第32話 悪魔の仮面

 北米大陸は激震の中にある。

 国技とも言われてはいたが、実際にはだんだんと人気の凋落していた、北米四大スポーツの中の一つ、ベースボール。

 世界一の意味も込めて、MLBと呼ばれるその舞台に、スーパースターが誕生した。

 いや、スーパースターが飛来した、とでも言った方がいいだろうか。

 アメリカのスポーツの中でも、野球は特に記録が分かりやすい。

 バッティングに関しては、最近ではまたホームラン重視であったが、高アベレージを残しつつも、さらにホームランを量産する化け物。

 そんなものが出てきた次の年には、それ以上かもしれない化け物が出てきた。


 先発ピッチャーが試合の途中で交代してしまい、けっこう白ける要素も最近のMLBにはあった。

 ポストシーズンが人気があるのは、そんなエースが球数制限を突破してまで、クローザーにつなげるピッチングをするからというのもあるだろう。

 そして明らかにこれまでとは全く違う、テクニックだけでパーフェクトを達成していくのが直史だ。

 パワーはない。明らかにない。

 93マイルほどしか出ないストレートだが、変化球はほぼ無限。

 多くのバッターが勝負をして、出会い頭の一発以外、被弾もない。

 連続無失点イニングを軽く更新し、ノーヒッターを連発し、全くフォアボールでランナーを出さない。

 170km/hを投げるピッチャーもやってきたが、そちらはまだ想定内であったというか、以前から話は聞いていた。

 測定機械の精度が間違っているのだろう、という現実認識を拒む理屈で見えないフリをしていたが。


 それはまだ、クローザーで無双していてくれるからいいのだ。

 一度もセーブに失敗していないどころか、一点も取られていないが、それはそれでいいのだ。

 それよりも直史の、一点しか取られておらず、全ての試合で勝利という方が、よほどおかしい。

 過去の偉大なピッチャーたちも、とんでもない勝利数を記録していた。

 だがそれと同時に、多くの敗北も経験していたのだ。

 投げれば絶対に負けないピッチャーなど、興行が成立しないかのように思える。

 だが実際は、その記録がどこまで伸びるのか、そして途切れるとしたらどこでか、誰もが歴史の目撃者となりたがる。


 そんな中では何度も、ノーヒッターやマダックスを記録していた。

 一流のピッチャーでも、シーズンに一度経験したら、たいしたものだと言われる記録。

 それをもう、息を吐くように自然に、達成してしまう。

 数々の記録を更新してきたが、また一つ並んだ記録がある。

 それは一シーズンあたりの、完封記録である。


 過去のシーズンを見てみれば、一シーズンに60勝などという頭のおかしな記録がある。

 ただしこれは過去、一人のピッチャーが、連投するのが当たり前で、完投するのも多かった時代。

 チャールズ・ガードナー・ラドボーンは当時の記録で60勝をして、73先発しその全てを完投した。

 しかし完封した試合は、たったの11だ。

 たったの、というには多すぎる数字であるが。

 なお奪三振王として有名な、七度のノーヒットノーランを達成したノーラン・ライアンは、最高のシーズンで9完封を果たしている。


 直史はこれに対し、18先発で16完封を果たしている。

 やや球数が増えた試合で一度、リリーフに頼った。

 だがそれ以外の試合は全て、完投勝利。

 失点した試合が一度だけというのは、常識的に考えなくてもおかしい。


 ただ実際に、達成できているのだから仕方がない。

 そしてチームも70勝25敗という好成績で、その日を迎えたのである。




 ア・リーグ西地区、ヒューストンとの三連戦。

 その初戦が、直史の先発である。

 この試合に勝てば、シーズン17完封の新記録達成。

 アウェイでの試合だというのに、客席にはアナハイムのユニフォームを来たファンの姿が見える。

 おそらく普通の姿の客も、ヒューストンのファンはそれほど多くないのだろう。

 歴史的瞬間を見るために、ここに来ているのだ。


 それに加えて直史であれば、ノーヒッターやマダックスの可能性もある。

 間違いなく今のMLBで、一番価値のあるピッチングをするピッチャーだ。

 たった一人のピッチャーで、集客が爆発的に上がることはない。

 そのはずであったが、直史が先発ではない日であっても、アナハイムのホームフィールドでは、かなりのチケット売り切れが目立つようになっている。


 チーム全体への影響、相手チームへの威圧、そして圧倒的な存在感。

 ベンチの中にいるだけで、ある程度の集客が見込める。

 そんな極端なプレイヤーは、そうそういるはずもない。

 出来るだけファンの前には姿も見せまいと、こっそりと移動する直史。

 だがサインをせがまれれば、これも営業だとするしかないのだ。

 ただしサインは、あくまでも日本語で。

 宛名はさすがに英語で書くが、これを機に日本語の勉強でもしてくれたら嬉しい。


 前回もそれなりに祝福されたが、今回はその比ではないだろう。

 ただ最近は単に完封するだけでは、いまいち観客に受けていない。

 直史としては勝っているのだから、もっと素直に喜んでほしいものだが。

 完封勝利はして当たり前。

 ノーヒットノーランであっても、それほど珍しくはない。

 段々観客の期待というか、要求はエスカレートする。

 しかし直史は開幕戦から、全く何も変わっていないのだ。

 

 もはや恒例となっている、一巡目のパーフェクトピッチ。

 ヒューストンは本日は、待球策で来るらしい。

 ならば初球からストライクを取りに行くが、それも安易にど真ん中に投げてくるわけではない。

 最初から際どいコースを狙って、その日の審判の判断を見るのだ。

 なので直史に対するならば、強攻策が本来は適している。


 理論上はどうなのか、統計上はどうなのか。

 様々に考えてみても、成功例がないので、全ては机上の空論である。

 アナハイムはそれに対し、四回に先取点を取る。

 これだけで既に、もう勝てそうだからしっかりと守っていこう、とベンチの雰囲気が変わってしまったりする。

(そこから一点差を追いつかれた試合があるだろうに)

 直史はそう思うのだが、ちゃんと打撃成績も、考えているチームメイトがいる。

 野球はチームスポーツではあるが、その年俸はリアルに個人成績に直結してくる。

 ならばチームにとって貢献するエゴは、充分に必要なものである。


 ロケット打線などと呼ばれる、高打率の長距離砲を、カーブでくるくると回していく。

 たっぷりと見せ球でファールを打たせた後に、ストレートを高めにやや外す。

 やはりいつも通り、淡々とアウトが積み重なっていく。

 対してアナハイムは、ソロホームランが二本でさらに点差をつけていく。


 直史が投げるごとに、緊張感が高まっていく。

 今日はまだ打たれていないな、という緊張感だ。

 それは同時に期待感でもある。

 試合の中の一場面ずつを切り取れば、それほど驚異的には見えない。

 直史は本日、省エネで三振を奪わない組み立てをしているからだ。

 ある程度打たせていくため、内野の間を抜けたり、頭の上を越えてヒットになったり、ノーヒットは難しい。

 それだけバックを信頼しなければ、出来ないピッチングなのだ。


 ただ、直史はバックを信頼していると言うよりは、単に統計的に考えているだけだ。

 それなりに守備力の高いアナハイムの内野を考えれば、ゴロは上手く捌いてくれるだろう。

 そして外野にまで打たれても、外野の守備範囲は広い。

 おかげで中盤からは、どんどん打たせてアウトが簡単に取れていく。


 観客席のざわめきと期待。

 そんな中で直史は、守備についている味方を見る。

 パーフェクト継続中ながら、あまりプレッシャーはかかっていないようだ。

 何度目だろうか、この感覚は。

 観客にとっては滅多に見られないものでも、既に味方にとっては日常。

 嫌な慣れである。




 七回が終わった時点で、球数は71球。

 出したランナーは一人もなし。

 MLB記録の17完封目に、パーフェクトとマダックスを付けようというのか。

 どれだけ贅沢なのだ、と思う者も多いだろう。

 だが至高のピッチングを目指していけば、パーフェクトもマダックスも、両立して存在する。

 ただ色々な記録が同時に達成されるのは、さすがにまだまだ慣れていないと言うべきか。


 八回の裏、とりあえずワンナウトを取る。あと五人でまたも大記録達成というところで、バッターは投げた球の下を、こするように打った。

 ライト方向セカンドの頭を越える。

 浅めに守っていたライトが全力で前進し、ライトゴロを狙う。

 いや無茶をするな、と思っていたところ、ライトはそのグラブに、ボールが入らない。

 ころころと後ろに転がるのを、慌てて振り向いて拾いに行く。


 ランナーは二塁に進む暇はあったろう。

 だが一塁を全力で駆け抜けたため、進塁が遅れた。

 二塁に進むことは出来ず、そのまま一塁でストップ。

 表示されたその出塁は、ヒットに分類された。


 まあキャッチして投げても、普通にファーストはセーフだったろうな、と思う直史である。

 だがスタジアムを埋める観衆はそれでは納得しなかったのか。

 深いため息が聞こえたし、ブーイングも聞こえる。

 エラーをしたように見えるライトか、それともヒットと記録したスコアラーにか。

 まさかヒットを打った一塁ランナーに対してではないだろうが。


 パーフェクトが途切れたからといって、それに対する文句を直史以外に求めるとは。

 わずかに分からないでもないが、それは打たれた直史の責任であろう。

 ただこの騒々しさは、利用できなくはない。

 まだ全く収まらないスタジアムにおいて、戻ってきたボールを直史はキャッチする。

 そしてゆっくりと、坂本のサインを見つめる。


 注意散漫である。

 だから直史の牽制球に、体の反応が遅れる。

 今年何度目になるのか、ランナーとして出てしまったところで、少し気を抜いてしまうのか。

 一塁タッチアウトで、ランナーは消えた。

 これでツーアウト。

 球数を一球も増やすことなく、アウトカウントを増やした。




 八回のあれが、最初にして最後のチャンスであったのだろう。

 内野ゴロなりなんなりでも、ランナーを進めてツーアウト二塁にしていれば。

 それでも浅めに守るアナハイムの外野から、単打のワンヒットで一点を取るのは難しかったろうか。

 とにかくああいった状況を自分で片付けてしまうあたり、直史が失点しない理由になる。

 もっとも坂本も、しっかりと牽制のサインを送ったのだが。


 九回の表に、もう必要もないだろうに、アナハイムは三点を追加した。

 これで完全に、ヒューストンの心は折れたと言っていいだろう。

 下位打線に代打を送ってくるが、とりあえず経験でも積ませようというのか。

 直史は、下手に今まで萎縮していないバッターには、大きく変化する変化球を使っていった。

 カーブとスライダーで、打ち損じを狙う。

 だが実際のところこんな場面で出された代打が、満足に働けるわけもなし。

 最後は三振で、スリーアウト、ゲームセット。

 17個目の完封という、これまでに比べればやや地味目に見えてしまう、大記録が達成された。


 九回打者27人に対して、92球のマダックスにて勝利。

 出たランナーは、ヒットの一人だけで、それは牽制球によりアウト。

 奪三振は11と、ほぼ奪三振率通りの数字を出している。

 あのヒットは本当にヒットでいいのか、と試合が終わってからも散々に言われた。

 インタビューにおいても、直史自身の考えを訊かれたものである。

「ライト前に落ちた球をヒットと認めないのは、かなり無理があると思う」

 審判にもそうであるが、直史はスコアラーにも配慮する。

 確かにこの大記録において、ノーヒットノーランも同時に達成していれば、よりセンセーショナルになっていただろう。

 エラーにしていれば、あるいはライトがライトゴロでアウトに出来ていれば。

 ただそれは全てが、自分の都合がいいように働いた場合の話だ。

 パーフェクトなどというものは、なかなか出来るものではないのだ。

 何度も達成している直史でさえ、そう思っている。


 大学時代にも最後に、パーフェクトをどんどんと連続で達成したのは、相手がもう最初から諦めていたからだという要素が強い。

 NPBではそれなりに、絶望に抗う姿が見られた。

 しかしMLBでは、もう完全に試合の中盤で諦めたような空気になっていると感じる。

 今日の試合はもう負けだから、さっさと次に行こう。

 そんな考えの中から、なぜだかポテンとヒットが生まれたりするのだが。


 それでもあのヒット一本がなければ、パーフェクトだったのだ。

 しかも単なるパーフェクトではなく、マダックスによるパーフェクト。

 ただ不思議というか、直史にとって最高の形であると、パーフェクトを達成できた試合は、同時にマダックスも達成できていることが多い。

 球数が多いパーフェクトやノーヒットノーランは、基本的に少ないのだ。

 つまりマダックスを、そしてそれ以下の球数を狙う中で、打たせたボールを内野が上手く処理してくれる。

 それが直史にとっての、理想のピッチングなのだ。




 理想のピッチング。

 81球以内のパーフェクトを、直史は達成した。

 だがそれは本当の、究極のピッチングではない。

 27個のアウトを、27球で取る。

 完全な机上の空論であるが、あとはこれにどれだけ近づいていくかだ。

 

 直史のピッチングスタイルが完全に確立した大学二年の春以降、九回をパーフェクトに抑えて、最も球数が少なかったのはどの試合か。

 少なくとも公式戦においては、大学でもNPBでもない。

 MLBのデビュー戦となった、シカゴ・ベアーズあいての72球パーフェクトだ。

 これがMLBのパーフェクトの、最少球数パーフェクトの更新でもある。

 このデビュー戦がまさに、直史のピッチングの理想に最も近づいたものだと、試合を単体で見れば思えるだろう。


 だが直史は、もっと長期的な視野で、シーズンを見つめている。

 直史にとって大切なのは、実は優勝することですらない。

 大介に対して、恩を返すことだ。

 つまりワールドシリーズで対決し、全打席をノーヒットで抑えることだ。

 そのためにアナハイムには、地区優勝をしてから、ワールドシリーズにまで進んでもらわないといけない。


 日本時代もそうであったが、完投して勝利するというのは、チームの消耗を抑えることになる。

 だから直史は無茶をしない程度に、つまり球速の限界になど挑戦しないよう、コンビネーションでバッターを打ち取っている。

 その結果で、パーフェクトも出来てしまったりするが。

 さすがに直史も、試合後との集中力の差は、意識してコントロールできるものではないのだ。


 直史のインタビューの受け答えは、まるでいつも通りのものであった。

 挑発するような質問に対しても、ビッグマウスで宣言することはない。

 もう一度パーフェクトは出来そうかとか、マダックスを狙うとか、そういった宣言はいっさいしない。

 ただチームとして疲労の残らない理想の試合展開を望む、とそういった言い方をするのだ。

 言質を取られない、有効な回答だ。

 日本人らしい、はっきりしない言い方だと批難されることもある。

 だがこれは実は、大介も同じようなことを言っている。


 お前らは何かを期待しているのだろうが、俺たちは言葉でどうこういうものじゃない。

 野球選手はプレイで見せてこそ、その真価と言えるのだ。

 別に他の選手が、大口を叩くのはいい。

 だがそれを俺に求めるな。

「私がやっていることは、どの試合でも変わらない。結果が変わるのは、ほんの少しの体調の変化、相手の思惑との絡み合い、そして大部分は運だ」

 幸運、という言葉を使われると、野球マスコミは弱いところがある。


 かつて難病によって引退し、そのわずか後に死亡したルー・ゲーリックは、MLB史上最高のスピーチと呼ばれた中において、自分のことを幸運な男だと言った。

 直史はニュアンスは違うが、それをやや引用するようなことを言う。

 自分が万全のコンディションで投げられるように、家庭ではフォローしてくれる妻、そして戦う勇気をくれる娘。

 球場の中の、清掃をしてくれるスタッフに、サポートのスタッフ、コーチにトレーナーといった、事前準備を整えてくれるスタッフ。

 そして実際の試合では、点を取ってくれる味方の打線に、打たれた球をしっかりとアウトにしてくれる守備陣。

 そういった人々が、自分の周りに集まってくれていることが、こういった成績につながっているのだと。


 嘘くせーーーーーー!!!

 これを聞けば聞くほど、案外単純なMLBの選手たちは照れてしまうのだが、坂本などは騙されない。

 ただ瑞希は、これが実のところ、本心でもあるとは分かっている。

 夜の睦言の中で、いったいどれだけの愛を囁かれたことか。

 直史はベットヤクザであるのだ。


 そもそも直史は弁護士であるが、大学時代からディベートは得意であった。

 そして淡々と事実を述べているように思わせながら、被告への同情を買うような言葉にすることが得意であった。

 刑事事件をやらせれば、相当の執行猶予が取れるだろうな、というのが直史の弁護士としての腕である。

 もっとも刑事事件は、労力がかかる割りに報酬が少ないので、国選弁護人に選ばれたときぐらいにしかやらなかったが。

 ただ実際にそういった刑事事件においても、事件にいたる過程や動機などの説明で、陪審員を味方につけるのは抜群に上手かった。ただ意識的に構成の余地があるかないかは判断して労力をかけていたが。

 悪魔は口が上手いのだ。


 佐藤直史は野球聖人なのだと、アメリカでは錯覚されている。 

 むしろ悪魔のような男だとは、対戦したバッターと、そして大学時代のチームメイトは良く知っている。

 だが表面に見せる善性は、これもまた嘘ではないのだ。

 人は多くの場合、二面性を持っている。

 直史はプロ野球という世界で、これが人気商売であると分かってスタジアムの外でも戦っているだけだ。

 大介や上杉などは、本当にその人柄が善性であるため、色々と考えなければ勝てない。

 イメージはクリーンであればクリーンであるほど、誤審をした審判への攻撃も大きくなる。

 直史は誤審をした審判を、批難することはない。

 ただ誤審への批難を、控えるようにと言うこともない。

 バランスの取り方が、とても上手いとは言える。

 そういった言動を聞くたびに、日本では樋口などが大笑いしているのだが。


 ともあれ、大記録は更新した。

 次の大記録は、24連勝にでもなるだろうか。

 だが次の対戦相手はボストン。

 八回までに勝っていなければ、絶対に負けるボストンが相手。

 レギュラーシーズンでは、上杉との最後の対決になるだろう。

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