一章 サトー
第6話 思えば遠くへ
本当に危険なものは、危険と気づけないものである。
ベアーズはレギュラーシーズン最初に対戦するチームでもある。
それを相手に直史は、とても不思議なことをしてしまった。
ノーヒットノーランではない。むしろヒットは五本も出ていた。
だがランナーが出てからのケアが、尋常ではなかった。
ダブルプレイを四回もされてしまっては、プルヒッターはまともにバッティングが出来ない。
ノーヒットノーランをやるより、クリーンナップの心を折るほうが、直史的には重要である。
「いや、単に運が良かっただけだ」
二桁もしっかり三振を取っておきながら、直史は本気でそう思っていた。
そもそもベアーズは開幕カードの対戦相手ではあるが、重要な対戦相手ではない。
リーグが違うので、対戦する回数が少ないのだ。つまりボコボコに痛めつけても、その恩恵を受けるのはナ・リーグ中地区のチームである。
本気で心を折っておくべきなのは、今年もオープン戦の時点で、充分に戦力が揃っているヒューストン。
そして手探り状態ながら、去年よりは成長していそうなシアトルとテキサスである。
シアトルとテキサスには今、明確に注意すべきバッターがいる。
直史にとってそれはデータではなく実感だ。
シアトルには織田。そしてテキサスにはアレク。
敵と味方の違いはあれど、巧打という点ではおそらく日本最上級の実力を持っていた二人だ。
二人は大介ほどの打率、打点、本塁打を放っているわけではない。
ただこの二人が上回る数字が、間違いなくある、
それは安打数である。
両者共にパ・リーグのチームであったため、大介とタイトルを競うことはなかった。
だが二年目以降はおおよそ190本以上の安打を毎年打っていて、最多安打はアレク、首位打者は織田というのが数年続いた。
そして今もMLBでチームの一番打者となり、かなりの盗塁を稼いでいる。
それでいて勝負強さもあるのだから、厄介な選手ではある。
ワールドシリーズへ進みチャンピオンになるのには、どういう手順を踏んでいくか。
直史はしっかりと考えている。
一応ベアーズもナ・リーグのチームの中では今年、例外的に五回の試合が組まれている。
なので血祭りに挙げるには、悪くない相手ではあった。
同地区の同リーグのチームとの対戦が、もちろん一番大事ではある。
しかし他のチームもどうにかしないと、勝ち星がたまらない。
「トローリーズかラッキーズが強いとか言われとるぜよ」
坂本はけっこう適当なところもあるが、やることはちゃんとやってくれている。
正直今年の直史は、まずは自分が環境に慣れるので大変なのだ。
東はラッキーズ、西はトローリーズ。
だいたいいつも戦力を備えているのは、ニューヨークとロスアンゼルスをフランチャイズとするこの二つのチームだ。
ただ地区格差、というものは明白に存在する。
今などは東地区は、ア・リーグの方はラッキーズの他にトロントも強かったりする。
それと珍しく今は再建期で弱かったはずのボストンが、スプリングトレーニングが始まってから、オープン戦の最中でもそこそこの補強をしている。
先日の試合で上杉は大介にホームランを打たれたが、それ以外はずっと無失点。
最後のイニングにリードしていたら勝てる。
そんな無茶苦茶なクローザーがいるので、ある程度は補強をしているのだろうか。
ただそれにしては、中途半端だと、坂本は言っている。
「むしろシーズン中にチームを再建しちゅうがか」
さすがに理解出来ない、というところらしい。
直史はどうすればワールドチャンピオンに届くか、そこまでをあまり考えない。
考えがあるだろう坂本とは旧知の仲ではあるが、むしろ敵であったのだ。
国際大会でもチームメイトだったことはなく、チームの実態が掴めていない。
また掴めたと思っても、トレードで変わってしまうのがMLBだ。
同じリーグの同じ地区のチームとは、全て19試合を行う。
地区優勝すればポストシーズンに進めるし、その中でも勝率は高いほうが有利だ。
ただNPBであれば試合がなければ休めていいと思うのだが、どうもMLBはそれより勢いを重視する。
成績を上げるには数字が重要だが、数字だけでは優勝には届かない。
それがMLBであるらしい。
NPBのレギュラーシーズンとは、かなり対戦の組み合わせが違う。
特にナ・リーグの東地区のチームとは一つも戦わないし、西地区のチームともトローリーズ以外は戦わない。
普通なら近場の西地区と戦えばと思うのだが、チームによって変わるのだ。
おおよそオープン戦の戦績によれば、やはり同じ地区のヒューストンは最大のライバルになる。
インターリーグでナ・リーグ中地区のチームと対戦するのは、それほど重要ではない。
やはり同じア・リーグのチームとの対戦が重要だ。
それとあとは、トローリーズ。
興行的な意味合いが強いとは言え、ナ・リーグ西地区最強とも言えるチームと、なぜよりにもよって戦わなければいけないのか。
このあたりアナハイムは少し、損をしていると言っていいだろう。
もっともそれを言うなら、ニューヨークの両球団も、強いチーム同士の対戦となるのだが。
実際のところメトロズは弱い期間もそれなりにある。
大介がやらかした次の年なので、興行的には期待されているだろう。
アナハイムは昨年は怪我人も出たが、戦力的にはそうひどくもない。
勝率も五割ほどであるから、そこから直史がどれだけの勝ちを積み上げるか。
昨今のピッチャーはエースであっても、あまり大量の勝ち星はつかなかったりする。
だが直史は完投可能なピッチャーであると、もう誰もが分かっている。
ピッチングコーチの重要な仕事の一つには、リリーフの起用のタイミングをFMに進言することがある。
そしてあまりそれが連投になると、試合に負けてでも休養を入れたりする。
直史が完投してくれるなら、リリーフの負担も減る。
先発として優秀なだけではなく、リリーフの役割も果たしてしまう。
昨年の27勝というのは、もちろんすごいことだ。
ただ他の数字を見てみれば、235イニングを投げている。
エースクラスに加えてセットアッパー一人分の年俸は、絶対に払うべきなのだ。
これがインセンティブは別として、年間1000万ドルはお買い得すぎる。
(三年後にはとんでもない契約になってるかもしれんな)
年齢的に見ても、五年ぐらいは結ぶだろうか。
年間3500万ドルぐらいの契約になったとしたら、一億7500万ドル。
さすがにその時、アナハイムが出せる金額だとは思わない。
直史の予定を知らないオリバーは、そんなことも思った。
あの試合の後、直史の周囲にはマスコミが殺到することになった。
地味に見えるようでいて、圧倒的にゴロを打たせることが上手い、グラウンドボールピッチャー。
特筆すべきはフィールディングで、ピッチャーゴロを打たせては簡単なアウトを積み重ねている。
「マダックスみたいなタイプかな?」
「あれとはまた違うような気もするが」
ピッチャーのゴールドグラブ賞は、直史のものになるか。
下手なパワーピッチャーではなく、自分でゴロを処理するピッチャーの方が、ゴールドグラブには相応しい。
開幕に向けて試合で投げるのは、短いイニングになっている。
むしろ投げるよりも、移動からの調整が難しい。
マスコミも多いし、中には日本から来ている記者もいる。
直史は変に日本のマスコミを優先することはなく、ただ一度に一人以上は必ず対応し、無難なことを述べておく。
オープン戦ではなんだかんだ言って、42イニングも投げた。
そして失点はわずか一点である。
「これはクローザーも出来るのか?」
「さすがに奪三振率が……いや、フォアボールが少ないから出来るのか?」
リリーフとしての適性と言うなら、火消しの適性だけは微妙に持っていないと思われる。
ゴロを打たせるということは、それだけ進塁打になることもあるのだ。
ノーアウト一三塁から内野ゴロを打たれたら、ほぼ一点は確実だろう。
なのでリリーフとして使うなら、イニングの最初から使わないといけない。
もちろん現在の直史の価値は、先発として捉えられている。
100球以内で完封が出来るピッチャーなのだから、他で使う道理がない。
もっともシーズン終盤には、また変な使い方になるかもしれないが。
(調べてたけど、中三日中二日中一日連投って何? バカなの!? 死ぬの!?)
二年前の直史の、ポストシーズンでのスコアを見て、そんな感想を抱くオリバーである。
やがてついに、レギュラーシーズンが開幕する。
こちらの開幕は派手だな~、と直史は普通に観客席でそれを見ていた。
クラブハウスでもなく、自宅でもない。
瑞希と一緒に、スタジアムで直接見るためである。
場所が半公共的なところだし、夜が遅くなるかもしれないので、真琴はシッターに預けてお留守番である。
球団の用意してくれたファミリーシートで、他にもチームメイトの家族が相当に来ている。
やはり開幕戦は特別なのだな、と直史は思う。
ちなみに通訳をしてくれる若林は、さすがにここにはいない。
なのでファミリー層との交流は、まだまだ微妙な英語で行う。
だがあちらもラテン系や中南米出身で、英語は怪しかったりする。
日本人とメキシコ人が、英語で会話する。
こういった懐の大きさが、やはりアメリカにはあるのだ。
なお奥様連中やちびっ子連中は、色々と直史に話しかけてくる。
どうやらあまりアスリートには見えないらしい。
それは日本にいたころから、散々に言われたことだが。
直史よりも小さい選手は、それなりにいるのだ。
だが直史より細い選手は、ほとんどいない。
「まるで大企業のエリートビジネスマンみたいね」
誉めてるのかどうなのか、おそらくただの印象だけなのだろう。
実際に間違ってはいない。
ちなみに普段着で直史は着ていて、瑞希も普段着である。
奥様連中にはもっとカジュアルな人間もいれば、めかし込んでいる者もいる。
このあたりを見るとベースボールは、本当に庶民に愛されるスポーツなのだと思う。
なおドレスコードではNBAなどは、故障中の選手などが味方の観戦に来るときは、フォーマルとまでは言わないがそれなりのドレスコードがあったりする。
だいたいアイバーソンのせいである。
アナハイムの開幕投手は、左のスターンバック。
100マイル連発のパワーピッチャーではないが、今年で27歳になるクレバーなピッチングをする選手だ。
伸びのあるストレートも投げるが、それよりはスライダーを細かく幾つかに変化させてくる。
そしてカーブを投げて緩急もつけていくタイプだ。
相手のベアーズは、オープン戦で直史がボコボコにしてから、打線の調子はあまり良くない。
ただしあちらも開幕戦だけにエースを投入し、アナハイムの打線をそれなりに抑えている。
両者失点を許さず、試合は進行していく。
「なるほどな。ペース配分が問題なわけか」
直史は呟く。両投手共に、球数を意識したようなピッチングだ。
今のMLBは一発の数も多く、こういった投手戦は珍しい。
直史は珍しくないのだが、そこは世界の七不思議の八つ目の謎だ。
六回までを投げて、あとはブルペンが動き出す。
ここから試合はあっという間に動き出した。
先攻のベアーズが一点を取ったが、その裏にアナハイムが二点を取って逆転。
また次の回にベアーズは、一点を取って同点。
(セットアッパーに不安はなかったはずなんだけどな)
アナハイムはそのあたり、若手に期待していた。
だが若手に開幕戦は、荷が重かったということか。
瑞希はその様子を見ながら、手元のノートにペンを走らせる。
試合の進行のみならず、観客席やベンチにまで目を向ける。
開幕はやはり和気藹々といったところか。
日本の開幕戦の方が、もっと張り切った人間は多いように思える。
試合は同点で最終回へ。
そしてホームであるアナハイムは、裏の攻撃が回ってくる。
ここでサヨナラのヒットが出て、めでたく開幕初戦を勝利。
スタジアムは穏やかな笑顔に包まれたのであった。
アナハイムは穏やかな、しかし活気がないわけでもない街である。
都市としての機能はしっかりしており、直史も瑞希も車の免許は切り替えたが、基本的にはタクシーを使うことにしている。
治安がいい場所なのでさほどの危険はないが、それでもアメリカはアメリカ。
後先考えない突発的な犯罪者はいるため、基本的に夜には出歩かないでおこうと瑞希は考えている。
ツインズは出歩いていたらしいが、あれでもちゃんとニューヨークの治安のいい地区を歩いていた。
そもそもあの二人は、戦闘力が瑞希とは違う。
それに椿は怪我のあと、そういった無茶はしない。
そして椿のことを考えると、桜も無茶はなかなか出来ないらしい。
翌日の直史は、早くから起きて準備をしていた。
ストレッチや柔軟などではなく、メンタル的なものだ。
あまりルーティンなどは考えない直史だが、そもそも彼は日常生活が、かなりルーティンに落とし込まれている。
それが乱されるのは、やはり育児に関わる時だ。
試合の前に軽くランニングなどをし、またキャッチボールにノックなどを行う。
肩を作るのはもっと後になってからだ。
「サトー、調子はどうだ?」
「上手く調整できていると思いますよ」
普段なら「普通」と答えるところかもしれないが、直史はかなり念を入れている。
新しい舞台での初登板で、ここでそれなりにイメージがついてしまうかもしれない。
イメージというのは大切なものだ。
ここで打てないと思わせておけば、シーズンの最初から上手くスタートすることが出来る。
ベアーズの選手には既に、苦手意識が染み付いているはずなのだ。
そのためにわざわざ、不充分な状態ながらも完封をしてみせた。
単純な完封ではなく、100球以内のマダックス。
ダブルプレイや牽制死など、手玉に取られたという感覚が残っていてほしいものだ。
時間が経過して、試合の開始時間が近づいてくる。
ロッカールームで直史は、坂本と最後の詰めを行っていた。
「こてんぱんにやるっちゅうこっちゃな」
「簡単に言うとな」
あれだけ封じられてしまったベアーズであるが、それだけにある程度の対策は考えているだろう。
ただ直史に封じられたチームがやってくる対策は、今までにも色々と例がある。
なのでどのパターンかは、早々に分かるはずなのだ。
FMやコーチ陣が入ってきて、最後の激を飛ばしていく。
アナハイムは開幕から七戦連続で、ホームでの試合となる。
ここでしっかりと強い姿を見せておけば、観客動員へも影響する。
そして観客が多ければ、選手のパフォーマンスは向上する。
ちょっと無理をして、怪我をしてしまう可能性も上がるが。
ポンポンポンと、直史の背中か左肩が叩かれる。
右肩は叩くなというのが、直史が常に言っていることだ。
またハイタッチをするのも、必ずグラブを外して左手で。
ほんのわずかな感覚の差でも、コントロールは大きく乱れるものだ。
「さて」
グラウンドの一番高いところから、直史はスタジアムをぐるりと一望する。
既に何度も立っているが、いよいよ公式戦のマウンドだ。
それもホームゲームなので、まっさらなマウンドだ。
土の固さなど、細かいところを確認していく。
そしてそれ以上に、自分の状態を確認していく。
大丈夫だ。落ち着いている。
それでいてわずかな高揚感はある。むしろあって当たり前のものだ。
(外国で野球やって金を稼ぐようになったなあ)
深々としたため息は、諦めが篭っている。
趣味の領域にとどめたはずの野球が、なぜかプロの世界に入ることとなった。
それは別にいいのだ。大介との対戦の勝敗を、公式戦でつけたいとは思っていた。
ただわざわざ海を渡って、アメリカまでやってきた。
MLBでプレイするなど、別に望んではいなかったのに。
視線を感じる。
瑞希は今日も見に来てくれている。試合が終わればそのまま一緒に帰る予定だ。
アメリカ駐在の日本のマスコミに頼んで、今日はプレスとして試合後のインタビューにまでもぐりこむつもりでいる。
(誰の視線だ?)
あるいは、瑞希以上に。
直史は、誰かから見られていると感じる。
あるいはそれは、テレビカメラの向こうからのものなのか。
それとも注目が多いため、直史でもそう感じてしまうのか。
だが結局はやることは変わらない。
今日もまた、しっかりと投げていくだけだ。
審判がプレイボールを宣告する。
レギュラーシーズン、最初の登板が始まった。
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