第5話 名状しがたき存在

 メジャーリーガーはタフでないとやっていけない、と直史は言われていた。

 合っているようで間違っている。

 メジャーリーガーに必要なのはタフさではなく、鈍感さである。


 オープン戦も飛行機移動を伴い、到着したその日のうちに試合。

 直史はすぐに、これはまずいと気づいた。

(これだけは疑似体験のしようもなかったからな)

 わずかな平衡感覚の狂いや、体重の変化。

 メジャー用のジェットでの移動は、たっぷりとしたシートでリラックス出来るようにしてある。

(本当に、これはシーズン序盤は苦しいぞ)

 どこまで調整に時間がかかるのか、これまでの経験から推測が立たない。

(メジャーはむしろタケ向きだな)

 大介も意外と繊細なところはあると思っていたのだが、このあたりの調整はどうしていたのだろう?


 オープン戦も終盤となり、そろそろ落とす選手はもう落としきっている。

 直史は無事に26人枠には残り、初先発の試合も決まっている。

 最初のカードはホームで、ナ・リーグ中地区のシカゴ・ベアーズとの三連戦。

 開幕戦ではないが二戦目が、直史の先発となる。

 今年のベアーズはそれほど強いチームではないと言われる。

 だがMLBでも屈指の人気チームであることは確かで、何人かはスタープレイヤーもいる。


 コアとなるべき打撃の選手。

 それをしっかりと抑えることが、ベアーズ相手には重要なことだ。

 抑えられるのか、と直史は自問する。

 結局は抑えてしまうのだ、とナオフミストは予定調和を期待する。

 ただ本人がそれは難しいかな、と思っていた場合は別である。


 本気を出したら大丈夫。

 だが本気を出せる状態に、ちゃんとなっているのかどうか。

 直史はそのあたり、無駄に自信家ではない。

 むしろ慎重であり、さらに言うなら現実的だ。


 自分は、パワーで抑えられるピッチャーでないことだけは確かなのだ。

 直史は変化球には魔球と言われるものがいくつかあるが、それよりも彼の最大の武器と言えるのは、コンビネーションなのだ。

 そしてその前提となるのが、コントロールだ。

 コースのコントロールだけではなく、緩急や変化量のコントロール。

 それらの全てが、己の体であるのに己のままにならない。


 本人は危機を認識しているが、傍から見れば普通に抑えている。

 やたらと打たせて取るのが上手いな、とは思われてはいるが。

 要求される水準を、はるかに超えた上でのこだわり。

 まさか調子が悪いと言って、ローテを飛ばしてもらうわけにもいかない。


 MLBにおける先発ローテというのは絶対である。

 はっきり言って試合に負けてしまっても、どうにか球数内でイニングを終えれば、失点していてでも評価はされる。

 イニングを食って試合を潰していくのは、それだけ大切なことなのだ。

 162試合も行うというMLBのシーズンは、他のプロスポーツに比べても圧倒的に多い。

 まさに肉体を削り合うことこそ、MLBでの戦いと言える。


 そんな統計のスポーツと直史は、本来は相性が悪いのだ。

 今まではそれを、完全に制御したピッチングによって、より統計どおりの結果が出るように寄せていた。

 だから結果がああなっていたわけで、制御が完全ではなくなったら、ある程度は統計からはみ出た運の要素が強くなる。

 運もまた統計だ。

 ピッチャーの要素は奪三振、フォアボール、ホームランの三つのみが、本来は重要だという極論まである。

 だが直史は徹底的に内野ゴロを打たせて、それゆえに逆にフライや三振でアウトにすることも出来るようになっている。

 イニングをしっかりと食って、ローテーションを守る。

 まずはそこが課題になるだろう。




 オープン戦、直史の投げる球数は少ない。

 MLBで言われているのがピッチャーの年間の球数は、3000球が限度というものだ。

 休養の間隔やブルペンでの球数が抜けていて色々と穴だらけの基準であり、他にも投手の酷使を計算する計算式はあるのだが、一番分かりやすいのはこれだろう。

 直史は二年連続で、余裕でこれを下回ってきた。 


 だが開幕まであと一週間ほどとなったこの日、直史は100球を目途に投げることになる。

 出来れば七回までは投げてほしいが、完封してしまっても一向に構わんという、ありがたい仰せが出た。

「どうするがよ」

 坂本の問いに、直史は少し考える。

「無理のない範囲で、失点は防ぐといったところか。七回まで投げることを最優先にしよう」

 ある程度打たれても、オーダーを実行する。

 その直史を見て坂本は、本当に面白いやつだと思う。


 直史が持っている坂本への確執を、坂本は直史に対して持っていない。

 それは直史が野球を個人競技として、ある程度捉えているからだ。

 坂本はこんなフリーダムな性格であるが、仲間とワイワイするのが好きなのだ。

 楽しむのが目的であって、もちろん勝てば楽しいが、勝利至上主義ではない。

 なので勝利至上主義の高校を、あっさりと辞めてしまったわけだが。


 ベアーズ相手に、ホームグラウンドでの対戦。

 カリフォルニアの気温は、アリゾナともそれほど変わらない。

 ただ直史は移動距離というものを、甘く見ていた。

 単純にそれだけ時間がかかるというものではない。

 アメリカの場合は明確に時差が発生するのだ。


 それでも時差の影響が響かないように、必死でスケジュールは組んである。

 なのでそこで、文句を言うわけではないのだが。

 バイオリズムの調整というのは、今までにやったことがない。

 いや、海外に行った時などは、出来ていたのだ。

 ただそれを何度も繰り返すとなると話が変わる。


 先発で良かったと思う。

 おそらくリリーフであれば、毎日の調整は不可能であった。

(俺の弱点か)

 意外と今まで、MLBに挑戦して通用しなかった選手は、タフさやスタミナとは関係なく、この生活習慣に適応できなかっただけではないのか。

(確かオープン戦では良かったけど、レギュラーシーズンでは全く駄目になった選手もいたよな)

 初戦が重要になる。

 まずは多い球数を、この試合で投げる。




 日本人ピッチャーは当たり外れが激しい。

 そう思われているところが、MLBにはある。

 実際のところは野手に比べれば、はるかに当たる確率は高い。

 ただ今でも、直史の実力に疑問符を付ける人間は、チーム内部にさえいる。


 とりあえずチームメイトとのコミュニケーションには成功したらしいが、成績はどうなるのか。

 確かに素晴らしい防御率を誇っているが、奪三振の数が少ない。

 日本では三振も取れて、完封なども何度もしている。

 だがアメリカであれば、もっとボール球を使っていく必要があるのではないか。


 確かに直史は、比較的ボール球を投げている。

 ただそれは意識的に球数を増やして、投げ込みとしているからだ。

 三回を30球で終わらせたとしても、そこからその日はノースロー。

 アメリカは選手生命を大切にすると言うし、実際にピッチャーはそうなのだろう。

 だが大切の仕方が間違っている。


 日本においても休まずに投げていなければ、肩が固まってしまうという選手もいた。

 直史もそこまで極端ではないが、体の柔軟性は維持していたい。

 よってキャッチボールを精密に何度も行う。

 素振りとキャッチボールは野球の基本なのだ。




 まだ評価を保留しているが、とりあえず先発のローテで使うことに文句はない。

 それが首脳陣の最低限の評価だ。

 ピッチングコーチのオリバーは熱烈に支持しているが、それでもオープン戦で思ったほどの成績にならないことは不思議だった。

 もっともフォアボールを一つも与えていないのは、やはり評価するべきだろう。


 三振が奪えていない。

 追い込むまでは打たせるスタイルだが、追い込んでからは三振を狙っていった。

 内野ゴロや内野フライより、確実に取れるアウトが三振だ。

 それがないというのは、あまり印象が良くない。

 ただバッテリーの間に焦った様子などは見えないし、むしろ坂本などは面白そうな顔をしている。

 実際に得点を取られたのは、エラー絡みのものしかないのだ。


 WHIPはかなり悪く、それでいて防御率はいい。

 三振は取れず、しかしフォアボールは出さない。

 なんなのだ、これは。


 先発として序盤から試すのには、何も異論は出なかった。

 ただどれだけ期待していいのかは、実際にシーズンが始まってみないと分からない。

 少なくとも日本時代のような、圧倒的な成績は残せないだろう。

 だが契約のことを考えれば、普通に先発を回してくれれば、充分なものだと言える。

 契約にはインセンティブの要件が多く、それこそサイ・ヤング賞でも取れば、かなりの高年俸になる。

 だが一年で1000万ドルというのは、普通に先発ローテを回すなら安いのだ。




 ベアーズ相手の初回。

 先頭打者に打たれることが多かった直史だが、ここはあっさりと片付けた。

 しかも課題であった、三振によるものだ。

 これは単純に直史が、実戦を想定してきたことによる。

 足の速い先頭打者は、内野ゴロでもセーフになる可能性がある。

 なので三振を狙いにいって、実際にストレートで空振りが取れた。

 ファールを二つ打たせてからの空振りと、理想的な感じである。

 

 二番と三番に対しては、内野ゴロとファールフライで打たせて取った。

 まずは無走者スタートである。


 アナハイムの打撃力は、かなり直史としては信頼している。

 普通にやれば七回までに、一点か二点は取ってくれるだろう。

 七回までの予定と言われたが、そこまでを二失点に抑えればハイクオリティスタートだ。

(長く投げるか……)

 正直もっと、投げ込みをしておきたかった。


 ただそんな直史の思惑とは無関係に、アナハイムは初回から点を取っていく。

 三番シュタイナーと四番ターナーが、ど派手に連続ホームラン。

 いきなり二点のリードを奪ってくれた。

 これもまた直史の考えていた、試合に楽に勝つために必要なことだ。


 日本時代の直史は、比較的援護点が少なかった。

 それでもしっかり勝ってしまうところが、直史が色々と言われていた理由であるが。

 悪魔とでも契約しなければ、とても出せない成績と言われたこともあった。

 だがそんなアホなオカルトを考えている時間も、野球についやすればいいのだ。




 二回の表、四番打者相手には、ツーシームをアウトローに投げてみた。

 これを普通に打たれて、レフト前に運ばれる。

(ツーシームも単発では、やっぱり効果は薄いか)

 今日もまた直史は、縛りを入れてピッチングを行っている。


 五番打者を三振に打ち取ったのは、カーブであった。

 落差のあるボールを、バッターは空振り。

 見逃していればボール球であった。

(球数はいい感じだな)

 六番には早めに打たせて、ダブルプレイが取れた。

 アメリカの強打者は年齢を重ねると、途端に走れなくなることが多い。

 まあ走るというのは基本的なことなのだが、故障のリスクもあるものなのだ。


 その後もアナハイムは、しっかりと点を取っていく。

 オープン戦でほぼロースターも決まっているので、調整とアピールも無茶なものは少なくなっている。

 その間も直史は、淡々とピッチングを続ける。

 時折三振を奪うが、基本的には打たせて取る。

 打たれたとしても単打まで。

(タイミングを崩しても外野まで持ってくあたり、MLBは本当にパワー馬鹿と言うか)

 NPBとは違う按配でいかないと、一発の不安が大きくなる。


 球数は少なく、ボール球を投げず、打たせても単打まで。

(案外内野フライが取れない)

 直史はフライボールピッチャーでもグラウンドボールピッチャーでもない、完全なオールラウンダーだ。

 しかし今のところはフライではなく、ゴロを打たせた方がいいのは間違いない。

(ノーヒットで凌ぐのは、まだ難しいな)

 最低限の仕事はして、シーズン中にも調整していこう。




 その最低限の仕事をしている直史であるが、七回になると声がかかった。

「最後まで投げるか?」

「そうですね」

 その言葉を訳すことなく、若林は親指を立てたのだが。


 アナハイムのベンチが、異常な空気に包まれている。

 六回を終わってた時点で、直史は19人のバッターを相手にしていた。

 だが打たれたヒットは四本。

 つまりダブルプレイと牽制死一つで、ランナーを二塁に行かせていないのだ。


 粘ついた空気が、直史を中心に広がっている。

 それはおそらくベアーズの選手からすれば、蜘蛛の糸が絡み付いているような感覚だったのかもしれない。

 直史のピッチングを知っている者からすれば、当たり前の出来事。

 地元でやっている試合ということで、瑞希もこれを見に来ていた。

 調整が難しいと言っていたが、蓋を開けてみればこれた。


 こういった試合であっても、SNSで地球の裏まで届くものだ。

 また動画投稿のサイトにアップすることもあるだろう。

 もちろん本来は違法である。

 ただ実況中継は違法ではない。


 何を見ているのだ。

 自分たちは何と戦っているのだ。

 名状しがたいそれは、恐怖と言うのに似ているのかもしれない。

 だがそれよりはもっと不可解で、それでいてもう逃げることは不可能に思えている。

 どういうことだ、というのはベアーズの選手だけの思考ではない。


 七回が終わった。

 直史が投げた球数は、まだ68球。

 オープン戦なのだから、このあたりで交代してもいい。

 だがどうせなら100球近くまで投げて、どういう状態なのかを確認したい。

(これが、そうなのか!?)

 DHのあるMLBにおいては、ピッチャーは投げるだけ。

 かつてはDHがアクシデントで交代した場合は、ピッチャーが打席に立つという珍しい事態もあった。

 しかし今はルールが改正され、ピッチャーにも打たせたいと思わない限り、ピッチャーが打席に立つことはない。

 ベンチで直史は帽子を脱ぎ、じっと試合の進行を見ている。


 七点も点差がついたため、アナハイムの打線はおとなしくなっている。

 目をボールに慣らすことを目的としてか、あまり安易な出塁を考えていない。

 下手にボコボコにすると、報復の死球があるかもしれない。

 そう考えているのだろうか。




 この試合は時差があったため、他のチームでも見ようと思えば見られる。

 それ以前にこれは、見ておくべきだと思ったかもしれないが。

 九回の表、直史はマウンドに登る。

 球数はまだ80球になったばかりである。


 これは、あれだ。

 無四球完封。

 一人また打たれてしまったが、そこから直史は変化した。

 ブレーキの利いた変化球を見せ球にして振らせて、スルーを使って連続三振。

 結局は二桁の10三振に乗せることとなった。


 たまたま観戦に来ていた観客たちは、あまりにも幸運すぎた。

 いや、不幸であったというべきなのか。

 ドラッグの快楽というのは、知るべきではない。

 知ってしまえばそこから抜け出すことは、とても難しいのだから。


 九回を29人相手に91球。

 ヒット五本、エラー一つで、バッターボックスから塁に出たのは六人。

 それなのにダブルプレイと牽制で、四人を殺している。

 奪三振は10個。無失点。つまりこれを、マダックスと言うのだ。


 何かとても奇妙な、おぞましいものを見てしまった気がする。

 怖いことだとは分かっていたのに見たのとは違う、本当に不意打ちの恐ろしさ。

 一般的な野球選手であったり、より野球に詳しいほどに、この記録の異常さに気づく。

 むしろ素人であれば、そこそこ打たれたのに守備のおかげで、ダブルプレイを何度も取ってもらったと、直史のことをラッキーだと思うのかもしれない。


 もちろんそんな者はいない。

 あるいは機械的にスコアだけを集計している人間なら、そう思えたかもしれない。

 だがMLBのベンチには、野球の素人などはいない。

 直史のやったことがどれだけおかしなことか、そしておそらく意図的にそれをやったのだと、はっきりと肌で感じている。


 これが、そうなのか。

 これをもう少し調整すれば、狙ってパーフェクトが取れるのか。

 パーフェクトを達成した投手の名前などを見ても、決して有名な実績を残したピッチャーばかりではない。

 むしろパーフェクトのみの一発屋として、知られている者もいる。

 もちろん有名なピッチャーもいるが。


 そもそも今は球数を厳しく管理しているため、完投することが稀なのだ。

 MLBトップレベルの先発ピッチャーであっても、完投などせいぜい年に数度。

 その完投を球数の制限に捉われず、圧倒的な省エネで達成してしまった。

 記録や映像で知るのではない。

 今初めて、佐藤直史を理解した。そういうチームメイトが多い。


 こいつはいったいなんなんだ。

 弁護士であり、一度野球からはドロップアウトして、そしてまた復帰した。

 アマチュアでは当たり前のようにパーフェクトを繰り返し、おそらく多くの才能を叩き折ってきた。

 ただ、それも直史に言わせれば、そこからもう一度立ち上がればいいだけ。

 折れても別に、対決する相手は直史なだけではない。

 だからそんなところでいつまでも立ち止まってないで、先に進んでいけばいいのだ。


 試合が終わってもガッツポーズ一つせず、平然としている直史。

(汗もかいてない)

 チームメイトも首脳陣も、これはおそらく宇宙人なのだと、遠い目をしながら思考を放棄した。

 おかげでこの後のインタビューで、マスコミはとても苦労した。



   序 了   一章「サトー」へ続く

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