第2話 理想

 理想のフォームというものを、オリバーは頭の中で思い描く。

 力の全てがちゃんとボールに伝わっていて、同時にその力が全身で分散されている。

 即ち直史のフォームである。

 だが彼は、あえてそれを崩すことがある。

 トップの位置をほんのわずかに狂わせて、意図的にチェンジアップの変化を調整する。

 それは別に、普通のフォーシームストレートでも通用するのだ。


 技巧。

 オリバーが現役時代に求めて、どうしても到達できなかった極致が、そこにある。

 ただ彼がどれだけ口を酸っぱくしてFMたちにそれを説明しても、まず問題とされるのは球速、スピンレート、回転軸などだ。

「問題なく先発として通用するだろう」

 FMのブライアンはそう言うが、そんなレベルではないのだ。


 とりあえずその真価を認識するのは、実戦に入ってからであろう。

 そう思っている間に、坂本が戻ってきた。

 アナハイムの正捕手である坂本は、人を食ったリードでピッチャーを乗せるのが上手い。

 あとはキャッチャーでありながら身体能力が高く、またバッティングも勝負強さがある。

 極めつけには消化試合においては、ピッチャーまでやってくれるのだ。

 かなりのユーティリティ性があるプレイヤーと言えよう。


 頭脳派ピッチャーの直史と、相手の裏を書くリードが得意の坂本。

 オリバーとしてはこの二人は、同じ日本人であるし、うまくやってくれるかと思っていた。

 だがいざ顔を合わせてみると、そうそうにこやかな雰囲気にはならない。

「ご愁傷様だったってな」

「まあ……ちーとばかり早かったかとは思ったがよ」

 この二人だと当然ながら日本語で、そして坂本は少し訛っているため、当然ながら通訳が必要となる。

 ただ通訳に対して、坂本は標準語を使わないと、上手く伝わらなかったりするのだ。




 どうしようもない理由ではあったが、開始に出遅れたのは確かだ。

 坂本は順番に、ピッチャーたちのボールを受けていく。

 高校時代は主にピッチャーであったのに、よくもキャッチャーが出来るものだ。

 直史はそう思うのだが、MLBのキャッチャーは技術はともかく、インサイドワークにはあまり優れていないことがある。

 ただそれはキャッチャーに求めるものが、日米で違うだけだ。


 直史は他のキャッチャーに対して、それなりに不満がある。

 MLBのキャッチャーは捕球がそれなりに雑だったりするのだ。

 たとえばスライダーを投げるとキャッチするのだが、その位置からミットを流してしまう。

 日本のキャッチャーであればぴたりと止めるのが基本で、それどころか上手くフレーミングしてくる。

 ジンがそうだったし倉田や孝司もそうだった。もちろん樋口はそれも習得していた。岸和田もだ。

 ただフレーミング技術は、下手なプロよりジンの方が上手かった気がする。


 そのあたりをオリバーに話してみると「下手にフレーミングさせると審判の心象は悪くなるから」と言う。

 違うのだ。

 直史は単に、ぴたりとそこでミットを止めてもらいたいだけなのだ。

 MLBのキャッチャーとして必要なのは、まず壁としての能力。

 そして肩の強さである。もっとも昨今は盗塁の重要性が減っていて、それに伴い盗塁阻止の重要性も減っている。

 あとは意外とフィールディングも重視される。


 日本以上に打てるキャッチャーは評価されるが、分担されていることも多い。

 守備型のキャッチャーと打撃型のキャッチャー、若手とベテランなどで、こなす仕事が違うのだ。

(とりあえず日本人キャッチャーなら、最低限はやってくれるしな)

 あの時のアナハイムでのテストを思い出す直史である。


 坂本のキャッチングは、しっかりと動かない。

 むしろ体全体を上手く揺らして、フレーミングを審判に分からないようにしている。

 キャッチングは問題はない。

 ミットを固定してしっかりと音を鳴らすのは、投げている方にとっては気持ちがいいのだ。




 忌引きで休んだ後に、野球の日常が戻ってきた。

 坂本はそれなりに亡き父を偲んでいたが、目の前には新しい状況を作り出すピッチャーがいる。

(今年と来年は優勝が狙えるき)

 去年のオフからここまでの戦力補強を見ていけば、それははっきりと分かる。

 オーナーもGMも、優勝を狙ってはいる。


 ただ、完全に意思が統一されているわけではない。

 オーナーのモートンは、ビジネスマンだ。

 球団にしっかりと金をかけてくるが、スタープレイヤーで興行収入を得ようともする。

 球団の価値を高めるために、客の呼べるプレイヤーが必要なのだ。

 GMのブルーノはもっと純粋に、勝利することを考える。


 確かにそのスタープレイヤーを手に入れるのはいいが、もう少しリリーフ陣を補強したい。

 あるいは試合の山場に使う、守備型の選手がほしい。

 そういったところをカットして、スタープレイヤーを用意してしまうs。

 坂本も商売人の息子なので、モートンのやりたいことは分かる。

 ショービジネスの世界であれば、一人のスターがいることは重要なのだ。

 ただしリスク管理という意味では、ブルーノの方が圧倒的に正しい。

 スター選手は一人で金を使うだけに、万一故障離脱などをしてしまえば、一気に戦力が低下する。

 少ない資金でそこから補強をしていくのは難しいのだ。


 それにしても、と坂本は思う。

(成長してるがか)

 直史のスピードは、明らかに上がってるように感じる。もちろんあれからかなりの時間は経過しているが。

 だが数値上はあくまでも94マイルまでしか出ていない。

 試合で出た最速は96マイルのはずなのだ。

 そして年齢的にも、まだ球速が衰えるのは早いだろう。


 ボールの伸びが増えたと言おうか。

 投球フォームがスムーズで、スピンレートが多くなっている気はする。

 あとは以前にはさほど投げていなかったが、ツーシームの変化が面白い。

 フォーシームストレートと同じか、あるいはそれ以上の速度に感じる。

 これに加えてジャイロボールを投げてくる。


 シートバッティングはほどほどにさせないといけないな、と坂本は思った。

 直史のコントロールと球種であれば、どのバッターの弱点も的確に攻めることが出来る。

 そこを攻められてあまりに完封されては、調子を落とすことすらありうる。

 逆にこのコントロールがあれば、バッティングピッチャーとしても最高であろうが。




 やがて野手も合流してくる。

 100名以上の選手が集まり、スタッフなども含めればさらに150人にはなるか。

 アナハイムの場合は人気チームということもあり、注目度も高い。

 ただ本来なら主役になってもおかしくない直史への注目は、この時点ではそれほどでもない。

 ボストンのキャンプ地で、上杉がもっと派手な数字を出しているからだ。


 自主トレの時に投げたよりも、さらにスピードは上回っているらしい。

 純粋にスピードだけで押せるパワーピッチャーは、今時珍しい存在だ。

 どうやらボストンは上杉を、クローザーで使うのではないかと言われている。


 クローザーの条件は、奪三振率と四球率に優れていること。

 上杉はもちろん奪三振王であり、四球を出すことも少ない。

 スピードで三振を取れるピッチャーは、リリーフとしては確かに貴重なのだ。

 ただ上杉のボールを身近で見ていた直史は、以前とは違うことに気づいている。

 

 単純に言うと、回転は落ちたのではないかということだ。

 ただそれがあの時はまだ仕上がってなかったのか、それとも上限が低下したのか。

 あるいはそれすらも利用できるかと考えたのか、直史には区別はつかない。

 フロリダのキャンプから聞こえてくるのは、上杉の球速に対する賞賛。

 コントロールもいいためコマンドにどんどん決まるわけだ。


 それに対して直史には、さほどの注目が集まらない。

 現場としてはそれでいいのだが、オーナーとしては物足りないのだ。

 もっと派手なことをしてほしいのだが、そもそも直史はそれよりももっと恐ろしいことをする。

 ヒットが出て、ランナーが進む。

 それなのに一人もホームを踏めず、100球も投げていないのに試合が終わる。

 その恐怖を感じた者は、MLBではほとんどいない。

 メトロズの選手はそれ以上の恐怖を感じたが。

 あれこそまさに絶望であった。

 絶望に臨んで逆に戦意を高めた、大介のような例外はいたが。




 直史はこのキャンプ中には、とにかくストレッチと柔軟をたくさんした。

 MLBの流儀に合わせて、投げ込みは少なくする。

 だがキャッチボールの量は多くして、短い時間で素早く投げていく。

 時間がないからこそ、フォームが崩れないように気にして、素早く投げる。

 自然とクイックのような投げ方になる。


 キャッチボールの相手であるグレアムは、まだキャンプに残っている。

 ちらりと見た感じでは、ブルペンでも勢いのある球を投げてはいたが、コントロールはあまり良くない。

 あれで通用するのかと、また直史はオリバーに質問する。

 質問魔の直史に、オリバーも慣れてきた。

 それに新たな発見もあるのだ。

「長いイニングは無理だが、先発のあとのリリーフとして、一イニングを投げることはあるかもな」

 その言外には、敗戦処理の役割も含まれていそうであったが。


 今年のアナハイムの陣容は、基本的に先発のローテは五人で回す。

 序盤の休日がある頃は中五日で回せるが、連戦続きになれば、リリーフ陣を駆使して五人目のピッチャー代わりにする。

 それがチームの基本戦略で、直史を中四日で回そうとは思っていない。

 直史は一応、NPBで中四日は試してみた。

 ただ日程などを考えると、NPBとMLBでは中四日の内容が変わってくる。

 純粋に負荷がとんでもない。


 NPBの場合は先発は、前乗りといってたとえば広島で投げる時は、前の日にチームメイトより先に向かうことがあった。

 試合に備えて少しでも、体を休める時間を作るためである。

 チームの人間が遠征している間、ホームのスタジアムで練習をする。

 そんなことがあったのだ。


 だがMLBではホームゲームならともかく、遠征となればチームに全て帯同。

 国土が広すぎるため、専用のジェットで移動するからだ。

 遠征は最低でも七日間ほどは連続するため、その間に先発の機会はある。

 もちろんリリーフ陣は全て一緒だ。




 シートバッティングが始まると、だいたいオリバーの興奮した異常さが、他のスタッフにも伝わるようになってきた。

 直史が投げると、初球はだいたい空振りする。

 そして二球目は小フライか内野ゴロになり、次はその正反対の打球になる。

 四球目からは、外野にまでしっかりと飛んでいく。

 五球目はまた空振りし、そして六球目以降はまた長打を打たせる。


 試合形式のシートバッティングをさせると、相手が誰であろうと、この結果になる。

 投げる球種は違うし、コースも全く違う。

 だがそれでも、結果だけはこうなるのだ。


 どうもキャンプ中、いまいち調子が上がらないなというバッター相手に、直史を投げさせる。

 すると難しいはずのコースを、スコンとしっかり打ててしまう。

 このコースが苦手という選手には、同じコースを寸分たがわず投げ込む。

 そして打てるようになってから、また実戦形式に戻る。


 自由自在に打たせることが出来るということは、それを外して全く打たせないことも出来るということ。

 試しに内野陣に練習させるため、内野ゴロを打たせるようにと言えば、見事に内野ゴロばかりを打たせる。

 ただしフライを打たせるのは、少し難しいらしい。

 凡フライか空振りにするなら、それなりに簡単なことらしいが。


 別に直史としてはどうでもいいところで、開幕先発の議論がなされていた。

「まだすぐに決める必要はないだろう」

 FMのブライアンはそう冷静に言うのだが、そういうことではないのだ。

「確かにあの打たせて取るというのは、本当に出来るものなのかと驚いたが……」

 かつて野球マンガなどでもよくあった、コントロールを駆使してバッターに自在に打つ方向をピッチャーが調整する。

 現在においてはそれは、オカルトであることが証明されている。

 基本的にゴロを打たせやすいピッチングというのは存在する。

 一時期はそれこそ、ツーシームを中心にムービング系が全盛であったのだ。

 球数を減らすために、ミートをずらして打たせる。

 ムービング系でゴロを打たせるのが、その主流であった。


 だがそれをアッパースイングでフライにするのがフライボール革命。

 正確には角度が重要となるのだが、フライを打つことが重要になった。

 今もそうしているのだが、直史はそれでもゴロを打たせる。

 そしてそのゴロの強さも、ある程度調整している。

「そんなバカな」

 と誰かが言ったが、オリバーは力説した。

 まるで一人の野球好き少年がファンになったように。




 佐藤直史は魔法を使う。

 確かにオリバーの言うとおり、直史は打たせる球と打たせない球を、自由に操っているように見える。

 紅白戦においては、一打席は抑えてしまうが、それ以上はそこそこ打たせたりもする。

 ただリリーフの立場で回ってきた時などは、三振を奪いに来る。

 自分がマウンドにいる状態で、敵に点が入るのを、極端に嫌うのだ。


 試しにノーアウト満塁の状態からマウンドに送れば、まずは内野フライを打たせてホームに走らせることもなくアウト。

 その次には内野ゴロでダブルプレイと、器用すぎることをした。

 こんなことは、計算しては出来ないはずだ。

 野球は統計であるのだから、これはあくまで偶然のはずだ。

 そうは思っても事実は、人の真実を上書きする。


 オリバーは直史のピッチング映像を、今更ながら集めた。

 日本のリーグなど3Aと大差ない。

 そんなことを言ったのは誰だったのか。

 少なくともNPBでは、大介はもっとまともに勝負された。


 なかなか英語に翻訳されたものもない中、オリバーはそのマウンドさばきなども含めて、直史の投げる試合を見る。

 ネットで出回っているノーカット版の違法アップロードされたものは、むしろ都合が良かった。

 投げるボールの一つ一つに、はっきりとした意図を感じる。

 そして驚くほど、投球間隔が短い。


 パーフェクトをする試合を見た。

 試合によっては大きく変化するボールを多用し、積極的に空振りを取っていったりした。

 ゴロを打たせるのが上手くて気づかなかったが、奪三振率も極めて高い。

 わずか二年の間に、こうも何度もノーヒッターを達成している。

 そしてこれはあるいはノーヒッターより大切なことかもしれないが、フォアボールを出さない。


 MLBの監督に臨終の間際、貴方の寿命を縮めたのはなんですかと尋ねたという小噺がある。

 その返事は「フォアボール」というものなのだが、確かにベンチの胃が痛くなるのは、ピッチャーのストライクが入らないときだ。

 日本のピッチャーはコントロールのいいピッチャーが多いという、先入観もある。

 実際にはコントロールがいいぐらいのピッチャーでなければ、メジャーには来ないというのもあるのだが。


 フォアボールを出さないピッチャー。

 52試合、455イニング、1449人のバッターに投げて、わずかに三つのフォアボール。

 シーズンの終盤に二試合、フォアボールでランナーを出しただけ。

 それぐらいならさすがに、調子が悪いこともあるだろう。

 安定して投げられるということは、長いシーズンの中ではありがたいことだ。

 プロでの実績が短い選手に、三年3000万ドルは高いのではと思ったこともあったが、このピッチングが出来るなら安すぎる。

 もちろんMLBの条件で、同じことが出来るとは限らないのだが。


 実際の力を測るのは、一応オープン戦まで待った方がいいのだろう。

 だが紅白戦でも、そこそこの球速のストレートで、空振りが取れたのだ。

 これはもう一年目が終わった時には、契約を改めて大型契約にすべきでは、とオリバーは先走りすぎて、しかも自分の管轄外のことを考える。

 直史は29歳のシーズンを迎える。

 ピッチャーとしては一番フィジカルとテクニック、そしてメンタルが釣り合った年齢が始まる。


 もしも三年でどこかに出て行くなら、おっかけて観戦しよう。

 ピッチングコーチにそこまで思わせてしまう、罪深きピッチングの悪魔。

 だがそういった思惑は、全て水泡に帰すことになるのだが。


 リーグの他のチームとのオープン戦。

 第一戦で投げることを、直史は要求されていた。

 対戦相手はサンフランシスコ・タイタンズ。

 リーグが違うため同じ西海岸でも、そうそう当たることはないチームだ。

 打線を強化していて、今年の地区優勝を狙うチーム。

 強打のチーム相手に、直史がどういったピッチングをするのか。

(どうせオープン戦だしなあ)

 失点しない程度に投げればいいか、とオリバーの期待など全く知ることもなく、気を抜いている直史であった。

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