第4話 たかされ
たかがオープン戦、されどオープン戦と言うべきか。
少なくとも日本では、オープン戦で一位の成績を収めても、リーグ戦で最下位という戦績を残したチームはいる。
そのシーズンをある程度占うことは出来るが、やはり怪我人も出るし補強などはまだまだ行われる。
MLBは、なので七月までは全く分からないと言える。
だがシーズン前の時点で全く補強をしていなければ、さすがに勝つ気がないのだろうな、とは分かるが。
順調にオープン戦を消化しつつ、直史は調整を重ねていく。
そして徐々に首脳陣は気づいていく。
ヒットを打たれているのに、全く動じることがない。
そこから点を取られない。
むしろ最初の一人は、意図的に出しているのでは、とさえ思える。
ランナーを背負った状態で、どういうピッチングをするのか、そういうことを考えているような。
これは勘繰りではなく、統計である。
先頭打者にヒットを打たれる確率と、他の打者に打たれる確率が全く違う。
ランナーがいる状態で、味方の守備陣がどう動けるのか見ているような。
そしてフォアボールを出さずに、後続はしっかりと打ち取っている。
出来るだけノーアウトで、単打でランナーを出す。
いかに点に結びつけず、スリーアウトを取るかが重要だ。
もっとも三塁まで進んでしまえば、そこからはピッチングの練習になる。
フォーシームストレートで内野フライを打たせて、確実にアウトを取る。
ただ三振にまではなかなか達しない。
縛りの一つだ。
出来るだけ三振は奪わないと。
一番いいのは内野フライ。
しかしフライを打たせるのとゴロを打たせるのでは、かなり難易度が違う。
とにかくアッパースイングが全盛の現在は、ほどよいフライを打たせるのが難しいのだ。
今もまた飛距離はそれほどでもないが、やや高さはあるボールがサードのファールグラウンドに流れていく。
(まあファールフライならいいか)
そう考えていた直史であるが、人間の想像力には限界があるものだ。
なぜか突風が吹いてボールが流れ、それをキャッチしたサードがベンチの中にまで入り込んでしまう。
そしてそれを見たサードランナーが、タッチアップでホームに突っ込む。
(え~、オープン戦でそれをやって、何か意味があるのか?)
ボールをキャッチしたサードも、そこから走るランナーも、本当に意味がないと思うのだ。
ただ意味は後からついてきた。
これで直史に、自責点が付いたらしい。
意地でも点は取られたくないマンの直史も、これには呆れて諦めた。
今の時点で重要なのは、結果ではなく内容だ。
それよりも問題なのは、これでレギュラーのサードが腕の骨を折ってしまったことだろう。
軽く皹が入った程度だが、大介ではないので一ヶ月は戻れない。
そろそろオープン戦も、終わりが近くなってくるのだが。
練習も本番並の真剣さでやらないといけないのは確かだろう。
だが練習では絶対に、怪我をしてはいけないのだ。
もっともボールを追ってしまうのは、野手の本能というものだ。
だからああいう場面でも、スライディングでキャッチする習慣をつけなければいけない。
ちゃんと普段からそういうキャッチングを練習していなければ、咄嗟には出ないのだろう。
ただベンチにしても、危ないとかどうとか声をかけてもいいだろうに。
40人枠に入りロースターは内定していたが、これで負傷者リスト入り第一号だ。
チームとしてはまた、他の選手を試す必要が出てくるだろう。
(確実なスタメンが決まっていないと、そこに二人を当てはめる必要が出てくるのか?)
直史には不安はない。
ただこれによって他のポジションの選手が、枠からあぶれてしまったら問題だ。
一応この時期なら、契約自体はもうしてもらっている。
単年契約であるか複数年契約かは知らないが、これでしばらくは息がつけるであろうというものだ。
ただ資産管理はしっかりとしている直史からは想像しづらいのだが、10億以上は稼いでいたはずの選手が、銀行にはほとんど金がないのだとか聞く。
一度は複数年契約を結んだのだから、それで普通なら一生食べていくだけの金額にはなったであろうに。
そのあたりがアメリカの、結婚と離婚の恐ろしいところだ。
日本もだいたい離婚が増えてきているが、夫婦どちらかの原因がはっきりしていることが、まだしも多い。
ただアメリカはそのあたり、とてもカジュアルに離婚する。
そしてそれがアスリーツであると、恐ろしいことになる。
プロスポーツ選手の年間の稼ぎに限らず、夫や妻が稼いだものは、その期間は夫婦の協力の稼ぎとみなされることが多い。
実際には弁護士がいかにペテンにかけるかというところだが。
アメリカの同調圧力の一つには、家族に対する幻想もある。
これだけ離婚が多いながらも、個性だの自由だの権利だのを主張していった結果、家庭は壊れている。
なおこのアメリカ的価値観が持ち込まれた日本では、アメリカと違って中流志向がいまだ抜けないため、圧倒的に結婚率が低い。
ただ離婚が多くなるのは単純に、性格の不一致などで済ませるべきではないだろう。
ちなみに直史と瑞希は、弁護士として散々に離婚案件は扱ったのだが、どうにも結婚したのに離婚するのかが理解出来ない。
こいつらは相手が顔面偏差値、肉体的妥当性、性格的許容力、経済力などの全てに恵まれていることを、実感できないのだ。
フロリダのキャンプの方では、相変わらず大介が派手なことをしているが、それよりも上杉の方が派手だろう。
一イニングを投げることが多いらしいが、ほとんど三振と言うか、バットに当てることすら出来ないと言うか、そもそもバットを振れない。
頭の中にある最速のイメージを超えてくるため、肉体が反応しないのだ。
日本で出た最速記録を、ギネスはともかくMLBは、野球の最速と認めてこなかった。
だがその傲慢も、ついに終わりを迎えるらしい。
キャンプ中であっても、案外選手たちは遊びまわる。
直史は祭祀など以外では酒を飲まないが、食事に付き合うことはある。
肉はほどほどに摂取しなければ、やはり力が出ない。
アメリカの大味な赤身肉は、意外と直史の舌には合う。
中には直史に女を買わないかと誘ってくる選手もいる。
別に買わなくても、メジャーリーガー目当てのそういった女は普通にキャンプ地周辺にいる。
病気が怖いとか美人局とか、そもそも不倫ではないかと直史は思うのだが、その辺りは口にしない。
ただ、やや詩的な物言いをした。
「私の鍵に合う鍵穴は、もう世界には一つしかないのだ」
これを通訳されてチームメイトは爆笑し、お堅い人間だと思われていた直史は、かなりジョークも通用するのだと認識された。
もともと存在自体がブラックジョークであったことは言うまでもない。
ただ悪ノリして、さらに質問する者もいた。
「じゃあお前さんは、生涯一人の女だけしか知らないのか?」
直史は厳粛な顔に、誇りある笑みさえ浮かべて言った。
「妻を知って以降は、彼女しか知らない」
まるで聖書の文句を呟く神父か牧師のような謹厳たる暖かみのある態度は、メジャーリーガーたちにも深い感銘を与えた。
あいつは色々な意味ですげえ、とチームメイトたちは直史を称えるようになった。
ただ何が凄いのかを、具体的に言わないあたり、メジャーリーガーの意地悪さと言うか、仲間意識というのは面白い傾向にある。
アメリカは基本的にキリスト教徒が多い。
そしてキリスト教は基本的に処女崇拝の傾向が今でもある。
敬虔なキリスト教信者の中には、今でも普通に結婚するまで、肉体関係を結ばないという人間はいる。
ただこういった価値観は負の方面に暴走し、結婚すれば夫婦のお互いへの暴力があっても、絶対に離婚しないなどという態度になったりもするが。
博愛の教えはどこに行ったのか、という話である。
不思議な状態である。
首脳陣にとって直史という存在は、ナオフミストとなったオリバーはともかく、どこか不気味な存在であった。
その経歴や実績などを見ると、感情に流される人間でないのは分かる。
ただ容貌などからだけではなく、どこが学術的な人間の印象があり、確かに体格はMLBの選手の中では小さくて細い。
まだ完全には英語が伝わらないというのも、いささか遠巻きにする理由にはなった。
去年のチャンピオンチーム相手に、エキシビションマッチとは言え、パーフェクトマダックスを決めたピッチャー。
メジャーリーガーは化け物の集まりであるが、そんなことが出来る人間がいるとは、とても思えない。
ただNPB時代、そしてカレッジなどの成績を見ると、狙って出来なくはないのか、とも思ってしまう。
一番分かりやすいのは、プロ一年目の日本シリーズか。
怪我人続出ということもあったが、優勝のために必要な四勝を全て自分一人で勝ち取った。
おまけに最後の試合はパーフェクトだ。
おそらくどこか、今までに存在したピッチャーとは、視点が違うのではないか。
コーチたちはそう話していたが、基本的に直史が質問魔であることはすぐに判明した。
穏やかにこちらの都合を聞きながらも、疑問点を潰していく。
そういった事前準備は、確かに今までの選手にはなかったものだろう。
またオープン戦が始まってからは、明らかに何かを試していた。
そのあたり坂本に聞いてみても、要領をえないことが多い。
いや、言っていることは分かるのだ。
ただそんな配球の細かいことを、人間が出来るのかというのが疑問だ。
「彼なら出来る」
オリバーは信者なので信じられない。
ただそういった技術的な問題とは別に、チーム内で直史に対する、尊敬と畏怖の念が生まれてきているのは感じた。
メジャーリーガーともなれば、世界でもトップレベルの選手たちである。
その中にはキャラクターが強く、なかなか他と和しない人間もいたりする。
まして直史はカラードであり、東洋系はある意味黒人以上に、現在では差別に遭うことがある。
アナハイムは地域的にさほど差別が強烈な地域ではない。
ただそれでもナチュラルに、人種差別をする人間はいる。
白人ではなく、黒人にもだ。
このあたりは歴史的に複雑な経緯と、黒人のアイデンティティにも複雑なものがあるため、単純に悪としても解決にはならない。
ただそういった傾向のある人間も、直史には普通に話しかけるか、あるいは遠ざけるようになっている。
何があったのか、と訊いても選手が答えることはない。
若林に問いただしても、その時の通訳は坂本であった。
そして坂本もまた、こんな面白いことを、わざわざ他人に吹聴する人間ではない。
10年ぐらいか、あるいはもっと時間が経過してから、初めて公開すべき逸話であろう。
坂本自身は体調を崩さない程度に、遊び回っているのだが。
これでレギュラーシーズンになったら、はっきりと線を引くのがメジャーリーガーであり続ける人間である。
直史はおおよそ戦力を把握したが、その背景までも把握するのにはそこそこの時間がかかった。
たとえば今年、アナハイムは優勝を狙える戦力を揃えている。
正確には優勝の可能性があるため、七月時点で追加で補強をする可能性があるというところか。
コアとなる打者がいて、先発もそれなりに揃っていて、ブルペンもまずまず充実している。
ただ優勝候補筆頭かと言われると、それは直史次第では、というぐらいになってくる。
そうなれば頑張ってしまうのが直史なのだが。
あとは直史は、今年も含めた三年間のことまで調べた。
現在の主力となっている選手の、契約がどうなっているかだ。
すると今年と来年はともかく、再来年は難しいのでは、ということが分かってくる。
オプトアウトという制度がある。
長期の大型契約を結んだ上で、その契約を破棄する権利を、選手に認めるというものだ。
契約なのにそれを破棄するのか、という不思議なものとNPBに慣れた人間なら思うかもしれないが、MLBでは超一流選手にはこれが認められる。
基本的には選手の側に有利な契約だ。
ただし期待はずれの成績を残していると、これを行使しても今以上の契約などは望めない。
なので球団としては、選手の鼻先にぶら下げる、人参のようなものであるとも考えるのだ。
より良い成績を残せば、さらに有利な契約を結べる。
なればこそ選手は、年俸に見合った活躍をしようとするものだ。
当たり前だがいなくなっても構わない程度の選手には、こんなものは認められない。
クリーンナップに先発の一番手、絶対的なクローザーあたりが主な対象だろう。
アナハイムはこれを持っている選手がいるため、成績次第では三年目にこれを行使し、チームから出て行く可能性がある。
もちろんそこから再度、アナハイムが契約を結ぶという手段もある。
だがそもそもアナハイムは、今でもそれなりのサラリーを払っている。
なのでさらなる大型契約を結ぶには、他の高年俸選手をトレードしたり、あるいはオーナーにサラリーをもっと出してもらうしかない。
ただそこまでやって戦力を維持するよりは、一度高年俸の選手を放出して若手を揃え、そこからもう一度チームを作り直すというのが、MLBでは一般的だ。
この数年のアナハイムは、戦力をちゃんと揃えているのに、誰か主力が怪我をして、いまいちチーム成績が向上しない、ということが多かった。
去年も地区三位であるが、勝率は五割をオーバーしている。
MLBはNPB以上に、弱いチームが徹底的に弱い。
なので五割でも、地区によってはポストシーズンに全く手が届かないことがある。
ちなみに坂本の契約が、あと二年である。
あちこちの球団に顔見知りを作っているこのなれなれしい男は、おそらく契約が終われば他のチームをビジネスライクに探すだろう。
アナハイムが満足する契約を出すのか出せるのか、直史としては微妙なところだと思う。
なにせ他にも主力が、同時に契約が切れるので。
直史の場合はその契約に、全球団へのトレード拒否権というものがある。
もちろん本人が同意すれば話は別だが、基本的に直史は、腰を落ち着けてプレイするのが好きなのだ。
基本的には保守的なのが、直史という人間である。
残す実績が過激なことと、信念が保守的なことは、別に矛盾するわけではない。
大介と対戦するためには、ワールドシリーズに進出するしかない。
そしてその可能性が高いのは、最初の二年だ。
三年目は不透明である。もちろんこの間にプロスペクトと呼ばれる有望株が成長し、FAで抜ける選手の穴を埋めてくれることも可能性としてはないではないのだが。
「一番の難敵は、やっぱりヒューストンか」
去年もワールドシリーズに進出したア・リーグ西地区の強豪は、今年も戦力を維持している。
オークランドが再建中という以外には、テキサス、シアトルと並んでアナハイムは二番手だ。
全ての戦力が、全チームしっかりと機能するならば、だが。
そこは多分、大丈夫なのではないか、と直史は思っている。
野球の神様の導きなどではなく、もっと現実的なもの。
セイバーがアナハイムを、直史に勧めたのだ。
そして彼女はオーナーと旧知の仲であり、色々とフロントに話が通じるらしい。
フロント陣の一員というわけではない。それは日米の野球協約によって禁じられている。
だが彼女は禁じられてさえいなければ、金がかかることでも普通にやってしまうのだ。
おそらく彼女の計算は唯一つ。
直史が直史らしいピッチングをすれば、アナハイムはワールドシリーズへ進めるということ。
さすがに一つのカードで完封を二つすれば、あとは勝ってくれるかな、と直史も思っている。
怖いのはトレードデッドラインを越えてから、味方の主力が怪我をしてしまうことだけだ。
ただ、それも全ては野球のシーズンの中で、仕方のないこと。
絶対の存在しない野球の中で、絶対を信じる。
直史はそんな楽観的な人間ではないし、セイバーもそうではないと信頼していた。
オープン戦が進んでいく。
直史はほどほどにヒットを打たれて、時折点を取られる。
ただやはり化け物扱いされるのは、運の悪い場合以外は長打がないのと、フォアボールがないこと。
審判にクセがあったとしても、直史はそのクセに合わせて、自分のピッチングのコンビネーションを変えてしまうのだ。
なので試合前の予定とは、変わってしまうことはままあるのだが。
ともあれまだ、直史はその真価を発揮していない。
全米が震撼するのは、もう少し先のことになるらしい。
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