第12話 笑わない男
佐藤直史は笑わない。
なんだか小説のタイトルのようであるが、ある記者がそんなことを書いた。
その部分だけを読んだ直史は、いや笑うだろ、と思って普通に記事を読んだら、確かに笑ってないかなあと自覚しないでもない。
三度目の先発を終えた記者会見で、直史は笑っていない。
そして二度目や一度目でも笑っていない。
試合中にはかすかに笑っているが、マスコミに対してはほぼ無表情。あるいは真顔。
「笑ってたけど?」
瑞希はそう言う。
「エッチな約束した試合で勝ったときとか」
「……」
心当たりのある直史は、真顔のままで沈黙した。
この件についてまた質問された時には、直史は回答が用意できていた。
「日本のホームランキング王貞治は、ホームランを打っても派手に喜んだりはしなかった。打たれた側の気持ちを考えろと肉親に言われたからだそうな。MLBでも派手に喜んだバッターに報復死球をすることはあるだろう?」
それに逆の立場ではないが、直史にはある程度理解が出来るのだ。
「中学生時代は一勝も出来なかったからな。参っている相手に追い討ちをかけるようなことはしたくない」
そもそも復活できないほどに、打ちのめした者の言う台詞ではない。
バッターではなくピッチャーなのに、打ちのめしたとはこれいかに。
不思議な事実がもう一つある。
直史が投げると、その次の試合も全て勝っている。
これはまだ試合数が少なくて確かとは言えないのだが、たとえばベアーズなどは、あの試合から徹底的に打線が打てなくなっている。
パーフェクトをされた次の試合も、一点も取れていないのだ。
テキサスは四連戦の最終戦が直史の登板であったため、これには当てはまらない。
だが他のチームを相手に、やはり負けていた。
そしてミネソタ相手に投げたのは第二戦。
三戦目はヴィエラが登板し、六回までを一失点。
これまた勝利したため、直史と対戦した後のチームは、打線が不調に陥っているのは確かだ。
まだ三試合だけではある。
同じカードの途中の試合ということでは、まだ二度だけだ。
だが勘の鋭い人間は、その予感を信じ始めていただろう。
普通にボコボコにされた人間というのは、そのショックから立ち直るのに時間は必要なのだ。
一流のアスリートなら、その時間は少ないかもしれないが。
それでもイップスなどといって言葉は、普通に使われている。
遠征はまだまだ続く。
直史が心配しているのは、次の試合が移動当日の試合であるということだ。
これまでは移動があっても、一日は調整が出来た。
幸いにもホームでのシアトルとの対戦であるが、今年のシアトルは調子がいい。
これまでアナハイムと当たらずに済んだから、調子がいいのだとも言えなくはない。
織田のいるシアトルだ。
そのあたりも考えて、やはり慎重に投げていきたい。
そんなことを考えてはいたのだが、シカゴから移動した直後にアナハイムで試合。
日本時代とは、極めて違う・
セ・リーグであれば移動距離はせめて東京から広島まで。
しかも先発ピッチャーであれば、前乗りで到着することが出来ていた。
中五日の試合間隔は空いている。
ただ飛行機の移動時間が、バイオリズムの変化にどれだけ影響を与えるか。
これが試金石となる。
直史は馴染んできたアナハイムの球場で、じっくりと調整を始めた。
夕方から始まる試合は、スタジアムの空気を色々と直史に伝えてくれる。
今日も大満員で、オーナーのモートンなどは大喜びであろう。
試合を見に来たと言うよりは、お祭り騒ぎを楽しむタイプ。
いや、野球などのスポーツの興行というのも、太古の始まりを考えれば、祭りであることは間違いないのだろうが。
一回の表、シアトルの攻撃は、一番の織田から。
ここで知っている顔がいるというあたり、やりにくくもありやりやすくもあり。
だが知り合いとは言え、織田はプロ入り後七年目でMLBにやってきた。
大学を卒業した後に、さらにクラブチームで遊んでいた直史とは、NPBでの対決はない。
一緒のチームで戦ったことすらも、ずっと前のWBCにまで遡らなければいけない。
もちろん織田に言わせれば、直史の方が有利である。
初対決はピッチャー有利と言うが、そんな初対決と言ってもいいほど、直史は以前とは変化している。
映像では色々と確認しているが、直史のピッチングは基本的に、フォームのクセなどで打ちにくくしているものではない。
とにかくタイミングの取りにくい、コンビネーションの鬼のようなピッチング。
対処法としては、とにかく狙い球を絞り、コンパクトに振りぬくのみ。
一打席にあるチャンスは、一度だけと心得るべし。
それを逃してしまったら、あとは粘ってフォアボールか球数を増やさせ、次の打席や次の打者につないでいくしかない。
アウトになるにしても、それまでに出来ることがある。
一打席目の織田はそれであった。
最終的にはチェンジアップで内野ゴロに倒れたものの、投げさせた球は六球。
直史としてはあまり、予定通りになっていない事態だ。
現在のMLBは強打者ほど三振が多くなる傾向にある。
フルスイングで打球を、出来るだけ外野まで持っていくのが仕事だ。
ただそうなると多くなってくるのが、やはり三振というわけで。
直史は本日のピッチングのコンビネーションを、初回の二番から修正する必要に迫られた。
際どいボールを使うのではなく、手元で曲がったり、大きく緩急差の出来るコンビネーション。
そして追い込んだら打ちやすそうなボールを、上手くタイミングを外して投げる。
効果的なのがフォーシームストレートだ。
インハイに投げたストレートは、本来ならば危険なはずである。
だがその前に沈むボールを投げておけば、目の錯覚で伸びていくようには見えるだろう。
そしてもう一つは、スルーを使うのだ。
ストレート並の球速で、沈むように鋭く伸びるのは、このボールの特徴。
それぞれが内野フライか内野ゴロを打たせるためのボール。
だが前に遅い球を投げておけば、これでも空振りが取れる。
でかいMLBのバッター相手に、インコース勝負。
危険にも思えるが、当たらなければどうということもない。
初回から二つの三振。
まず上々の滑り出しと言えるだろう。
それは普通に人間の話。
直史の持っている課題は、かなり制約が大きい。
テキサスとの試合でも思ったことだ。
あまりここで叩き潰しすぎるのは良くない。
手順を間違えてはいけないのだ。
まず潰すのはヒューストンなのだから。
投げるのを終えて攻撃となれば、DHのMLBにおいては、ピッチャーはすることがない。
それでも直史はスコアを見て、相手の打者の傾向を考えていく。
相手の立場になって考える。
すると分かるのは、織田というバッターのこの試合での価値だ。
MLBはボール球を選んで出塁はするが、基本的にはホームランを狙っていくのがバッティングである。
その中で織田は、かなりのアベレージヒッターだ。
ホームランも打てないわけではないが、基本的には単打や内野安打が多い。
そして三振の数は少ない。
アレクも表面的に見ればアベレージヒッターであったが、長打は織田よりも多い。
そしてやはり三振の数は少ない。
際どい球や複雑なコンビネーションでも、しっかりとボールをカットしていく技術がある。
今のMLBでは、手元で曲がるような球も、強く打ってより飛ばすというのが主流だ。
そんなバッティングに対しては、直史のピッチングは非常に相性がいい。
一回の裏、アナハイムにも得点はない。
特に失望することもなく、直史は平静な心でマウンドに立つ。
四番からもまだ、ホームランバッターが続く。
30本以上は打って当たり前。
だがOPSは上がっても、打率はやや低下傾向。
直史はそんなホームランか三振かというバッターが、選手としては大嫌いだが、相手をするのは大好きだ。
四番と五番を三振に打ち取り、そして六番へ。
ここで打たれた球が、ファーストの頭を越えたところに落ちた。
シアトルの初ヒット。
だがここでのヒットは、むしろ直史にとっては望ましい。
ツーアウトからのランナー一塁では、ホームを踏むことは難しい。
それにこれで、織田にはツーアウトから回ってくることとなる。
七番バッターを内野フライでスリーアウト。
塁上のランナーは何も出来なかった。
重要なのは点を取られないこと。そして少ない球数で試合を終わらせること。
そのために必要な、全身のコントロール。
とりあえず移動直後という試合であるが、今のところは問題になっていない。
二回の裏で一点を先制してもらった直史は、三回のマウンドに登る。
そしてここも、ツーアウトまではあっさりと取ってしまう。
テキサスは上位に戻って、一番の織田。
直史としてはここは、打たれてもどうにかなる場面だ。
先頭打者の織田と、ツーアウトからの織田では、対戦しても得点の期待値が違う。
先頭打者として塁に出してしまったのなら、そこから進塁打でも進んでいける足がある。
三塁にまで進んでしまったら、エラーなどで確実に点が入る。
直史としてはエラーならば自責点とならないと分かっているが、とりあえず点が入るのが嫌なのだ。
際どいコースへの変化球に、織田は手を出さない。
本当ならツーストライクでも良かったが、今日も審判は外れだ。
三球目は内角へ。
インハイのストレートを、織田は打った。
それは想定していたよりも飛んだが、ファールフライでスタンドに入る。
う~むと直史は悩む。
内角のストレートを引っ張られてファールというのは、あまりよろしくはない。
しかし四球目は、またも内角。
そのボールは鋭く落ちて、織田は空振りをした。
(よし)
スルーによって空振り三振。
決め球の印象を、強く印象付けることが出来ただろうか。
今日の直史のピッチングは、攻撃的だと感じている者がいる。
その理由は、三振を奪ってくるボールが多いからだ。
追い込んだらかなりの確率で、スピードボールか大きな変化球が来る。
だがそう思っていると、チェンジアップで空振りを取ってきたりもするのだが。
追い込まれるまでは打たせてくるかと思えば、そこでいきなり速い球が来たりする。
それを詰まらせてしまったり、空振りをしてしまったりもする。
配球のパターンが固定されていない。
その日の調子のいい球を中心に投げるという、ごく当たり前のことをしていない。
強いて言えば、ストレートを投げることがいつもより多いか。
そう判断すると、そこからツーシームばかりになったり、チェンジアップを投げたりもする。
状況によってと言うか、バッターによって配球を変えてくる。
しかも同じバッターでも、次の打席にはまた違う配球を使う。
MLBにおけるピッチングとは、どうやら概念からして違う。
それがようやく分かってもらえてきているようだ。
まるでこちらの心を読んでいるような。
実際には対応できないように、配球に工夫をしているのだ。
直史が今までにやってきた、当たり前のリードだ。
MLBの選手がどうして直史を打てないのか、おおよそ分かってきた。
パワーとパワーの対決に、ステータスを極振りしすぎているのだ。
もっと相手が複雑に投げて来た時には、柔軟に対応出来るようにしておかないといけない。
ただ直史のように球種が多く、コースや緩急のコントロールが自在なピッチャーは、他にはいない。
パワーが出せないピッチャーが、究極的に求めるスタイルだ。
これを見て野球で、ピッチャーをやろうという人間が増えるかもしれない。
ただアメリカではおそらく、そういったピッチャーが出てこない。
幼少期からの変化球の多投は、怪我の原因になる。
そして長年の訓練がなければ、直史のような技術は身に付かない。
MLBにも若手の頃はパワーピッチャーで、出力が落ちてからは技巧派となった者はいる。
だがだいたいの人間はそれより、パワーを出来るだけ長く維持する方に舵を切るのだ。
直史も否定しないというか、むしろしっかりとスピードについては考えている。
ただ言えるのは、ピッチングにおいてスピードなどというのは、数多ある要素の中の一つであるに過ぎない。
試合は進んでいく。
先制したアナハイムは、そこからも着実に点を取っていく。
それでも安全圏と言えるほどには、なかなか点差が広がっていかない。
もっとも点差を理由にリリーフを送り込むほどには、直史はまだ疲労していない。
この試合はバランスがいい。条件もいい。
今の自分がパワーに限らず、出来るだけ消耗なく投げること。
直史はそれが重要だと考えている。
最少の労力で、最高の結果を。
コストパフォーマンスの概念は、高校時代の練習においても、散々に言われていた。
時間を潰すことを練習と思うな。
回数をこなすことを練習と思うな。
自分がやらなければいけないことを、明確に意識しろ。
あとはそれをどうやったら出来るか。
出来なければまた、そこで立ち止まって考えろ。
そして考え込む間こそ、単純な反復運動や、単純なストレッチなど、やればやるほど効果が上がることをやる。
頭脳は他のことを考えていて、そして肉体はしっかりと動かしていく。
時間こそは最も限られた資源だ。
自分の人生を、なんのために使うのか。
大金持ちでも貧乏人でも、与えられた時間は同じ。
それをどうやって使うかが、人生をよりよく生きるポイントだ。
三打席目の織田は、ライトフライに終わった。
ただヒットを打たれているので、四打席目の対決がある。
億劫だな、と直史は思う。
試合の趨勢は決定しているが、アナハイムは昨日の試合で、勝ちパターンのリリーフを使ってしまっている。
出来れば直史が完投してしまう方が、今後のブルペン運営では楽になる。
そしてブルペンが疲れていないということは、それだけ試合の後半を壊さずに済むということである。
「サトー、最後まで行けるか?」
「大丈夫かと」
球数もさほどではない。
怖いのは変なエラーが重なることだ。
ただ今日は、相手のチームがミートを心がけているためか、大きな変化球で空振りを奪うことが出来る。
三振でアウトを奪うことを、セイバーでは特に評価する。
実際に直史のインセンティブにも、三振の項目が入っている。
25試合ほども先発すれば、普通に達成は出来そうだ。
直史はそう考えているが、それで出来るのはMLBでもそうそうはいない。
そんな色々な意味で偏った考えを持っているが、周囲はもう何も言えない。
試合は九回に入る。
3-0とリードしているが、満塁ホームランを打たれれば逆転される。
エラーから守備が乱れてしまう可能性もある。
MLBレベルでそんなことがあれば、そいつはもうメジャーリーガー失格であるが、直史は想像するのだ。
何事には絶対はないと。
ツーアウトまで追い込んで、そして最後のバッターボックスに入るのは、一番に戻って織田。
今日は三振を含むノーヒットであるが、気にする必要はないだろう。
なにせヒットを打ったのは、一人しかいないのだから。
(ここまでで91球か)
ちょっとやりすぎたかな、と思わないでもない直史である。
直史が投げた後の試合で、勝利していることが多い理由は、もっと単純だ。
相手の心を折っているとかどうとかより、純粋にリリーフ陣が休めているからだ。
そしてこの試合も、ブルペンは全く準備の必要がなかった。
ツーストライクまで追い込まれた織田は、最後にはゴロを打つ。
俊足を飛ばすが、ピッチャー直史の反応してキャッチしたゴロだ。
これが間に合わないはずはない。
一塁でスリーアウトチェンジ。
送球でのエラーという、おかしな事態は発生しなかった。
九回28人94球。
打たれたヒットは一本で、他にエラーもフォアボールもなし。
要するにワンヒットの試合であった。
言うまでもなくマダックスである。
満員の大観衆は興奮しているが、直史はファンに対して、わずかに笑みを浮かべて応えた。
あまり上手い笑顔ではなかったかもしれない。いわゆる一つのアルカイック・スマイルというものだ。
笑わないやつと言われたことは、実はけっこう気にしていたのだ。
ナイーブなところが、ないわけではない直史である。嘘ではない。本当のことだ。
プロ野球は客商売。
もちろんプレイで魅せるのが一番だが、こういったぐらいのファンサービスはするべきだろう。
ベンチに戻れば、首脳陣のみならず、全員が不思議な顔をしていた。
不思議そうな顔ではなく、直史から見て不思議な顔。
つまりは名状しがたき混沌を見ているような、例えるならばそんな目だ。深淵を覗いているがゆえに、自分も深淵になっているような目。
そんな目で俺を見ないでくれ。
「16奪三振はすごいな」
オリバーが神を称えるようにそう言ってきたので、直史は納得した。
確かに16奪三振は多いだろうな、と自分でも思えたからだ。
違う。いや違っていないが違う、そうじゃない。
だが他の誰もあえて、そこにはもう突っ込もうとは思っていなかったのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます