第23話 人間宣言?
直史の態度がなぜ、あれほども理性的で謙虚であるのか、ようやくアメリカのマスコミにも分かってきた。
ショービジネスの世界にはビッグマウスがいるし、逆にその道を極めるような人格者もいたりする。
だが佐藤直史は違う。
彼は当たり前のことを、当たり前に行っているだけなのだ。
このヒット一本さえ打たれなかったら、またもパーフェクトを達成していた試合。
「球数も抑えられて、次の試合でも普通のピッチングが出来そうだ」
そう、直史はやたらと、運が良かったとか、いつも通りという言葉を使う。
普通のことなのだ。
パーフェクトやノーノーに近いピッチングが出来るのは、普通のことなのだ。
「そんな馬鹿げた話があるのか?」
記者たちはそう話し合い、日本での取材経験が長い記者には、それなりに注目が集まる。
だが直史はプロに入ってからまだ三年目。
ブランクがあるのだ。
日本の甲子園のことは、アメリカでもよく知られている。
それを一言で言うと、クレイジーという極めて想像力に乏しい感想となる。
黒人は貧しく無教養で暴力的、などと言ったら普通に誰もがそんなことを言った人の方を非常識扱いするだろう。
なので甲子園に行くようなチームであっても、今は時代が変わっているのだ、ということを知らないアメリカマスコミは多い。
アメリカの場合はプロスポーツに行くような選手でも、大学を経由してドラフトから中退というパターンが多いからかもしれない。
大学のリーグ戦と、全国大会の方が、アメリカでも想像はしやすかったらしい。
だがそれは高校野球以上に、アメリカ人の目からすると時代錯誤に見えたようだが。
実際にそうであるので仕方がない。
甲子園に行くために選手を上手く育てなければいけない高校野球、その高校野球に選手を供給するシニアチーム、実際に興行を行うプロ。
注目度も低く最後の最後まで惰性でやる大学野球は、本気の人間はもう野球に毒されすぎている。
直史などは樋口と共に、それを破壊してしまったが。
高校時代に延長15回をパーフェクトに封じたことや、ワールドカップでのパーフェクトリリーフ。
大学野球では半分以上の試合でノーヒッターやマダックス、また大学選抜として日本代表と対戦し、それを封じて勝ってしまったこと。
例外的に大学からWBCに選出され、その決勝ではマダックスで優勝に貢献。
そしてなぜか弁護士になって、そこからブランクを経てプロに入ったと思ったら、一年目からあらゆる賞やタイトルを独占。
フィクションの登場人物でも、もう少し遠慮する経歴である。
ハイスクールでも、カレッジでも、プロでも。
佐藤直史のすることは変わらない。
よりレベルは上がっているはずで、実際にそうなのだが、それでも残す実績は桁違い。
だからNPBからMLBにやってきても、成績が落ちないのは不思議ではないのか。
そんなはずはない。
そんなはずはないはずなのだ。
単純にMLBの方が日程などから、選手の消耗は激しいはずだ。
確かにそうなのかもしれないが、ならばそれに合わせたピッチングをしてしまうのが、直史なのである。
ラッキーズとの四連戦のカードは、初戦こそ失ったものの、それ以外には勝利した。
新しくローテに入れようとマイナーから上げたレナードが、それなりに踏ん張って初先発で初勝利を上げた。
さほどローテが強くなかったところで、勝ち越せたのは大きい。
フランチャイズに戻ってきたアナハイムは、ここからア・リーグ中地区の二チームと、三連戦のカードを二つ行う。
まずはクリーブランドとの対戦は、二勝一敗で勝ち越し。
ピッチャーの強いところで当たれば、確実に勝っていける。
そして次のミネソタとの第一戦が、直史の先発登板となる。
前の試合でリリーフを少し多めに使っているので、首脳陣から求められるオーダーは完投勝利。
つまりいつもと同じということである。
ミネソタ戦は今季二登板目の直史である。
前の対戦では珍しいことに、パーフェクトもノーノーもマダックスも食らっていない。
単に完封されただけで、ダメージは少なかったと言える。
去年の成績は地区最下位であったが、それほどぼろ負けに負け続けたというわけではない。
今季も五割近くの勝率を保っていて、勝つか負けるかは相手次第。
ならば今日は普通に負けるのだろう。
ここまで117イニング連続無失点の直史。
MLBの記録を塗り替え、自らそれを更新していっている。
永遠にそれが続くのか、とも思われた。
「あ」
一回の表、一番への初球が抜けた。
前の試合まで下位打線を打っていたバッターは、ここでも積極的に振っていく。
ジャストミートした球は、そのままライトスタンドで。
打った本人が呆然として、そのまま走り出さない。
審判からハリアップと急かされてようやく、何度もジャンプしながら走り出した。
MLBのアンリトンルールの一つとして、ホームランを打ってもバッターは騒ぎすぎず、しっかりと走ってベースランをする、というものがある。
はしゃいでスキップしながらベースを回っても、ルール上はアウトにならない。
だが次の打席でデッドボールを食らう。
もっとも最近はある程度緩和されて、よほどのことではない限り、報復死球にはならないのだが。
ただこの喜びようは、まさに常軌を逸していた。
MLBに移籍して以来、無敵の魔法使いであるピッチャー。
それから一点を取って、しかもこれは先制点。
あるいはこれが、決勝点になる可能性すらある。
スタジアムは歓声はもちろん、ざわめきさえ起こらない。
「え、これやっちゃって良かったの?」
という雰囲気に満たされている。
ただ直史だけは、少し違った反省をしていた。
別に点を取られるのは構わない。ただ取られた状況が悪かった。
まだアナハイムが、リードしていない段階。
直史がリードされている展開というのは、アナハイムにとってオープン戦以外では初めてである。
(まあ切り替えるしかないか)
時間を元に戻せない以上、ランナーが一人もいないこの状況を、まだマシと考えるしかない。
そう思った直史であるが、審判から新しいボールをもらったら坂本は、その顔を見ながら――ホームベースを踏んだ。
「アウッ!」
………………………………へ?
さすがに数秒呆然としていた直史であるが、つまりそういうことなのだろう。
ホームベースを踏み忘れ。
ちなみにバッターはホームを踏み忘れても、だいたいベンチにさえ戻らなければ、まだインプレイとみなされることが多い。
もしくはホームからどれだけ離れたか、で判断する場合もある。
今回の場合は坂本が、ベンチに戻るまでじっくり見てからベースを踏んだわけか。
一瞬静まり返ったスタジアムが、大きなどよめきに包まれる。
バックスクリーンのモニターに、はしゃぎまわるランナーがベースを回る映像。
「三塁も踏み忘れてるじゃねえか」
直史でさえもう、呆れるしかない。
こんな状況のホームランで、さぞや嬉しかったのだろう。
そりゃあもう将来、MLBの歴史を紐解けば、ホームランを打ったバッターも記録に残るであろうからだ。
足元がふわふわしても仕方はないが、ホームは踏み外しがあったとしても、三塁の踏み忘れなどあるのか。あるのだ。
どうせこのチョンボは、記録に残るだろう。
ただ打たれた直史は失点が消えたとはいっても、精神的な動揺は逆に大きい。
不運ではなく幸運が、むしろ動揺させてくる。
一回の表を無失点で切り抜けた直史であるが、ついにフォアボールのランナーは出してしまった。
ホームランでホーム踏み忘れのアウトだが、実際にはサードベースも踏み忘れていた。
いったいこれはどうスコアに記録されるのだろう、と直史も不思議に思っていた。
そんな集中力が微妙な状態で、ピッチングを続けたのが悪かったのだろう。
序盤に三つもフォアボールを出して、それでもどうにか試合が進むごとに微調整をしていく。
ちなみに普通にホームだけの踏み忘れであれば、スリーベースヒットを打った後にホームでアウトになった、という扱いになる。
だが三塁も踏み忘れていたので、ツーベースということになる。
普通に踏み忘れアウトというのは何度かあることだが、二箇所も踏み忘れるとは、どれだけ嬉しかったのやら。
今ではベンチで、死んだようにピクリとも動いていないが。
これまで他人を驚かせる一方であった直史が、今度は驚かされた。
それによるメンタルの動揺は、制球に表れた。
一回から三回までは、一つずつフォアボールを出した。
四回からは立ち直ったが、変化球が高めに浮いて、クリーンヒットを打たれる回数が多くなる。
それでも点が入らなかったのは、技術ではなくもう運の領域である。
ただ「あいつも人間だったんだなあ」と思っていた周囲が驚かされたのは、終盤の七回から九回までは、一人のランナーも出さなくなったこと。
色々とメンタルもメカニックも、この試合の中で修正してきたのである。
結局は九回33人に108球も投げて、ヒット四本とフォアボールが三つ。
それでも見事な完封だが、物足りないと思われてしまうのも仕方がない。
インタビューでの直史は、既にいつもと変わらなかった。
ただ奇跡的に無失点記録が続いていることには、当然ながら言及される。
「失点については別に気にしていなかった。いずれは取られるものだろうし、日本でもホームランは打たれていたから」
強がりでもなんでもなく、ここまで無失点が続いてきたというのは、運の要素が強い。
「それよりも問題なのは、心を乱してしまったことだ」
そちらは本当に、言い訳のきかない失態である。
単に失点しただけなら、記録が途切れたなと無感動に思うだけでよかった。
だがそれが奇跡的にまだ続いてしまったことで、逆に動揺してしまったのだ。
人はピンチの時だけではなく、チャンスの時にもプレッシャーを感じる。
思っていたことが上手く行き過ぎることでも、人は調子を崩すことがあるのだ。
正確にはこれは、直史の計算外によるものだった。
想像の外のことであると、人は動揺してしまう。
たとえば瑞希の妊娠が発覚した時なども、直史は嬉しかったが動揺し、日常でポカミスをやらかしてしまった。
これは別に野球のことだけではなく、普通の人間の普通の日常で起こりうるものである。
仕事や生活に充実していて幸せを感じていても、何かのきっかけでそれが反転する。
直史も人間なので、心の隙というものは発生する。
ただこれだけの強運は、本当に人間なのかと疑われることもあるが。
しかし日ごろのインタビューで運がいいと言っていたことが、まさに謙遜ではなく事実だとは思われた。
フォアボールが出たことで、これまで計測不能だった幾つかの指標が、ようやく算出出来るようになった。
だが逆にそれによって、どれだけコントロールがいいのかも、明らかになってしまったが。
116イニングも投げて、ようやくフォアボールが三つ。
奪三振の数と比較しても、歴代のあらゆるピッチャーが、全て腰を抜かすレベルの制球力だ。
ただこれで、本当にちゃんと、点は取られる生き物だと認識はされたのかもしれない。
一人のエースが崩れてしまう。
それは絶対的であればあるほど、影響は大きい。
それでもミネソタ相手には二勝一敗で勝ち越し、次はオークランドとの試合。
今季は二度目の対決カードであり、一度目の三試合には直史は登板していない。
現在の・ア・リーグ西地区では、最下位となっている。
この数年は勝つよりもチームの選手の育成を考えているのか、最下位が続いている。
今年もそれは同じで、負けっぱなしである。
若手中心で構成されて、あとは年齢の割には安い選手。
かなりの貧乏球団ではあるが、過去の歴史を見れば黄金時代もあったのだ。
若さの勢い、というものがある。
アナハイムは既に、安定して勝っていけば、そのまま地区優勝できる、というイメージがある。
大切なのは安定して、そして怪我人を出さずに勝つことだ。
直史のおかげでリリーフが温存できて、それで投手力の底上げは出来ている。
だが粗い攻撃のオークランドに、それで負けてしまうこともある。
しかしスターンバック、ヴィエラの勝つ先発二枚が連続でまけてしまったのは意外だった。
打線が勢いづいたときの、爆発的な殴り合いでは、アナハイムに勝てるのだ。
ロースコアに抑えることの出来るはずだった先発二人が、五回で降板。
そんなに早く降りてしまえば、リリーフも多く使わざるをえない。
勝ちパターンのリリーフピッチャーが、打たれて逆転負けというわけではない。
そこに至るまでに序盤から、殴り合いに負けている。
連敗の後の三連戦最後の試合が、直史登板であった。
前の先発では、本当に奇跡的に無失点の試合になったと言える。
ヒット四本にフォアボール三つというのは、普通なら点が入っていてもおかしくはない。
連打を許さなかったのが、勝利した要因であろう。
だがもう、絶対に点が入らないという信仰は、途切れてしまっている。
記録上は無失点であっても、実際には点が取れるのだ。
オークランドとの試合は9-11、8-10と点の取り合いで負けている。
この流れを止められるとしたら、それは確かに直史しかいない。
「調子が良さそうだなあ」
直史は他人事のように呟くが、前の試合とは違うところが一つある。
それはこの試合が、先攻であるということだ。
オークランドはおそらく、積極的に振ってくるのだろう。
この二試合で打撃に、かなりの自信を持っていてもおかしくはない。
今は殴り合って勝てる勢いを持っている。それがオークランドだ。
そして直史は、そういうフラグとか流れだとかを、叩き折ることに長けている。
一回の表にアナハイムは一点を先制する。
だが少しぐらい、点を取られた方が、打線が調子に乗るのがここのところのオークランドだ。
「若いチームが何も考えずにぶんぶん振り回すのは、普通に相性が悪いんだよな」
そう言う直史の表情に、悲壮なものは全く浮かんでいなかった。
今のオークランドは、とにかく振ってくるチームだ。
ただし勢いづいているだけで、本当にチーム力が向上しているわけではない、と直史は思っている。
前の二試合も見ていたが、深く考えすぎなのだ。
とりあえず先頭から、カーブを投げてみた。
打ったボールは高く上がったが、セカンドがキャッチしてフライアウト。
一球でワンナウトが取れてしまった。
(振り回してくるなあ)
そう思った直史は、内と外に投げ分ける。
追い込んでから際どいコースに投げれば、ボールだろうに振ってくる。
一回の裏を無失点で抑える。
三振は奪えなかったが、六球でイニングが終わってしまった。
ボール球や難しい球に、手を出してくるのが今のオークランドだ。
そして調子がいいと、パワーだけで打球は外野まで飛んでいくのだ。
直史がこの試合に主に投げるのは、カーブとチェンジアップ。
速球系は全て、ゾーンからは外れるように投げる。
究極のピッチングは27人の打者を27球でしとめてアウト。
だがそんなものは、机上の空論ですらない。
81球以内の完封が、現実的な理想。
そして直史は今年、それを上回るピッチングを既にしている。
打ちたくて仕方のない速球系がボール球になってファールでカウントを稼ぎ、そしてチェンジアップやカーブにも手が出てしまう。
前の二試合で派手なことをしすぎて、打線が大味になっているのは確かだった。
アッパースイングになって少しぐらいの変化ならば、その変化ごとスタンドまで運んでしまう。
確かにフライボール革命の理屈の一つではある。
だがボール球になれば、上手くバレルで打つことは難しい。
そして緩急をつければ、タイミングをとるのもまた難しい。
大きく変化するカーブなら上手く角度がつかない。
前のめりになった状態からでは、チェンジアップも待って打つことが出来ない。
日本流の配球が、今のオークランドには、極めて有効だ。
そして試合が進めば、コンビネーションのパターンも広がっていく。
オークランドは殴り合いを制しているだけに、終盤の勝ちパターンのリリーフはそれなりに強い。
だがアナハイムは序盤から、少しずつ点差をつけていく。
ここは追加点が欲しいなと思えば、坂本はクリーンナップだが躊躇なくスクイズを決めていく。
そして四点差になってからは、直史は好き放題に投げられるようになる。
高めのストレートを投げれば、面白いように空振りしてくれる。
そして球数を気にするなら、スルーを投げれば内野ゴロが量産できる。
上手く打ち取れば打ち取れるほど、頭に血が上っていくのが分かる。
対する直史は冷静に、淡々と配球を組み立てていくだけだ。
三振を狙うのか、内野ゴロを打たせるのか、方針をどちらかに決めてしまうことはない。
バッターの様子を見て、選択はどちらでもいい。
あるいは高めに投げて、フライを打たせるという選択もある。
今日は沈む球に散々に慣れてきているので、フォーシームストレートが空振りに、あるいは内野フライになってくれる。
ストレートを決め球に使うのは、あまり好みではない直史である。
だがこの日はアウトローのストレートは、全てボール球にした。
それを打ちにいって内野ゴロになったり、空振りするのがオークランド。
勢いづいたときはいいかもしれないが、こうやって完全に封じられていると、そこから抜け出す方法を知らない。
選手が若くてもFMは歴戦の指揮官のはずだが、いくら注意されていようと、前の二試合の成功体験が大きすぎた。
皮肉な言い方をするならば、前の二試合でアナハイムの投手陣が打たれまくったおかげで、今日は直史が投げやすくなっている。
そして鼻息を粗くしていたオークランドも、八回が終わった頃にはもう、目が死んでいた。
九回の裏のマウンドに登った直史は、今日は楽だったな、と思いつつ残る三人をしとめていく。
ストレートの球速が93マイルしか投げなくても、それより遅い変化球と組み合わせると、しっかりと三振は取れるのだ。
球速ではなく球質。もっとも球速もまた、球質の一要素なのだが。
27人目のバッターから、27個目のアウトを三振で奪う。
九回84球をヒット、フォアボール、エラーなしの14奪三振。
打たせて取っていたはずなのだが、随分と三振も多くなったものだ。
完全にオークランドのベンチは沈黙していたが、スタンドはむしろ喜んでいたりした。
この数年は弱くて、あまり観客の入らなかったオークランド。
だが直史の試合で、前の試合ではついに無失点記録が途切れるところで、そして今は絶好調のオークランド打線。
何かを期待していたのだろう。
そしておそらく全く逆方向に、直史は応えた。
史上初の、通算二度目のパーフェクトピッチング。
それを一シーズンの間にやってしまったところの直史だが、今日は球数も少なくて楽に投げられたものである。
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