第35話 疲労

 120球とはなんだったのか。

 アナハイムのFMブライアンは、とても不思議そうな顔をせざるをえなかった。

 少しぐらい予定を超えてでも、オークランドは完封する。

 それが直史の意思のはずであったのだが。


 なんだか夢を見ているようなブライアンであったが、直史はインタビューに対して真摯に答えている。

「今日の試合は私にとって、過去最もタフな試合であった」

 あまり説得力がない。

「私が投げ切れなかったことから始まった五連敗は、明らかにチームのリズムを崩していた。ここで止めなければという意識はあった」

 意識した程度で、パーフェクトが出来るはずはない。


 今日の直史は、意識的にリミッターを外していた。

 なのでいつもよりも、純粋に球速が速かった。

 またスピンもいつもよりかかっていたので、変化球もキレキレであった。

 だがこれは普段なら、しばらくもう試合がない時のために、使うようなピッチングなのだ。


 たとえば甲子園の決勝、たとえば日本シリーズ最終戦。

 しばらく試合がないと分かっているからこそ、無茶は出来るというものだ。

 もちろん今日は、試合後に倒れるほど、完全な無茶をしたわけではない。

 ただそれでも、次の試合までに回復しているが、微妙なところではある。

(筋肉とか毛細血管とか、プチプチ切れてたからなあ)

 直史は遊びでならば、60歳まで草野球をやりたい人間なのだ。

 ボールさえ投げられなくなるほどの故障は、さすがに困る。

 それに大介との約束はあと二年。

 それまでは絶対に、壊れてはいけない。いや、終わっても壊れるつもりはないが。




 試合の翌日も絶対にキャッチボールをする直史が、この日は10球ほどを投げただけでやめた。

 指先に痺れが残っているのが分かったからだ。

 全力投球というのは、指先の毛細血管を破壊する。

 直史は体質的に、どうやら血管や皮膚が丈夫なようだが、それにも限度というものがあった。


 軽いジョギングはしたが、それも短い時間で終了。

 ゆるゆるとマッサージを受けて、酸素カプセルに入る。

 完全に回復に全力を注いでいるその姿に、あいつも人間だったのか、と多くのチームメイトが思った。

 そして同時に、今までは全力ではなかったのか、と小さくないショックも受けたが。

「まあテクニックだけでは上手くいかんと、パワーに頼んだところは屈辱やったんかな」

 パワーはそのままフィジカルに依存する。

 たとえば大介などは明らかに小柄で、体重もそれほど多くはない。

 だが骨密度が高く、腱や靭帯が強靭であるという、生来の身体的才能を持っている。

 直史もまたプロの世界に入るだけの、最低限の身体能力はある。

 しかしそれは、スーパースターになるほどのものではない。

 そんな肉体から、圧倒するようなピッチングをしようと思えば、それだけ無理がかかるのは当たり前だ。


 チームはオークランドとの第三戦を完勝し、次は敵地でシアトルとの対戦になる。

 アナハイムがヒューストンをボコボコにしているというのもあるが、今年のシアトルはまだポストシーズンが狙える位置にいる。

 ただそこも、どうにか勝ち越して次のカードに向かう。

 対戦するのはシカゴ・ベアーズ。

 三連戦の初戦が、直史のローテーションであった。


 かなりまずい。

 これまでもなんだかんだ、好調とは言いがたい状態で、なんとか抑えてきたことはある。

 だが明らかに不調と言える状態で、それでも投げなければいけない。

 ベアーズは開幕カードで、直史がパーフェクトピッチングをした相手である。

 序盤で勢いを殺されたが、それでも地区四位。

 それは100敗しそうな勢いのチームがいるからであるが、勝率は四割ほどとなっている。


 調子悪いアピールは聞き飽きた、と首脳陣はげんなりとしていたりするが、この日は本当に調子が悪かった。

 初回からいきなりヒットを打たれる。

 変化球を主体としたピッチングなのだが、普段ほどのコントロールがない。

 コースではなく配球で封じるしかないか、と坂本は普段よりもキャッチャーらしいことをする。

 

 ピッチングにおいて重要なのは、ホームランを打たれないこと、フォアボールを出さないこと。

 そして安易にストライクを取りにいって、連打を食らうこと。

「機械にようやく血が通った」

 ブライアンはひどいことを言ったが、チームメイトの多くが同意見である。




 七回を投げて二失点以内を、ハイクオリティスタートという。

 だいたい先発ピッチャーは、このハイクオリティスタートをどれだけ積み重ねられるかが、現実的な価値となる。

 あるいは六回を三失点というのも、クオリティスタートなので充分な価値がある。

 MLBのだいたいのチームは、勝ちパターンのリリーフを、七、八、九回に持っているからだ。

 競っている試合で毎度勝ちパターンのリリーフを使っていたら、さすがに消耗してくる。

 なので出来れば、ここをやりくりして負担を減らす。

 

 たとえばメトロズなら、上杉は毎試合投げても大丈夫なぐらいの頑丈さを持っているが、それでも故障明けだ。

 連投したら基本は、三連投は避けるのが常識だ。

 直史の場合は完投してしまうので、その分をリリーフは休むことが出来る。

 単純な一勝と、完投の一勝では価値が違う。

 だがさすがにこの試合は、リリーフに頼らざるをえない。


 七回までを投げて、108球。

 被安打四本で無四球無失点。

 ここからリリーフ陣に任せることになる。

 セットアッパーとしては、マイナーでポジションチェンジをしてきたマクヘイルが、立派に八回を抑える。

 九回にはクローザーのピアースを使うことなく、ビハインド状況でのリリーフを投入。

 それでも既に五点を取っていたので、失点はしたが勝利した。


 七回までを無失点で抑えることは、普通ならば素晴らしいことである。

 七回一失点でも、先発ピッチャーとしては間違いなく素晴らしい出来だ。

 だがそれでも、物足りないと思われてしまう。

 観衆は常に飽食している。

 直史に求められるのは、最低でもマダックス。

 既に三度も同じシーズンでパーフェクトをしていれば、期待値は上がってしまう。


 一点も取られないピッチャーなどいないのだ。

 偶然にも今年は、そんなピッチャーが二人もいるが。

 ホームランを打って当たり前、完封して当たり前、三振を奪って当たり前。

 そんなパフォーマンスを見せるために、直史は投げているわけではない。


 目的はあくまで優勝である。

 それもただの優勝ではなく、メトロズと対戦し、大介を破っての優勝だ。

 手段と目的を間違えることが、人間という生き物は多すぎる。

 そもそもプロ野球選手というのは、究極の個人であると言ってもいい。

 チームの成績などというのは、本来監督が考えるものであって、選手は己の数字を残すことだけに注力すべきなのだ。

 

 プロ野球選手の目的とは、優勝することなのか?

 いや、プロであるからには、金を稼ぐことが目的なのだ。

 技術を伸ばし、勝つことを考えるのは、アマチュアの思考である。

 プロはそれで生活をしてこそ。

 もちろん大介のように、純粋に野球を楽しむことが、悪いわけでもない。




 七回を無失点に抑えてるのに、調子が悪いと言われるのは、さすがに直史も不本意である。

 調子が悪かったこと自体は否定しないが。

 やっと普通のエース級まで落ちてきてくれた、と多くの人間が思っただろう。

 それは野球界の人間はそうで、普段野球に慣れていない人間からすれば、分からなくてもすごいと言われるピッチャーが、普通になってしまって残念、ということになるのだが。


 スポーツを盛り上げるには、それまで関心を持っていなかった人間にさえ分かりやすい、明確たる記録や印象が必要だ。

 大介が過去50年間、誰も達成しなかった打撃記録を残したのと同じで、直史にも同じことが求められてしまう。

 ずっと点を取られないとか、連勝記録だとか、あるいは奪三振だとか。

 特に前回パーフェクトをしていただけに、この試合も期待は大きかった。

 数字が平凡の枠に収まってしまったのは、回復が間に合わなかったからだ。

 緻密なコントロールなしでは、やはり勝ちきれないのだ。


 コンビネーションを組むだけでは、それなりに打たれてしまうし、見せ球が増えてしまう。

 目の錯覚を利用するためには、それなりの球数が必要なのだ。

 普段の、打てそうで打てない球ではなく、打てないのが分かっているボール球。

 それで視線を誘導してからでないと、怖くて投げられないボール。

 まだボール球を投げても、無理やりにヒットにされることもあった。


 これが本来の、技巧派ピッチャーであるのだろう。

 ならば普段の直史はなんだと言うのか。

 ペテン派ピッチャーか、詐欺派ピッチャーか。

 いや実績的には神技派ピッチャーと表現してもいいのか。

 多くの人間は、悪魔崇拝者と捉えているかもしれない。


 インタビューでは素直に、肉体が回復していないと告白した。

 七回を投げて無失点は、控えめに言っても素晴らしいピッチングのはずだが、優・良・可で判断するなら、可のうちに入ってしまうらしい。

 いや普通に結果から考えれば、勝てばそれでいいだろうに。

 このあたりピッチャーの価値判断基準は、難しいとも言える。

 また味方の援護しだいで、勝ち負けは大きく数が変化する。

 それなのに一律に、マダックスぐらいは、と求めてしまう。

 もはや信者であるが、信者はやはり神に、生贄を捧げてでも奇跡を期待してしまうのか。


 直史としては年俸を払ってくれるわけでもない観客に、奇跡のバーゲンセールをする必要はないと考える。

 チケットが回りまわって年俸になるとしても、今年の直史の年俸は、既に約束された金額なのだ。

 成果報酬型ではあるが、インセンティブの中の200奪三振は、既に達成している。

 あと一試合完投すれば、200イニングにも到達。

 そしてここまで圧倒的な成績を見せ付ければ、競争者はクローザーの上杉ぐらいで、サイ・ヤング賞獲得も現実的。

 またア・リーグのシーズンMVPも、珍しいがピッチャーで取ることが出来るだろう。


 1000万ドルの年俸に対して、インセンティブが700万ドル。

 おそらくこれを取ることが出来る。

 一番の懸念とも言えた、上杉がナ・リーグに移籍したということも大きい。

 上杉もまたクローザーとしての記録を作るかもしれないが、直史は先発としてその上をいく。

 ならばやはり直史が、最高のピッチャーになるのだろう。




 東海岸ではメトロズが、強力な補強で連勝街道を走っている。

 冷静に考えれば、上杉を獲得したと言っても、八回までにリードしていなければ、上杉の出番はやってこない。

 なのでその時点でリードしていれば、メトロズには勝てる。

 そのはずなのに、全く勝てなくなった。


 なぜか。

 おそらく一つには、得点機会の問題である。

 メトロズが九イニングを攻撃に回している間に、相手チームは八イニングしか攻撃出来ない。

 その分得点力が増えるのは当たり前だ。

 どちらかと言うと殴り合いが多かったメトロズは、九回に相手に追いつくことが出来る。

 するとそこで上杉が登板し、相手を封じてしまう。


 また他には、精神的な問題が大きいだろう。

 九回でリードしていれば勝つ。

 そう考えていられるなら、精神的な余裕が持てる。

 逆に相手はどうしても、八回までにリードを奪うという、そんな固定観念に支配される。

 もっともボストン時代はやはり、ここまで圧倒的な影響力を持っていなかった。

 日本のスターズ時代も考えると、やはり上杉は攻撃的なチームにこそ、相性がいい。

 スターズ時代にライガースに負けることが多かったのは、やはり攻撃力の差があるのだ。


 それはそれ、これはこれで、アナハイムは日程を消化していく。

 遠征が続き、そしてアナハイムに戻ってきて、休みなくシアトルとの試合。

 先日は直史が投げず、二勝一敗であったが、今度は直史が第一戦を投げる。

 その事実にシアトルはげっそりとしているが、同時に期待もしている。

 直史がまだ、完全には調子を取り戻していないのではないかと。


 マスコミとしては直史の動向は、当然ながら毎日追いかけるものである。

 別に特別な取材をしなくても、普通に直史は練習をしている。

 ただブルペンでの投げ込みを、かなり減らしている。

 肩や肘などを気にした様子はないが、どこかに違和感があるのか。

 限界以上の球速を投げた肉体へのダメージが、まだ回復していないのではないか。

 不敗神話の終焉を、どこか意地の悪い気持ちで、期待しているところもある。


 完全無欠のスーパーヒーローと言うには、直史は冷静すぎるのだ。

 アメリカ人が好むのは、もっとテンプレ化した、大介のようなタイプだ。

 何があってもそのパワーで切り抜けていく。

 直史のように技巧を凝らすようなピッチングは、視聴者にも分かりにくいというのもある。


 そのあたり野球のピッチャーと言うのは、損なポジションであるのかもしれない。

 今でこそセイバーなどのシステムで、単純な表面上の数字ではない、本物のピッチャーの価値を決めることが出来る。

 だが以前には勝ち星や防御率など、味方の援護や守備力なしでは、ピッチャーの価値を認められなかった。

 日本などはいまだに、それでやっているが。


 ただ直史はそこは、いまだに勝ち星などにこだわる日本のシステムにも、それなりに納得できるものがあると思うのだ。

 エースというのは、チームを勝たせるからエースだ。

 エースが一点も取られなければ、チームはとにかく一点さえ取れればいい。

 実際に直史はともかく上杉は、そんな状況から春日山を甲子園に連れて行ったし、スターズを最下位から一気に優勝させた。

 エースというのは、力を持っている。

 もちろん正確なピッチャーの価値は、純粋に数字で査定すべきという意見も分かる。直史の価値観的にはそちらの方が正しいと言える。

 だが理屈を超越したところで存在しているのが、エースという存在だとも思うのだ。


 シアトルとの第一戦。

 復調したのかどうか、不安を残す一戦。

 エースは一回の表、まっさらなマウンドに立つのであった。




 シアトルは今年、アナハイムが一気に台頭したと言っても、ヒューストンが下がってきているため、ポストシーズン進出を諦めていない。

 テキサスとオークランドはもうチーム解体で来シーズンに向けた動きをしているが、シアトルはそれなりにトレードでの補強をして、ヒューストンとの順位逆転を目指している。

 さすがにアナハイムには、もう逆転できるとは思っていない。


 アナハイムも五連敗して、ずるずると落ちてくるのか、と思われるのが七月の末にあった。

 だがその連敗を止めたのは、やはり直史であった。

 シアトルにいる織田は、そんな直史のピッチングを見ていると、高校時代を思い出す。

 わずかに残った、逆転へのチャンス。

 それを念入りに叩き潰すために、直史は登場する。


 ただ前の試合を見てみても、直史が不調であったことは間違いない。

 その原因はさらにもう一つ前の試合で、パーフェクトをやったことにあると思う。

 普段よりも速いストレートを投げて、変化球は大きかった。

 コンビネーションももちろんこれまでのように使ってきたが、力技でバッターを三振にすることが多かった。

 一試合18奪三振というのは、今シーズンの直史の最高である。

 もっとも日本時代には、もっとひどい試合もあったものだが。


 そんなピッチングをしようと、直史は本質的には、グラウンドボールピッチャーなのだ。

 それを理解した上で、一回の表、織田はバッターボックスに立つ。

 ここから見ればわずかに、嫌そうな顔をした気がする。

 確かに織田は、直史からすれば苦手なタイプのバッターだ。

 アベレージヒッターで、読みも含めた上で、確実にヒットを打って出塁する。

 今シーズンの対決では直史に対してはっきり言って打てていない織田だが、他のバッターもほとんどが一割以下。

 それを考えるなら、一割でも打てていれば上等だろう。

 そして織田になら可能なのかもな、とは直史も思っていたりする。


 コンビネーションを駆使してくるのか、それともパワーピッチングなのか。

 そんなことを考えていた織田に対して、投げられたのはスルー。

 ゾーンの範囲ではあったが、見送ってストライク。

 どうやら攻撃的なピッチングではあるらしい。


 球速を確認したが、その間にも既に、直史はセットポジションに入っていた。

 これはおそらく、織田に読みの時間を与えないためのものだ。

 とりあえず今日は、各種テクニックを使ってくることは分かった。

 そこにどれだけパワーを上乗せしてくるかは、また別の話だ。


 ゾーンの中で勝負してくるが、簡単に打てそうな球などはない。

 むしろファールを打たせるような、ファールを打つのが精一杯な、そんなボールを投げてくる。

 ただ、初回の先頭打者の織田が、五球を粘ることが出来た。

 待球策をとっているわけではないが、まずは一番打者として、ボールの具合を見ることは出来たと思う。


 最後に投げられたのは、アウトコースのツーシーム。

 それに合わせていった織田の打球は、上手く左方向に飛んでいく。

 しかしそれに、サードターナーは素早く反応。

 ライナー性の打球をキャッチして、まずはワンナウト。


 打ち取られはしたが、少し方向か高さが違えば、ヒットになっていてもおかしくなかった。

「不調とまではいかなくても、絶好調ではないな」

 織田の報告に対して、シアトルのメンバーは頷く。

 今のシアトルはあまり、スラッガーを揃えてはいない。

 直史と対戦するのは、今季まだ二戦目だ。

 しかし一戦目は、ヒット一本に封じられてマダックスを食らった。

 16三振を奪われていたので、かなり力負けと言えるだろう。


 ミートしてくるシアトルの打線に対して、今日の直史がどんなピッチングをしてくるのか。

 初めての自責点を与えてやるぞ、と織田はベンチから味方の攻撃を見守っていた。

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