第22話 悪の帝国
MLBは興行である。
そこに正邪はない。善悪もない。ただ人気と不人気、そして強弱があるだけ、のはずである。
にも関わらず悪の帝国、と呼ばれる球団がある。
ニューヨーク・ラッキーズ。
世界一の経済都市ニューヨークをフランチャイズとするこの球団は、100年以上の歴史を誇り、また最多の優勝、ワールドシリーズ進出を誇っている。
なぜ悪の帝国かというと、かつてはその資金力によって、選手を強奪していたからである。
日本でも東京の人気のある方の球団が、そう揶揄されていたことがある。
要するに資金力によって選手をそろえることが、資本主義のアメリカの中では、悪の帝国と言われるらしい。
確かにラッキーズの球団の資本価値は、MLBでもナンバーワン。
北米の四大スポーツの中でも、NFLの最高人気のチームに次いで二位。
実際のところ強いチームに人気は集まる傾向があるため、別にそれだけで悪の帝国呼ばわりはひどいだろう。
確かにニューヨークをフランチャイズに持つ有利さはあるが、それはメトロズも同じ。
それでもラッキーズがMLBであるのは変わらないが……あるいは大介が10年メトロズにいれば、その晩年には資産価値は逆転しているかもしれない。
直史が次に登板するのは、ア・リーグ東地区のこのチーム。
去年は同じニューヨークのメトロズが優勝したこともあり、今年はかなり戦力を補強してきた。
元々常にスター選手を抱えているので、かなりの確率でポストシーズンまでは進む。
同じ地区にはやはり名門のボストン・デッドソックスがいるが、そちらがせっかく上杉をクローザーとして配置しているのに、リードして最終回まで引っ張れる試合が少ない。
逆に他のチームは、九回までにリードしておこうという心理が働いてはいるが。
去年もポストシーズンまでは進んだが、ワールドシリーズまでには至らず。
同じニューヨークのメトロズがワールドチャンピオンになるのを、横目で見ているだけであった。
今年はしっかりと補強をしたため、まずワールドシリーズ進出までは目指している。
するとアナハイムにとっても、打倒しなければいけないチームとなるわけだ。
初戦に直史を、という無茶はもう首脳陣からは出なかった。
ここも中四日にさえすれば、先発は可能であったのだが。
しかし前の試合で111球投げたというのは、そのさらに前が109球だったことを考えると、下手にローテを直前になっていじらずに良かったと思う。
また年間に19試合するヒューストンに比べると、ラッキーズをフルボッコにして叩き潰しておく必要性はやや薄い。
そんなわけである程度、油断があったとは言えるかもしれない。
とにかくここまでアナハイムは、球団史上最高レベルの勝率を残しながら、最初の二ヶ月を勝ち進んできた。
直史本人の気質的には全く、チームを牽引するようなタイプではないのだが、生まれ持った長男気質が、勝手にチーム力を支えている。
そんなパーフェクトピッチャーが登板するのは第二戦。
ここで伝えられたオーダーは、出来ればリリーフを使わずに勝ってほしいというものであった。
マクヘイルのマイナーでの調整は、順調に進んでいるらしい。
ただし現在の先発ローテーションは、やや苦しくなっている。
先発はやはり負けるにしても、五回か六回までは投げて欲しい。
そうでないとリリーフ陣が消耗し、それだけ重要なところで踏ん張れないからだ。
これはおそらく、リーグチャンピオンシップの前哨戦になるのではないか。
ア・リーグ中地区は今年は混戦になり、どこかのチームが一気に出てくるという気配は見えない。
そして西地区でアナハイムが暴虐の限りを尽くしているため、他のチームは必死で対抗している。
東地区はラッキーズが上手く、他のチームから勝ち越している。
ただア・リーグ東地区は名門デッドソックス以外にも、トロントなどが前年90勝以上をしていて、三チームがかなり強い状態となっている。
(ボストンが上がってきたりしたら、ちょっとそれも厄介だな)
直史はそう思うのだが、首脳陣としてはやはり、ラッキーズがア・リーグの中では一番のライバルと考えているらしい。
実際に今も主力が数人欠けているのに、トップを走っているのだ。
「要するに叩き潰せちゅうがか」
坂本はあっさりとそう言ったが、直史としてはあまり盛大に心を折るのは、まずいのではないかという考えがある。
ラッキーズが完全に調子を落とせば、そこから勝ちあがってくるのはボストンだ。
上杉のいるチームを相手に、短期決戦で楽に勝てるとは思えない。
トロントもなかなかチーム状態はいいが、直史にとって不気味なのは、やはり上杉の存在だ。
先発で頭がおかしなことをやっている直史がいるため注目されていないが、上杉ももう無失点セーブを延々と続けている。
出来ることならポストシーズンでは、上杉に続いて大介という順番では当たりたくない。
他の選手を甘く見るわけではないが、直史が体験している強さは、大介と上杉だ。
特に上杉と延長12回を投げあったあの試合は、日本プロ野球史上最も完璧に近い試合、などとも呼ばれていたりする。
打線が微妙なスターズはともかく、レックスが一点も取れなかったどころか、ランナーも出せなかった。
その後も直史は上杉を相手に、納得できる形で勝ってはいない。
先にボストンと当たって、その強さを体感できていたら、また話は違ったかもしれないが。
レギュラーシーズンの本格化は八月からで、それもポストシーズンに比べればあまり価値はない。
大介からはそう聞いているが、ラッキーズは現時点で、既にリーグ優勝に相応しいだけの戦力は整えている。怪我人も後半戦までには戻ってくる。
単純にアナハイムが、今はそれ以上をいっているだけで。
「まあここで叩き潰して、それからボストンも叩き潰せばいいか」
直史の結論は常に明瞭である。
上杉がリハビリとして、リリーフの中でもクローザーとして働いているのは、なんだか不思議だと思う直史だ。
武史ほどでもないが上杉も、明らかな先発完投型のエースなのだ。
直史よりもさらに、奪三振能力は高い。
先発として20奪三振もすれば、チームは盛り上がり相手は意気消沈するだろう。
そもそもリハビリなのに、登板間隔が不定のクローザーとはどうなのか。
「ボストンの方も叩き潰せばいいか」
上杉が出てくるのは、クローザーとしての場面。
ならばリードして最終回を迎えれば、出番はなくて当たり前である。
ラッキーズに続いてボストンも。
ノーヒットノーランはともかくマダックスに封じれば、かなりダメージを与えることは出来るだろう。
ここが日本なら上杉の力で、どうにか直史の影響を止められたと思う。
しかしアメリカの球数制限文化では、直史の方が上杉よりも有利なのだ。
ラッキーズとの初戦は、アナハイムが敗北した。
接戦であったがここまで安定していたセットアッパーのルークが打たれて、それが決勝点となった。
先制打を受けたのはアナハイム。試合内容はそれほど悪くない。
そしてラッキースタジアムのマウンドに、直史は立つことになる。
ラッキーズ側のピッチャーはローテーションの三枚目で、それでもエースクラスの実績は残している。
防御率は2点ちょっとだが、MLBの防御率というのはあまり当てにならない。少なくとも日本のそれとは感覚が違う。
なぜならMLBの方が、球数制限が厳密で、六回か七回で交代することが多いからだ。
防御率2点というのは実際には、一試合で取られる点数は1点台と計算した方がいい。
あとはリリーフがどうなっているかだ。
アウェイであるため、まずはアナハイムの攻撃。
初回の攻撃はいきなり三塁までランナーを進めたが、点には結びつかず。
その裏のマウンドに、直史は立つ。
スタジアムを埋める観客から、視線が集中する。
これまで直史のピッチングを直接に見ていたのは、西海岸の人間が多かった。
アメリカ人は広大なアメリカを、平気で車で数日かけて移動したりもするが、野球の試合を見るためだけに移動する酔狂な暇人は少ない。
なので今日が、本格的な東海岸でのデビューとなる。
一応東地区のチームとか戦ってはいたが、その東地区でもずいぶんと距離は離れている。
世界一の大都市ニューヨークでは、これが初めての戦い。
だが意外とニューヨークの人間は、直史のことはよく知っている。
もちろん今年の成績から、MLBのファンが直史に注目しないわけもない。
だが既に前年、同じニューヨークのメトロズ相手のエキシビションマッチで、パーフェクトに抑えたことが鮮烈であった。
こいつがいればサブウェイシリーズで、メトロズを抑えることが出来るのではないか。
そう考えたニューヨーカーも多かっただろう。
同じニューヨークのチームでも、メトロズよりはよほどファンは多いのだから。
マウンドから改めて、スタジアムの全景を確認する。
他の球場もそうではあるのだが、特に擂鉢上になった観客席。
ア・リーグのチームのスタジアムの中では唯一、観客収容数が五万を超える。
球場の特徴としてはホームからライト方向に空気の流れがあり、引っ張る左バッターにはかなり有利であること。
右投手の球の軌道を考えれば、これまた直史にも不利な要素にはなるはずだ。
直史が普通の右投手であれば、だが。
左方向に打たせればいい。
あるいは右方向に上手く打たせて、ファールでカウントを稼ぐか。
ただスタンドまで届くファールは、バットコントロールが上手い選手であれば、ポールを切れないように上手くホームランにしてしまえるだろう。
(左バッター多いしな)
直史はどちらかというと、右打者に対したときの方が成績は良かった。
ただホームランを打たれた西郷は右打者であったし、ほとんど誤差のようなものだ。
ゆるゆるとして投球練習が終わり、一回の裏が始まる。
おおよそは予想通りであった。
右投手は当たり前だが、その投げたボールの角度的に、左バッターにとっては球の出所も分かりやすく打ちやすい。
だが直史のツーシームは、ポロポロと打ち損ねてサードゴロになる。
外角主体のピッチングで、左に打たせていく。
とりあえず一回の裏は、それで三人で終わらせることが出来た。
サードゴロとショートゴロでスリーアウトというのは、あまりバランスが良くない。
もっと引っ張る打球も打たせて、右方向の野手にもしっかりと動いてもらうべきだろう。
ただラッキーズがバント攻勢の様子を見せないのは幸いと言えようか。
上位打線でも俊足の一番などは、バントヒットを狙っても良かったと思うのだが。
直史の集中力にも、限界というものはある。
フィールディングは基本的に、体が勝手に動くぐらいにはノックを受けているが、投内連携があったりすると考えることが増える。
バッターは基本的に、真っ向勝負してくれた方が楽なのだ。
しかし相手も勝つためには、色々と手段を選ばないことをしてくる。
ルールの範囲内であり、また怪我をさせるようなものでなければ、それは戦術というものだ。
うっとうしいとは思っても、無表情のままで直史は投げ続けるだけ。
二回の表にもアナハイムは得点が入らず、そして直史もラッキーズを抑え続ける。
左打者にはツーシーム、そして右打者にはカーブかスライダー。
ラッキーズの五番に入っていた井口には、少しだけこのパターンを使わないようにする。
日本時代にはスプリット系で打たせて取ることが多かった。
MLBでも基本的には、それと変わらない攻略法で抑える。
井口以外にも言えることだが、今日はかなり変化球が主体となる。
そしてこれらのスピードと変化量を調整する。
あまり三振は狙わず、打たせて取ることを重視する。
だが次の当番は普通に中五日なので、追い込んだら三振でもよしとする。
ツーシームを上手く使うには、ボール球が必要になる。
左打者のインローに投げられなければ、外角の球が活きてこない。
ただそのインローも、普通に投げれば打たれるだけであるが。
真ん中あたりから逃げて沈むツーシームに、ゆっくりと大きく変化するシンカー。
それに対するボールとなると、やはりカットボールとなる。
膝元へ、ゾーンを外して投げる。
これを振ってくれればいいのだが、なかなか見極められて振らない。
ただそれでも全体として、今日は球数が節約できている。
打者一巡を終わって、当たり前のようにパーフェクト。
ただアナハイムの打線も、今日はまだ点を取れていない。
そう思ったが四回の表、四番のターナーにソロホームランが出る。
これでもう、ベンチは「勝ったな」という気分になってきてしまう。
油断は一番悪いことだが、直史はもちろん油断はしない。
一点だけであれば、事故で一発を食らうことはあるのだ。それで同点に追いつかれる。
せめてもう一点はないと、コンビネーションを広く使っていけない。
(左バッターか)
外角に意識が向かいすぎていて、かなりベースにかぶさるように立っている。
下手に投げたら当たりそう、とは直史は思わない。
そうやってストライクゾーンを狭くしようという工夫は、普通にされてきたものだ。
なのでそこまでベース寄りに立つと、インローが打てなくなるのも分かっている。
そう思って投げたボールであったが、インローのゾーンの球を、バッターは強く振ってくる。
打球は一二塁間、深く守ったセカンドは追いつかない。
ライトへのクリーンヒット。
かくしてノーヒッターへの道が途切れた。
これだけ打たれることの少ない直史が、なぜオープン戦ではコロコロとランナーを出すのか。
一つにはランナーがいる状態で、ダブルプレイを取ることを意識するからだ。
この回のランナーは普通に打たれた上に、ダブルプレイで殺すことも出来なかった。
丸々一人分多く投げたことで、面倒だなとは思ってしまう。
追加点が入ってくれれば、もっとピッチングの幅が広がる。
今はほとんど使ってない高めの釣り球を、もう少し多い割合で使うことが出来るようになるのだ。
それで空振りが取れるようになれば、沈む球も効果的に使える。
いざという時は三振でピンチを逃れるというのは、ピッチャーに必要な資質なのだ。
だがなかなか追加点はない。
ラッキーズもラッキーズで、まだ一点差という意識がある。
ここから一点を取って同点においつけば、直史はリリーフにマウンドを譲る可能性がある。
そうなればそこからが、本格的な攻略の時間だ。
ラッキーズの打線は基本、全てホームラン狙いである。
点差が開かないが、既にノーヒットノーランもなくなっている。
守備のプレッシャーを考えれば、悪くはない状況だと直史は考える。
球数がまだまだ余裕があり、一点を守れば勝てる。
この数試合でアナハイムは、リリーフ陣の中でもルークに疲労がたまっている。
前の試合では今季、初めての負け星がついていた。
中継ぎとしてはとても優秀であるが、やはり勝ちパターンの時に負担が大きいと思う。
ただクローザーのピアースも、セーブ失敗まではあっても、負けまではついていない。
やはりこの試合も一人で投げ抜いて、リリーフ陣の負担を減らさなければいけない。
そんなことを考えているうちに、もう九回の裏にまで来ていた。
スコアは1-0と変わっていない。
ヒットは出てランナーは進めるのだが、追加点には至らないのだ。
これはなかなか、ピッチャーにとっては辛いものがある。
だがあの夏を思い出せば、一点でも取ってくれただけでありがたい。
疲労もほとんどない、理想的な状態。
直史はここからも、変に力に頼ったりはしない。
バッターにこれまで投げてきた配球を考えて、確実に内野ゴロを打たせるようにする。
そしてツーアウトまで取ると、今日四打席目の一番打者に回る。
メジャーであると一番打者でも、単なるリードオフマンではなく、一発の力をそれなりに求められる。
実際にここで一発がでたら、同点になってさらにサヨナラのチャンス。
それだけは防がなければいけない直史である。
ラッキーズ側のベンチ内では、首脳陣も選手たちも、死んだような目になっていた。
その中で比較的正気を保っているのは、日本時代にもボロクソに負けていた井口である。
タイタンズ時代にも井口は、直史の完封負けを何度も食らっている。
プロデビュー戦においては、いきなりパーフェクトリリーフで負けていた。
それ以前の高校時代からも、井口は直史に勝てると思ったことがない。
ただ直史を打たなくても、チームとして最終的に勝てばいい。
タイタンズではそう言っていたが、実際のところはボロボロというのが正直なところ。
今年は今のところAクラスであるらしいが、去年までがひどすぎた。
上杉、大介、樋口、直史といったあたりの選手が入って、そのチームは一気に強くなった。
子供の頃のタイタンズはセでは一番強かったが、井口が入ったころにはもう、上杉がスターズで覇権を築いていた。
プロ入り二年目から四年目まではクライマックスシリーズにどうにか出場できていたが、それ以降はずっとBクラス。
チームの低迷もまた、井口がMLB行きを決意した理由の一つである。
だが甘かった。
大介のような核弾頭がやってくると、MLBほどのリーグでも蹂躙されてしまうのだ。
そして今年は直史が、それ以上に理解不能な成績を残し続けている。
いつになったら負けるのか、ではなく、いつになったら点を取られるのか。
MLBの連続無失点イニングの記録を更新し、ずっとそれを伸ばし続けている。
この日もまた、内野の間を抜いたゴロが一つあったのみ。
その一つがなければ、パーフェクトだったのだ。
(戦力をもっと絶対的に高めないと勝てないんじゃないのか)
大介もそうだが直史も、試合における支配力が高すぎる。
それにしても直史の記録は、いつになったら途切れるのだろうとも思うが。
九回28人を96球で完封。
日本時代も何度も食らったマダックスで、井口は苦い顔をする。
それでも他のラッキーズのメンバーに比べれば、彼は蹂躙されることになれていた。
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