第40話 オークランドの事件簿
直史はオークランドには別に恨みなどはない。
確かに初めての失点を喫したが、あくまでも自責点ではなかった。
かと言って親しみなどもなく、ごく普通のアメリカの一都市としてしか理解していない。
ちなみにオークランドがライバル視するのは、これまたすぐ近隣のサンフランシスコである。
だが今年に限って言えば、直史を恨んでも仕方がないと思えるが、ここまで徹底的に抑えられると、なんだかもうMに目覚めてしまいそうである。
パーフェクトマダックス、ノーヒッター、パーフェクトマダックス。
むしろ自責点ではないとは言え、一点を取っていることを誇った方がいいのかもしれない。
しかしパーフェクトマダックスとは、なんだかロボットの名前でありそうな感じだ。
……ないよね?
とにかく一回の裏から、直史は積極的に振ってくるオークランドに、ツーシームとカットボール主体の投球を行うことにした。
これでわずか六球、内野ゴロ三つで一回の裏を終えたが、二回からは攻略を変えようと思う。
確かに内野ゴロを打たせることに成功はしたが、その打球の勢いが強かったからだだ。
「フロントドアのスライダーとシンカーを使っていこうかなと」
「カーブと混ぜたらよかろうきに」
ストレートは基本、アウトローに外すことに決めた。
二回の表にもソロホームランが出て、点差は二点となる。
オークランドはそろそろ表には出していなくても、内心では折れている選手がいてもおかしくはない。
オークランドの監督は、何度も手で顔を洗い、色々と考えはしている。
ただ考えるだけで、何も決断は出来ていない。
直史から今季点を取ったのは、オークランドの他にはシアトルのみ。
だがそこから何か攻略法を得ることなど出来ない。
サトーと書いて理不尽と読む。あるいはその逆。
試合における支配力は、なんだかんだと五割は打てない大介を上回る。
ポストシーズンなら大介は、五割以上に打ってくるのだが。
二回の裏、直史は話し合った通りに投げていく。
ストレートはボール球で、変化球でカウントを取って空振りや見逃しを誘う。
三振を奪うのにスピードは必要ない。
スピードはあくまでも、手段の一つに過ぎないのだから。
二回が終わって球数はまだ15球。
三振は一つしか奪っていない。
どうにかパーフェクトだけは防ぎたいぞ、とオークランドのFMはかなり悲壮感に満ち溢れていた。
いつも通りに投げる。
限界を超えて投げれば、必ずリバウンドがある。
それを覚悟して投げるのは、本当に最後の試合だけだ。
どうしても直史が持つ、唯一と言ってもいい弱点。
それは経験の不足である。
甲子園に大学野球、または国際大会と、経験は豊富そうに見える。
だがプロとして一年、リーグ戦を戦う経験はまだ二回のみ。
長期戦でどうやってペース配分をしていけばいいのか、まだ分かっていないのだ。
もっともそれで無敗で通すあたり、まだまだ底が知れないとも言える。
大卒ですぐにプロ入りしていれば、と思う者は未だに多い。
直史の全盛期はいつであったのか。
自身では、おそらくプロ二年目だと思っている。
大介のいない舞台、上杉のいない舞台で、どれぐらいの無茶が出来るかを確かめた二年目。
なので去年は本当に、全力を出していたのだ。
今年は全力を見極めようとはしているが、どうしてもチームの勝敗を優先してしまう。
そしてレギュラーシーズンの地区優勝だけではなく、全体での勝率の一位も。
MLBにおいて大介は、先に一年の経験を持つ。
そしてそこに加えて、上杉がクローザーとして君臨している。
レックスとアナハイム、NPBとMLBの違いはあるが、どちらの方がぎりぎりの戦いになるか。
おそらく三年夏の甲子園決勝や、プロ入り一年目のポストシーズンに比べても、戦力比では苦しいことになるのではないか。
いやさすがに、あの日本シリーズの連投はもう無理だろうが。
29歳。
一般的なプロ野球選手であれば、ここから技術が円熟味を加えるのだろう。
だが直史はもう自分に、伸び代はないと考える。
ここからは経験を積んで、読み合いと駆け引きで勝負するしかない。
ただそのあたりの部分はもう、散々に高校や大学で鍛えた気がする。
相棒が良かったので。
少しずつアップデートはしている。
武器になるものは磨いている。
スライダーの変化で、プロからも容易に空振りが取れるようになった。
MLBではツーシームが効果的に使えている。
だが結局こういう場所では、一番頼れるのは一番時間をかけた球。
カーブをメインに投げていく。
前回はそれを狙い打たれてしまったが、そこで使えなくなるようならば、それは己の心の弱さが招いたものにすぎない。
最初の予定を忘れてはいけない。
目指すのはパーフェクトでもマダックスでもない。
勝利だ。それは一貫していないといけない。
統計的に見て、ホームランを打たれにくい球種というのは存在する。
単純に沈む球は、その変化を見越してアッパースイングにしないとフライにならない。
カーブを初球で打たれたのは、まさかという思いがあった。
狙いの意図は分かるが、そもそもホームランにはしにくいものだったので。
織田のミートの上手さを甘く見ていた。
さて、本日のオークランドに、そんな器用なバッターはいるだろうか?
いない。強打者はいるが、ブンブン丸だけである。
打率が三割を切っていても、出塁率とOPSが高ければいい。
それは統計では間違っていないのだろうが、相手にするピッチャーによっては意味をなさない。
控えめに言っても意味が薄い。
打たなければ点が入らないとき、出塁で満足していいのか。
ホームランなどよりも、クリーンなシングルヒットや、泥臭い内野ゴロが必要な時はある。
フライボール革命はバッティングの効率化で単純化、あるいは原理主義に戻ることなのかもしれない、
だが完全な進歩とは、絶対に言えない。
三回を終わって、オークランドの出塁は0のまま。
今のうちにバント攻勢でもしたいな、と泣きそうになりながらオークランドのFMは思う。
ノーヒットのピッチャーにセーフティバントを試みてはいけない?
ルールブックのどこかにそんなこと書いてあるんですか!?
最近はそこそこ、アンリトンルールも守られないことは多くなっているし、これもいいではないかと思うのだ。
だがやってしまえば、観客は大ブーイングだろう。
おそらく来季の監督はおろか、どこかのチームの他のポストも危うい。
FMはサラリーマンではないが、雇われている人間だということは間違いない。
なので上司からの評価に関わることには敏感だ。
オークランドというチーム自体が、価値を下げることになれば、間違いなく次の就職には難儀する。
そんな考えもあるので、安易にノーヒット阻止だけを考えるわけにはいかない。
四回を終わっても、オークランドの出塁は0のまま。
ただ惜しい時はあったのだ。
わずかにかすったボールがファースト方向に転がり、それをキャッチャーが処理する。
ファーストへ送られたボールが、走者の頭に当たった。
ランナーはそのままファーストを駆け抜け、ボールは転々とファールグラウンドを転がり、おお、と内心では思ったものだ。
だが塁審はアウト。
必死すぎてスリーフットレーンに入っていない位置でボールに当たったらしい。
よく見ればそうであった。
俄かの観客のために、審判が説明する。
ランナーは一塁に向かうときに、もちろん走り始めは例外だが、駆け抜けるだいぶ手前からは、ファールゾーンを一塁に向かって走らなければいけない。
そのためのゾーンも、ちゃんと線を引いてある。
なぜなら今のように、フェアグラウンドを走っているとキャッチャーの送球を妨害することになるからだ。
単純に投げたボールが当たったならともかく、この場合は故意に走塁で守備妨害をしたことになる。
クソほど基本的なことだが、ぎりぎりを攻めて送球を乱そうというテクニックはある。
坂本が無慈悲にぶつけたので、意味を成さなかったが。
タイミングと位置次第では、これでセーフになることもあるのだ。
だが今の場合は、オークランド必死だな、と草を生やされるだけである。
初歩的過ぎるミスだが、追い詰められているとこういうことも発生する。
ただ坂本にしても、コースを確保してから投げても、充分に間に合ったろうに、おそらくわざとぶつけている。
他の馬鹿がこんなことをしないようにだ。
五回が何もなく終わり、六回も終わる。
その間にまた一つ、珍しいプレイが起こった。
偶然ミートできたボールが、直史の股の間を抜きかけた。
グラブが届かず、これはセンターに抜けるかと思ったボールが、プレートに当たってキャッチャー方向に弾きかえる。
坂本が処理しようとするのに、直史が叫ぶ。
「捕るな!」
ボールはそのまま転がり、ファールグラウンドに出て審判はファール。
ピッチャーのプレートは小石などと同じ扱いで、守備側がボールに触れなかった場合、弾きかえってファールグラウンドに出たら、ファールの扱いになる。
もっともそんな勢いを持ったままの打球は少ないので、普通はキャッチャーが処理してアウトか、キャッチャーが間に合わず内野安打になるが。
なんだか珍しいシーンが続いたが、それでもホームランにおけるベース踏み忘れのアウトほどではないだろう。
ただこれで六回までをパーフェクトに抑えながらも、なんだか不穏な空気は出てくる。
序盤はブンブン振り回して、下手をすれば81球以内に抑えられるかと思っていたバッターが、イニングが進むごとに慎重さを増してきている。
若手がこういった進化を、自ら選んでいるのか。
未熟な選手が学ぶのは、技術や経験だけではない。
何よりもやはり、駆け引きが多いだろう。
特に今はパワーピッチャーにスラッガーが全盛となり、技巧派は主流ではない。
ただそれでも、パワーの上に技巧を積み重ねていく。
直史と対戦することにより、その方面の経験が、一気に積み重なっていくのかもしれない。
そしてそれが一定に達すれば、直史を打つことも出来るのだろうか。
出来るのだろう。織田が打ったように。
ただ織田は同年代の中でも、パワーはともかくセンスでは、間違いなく一番と言われたバッターだ。
アメリカが広く人材を集めているとは言え、そんな存在がそうそうと出てくるはずもない。
しかし織田の持つセンスを圧倒的なフィジカルで補う人間もいるだろう。
そもそもセンスというのが、本質的にどういうものなのか、説明することは難しい。
七回も終わった。
球数はどうにか、100球以内に収まるぐらいか。
イレギュラーをかろうじて体で止めてアウトにしたりと、今日はなにやらパーフェクトが成立する感じがしない。
どこかで何か、不思議な現象でパーフェクトが止まるような。
そういった空気をぶった切るのが、直史という人間ではあるが。
高校一年生の夏、キャッチャーのパスボールで甲子園を逃した。
高校二年生の夏、指の怪我で甲子園の決勝に投げられなかった。
直史も色々な理由で、全く負けてないわけではないのだ。
運命の天秤は、必ず一方的なものではない。
ただ、その天秤の傾きは、たとえば愛娘の病気のように、彼をより野球に導いてくるものなのかもしれないが。
八回に入る。
四番と五番を打ち取って、いよいよこの回もツーアウト。
ランナーが出ても問題はないだろうが、この六番はさっきもかなり粘ってきていた。
(下手に三振とか取らせようと思わんと、打たせた方がいいきに)
坂本の意見に賛成の直史である。
大きなカーブを投げる。
ゾーンを通りながらも、ワンバンするほどの落差。
審判によってストライクを取るかどうか、かなり判断は分かれる。
坂本としてはこれを、バウンドしてすぐにキャッチするか、それでなければ体で止めるわけだが。
――カス……
「あ」
「ああ!」
「う」
空振りしたバッターはその場で固まり、坂本はミットから飛び出たボールをさりげなく回収するが、ちらりと見た審判は一塁を示す。
見逃していなかった。
バットはわずかに、坂本のミットをかすっていた。
インターフェアランス、つまり打撃妨害である。
変化球をちゃんと見て対応しようと、バッターは打席の後ろに下がってきていたのだ。
そして坂本はそれを承知の上で、カーブを要求した。
空振りしてくれて、ワンバンしたボールをキャッチしてタッチし、それで終わるはずだったのだ。
坂本が前のめりになりすぎて、スイングが触れてしまったのだ。
バッターはわずかな違和感に、そこで静止していた。
しょぼい審判であれば、気がつかなかったかもしれない。
だが坂本が、普段はワンバン投球でも、処理できるキャッチャーだったこと。
そして明らかに、バットはミットと交錯したように見えた。
MLBのキャッチャーというのは、キャッチしたボールをその場でしっかりと止めず、流して受けてしまう傾向がある。
その中で坂本は、ちゃんと日本流にミットを止めるし、フレーミングも使える狡猾なキャッチャーであった。
だが視界はわずかでも狭まると、ミスは起こるものなのだ。
「悪い悪い」
全く悪いと思っていなさそうな、坂本の声である。
ここから奇跡などは起こらず、続くバッターは三振。
そしてアナハイムナインはベンチに戻っていくのだが、直史は表情を全く変えず、並走する坂本の首をクラッチする。
走りながらタップする坂本に、無表情のままネックハングを続ける直史。
絞められている坂本が笑っていて、アナハイム陣営も笑っている。
これはコミュニケーションの範囲なのかな、と注意すべきかどうか分からない審判であった。
ミスは誰にでもある。
それに誰だって、したくてするミスはない。
強いて言えばこの場面は、カーブを使うべきではなかったのかもしれない。
キャッチングのリスクを少しでも避けるために、バウンドの瞬間を狙うのは悪くはない。
ただキャッチャーの場合は、前で捕ることの危険性を、当然考えておかないといけなかった。
ベンチでしばらく締め上げたあと、直史は坂本を解放する。
こいつでもこんな絡み方をするんだな、とチームメイトさえ思ったが、ある意味坂本は、良くも悪くも直史にとって特別な人間の一人だ。
起こってしまったことは仕方がないし、今のパフォーマンスは半分以上ポーズである。
「友情の証だ」
ニコニコと坂本が納めてしまったため、それ以上の問題にはならない。
ただ直史は、こいつなら大丈夫だろうと、思っていたのを裏切られたような気はした。
しかし思い返せば、坂本のおかげで勝てた試合もたくさんある。
点差を考えれば、ここからあと一イニングで逆転するのは難しい。
打順も八番からであるので、代打を出してきても対応しきれないだろう。
球場内からのどういった意味か分からないブーイングも、やっと収まってきた。
オークランドがパーフェクトを免れるよりも、パーフェクトピッチングの目撃者になることが重要であったのか。
おそらくその通りで、ホームなのに期待されていない、オークランドの選手は泣いていい。
まだしも痛烈な打球からのエラーや、外野のミスならばともかく、そして粘って出たフォアボールならともかく、打撃妨害。
これでパーフェクトを防いだと喜んだら、逆に恥ずかしいだろう。
「まあもう一点取ってくるから許しい」
「もう怒ってないし、いまさら一点ぐらい増えなくてもいいから、早く終わらせようぜ」
珍しく直史は、投げやりな雰囲気になっていた。
ターナーのエラーにも、動揺などしなかったのに。
ちなみに坂本は有言実行する。
有言過実行とでも言うべきだろうか。
スリーランホームランを打って、アナハイムは7-0と圧倒的なリード。
ブライアンは緊張の糸が切れたかもしれない直史に、ピッチャー交代を提案するかどうか迷う。
まだノーヒットノーランだ。
気を抜いて投げても、直史はコンビネーションで勝負するので、坂本のリードにさえ間違いがなければ勝てるだろう。
これが重要な試合なら、万一を考えて直史を交代させる。
だがノーヒットノーランが継続している状態で、ピッチャーを代えてもいいものだろうか。
いや直史にとってノーヒットノーランの価値はかなり低そうなので、それでも問題ないのかもしれないが。
「サトー、次はどうする?」
ブライアンに問われた直史であるが、軽く額を叩いた。
「行きますよ。急にブルペンを仕上げるにしても、大変でしょうし」
そうは言うが七点差あれば、野手に投げさせてもどうにかなりそうではあるが。
たとえば坂本とか。いや、もちろん正捕手に、元ピッチャーとはいえ投げさせるわけにはいかないが。
気の抜けた直史は、開き直っている。
今日はここからヒットを打たれても、全ては坂本のせいである。
ジンのせいや樋口のせいにはしなかった直史であるが、坂本には遠慮がなかった。
ただヒットを打たれて、もし坂本のミスがなくても、どうせパーフェクトは途切れていた、などと結果論を無理やりこじつけられるのも嫌だ。
結局は負けず嫌いの性格が、そのピッチングの精度が落ちることを許さない。
今年二度のパーフェクトピッチを食らい、サトーの最大の被害者、と言われていたオークランド。
パーフェクトは免れたが、それはあくまでもスコアの上での話。
心情的にはいまだにパーフェクトは続いていて、どうにかして阻止するべきだと考えている。
それに、勘違いしてはいけない。
確かにパーフェクトはなくなったが、いまだにノーヒットノーランは続いているのだ。
この状況でパーフェクトを阻止したぞ、と喜ぶようなやつがいれば、そいつは頭の異常を疑った方がいい。
あるいはこれでオークランドの打線は、余計に力が入ってしまったのかもしれない。
緩い変化球とボール球で、最終回を終わってしまう。
打者28人に対して、ぎりぎり99球のノーヒットマダックス。
今季オークランドに対して、四度目のノーヒッターを食らわせる、血も涙もない直史であった。
やはりあの、自責点にはならなかったとはいえ、一点を取られたことを恨んでいたのかもしれない。
意気消沈したオークランドのベンチへは、心無いファンからの野次さえ飛ばない。
同情されるというプロ野球選手にとって、最も屈辱的なことを、オークランドは味わっていたのであった。
この屈辱をバネにして翌年に活かすか、それとも心が折れてメジャーリーガーとして脱落してしまうか。
それもまたオークランドの選手たちの、それぞれの心意気の問題だ。
もっとも非情なのはこの年、まだレギュラーシーズンは終わっていないということ。
これ以上なく悲惨な目に遭ったオークランドが、残りの試合をまともに戦っていけるのかどうか。
それはまだ、誰も知らないが、なんとなく予想は出来ることではあった。
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