第11話 劣化
佐藤直史という人間の非常識さを、まだ分かっていない人間がどれだけいたのだろうか。
「その試合のピッチングの方針は、試合展開によって変えていかなければいけない」
直史はいかにも、もっともそうな顔をしてそう語り始めるのだが、根本的に基準がおかしい。
非常識ではあるが、常識が分かっていないわけではなく、基準がおかしいがゆえに非常識を常識にしてしまう。
おそらくこの後もずっと、今年のMLB関連の人間は、思い知らされていくのだろう。
そして馴れた頃には、もう立派なナオフミストの誕生である。
今日もまた狙っていたのですか、という質問が飛ぶ。
「ボスからのオーダーは、七回まで試合を作れというものだった。だから当初は七回までを無難に抑えることを考えていた」
本当であるが嘘である。
七回を70球ほどで抑えよう。出来れば無失点で。
これはFMからの期待を充分に満たす直史の思考だ。満たしすぎて悪いことはない。
「当初はということは、途中から予定を変えたと?」
「それは……少し違う」
本当に、少し違うのだ。
「当初はもっと球数を少なくして、リリーフに譲る予定だった。ただどうも運が悪かった。相手のピッチャーの新球種への対応が出来なかったのと、セットプレイが不運に見舞われたので、どうにか無失点で抑えるのに必死になった」
普通は必死になった程度では、マダックスは出来ない。
おそらく必死という言葉の意味が、一般人とは違うのだろう。
何をやっても上手くいかない。
野球にはどうしてもそういう日があるものだ。
お前はどうにかしていただろうと直史なら言われるが、結局最後には他人に頼る。
なにしろピッチャーは基本的に、一人では点を取れない。
直史はヒットは打ったが、高校野球レベルでも、ホームランが打てるレベルではなかった。
結局誰かに頼るしかない。
出来るのは延々と、アウトを積み重ねるだけ。
日本なら12回で引き分けだが、MLBでは試合が決着するまで延々と続く。
ダブルヘッダーの試合の場合は、さすがにちょっと話は別だが。
「この試合も結局、決めたのは坂本だった。ピッチャーは耐えていくしかないポジションだ」
そう言いつつバッターの心を折るのは、立派な攻撃ではないのだろうか。
つくづく同じ言葉を、違った意味で使う生き物である。
次のピッチングローテは、また中五日が空いている。
対戦相手はア・リーグ中地区のミネソタ・ダブルズだ。
「またマダックスを狙っていくのでしょうか?」
「それは因果関係が違う」
直史は論理性を好む。
最後には感情を優先することを、否定するわけでは全くない。
「球数を減らして、失点を防ぐ。これはピッチャーなら誰もが心がけていることで、それでマダックスになるかどうかというのは、あくまで結果論に過ぎない」
こいつは本当に科学者っぽい話し方をするな、とマスコミは思ったものである。
肯定も否定もしない。
ただ前提の論理性が違うと指摘する。
大介のような明るいスーパースタートは全く違う。
だからと言ってヒールに相応しいというわけでもない。
下手なことを書いたら、告訴状が送られてくるかもしれない。
それを恐れていてはマスコミは出来ないし、直史もそんなことを露骨には言わないのだが。
野球は直史にとって仕事であるが、同時に今は義務でもある。
大介との約束は、あくまでも同じリーグで戦うこと。
実際に対戦できるかどうか、それを決めるのはまずチームが勝っていくことと、首脳陣の選手起用が問題となる。
本当ならニューヨーク・ラッキーズに入るのが一番良かったのかも、とは思う。
違うリーグだがサブウェイ・シリーズでレギュラーシーズンに当たるし、最後の対決の場はワールドシリーズになる。
WBCよりも世界一に近いと言われるワールドシリーズ。
それが本当かどうかは、これから直史が大介と一緒に、MLBの権威や常識を破壊していくことで証明されるであろう。
直史には分かりやすいタイプのカリスマ性はない。
だが気付いたときにはもう、どうしようもなく代えの効かない存在として、そこにいる場合がほとんどだ。
デビュー戦でのパーフェクトゲームで、MLBの記録を塗り替えてしまったのは、まさに奇跡だと思われていた。
もちろんその奇跡にも、充分な価値はある。
だが本当に重要だったのは、この二試合目であったろう。
ベアーズはオープン戦で、事前に直史からボコボコにされていた。
それが試合運びに、ある程度は影響したと言える。
過去のパーフェクトの達成者を見ても、通算勝利数が50に満たず、また負け越しているピッチャーもいる。
だからパーフェクトがかなりの程度、運に左右されるというのは間違いない。
もっともこれまで74球パーフェクトの記録を持っていたアディ・ジョスは、アメリカ野球殿堂入りした選手の中で、ある条件から除外された唯一のピッチャーであったりするが。
日本でも殿堂入りを見た場合、それには長年の功績が考慮される。
一年や二年大活躍しても、まず選ばれることはないのだ。
大介でさえも、殿堂入りするには来るのが遅すぎた、などと言われていたりする。
基本的に10年以上のメジャーでの活躍がないと、選出の対象にはならない。
大介は28歳でのメジャーデビューであるため、ここから10年の活躍は難しいと思われていたのだ。
たださすがに薬もやってないホームラン記録保持者、そして21世紀唯一の四割バッターを、除外するのは無理だろうと今は思われているが。
直史が二試合目の登板で達成したマダックスは、その安定感を保障するものであった。
味方が一点も取れない中の無失点ピッチングというのは、普通のピッチング以上に厳しい。
プレッシャーの中で抑えていくわけだが、それと同時に球数を少なくする。
直史のピッチングを一言で言うと、おそらくこうなる。
コストパフォーマンスを極めたピッチングと。
チームはこの直史の安定したピッチングは、かなりの余裕をアナハイムにもたらすことになる。
現在のアナハイムのピッチャーの中で、リリーフ陣はかなり弱い。
先発もそれほど多くの金をかけていないが、クローザーのピアースこそ実績も実力も充分だが、セットアッパーで確実に一イニングを抑える力を持つ者は少ない。
このあたりもオーナーの意向がGMの編成を上回っている。
セットアッパーというポジションはピッチャーの中でも、先発やクローザー以上に、地味に見えるものらしい。
スタープレイヤーを集めたいオーナーは、商売として人気の出やすいポジションを集めるわけだ。
困ったオーナーであるが、より困ったことはビジネスとして考える場合、その判断は正しいことである。
毎試合出るバッターに金をかけて、集客を狙う。
ピッチャーは若手か、これまたクローザーのような登板機会が多いポジションにはベテランを持ってくる。
勝つことによる集客も考えるのだ。
勝てそうな試合を逆転されることを、応援しにきたファンは嫌う。
そういやってシーズンを過ごして、調子がよくポストシーズンを狙えそうなら、しっかりとトレードで補強を行う。
ポストシーズンに出ることは、それだけやはり集客が上がることだからだ。
そのあたり徹底して、ビジネスと勝利を考えるあたり、悪いフロントではないのだと思いたい。
GMは色々と苦労しているが。
オーナーは利益を追求する。
GMは勝利のためのチーム作りを、オーナーの要求する範囲内で追及する。
FMは用意された戦力で、勝利することを追及する。
ただオーナーが少し、補強に口を出すところが微妙。
それがアナハイムというチームだ。
ここからアナハイムは、アウェイでの試合が始まる。
まずはオークランドへ行き、西地区同士の対戦。
次にはミネソタ、シカゴと途中に一日の休日はあるが、遠征で10試合をアウェイゲームで行う。
その間にも直史は、ミネソタ戦で投げることになる。
初めてのアウェイでの公式戦だ。
オープン戦でも移動して投げたことはあるが、一試合を通して投げるのはもちろん初めてだ。
「どうせローテ通りに一試合しか投げないんだから、一人だけ別便で移動させてほしいもんだ」
直史はそんなことを思うのだが、すると練習の相手をするスタッフはどうするのだ、という話である。
分かっていたことだが、移動の距離が長い。
特にセの在京球団にいた直史であると、これは地味に苦痛である。
アナハイムとオークランドは、まだ同じカリフォルニア州なのでいいのだが、次のミネソタ州は中地区のチーム。
中地区などと言ってはいるが基本的にほとんどの場合、中地区のチームであっても本土の東よりにある。
日本列島を縦断する距離を、飛行機で移動する。
これが何度もあるわけだ。
体力的な面では、直史はそれほどの心配はしていない。
だがバイオリズムが乱れることは、それなりに心配している。
この移動に時間がかかるという、なかなかの拷問。
もちろん移動の間、ただ座っているわけではないのだが。
直史はオークランドとの試合を、基本的にはスタジアムで見ていた。
そこでささやかながら、カルチャーギャップに直面したりもした。
暇なので球団職員のしていたことを、手伝ってやろうとしたのだ。
するとそれは私の仕事なので、手を出さないでと言われてしまった。
直史のやろうとしていることは、自分の職務ではない。
むしろ選手にそんなことをさせては、球団や職員がおかしいとされる。
首を傾げた直史であるが、そこは若林から説明もされた。
「階級社会の名残なのかなあ」
若林は直史がおかしいとは言わず、そういう考え方もあると言ってくれた。
スーパースターの中にも、ファンにサインするボールを自分で運んで、俺が運んだボールならファンは喜ぶだろう?という理屈で言い込めたりもする。
たとえば直史が手伝おうとしたのが、データ分析班などであれば、同じくデータを分析するというわけで、相手も受け入れたかもしれない。
また球団職員と顔見知り程度ではなく、もっと仲良くなっていれば、それもまた違ったかもしれない。
アメリカでは職責というのが、しっかりと区別してある。
日本人なら躊躇う汚し方についても、それはそれで掃除する者がいるという考え方なのだ。
もちろん最初から、そんなに汚そうとはしない者もいる。
あとはたとえば、直史が荷物を運んで、それが原因で手を怪我した場合などはどうなのか。
球団の仕事の一部ではあるが、ピッチャーの仕事ではない。
こういう場合はむしろ、職員にとって迷惑になる。
「そういうものか」
日本でも確かにそれは違う仕事、という考え方はあったものだが、レックスでも自分の身の回りは、普通に自分でやっていた直史である。
そこでああそうか、と気付くことがある。
特に大学野球ではそうだったのだが、日本の野球は軍事教練の一環として、太平洋戦争中を生き残ったという経緯がある。
そして軍隊などでは、自分の身の回りのことを、自分でしっかりとやることが基本だ。
これが将校などであれば、付き人がいたりする。
かつての高校野球で、チームによっては存在した付き人制度、これはいまだに大学でも残っているらしいが、つくづくバカらしい。
アメリカではそれが明確に、職業の範囲として分かれているのだろう、と直史は判断した。
面倒なことだな、と直史は思う。
「その辺上手く言いくるめるためにも、英語は話せるようになると便利なのかもなあ」
普段の取材やインタビュー、記者会見には正確に、通訳を使うべきなのであろうが。
チーム全体が、いい方向に進んでいる。
オークランド戦も、六枚目の先発候補であったウォルソンが投げた試合では負けたが、二勝一敗と勝ち越し。
調子の悪いオークランドにはスイープも期待されたのだが、確実に勝ち越していくことが重要だ。
テキサス相手に二試合連続で一点に抑えられたが、あれで変に調子を崩すこともない。
そのままミネソタに移動し、アウェイではあるがまずは一戦目を勝利。
そして二戦目が直史のローテである。
直史へのオーダーは、100球まででしっかりと投げてくること。
ざっくりとしたものだが、試合の展開次第では、それはもちろん変わるはずだ。
この三試合は負け試合か、またはそこそこ点差があって勝ってきたので、クローザーのピアースが投げていない。
なので今日は投げてもおかしくない、ということになる。
ミネソタ・ダブルズはア・リーグのチームであるため、今後もそこそこ対戦経験は多くなる。
この地区は現在、強いチームと弱いチームの差があまりない。
それでもどちらかというと弱いチームであるが、若手が多く現在は再建期。
同じ再建期でもマイアミのような、いつになっても終わりそうにない再建期とは違う。
普通に投げて、普通に勝てばいい。
オーダーが100球ということは、今日はさほど球数も気にせず、平均的な六回ぐらいまで投げればいいといったところか。
(じゃあ少し厳しめに、七回を無失点で後ろにつなげようか)
飛行機での移動直後の試合でないというのは、直史にはありがたかった。
正直なところ昨日の第一戦の先発であれば、まだ調整がかなり不充分であったのだ。
ただこのまま進んでいくと、やがては移動直後の試合に投げるということもあるはずだ。
また球数や故障などによって、ローテは調整される。
なのでここは、まだそれほど苦しい状況ではない。
移動から二日目で、自分のバイオリズムなどが本当に、ちゃんと調整されているのか。
確認するためには、ちょうどいいぐらいの日程である。
九回の裏、三点をリードされた、ミネソタの最後の攻撃。
マウンドに立つのは、ここまでセーブ機会失敗なしの、アナハイムの守護神ピアース……ではない。
なぜかまだ直史が立っている。
そしてミネソタのバッターは、肩に力が入っていた。
別にパーフェクトをされそうで緊張しているとか、そういうことではない。
ただ純粋に、ひたすらに、目の前のピッチャーのことが理解出来ない。
打席に立つバッターは、この日の四打席目であり、二打席目にはヒットも打っていた。
エラーによるランナーも出ていて、前の二試合完璧なピッチングをしていても、少しは乱れてもいいと思ったのだ。
だが乱れない。
ホームははるかに遠く、それどころか二塁を踏むことも出来ない。
球数は今日は、やや多めと言える。
ただ本当に少しだけであるので、まだ投げているのだ。
八回を投げた時点で、90球に達していた。
またかよ、という顔をするには、まだアメリカは直史に慣れていない。
化け物を見る目で見られて、ベンチの中で直史は、いささかならず居心地が悪かったものだ。
オリバーからは、まだ投げるか?と尋ねられた。
三点差というのは微妙な点差だ。
クローザーのピアースに任せれば、まず負けることはないだろう。
ただここまでほぼ完全にミネソタを抑えている直史を、球数に余裕はあるであろうに、代える必要があるのか、という話である。
直史はそこで思い出していた。
自分のインセンティブ条件、200イニング登板を。
「インセンティブがかかってるから、イニング数は稼いでおきたいな」
まだ球数が100球に達していないのだ。
ならばわざわざ、クローザーを消耗させることもない。
そんなわけで直史は投げて、そしてついにその球数が100球に達した。
だがその時には、既にツーアウトのツーストライクにまで、相手を追い込んでいたのだ。
「なんじゃ、そりゃあ……」
あちこちから、似たような言葉が漏れただろう。
圧倒的な奪三振能力というわけではないが、要所ではしっかりと三振でアウトを取っていく。
粘ろうと思った相手を、力ませて引っ掛けさせたり、あるいは投球術で空振りさせたりと、二桁三振にはなっている。
そして球数は100球に達したが、さすがにここで交代はない。
直史としてもここまで、丁寧に全力投球は避けている。
最後には内角に突き刺さるスルーを振らせてスリーアウト。
九回を101球で完封勝利であった。
だんだん投球内容が悪くなっているな、などというバカはいない。
今日は味方のエラーがあったが、そこでも乱れずにしっかりと投げぬいたのだ。
三試合連続完封勝利。
MLBでも最近は、いったいいつあったことだろうか。
そもそもリリーフを必要とせず、自分ひとりで相手の打線を抑えてしまう。
明らかに50年以上昔の、今とは違うピッチャー。
そしてその過去のピッチャーにしても、ここまで圧倒的ではない。
なんなんだこれは、というのが正直なところであったろう。
そんな質問に対しての答えは、直史自身でさえ持っていなかったろうが。
「次はまたホームゲームかあ」
織田のいるシアトルとの、三連戦となる。
さすがの坂本も、もう呆れるしかなかった。
高校時代のピッチングとは全く違うし、あのシーズン中にあったアナハイム打線へのピッチングとも違う。
レギュラーシーズンで、それなりに本気は出している。
本気の力のロスが、あまりにも小さいのだろう。
不敗神話が続いていく。
最後まで続いてもおかしくないな、と坂本でさえ思い始めていた。
もちろんそれは錯覚のはずである。
×××
※ おそらくこの後NL編11話を読んだら、ちょっと変な感じで面白いと思います。
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