第48話 甲子園の気配

 アナハイムのストロングポイントは先発の三枚とそれから続く勝ちパターンのリリーフである。

 逆に言うとこれらが一人でも欠けると、かなり大変な事態になる。

 特に直史などは、投げた試合は必ず勝つと計算してある。

 実際に勝っているので、それで計算している。

 もしも負けたらスターンバックかヴィエラで、どうにかその分を取り戻すことまで考えている。


 スウィープでトロントを下したため、相手を待っていたアナハイム。

 第四戦でリーグチャンピオンシップ進出を決めたのは、ニューヨーク・ラッキーズであった。

 MLBにおいて最高の名門と言われ、実際にそれに相応しい成績を残している。

 NPBで言うなら巨○である。 

 失礼、タイタンズである。

 

 今年のアナハイムは対戦し、五勝二敗という成績。

 直史が二試合投げて勝っているが、ノーヒッターもパーフェクトも食らわせてない。

 食らわせたのはマダックスが一度だけである。

 スターンバックとヴィエラも投げていないことを考えると、おそらく投手力で勝てる。

 ポストシーズンは投手力が大事なのだ。


 


 ラッキーズはだいたい、どの年代も代表的なエースを持っている。

 チームの資金力が豊富なゆえに、自ら育成することもあるし、FAで大物を取ってくることもある。

 現在のエースと呼べるのは、今年34歳ながら、まだ衰えを知らぬサイ・ヤング賞を二回受賞したグレン・ハワード。

 今年も16勝6敗と勝敗の数字はほどほどのものであるが、その投球内容はスターンバックやヴィエラ以上のものである。

 防御率もほぼ2点と、このあたりの数字もスターンバックと似ている。

 違うのはイニング数の多さと、それに連れて多くなる奪三振数。

 だがそれらの全ての成績は、直史の存在の前に儚いものになる。


 アナハイムは今季一度対戦し、その時には彼の剛腕の前に屈している。

 それでもリリーフ陣を攻めて、ある程度の点は取り戻したのだが。

 左のサイドスローで100マイルを投げてくるなど、どこのランディ・ジョンソンだ、と言いたくなる。

 ノーヒットノーランも二度達成しているので、間違いなく超一流のピッチャーではあるのだ。

 ただし常識的な範囲内の。


 常識外の直史がアナハイムにはいる。

 100球以内どころか、90球以内でノーヒッターをしてしまうような、訳の分からない存在である。

 これと当てるかどうかを、ラッキーズのFMをはじめとする首脳陣は考えないといけない。

 そしてアナハイム首脳陣は、これと直史を完全に対決させるつもりである。


 エース同士が投げてこそ。

 レギュラーシーズンではローテを回すことを第一に考えるMLBだが、ポストシーズンではエース同士のガチガチの対決となる。

 それでも前のカード次第では、エースの登板間隔を調整したりはする。

 ただ今年のラッキーズの場合は、それは当てはまらない。

 普通に考えればエースに全てを託した勝負になる。


 論理性と合理性を高めたMLBで、そんな正面決戦が行われるのか。

 だがこれこそがベースボールの、本質的な姿なのだ。

 球数制限もかなり緩和され、一試合を全力で戦っていく。

 そういった勝負が見られるからこそ、ポストシーズンは観客が増加するのだ。

 もっともそれは建前としての話。

 単純に球数だけなら、直史は平然と投げていくだろう。

 だがピッチャーが一試合で消耗するのは、それだけではないと首脳陣は分かっている。


 直史は少なくとも1kg、多い試合だと3kgは体重を減らす。

 直史に限らずピッチャーはそういうものだ。

 そこからしっかり回復するし、試合中も栄養補給をしっかりする直史。

 だが本当のフィジカル的な体力は、脳の活動によっても消費される。

 脳の働きが鈍るほど消耗すること。

 その時が直史打たれる時だ。

 ……たぶん、きっと、めいびい……。




 ホームゲームが直史は好きである。

 応援の後押しや慣れたスタジアムなどを理由に挙げているが、本当の本音は別にある。

 相手が先に攻撃するということは、九回の表を封じてしまえばこちらはもう一度攻撃する必要がなくなる。

 つまりさっさと家に帰れる。

 人生において時間配分を効率的に考える直史は、そのわずかな時間の積み重ねが大事だと考える。


 おそらく世界的に見ればともかく、日本人ならそこそこいるであろう人種。

 暇すぎて退屈、などという時間を過去に体験した人間。

 その贅沢を直史は知らない。

 やることがないのならば、その時間を楽しめばいいのだ。

 本を読むなり映画を見るなり、心に栄養をやることはたくさんあるだろう。

 また何もせずにただぼんやり過ごすというのも、なかったわけではない。

 脳が疲労しているときには、そういった休養も必要なのだ。


 ただ、やることがなくて退屈すぎる、というのは本当にない。

 何かを仕込んでそれの出来上がりを待つとか、そういった時間も有効に利用できる。

 やりたいことが多すぎるのが直史の人生だ。

 生きれば生きるほど、やりたいことをこなせばこなすほど、さらにやりたいことは増えていく。

 それでも時々は疲れてしまうのは分かるが、そういう時は家族のために時間を使って、精神的な余裕を作る。


 結局直史は、効率化の鬼なのだ。

 その道筋が他の人間には理解出来ないだけで。

 このあたりジンや樋口はかなり共感していたが、坂本とは全く気が合わない。

 坂本も実際には、あらゆる時間が充実した人間ではあるのだが。

 彼は九回の裏は裏で、色々と楽しいではないかと思うのだ。バッティングもやっているため。

 瑞希はこの考えを理解しながらも、実践するのは難しいと思っている人間だ。

 彼女は事実を元にノンフィクションを書くのが得意だが、どうしてもそこに創造性というものがある。

 なので脳がそこを処理するために、どうしても無駄に見える時間で、脳内の思考を整理させている。

 同時に何かをやっていたりもするが。


 直史も別に、頭を休ませながらも何かをするということがないわけではない。

 だから瑞希の創造性にも理解を示す。

 瑞希にしても直史のピッチングの組み立てなどは、単なる計算だけでは出来ないのではと言ったりもする。

 直史の感想としては、そうかもしれないしそうでないかもしれない、といったところだが。


 とりあえず、直史にとっての事実は一つ。

 ホームゲームにおける、九回の裏は無駄。

 極端すぎる結論であるが、だから九回の表で終わらせようというモチベーションになる。

 幸いなことにプロ入り以降は、0-0のまま九回に入る試合はほとんどない。

 これがまた不思議なことに、クラブチーム時代の緩い試合であったりすると、別にストレスには感じなかったりした。


 もっともえげつない思考が、直史にはある。

 七戦四勝システムのカードなら、四連勝で勝ちぬいた方が人生は充実する、というものだ。

 もうこのあたりになると、それは理屈の上の話であって、出来るかどうかとはもう全く別の話となる。

 そもそも投げるのは直史だけではないため、自分の力だけでどうにかなるというものでもない。

 ラッキーズとの対戦も、基本的に直史は第一戦と第五戦を投げる予定である。

 中四日で二試合、投げるのはエースクラスだ。

 しかし直史はこうも言ってある。

 四勝目の勝っている試合なら、リリーフで投げる用意があると。


 直史のクローザー適性は、先発に比べると少し低いはずだ。

 クローザーの中には規定投球回を満たしてはいないが、直史以上の奪三振率を誇る選手が少なくない。

 リーグ三位の奪三振率というのは、あくまでも主に先発の、規定投球回を投げる選手の中での話。

 それでも充分に高いことは高いし、もう一つ重要なフォアボールを出さないという点では、相当に適性は高い。

 また実績を言うならば、国際大会などでしっかりと数字を残している。

 プロ入り後はほとんどが先発としての成績であるが。




 一回の表、ラッキーズの攻撃。

 先取点を取れる可能性は、当然ながら先攻の方が高くなる。

 ただし一回の表で先制出来なければ、精神的には後攻の方が有利になる。

 攻撃の回数を考えれば、これもまた当然のことである。

 このあたりアナハイム首脳陣は、色々と考えてはいる。

 トロントとの対戦は直史の次にスターンバックであったが、このラッキーズとの対戦ではヴィエラ。

 一回の表を無難に抑えるのは、ベテランの方がいいという意見である。

 ラッキーズの打線はトロントよりベテランが多く、スターンバックは下手をすると絡め取られると思ったのか。


 ただ第三戦をスターンバックに投げさせるのだが、これは敵地ニューヨークでの対戦となる。

 その場合もやはり、本来ならベテランの方がいいと思うのだ。

 アナハイムは初回の攻撃で一気に点を取るタイプのチームではない。

 だから本来ならニューヨークでも、経験豊富なヴィエラの方がいいということになるのだが、ヴィエラは過去にラッキーズに在籍していたことがある。

 かなり前なのでバッターへの対処などはそれほど期待は出来ないし、逆にヴィエラのピッチングはある程度知られている。

 ただそれはどちらで対戦しても同じことなので、結局は首脳陣の判断による。


 ヴィエラとしてはスターンバックは、第四戦以降の方がいいのでは、と思ったりもしていた。

 ラッキースタジアムのポストシーズンの雰囲気は、当事者でないとなかなか分からないものだ。

 MLBでも屈指の歴史を誇り、最も多くのワールドチャンピオン経験のあるラッキーズ。

 それだけにニューヨーカーにとっても、自然とファンが代々いたりする。

 最大の経済圏だけあって、資金力なども強いのだ。


 ただこの二年間は、ニューヨークと言えば完全にメトロズである。

 直史と同じく日本からやってきた大介が、ものすごい勢いで個人のファンを増やしている。

 そして個人のファンは、チームのファンやチームメイトのファンへと波及していく。

 だからといってラッキーズのファンがそうそう減るわけでもないのだが。


 そんなラッキーズの一回の表が終わった。

 一人もランナーが出ず、三振は一個で、内野ファールフライと内野ゴロが一つずつ。

 それだけしか言いようがない、ごくあっさりとした攻撃であった。

 ラッキーズ首脳陣も作戦は立てているはずなのだが、必要とした球数はわずかに10球。

 直史としては相手が何を考えていようと、一回の表は注意して投げるだけだ。

 そしてそれで、カーブ主体でアウトカウントをあっさりと取った。


 ラッキーズがハワードを先発させていることから、そう簡単に点は入らないし、入ったとしても一点か二点だと覚悟している。

 だが地元のアナハイムのヘイロースタジアム。

 ファンの声援を受けて投げる、ロースコアゲーム。

 直史はそういった試合には慣れている。

 味方の打線を信頼していないわけではないが、それと一点もやらないという覚悟は別だ。

 レギュラーシーズンは二試合でヒット四本と、完全に抑えていた。

 そんな直史が、無駄にラッキーズを恐れるはずもない。




 エース同士の対決でありながら、アナハイムの打線陣は安心していた。

 一点を取れば勝てる試合だと。

 ハワードは確かにスーパーエースだが、せいぜい同世代に数人というレベルのピッチャー。

 ノーヒットノーランをした過去があっても、アナハイムはそれに萎縮したりはしない。

 味方にいるのはパーフェクトを連発するそれ以上のモンスターだ。

 それに直史は球数的に考えて、下手をすれば七試合のうち三試合に投げることが出来る。

 まあそういった無茶は、他のピッチャーでもやったりするのだが。


 一回の裏、アナハイムもランナーを出すことなくチェンジ。

 そして二回の表、先頭打者をあっさりと内野ゴロに打ち取る直史。

 ここからが本当の地獄ではなく、ある意味における本気である。

 ラッキーズの五番は井口。

 日本時代は高校生の甲子園で、一応チームとしては対戦している。

 だが直史は投げていない。

 その次の対戦が、トーナメントで坂本のいる瑞雲になりそうだったため、直史は温存されたのだ。

 結局瑞雲が負けるという結果が出たため、最後の夏の直史は、かなりの楽が出来た。

 決勝では倒れるほど疲れたが。


 NPBでも同じセのチームであったため、対戦経験はある。

 だが打たれたか、と問われると思い出せない。

 打たれたとしても長打や、クリーンヒットではなかったはずだ。

 おそらくは内野の間をころころと抜けていく、運のいいヒット。

 それならわざわざ記憶しないのが直史だ。


 ただこの場面では注意する。

 日本時代からの直史の情報を、リアルで蓄積してきたバッターだ。

 MLBの経験を蓄積して、どれだけの実力になっていることか。

(0.280の30本だったか)

 ただ一年目は外角と内角のゾーンの違いに、大介ほど早くは適応できなかった。

 いや大介が適応するのが早すぎたのだが。

 それを言えば、オマエモナーと返ってくるだろう。


 ツーシームをアウトローに投げ込むが、ピクリともしない。

 審判のコールはストライクだが、それに不満を示す様子もない。

(今のはボールなんだけどな)

 直史のコントロールが良すぎるせいで、だいたいボール半分はゾーンが広い。

 さらに今の球は、ゾーンから逃げるように変化したのだ。


 アウトローに投げられていたら、最初から捨てるつもりであった。

 それぐらいの潔さがなければ、直史のボールは打てない。

(こういうところなんだよな)

 MLBのバッターは、もちろん技術がないわけではない。

 だが狙いを絞って、本当にそこだけを打つという、覚悟に不足している。

 下手に当ててもヒット以上の結果に出来るため、パワーで持っていこうとする。

 そしてミートが上手くいかず、凡打を打ってしまう。


 井口は完全に狙っている。

 直史は坂本に対して、本気用のサインを示す。

 坂本も井口のことは、当然ながら知っていた。

 学年は違うが同じ年齢ではあったからだ。

 ただNPBを経由せず、そのままアメリカのマイナーに来た坂本は、NPBの井口をあまり知らない。

 そもそも坂本は、NPBを知らない。


 それで通用しているのだから、坂本に何かを改善しろと言うつもりはない。

 ただ直史は、MLBのパターンでは、井口には打たれるかなと思っただけだ。

 レギュラーシーズンとは違う、井口の気配。

 これはNPBの気配ですらない。

 おそらく高校野球、甲子園の気配をまとって、井口は打席に立っている。




 日本の同い年に、史上最強のピッチャーがいた。

 井口がそう認識したのは、実はプロ入りしてからだいぶ後のことだ。 

 二歳上に上杉がいたため、史上最強なのは上杉だとずっと思っていた。

 少なくとも史上最速は、上杉で間違いはなかったのだ。


 だが直史がやってきてしまった。

 プロの舞台で自分をも上回るバッターたちを、完全に翻弄していた。

 失点の様子も見ていたが、つまりは一発に賭けるだけ。

 今年のレギュラーシーズンを見ていても、織田の一発以外は自責点がない。

 つまり直史は、一発病に罹患している!などと言えば頭がおかしいと言われるだろう。


 各チームのスーパーエースであっても、たとえばラッキーズのハワードも、年に10本ぐらいはホームランを打たれている。

 フライボール革命全盛の時代、三振するかホームランを打つか、かなりバッティングは極端になっているのだ。

 だが直史は、奪三振率も高く、グラウンドボールピッチャーで、一本しかホームランを打たれていない。

 正確にはもう一発幻のホームランがあるが、それも初球打ちであった。

 狙い球を絞らなければ、直史から長打は打てない。

 打たれたヒットの七割ほどは、内野を抜けていったもの。

 長打など片手で数えられる程度しかないのだ。


 直史の二球目は、井口の膝元に入るカットボール。

 これも井口はそのままで見逃した。

 打ったとしてもファールか、右方向への単打が精一杯。

 それでも仕方がないと思えるほど、井口は貧乏性ではない。


 チームとして、直史に勝たなければいけない。

 そのために必要なのはまず、あっさりと打たされて凡退をしないこと。

 ただツーナッシングまで追い込んだ直史は、普通に三球目で決めにくる。

 ゾーン内に打てない球か、ゾーンから逃げていく球を空振りさせるか。

 ただ左の井口にスライダーは投げる可能性が低く、ツーシームは初球で見せてきた。

 初球と同じ位置に、ツーシームを投げてくる可能性はあるだろうか。


 あそこは見逃すと井口は決めていた。 

 だがそれは追い込まれる前の話。

 追い込まれたならむしろ、あそこも狙っていける。

 外角に狙いを絞って、直史を打ってみせる。


 直史としてはそのあたり、どういうボールを投げるかの選択が狭まっている。

 井口の意識にないボールを投げたいのだが、どう読めばいいのか。

 駆け引きでも勝負する直史は、ここはインハイストレートを高めに外せば、おそらく打ち取れるかなとは思っている。

 だがそのコースは狙っていれば、長打を打てるコースだ。

(なんだかんだでタイタンズで四番をずっと打ってたわけだしな)

 直史は自分の信条をやや曲げることにした。

 だがそれは大同小異。

 勝利のためには確実性を優先しなければいけない。


 まだ両者に得点がなく、ラッキーズの先発もスーパーエース。

 ここで先制点を取られることは、ラッキーズに流れを渡すことになる。

 そう思って直史は安全策の、アウトローに外れるボールを投げることにした。

(大介だったら打ってくるけど)

 アウトローに外れる、伸びのあるストレート。

 井口は踏み込んで、そのボール球を打ちにきた。

 バットの先の方で捉えたそのボールは、レフト方向へ大きなフライとなる。

 ただホームランを心配することもなく、あっさりとファールスタンドに入っていったが。


 外の球を完全に狙いにきていた。

 ゾーン内で勝負していたら、ホームランを打たれていたかもしれない。

 ボールと見極めて、反応しなければより大変になっただろう。

 だがこれで、直史の四球目は決まった。


 井口としては、これでかなり苦しくなったことは確かだ。

 おそらく次は遅いボールで緩急をつけてくる。

 直史のカーブか、あるいはチェンジアップ。

 特にカーブであると、上手く打てるとは思えない。

 たとえ投げてくる可能性が、かなり高いと思っていてもだ。


 そして投げられたのはカーブ。

 これをストライクに取るか、と井口はそのまま見逃す。

 忘れてはいけない。

 審判のストライクゾーンは、直史に対しては広い。


 ストライクがコールされて、見逃しの三振。

 だが井口は全て納得の上で、ベンチへと戻っていく。

 その背中を見ながら、直史は内心で苦々しく思っている。

 甲子園の井口や、クライマックスシリーズの井口とは対戦したことがなかった。

 だが実際のところは、かなり面倒な相手だ。

(五番打者だから、あと二打席か)

 ヒットは五本までだな、と意識的にここからの組み立てを考える直史であった。

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