第36話 忍耐

 一イニングあたり15球。

 一般的なピッチャーが、想定内とする球数である。

 だいたい人間の指は特殊な体質を除き、連続で25球を正確に投げるようには出来ていない。

 精密なピッチングが出来るのは、15球までが平均だと言われている。


 直史は一回の表、その15球でノーヒットにシアトルを封じた。

 だが今日はツーストライクに追い込んでから、それなりに粘られる。

 スルーを使って内野ゴロや三振を取るのは、あまりいい傾向ではない。

(九回までどうにか投げたいけど、上手く打たせて取るには……)

 巧打者の多いシアトルは、どうしてもパワーのある変化球などを使う必要がある。

 やや力の抜いたボールを三球続けるより力の入ったボール一球を投げるのは、どちらが負担であるのか。

 直史の場合は後者である。


 昨年のNPBでの実験から、単純に中四日で100球を投げても、それ自体は問題ないと分かっている。

 単純な球数ではなく、全力投球がどれぐらいあったか。

 そしてまた投球と投球の間に、どれぐらいの間があるか。

 そちらの方が消耗とは密接な関係がある。


 直史はセットポジションからクイックで、とにかく素早く投げることを心がけている。

 試合時間は短い方が、人生の余裕の時間が増えるからだ。

 そんな哲学的な考えでなくとも、普通に自軍の守りは、短い時間の方がいい。

 守備に意識を持っていると、野手は打撃にも影響が出る。

 さっさと終わらせてしまう方が、いいに決まっているのだ。


 ただそれよりも、勝利の方が優先される。

「坂本、今日はピッチングのリズム、少し長めに取るからな」

「それはいいが、逆にしんどくならんがか?」

 リズムよく投げるということは、大切なことなのだ。

 坂本自身も元はピッチャーをやっていたので、それはさすがに分かっている。

「別に俺は、早いテンポじゃないと投げられないわけじゃないからな」

 単純にいつもクイックで投げていた方が、ランナーが出たときも同じように投げられるというだけだ。


 クイックで投げれば、確かに球威は出にくい場合がある。

 だが直史のフォームは、基本的に大学時代に完成している。

 そこから投げるボールを、無理に速くしたのがこの間のパーフェクトだ。

 もっとゆっくりと投げて、時々テンポを変えればいい。

 それもまた直史の投球術だ。

 しかしこれには、欠点もある。

 守備陣に負担をかけるということだ。


 直史がテンポの早いピッチングをするということは、守備にとってもいいことである。

 もちろんあまり早すぎると、シフトを微調整する前に投げてしまうことになるが。

 そこはちゃんと坂本からサインが出ている。

 しかし普段のテンポよりも遅いと、守備のリズムも崩れる。

 野球は基本的に、守備の時間が短い方が、圧倒的に優勢なのだから。


 そのあたりも考えた上で、あえてテンポを遅くしていくということ。

 おそらくそれはいつもなら捕ってくれる打球が、守備の間を抜けてしまうかもしれないということである。

 だがそれでも直史は、ピッチングの幅を広げることを選んだ。

「まあそう肩肘張らんでも、なんとかなるがよ」

 そう言ってプロテクターを外し、ネクストバッターズサークルへ進む。


 野球はチームスポーツだ。

 直史が一点も取られなければ、ほぼ負けることはない。

 だが重要なのはそれだけではない。

「あ」

 ランナーを置いた、ターナーのツーランホームラン。

 不調のエースに対して、初回から大きな援護点になったのだった。




 直史の背中を守る守備陣も、今日の調子がいつもと違うのは分かっている。

 あのパーフェクトを達成した次の試合に比べれば、それでもまだマシにはなっているが、調子は戻っていない。

 具体的には、変化球のコントロールだ。

 直史は変化球をコマンドに間違いなく投げ込めていたが、その精度が落ちている。

 ボール一個の精度で、間違いなく投げ込んでいた直史。

 それが今日はおおよそ四隅だけを狙っている。そしてそれがわずかに外れる。


 こういう時こそ、バックが守ってやらないといけない。

 難しい投球になって守備側の負担も増える。

 だがそれでも直史は、コンビネーションで勝負する。

 低めのストレートは、やや外れている。

 それを上手くキャッチして、坂本がストライクにしている。


 シアトルは巧打者が多い。

 直史のストレートのスピードなら、ゾーンの見極めも出来るだろう。

 だが今の直史は、自分のコントロールがいいという印象を、はっきりと利用している。

 一回に多い球数を使って、ゾーンの確認をしたのだろう。


 やや普段より広くなったゾーンに、シアトルは二巡目から対応してくるだろう。

 そして低めに投げても、今日はそれを上手く打たれる。

 内野の間を抜けるゴロではなく、内野の頭を越えるクリーンヒット。

 ランナーが三塁に到達することもある。


 ただ、そこからが凄いと思うのだ。

 遅い変化球を上手く使って、空振りをさせる。

 コースのコントロールと、変化のコントロールはいまいちでも、緩急のコントロールは失っていない。

 あとは上手くタイミングを外して、リリースポイントを変える。

 こちらの方は守備陣からは分かりにくいのだが、シアトルが強振してミートするのは難しいらしい。

(俺のところに打て!)

 アナハイムの守備陣は、同じことを考えている。

(俺がアウトにしてやる!)

 普段は明らかに、ボールの勢いを殺した打球を打たせている。

 だが今日はそこまでの精度はない。

 だからこそ、守備が重要になる。


 直史は基本的に、不言実行の人間である。

 試合前にビックマウスを叩いたことはない。

 それを謙虚と思うか、弱気と思うか。

 これだけの実績を出しているのだから、単に慎重なだけなのだと思う。


 チームが連敗した中、完全に相手を封じてまたも記録の更新。

 普段よりも力を入れていたのは、球速の事実だけでも分かる。

 少しだけ狂った歯車を、どうにか再調整しようという状態。

 三振を取ることがあまりなく、いつも以上に打たせて取るピッチング。

 本来ならシアトルはそういうボールを、ミートするのが上手いチームのはずだ。

 ただ今日の直史は、本当に打たれている。

 それでもどうにか失点の手前で耐えているのが、凄いと言うかなんと言うか。




 試合は進んでいく。

 ピッチャーを、エースを楽に投げさせようと、打線陣も奮起する。

 そこまで頑張らなくても、あと一点ぐらいでどうにかなりそうかな、と直史は思っているのだが。

 球数はあまり増えない。

 一回が大目だったが、その後は10球前後でまとめている。

 首脳陣は迷いながらも、一応はリリーフ陣に準備をさせる。

 ただ点差がそれなりにあるので、勝ちパターンのピッチャーを休ませることは出来る。


 どこまで投げさせるか。

「100球を超えたら交代させるか?」

「100球を超えたイニングで、110球に届いたら次の打者からとか」

「それは最後まで完投してしまわないか?」

 ブライアンはオリバーの意見を、直史に関してはあまり信用しないようにしている。

 今日の直史は、球が走っていない。

 ただそれでもコンビネーションで、なんとか失点を免れているのだ。


 序盤には苦しんだものの、そこからは球数も上手く減らしたピッチングが出来ている。

 ヒットが出ても単打で、そこから内野の連携でダブルプレイも取れている。

「これが天才か……」

 ブライアンはそう呟くが、直史としてはこれは小器用に投げているだけで、天才だのなんだのと言われるのは困るだろう。

 ただとにかく八回が終わった時点で、七本もヒットを打たれてはいるが、失点はしていない。

 5-0とリードしていて球数は98球。

 代えてもいいし、代えなくてもいい。ここからマダックスは不可能だ。

 ただし完封勝利が狙える。ここから先、積み重ねていけばそれだけ記録が伸びる、一シーズンあたりの完封記録だ。


 おそらくあと一イニング投げれば、110球に到達する。

 ここで楽をさせるべきかどうか。

 ピアースをクローザーとして出さなければいけない、二点差以内であれば考えは変わっただろう。

 だがこの点差ならば、確実に勝てる。

 記録は大切だが、これからまだまだ積み重ねられる。

 選手の負担を軽く考えてはいけない。

「サトー、ここまでだ」

「分かりました」

 直史は頷いて、ベンチに座り込む。


 ブルペンが投げ始めているため、観客にも交代は予想されているだろう。

 完全に満足なピッチングではなかったが、この試合で直史は、年間200イニングのインセンティブを達成していた。

 これで100万ドル。

 98球を投げて結局は無失点。

 ランナーを出しても返さない、という直史の目的は達している。

 また点差がついているので、勝ちパターンのリリーフは休むことが出来る。

 

 ここからシアトルとの四連戦は、割と強いピッチャーで当たることが出来る。

 そこでしっかりと勝ちをつかめれば、一つぐらいは落としても仕方がない。

(問題は次のラッキーズか)

 自分の仕事を終えた直史は、もう次の登板のことを考えている。


 球数は少なめで、それで打たせて取ることが出来た。

 ただ三振の数は少ない。分かっていたことだが。

(ラッキーズ戦までに調子を整えて、万全の状態に戻す)

 前の試合と今日の試合、投げるイニングの数は増えている。

 極端に言ってしまえばポストシーズンを考えて、あとは勝率のことを考えていけばいいだけだ。

 しかしすると、メトロズが怒涛の勢いで連勝してきて、アナハイムについに並んでいる。

 上杉の支援効果が大きすぎると思うが、それ以前からメトロズの連勝は始まっていた。


 日本シリーズと違ってMLBのポストシーズンは、年間の勝率のいいチームが、ホームフィールドのアドバンテージでも、有利になるように設定されている。

 直史としてはお祭り騒ぎの好きな大介を相手に、あちらのホームでは出来るだけ投げたくない。

 気が早いとは思うが、前倒しに考えていても悪いことではないだろう。

 次のラッキーズ戦は同じニューヨークで、直史が投げるのは三戦目。

 そこまでにアナハイムが負けていたら、また苦しい試合になるかもしれない。

 ラッキーズは充分に地区優勝を狙える戦力はあるのだ。


 試合自体はそのまま、アナハイムが無失点で勝利した。

 インタビューで直史は、調子が回復してきていると言った。

 嘘ではない。




 シアトルとの四連戦は、二勝二敗で終了した。

 これによってアナハイムはついに、シーズン序盤を除いてずっと続いていた、全チーム一位の勝率の座から降りることとなった。

 ただこれは直史からすると、仕方のないことだとも言える。

 上杉が加入したのだ。

 八回までをどうにかすればいいという、その安心感。

 クローザーをやったこともある直史としては、あれはやりたくないな、と思ったりもしているのだが。


 問題になるのは、そして試金石になるのは、次のラッキーズ線。

 幸いと言うべきか、ラッキーズは八月序盤に、メトロズとのサブウェイシリーズを行っている。

 それまでも四連勝のメトロズであったが、あそこの四連勝でさらに加速がかかったと思う。

 そのラッキーズは四連敗はしたが、その後は立て直してきている。

 

 六月にあった四連戦のカードでは、アナハイムが三勝一敗で勝ち越していた。

 直史も九回を投げて、ヒット一本のマダックスで終わらせている。

 アナハイムは今年のシーズン中のトレードでは、少しリリーフを補強しただけであった。

 その現在のアナハイムが、ラッキーズと対戦してどうなるか。


 正直なところ、全勝は難しいかな、と直史は考えている。

 理由は単純に、ピッチャーのエースクラスが当たらないからだ。

 第一戦は今年途中から先発ローテに上がってきたレナードで、7勝3敗。

 悪くはないが経験不足ではあろう。

 そして第二戦はリリーフデーで、普段は長めのリリーフを投げるウォルソンが先発。

 ただこの六試合は三イニングだけしか投げていないが、三失点と短いイニングなら好調ではある。


 三試合目の先発が直史だ。

 ア・リーグ東地区を、圧倒的ではないがトップの勝率のラッキーズとは、ポストシーズンでも普通に当たる可能性は高い。

 メトロズとの比較の意味だけではなく、ポストシーズンを見据えても、大事なカードになることは間違いない。

 シアトルとの四連戦の翌日、ラッキーズがアナハイムに到着。

 人気球団ラッキーズを相手に、アナハイムはまた満員のスタジアムで戦うことになる。




 ポストシーズンもそろそろ、見据えていかないといけないだろう。

 本当なら直史は、あのパーフェクトの後に一度、故障者リスト入りでもして休んでおいた方がよかったかもしれない。

 実際に去年、日本で中四日で投げていた時よりも、MLBの中五日の方が、肉体的にも精神的にもきついと感じる。

 おそらくそれは、様々な原因が絡み合っている。

 レックスはセの在京球団であったため、移動にかかる負担が一番少ない。

 またNPBは「あがり」の日があるためベンチにすら入らずに休む日がある。

 精神的には家族と一緒にいられる時間が長い。

 あとは日程が詰め込みすぎで、なかなか休まらないというのもある。


 それでも日本時代、限界だと感じた試合は何度かある。

 高校一年の夏は、単純に肘を痛めた。

 短い期間であったが、休まざるをえなかった。

 三年の夏は15回を投げて翌日も完投。

 こちらはむしろ精神的な面できつかった。

 そしてプロ一年目の、日本シリーズでの連投。

 これが最後の試合だと分かっているからこそ、出来た無茶である。


 今回の無茶は、それに比べればずっと手前で立ち止まっている。

 だがそれでもバイオリズムに狂いが生じたことは間違いない。

 直史のピッチングとは要するに、95点を常に取り続けるようなもの。

 だがたまに100点を取ってしまうと、その力の配分が崩れて、他のところが欠けてしまう。


 自分の限界は、自分でも分からないものだ。

 ただ精神的な疲労は、間違いなくMLBの方が大きい。

 そして肉体的にも、休んでいられる時間が短い。

 飛行機の中の時間というのは、そうそうリラックスして休めるものではない。

 少なくとも直史はそうだ。


 現在MLBを蹂躙している直史だが、これに関しては本当に、メジャーリーガーは化け物だと思う。

 タフでなければ生きられないのが、メジャーリーガーなのだろう。

 特にパワーピッチャーどもの、あの出力はなんなのか。

 ゆるゆると投げなければ、直史にはとてもローテは回せない。

 もっともゆるゆると投げているくせに、抑えられている直史の方が、他から見れば意味不明なのだが。




 ラッキーズとのカードは、それほど劇的な展開はない。

 アナハイムに比べてラッキーズがそうそう強いかと言うと、ピッチャーの弱いところで当たったということも含めて、それほどの差はない。

 あちらには同じ日本人選手としては、直史と同年齢の井口がいる。

 同じ東京の球団ということもあって、何度か会うこともあった。

 オールスターや日本代表など、接触の機会は多い。

 だがこのMLBの場では、それほど積極的に会おうとは思わない。


 時期的にそろそろ、本格的にポストシーズンを狙っている季節だということもある。

 アナハイムは途中で連敗はあったが、それでもア・リーグでは勝率で一位。

 一方のラッキーズも、おそらくはポストシーズンへ出てくる。

 上杉がいなくなって、ボストンの戦力が低下したというのが大きい。

 ただそれでも、中堅層の選手層は、ラッキーズ派揃っていると思う。


 レナードの投げた第一戦は、井口なども打ってきたこともあって、終始ラッキーズが優位に試合を進めた。

 だいたい六回ぐらいの段階で、首脳陣はこの試合、どう扱うかは決めるものだ。

 リードはされているが、絶望的とまでは言わない状況。

 リリーフ陣の継投を、本来なら行っていきたいところである。

 しかし明日は、そのリリーフ陣を使ってローテを回す日だ。

 運よくリードしていたなら、勝ちパターンのリリーフにつなげていっただろう。

 だが首脳陣は、そのままレナードを七回まで引っ張る。

 やや球数が多くなったが、レナードが若くて回復力があることも考えて、この起用なのだろう。

 ただ若くて経験が少ないというのは、自分の故障する場所が、どのあたりにあるかを分かっていないということでもあるが。


 最終的にアナハイムは、ややリードを広げられて第一戦を落とした。

 翌日は継投前提の、アナハイムの投手起用。

 明日が先発の直史としては、出来るだけ両チームの状態がフラットなまま、迎えたいものである。

 ラッキーズにしてみれば、アナハイムはリーグチャンピオンを争う相手と見ているのは間違いない。

 ここで三連勝でも出来れば、かなり優位に立てる。


 このあたりMLBのローテーションは、本当に融通が利かないな、とは直史は思う。

 だがこの時期にこんな勝率でラッキーズに当たるとは、誰も思っていなかっただろう。

 それにメトロズとの勝率の比較。

 出来れば離されることなく、追いかけて生きたい。

「クローザーが決まると、投手陣全体が引き締まるみたいだよな」

「上杉さんがあことか?」

 頷く直史に、坂本は苦笑する。

「そうは言うても、クローザーには役割の限界があろうが」

「あの人、日本では普通に先発してたからなあ」

 MLBのボールは上杉の大きな手にも、しっかりと馴染んでいるようだ。

「まあ、そうは言うてもあの人は、甲子園では優勝できとらんきに」

「プロではいきなり優勝してたけどな」

 それだけプロにおける戦力均衡は、高校レベルに比べればかなり出来ているものなのだろう。


 この第二戦、アナハイムは継投を、続けざまに行っていった。

 なにせ明日は直史が投げるから、おそらく一人ぐらいしか他にピッチャーはいらないのだ。

 昨日の試合で勝ちパターンのリリーフを使っていなかったというのも大きい。

 どうにか第二戦は、アナハイムの方がものにした。


 そして第三戦は、直史の先発となる。

 七回に八回と、完投せずに調整を続けた。

 せっかくこの我がままを聞いてくれたのだから、チームにはそれだけの貢献をするべきだろう。

 なお常識的に考えて、直史の求めたものは、我がままでもなんでもない。

(さて、最終調整の開始だ)

 まっさらな一回の表のマウンドに、直史は登った。



×××


 ※ なお本日はNL編で直史のやべー記録にも言及しています。

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