奪三振という項目があるはずはない。

 直史の奪三振率も、打たせて取るグラウンドボールピッチャーの割には、充分に高いものだ。

 それに投げたイニングが多かったので、今年は奪三振のタイトルも取っている。

 だが今年、最も三振の印象が強かったピッチャーはというと、おそらく上杉になるのであろう。

 一試合26奪三振。

 延長ではないのだ。

 頭のおかしな記録が、またもMLBの歴史に刻まれた。


 試合後のインタビューで上杉は、昔全てのアウトを三振で奪えないか、と考えたことがあると言った。

 冗談と思う人間もいたかもしれないが、直史は分かる。 

 上杉はそういう冗談は言わない人間なのだ。




 アナハイムのロッカールームは、完全にお通夜になっていた。

 おそらく第五戦後のメトロズは、こんな雰囲気だったのだろう。

 そして元気なのは、上杉と大介だけであったろう。

 同じくアナハイムも、日本人の二人だけは、特に沈み込んでもいない。


 明るいラテン系の選手もいるのだが、そういう人間の個性とこの結果とは、さすがに切って考えることは出来ないのだろう。

 日本でのビールかけに相当する、シャンパンファイトのために持ち込まれたシャンパンも、隅っこで縮こまっている様子さえ感じられる。

 上杉のオーバーキルにより、選手たちはほとんどが、茫然自失の状態となっている。

「こりゃあ勝てんぞ」

 それでも坂本は楽しそうに言うのだが、こいつは例え負けても、その試合が面白ければそれで満足なのだ。

 直史も別に、今は試合の勝敗自体には、それほど重点を置いていない。

 だが大介に勝つためには、試合にも勝たないといけない。

 0-0のまま延長までを投げ続けるのは辛い。

 ナチュラルに他のバッターには打たれないと考えているあたり、直史はやっぱり直史であるのだが。


 この半年強を共に戦ってきたメンバーに対して、直史は説得の必要があるな、と感じる。

 ただ自分の言葉で鼓舞するにも、直史は英語の言い回しに長けているわけではない。

 若林に頼めば通訳してくれるのだろうが、それよりもここは坂本に頼むべきだろう。

 こいつならばかなり意図して、煽った言葉を選んでくれるはずだ。


 そして坂本はにこやかに、それを請け負った。

「お~い、お前ら、明日は佐藤が先発するからな」

 パーフェクトをしたピッチャーが、中二日でワールドシリーズの最終戦に先発する。

 それはさすがに、ピッチャーを酷使するポストシーズンでも、異例のことだと感じられる。

「そんでこいつ、一点さえ取ってくれれば、あとはワールドチャンピオンにしてやるとか言ってるから」

 いや、さすがにその言い回しはどうなのかな、と通訳の若林は思ったものだ。

 だがここは坂本の方が、火を点けるのは上手かった。

「ようするに一点取ってくれる以外、何も期待しちょらんつーこっちゃ」

 ここまで虚仮にされて、メジャーリーガーが黙っているだろうか。

「まあさすがに、明日の先発は上杉はないだろうが、リリーフで投げることは充分考えられるから、それまでに一点を取らんといかんな」

 本当に、さすがに煽りすぎである。


 だが、敗北した戦士たちの目に、確かに光は戻った。

 第七戦、たったの一点でいいと。

 確かにラッキーズ相手の初戦、アナハイム打線は一点しか取れなかったものだが。

 

 今年の直史は、1-0で勝った試合がいくつもある。

 逆に最後まで直史が投げて、1-0で負けた試合は一つもない。

 それはもう、そもそも負けた試合が一つもないのだから、当たり前のことではあるのだが。


 初回の攻撃が全てだ、と直史は考えている。

 最悪の事態としては、上杉が即座にリリーフしてくるということ。

 だが現在のMLBでは、先発投手は一イニングか、三人以上に投げないと交代出来ない。

 故障した場合などは除くが。

 だから初回に、一点を取ってもらう。

 そこからメトロズ相手に、一点も取られないというのは、さすがに直史も難しいとは思うのだが。


 ともあれ、これが本当に最後の試合となる。

 決戦は、ワールドシリーズ第七戦。

 最後の熱狂は、ニューヨークの街を満たすことになるだろう。

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