エースはまだ自分の限界を知らない[第六部A A・L編]

草野猫彦

序 アリゾナの大地

第1話 変態的天才、アメリカの大地に降臨する

 アナハイムのあるカリフォルニア州の隣と言うと近くに感じるし、地図を見れば案外すぐかもと勘違いするが、そこがアメリカである。

 とにかく広い。広すぎて基準がおかしくなる。

 確かに広いアメリカの中では、例外的に近い、というところもないではない。

 それはロスアンゼルスとアナハイムであったりするのだが、そもそもアナハイムはロスアンゼルスの衛星都市扱いされてしまったりもする。


 サボテンのから名前を取られたカクタスリーグと言うのが、アナハイムの参加しているスプリングトレーニングだ。

 直史は普通に飛行機とタクシーを使って、キャンプに入った。

 通訳は若林という日系人で、そもそも第二次大戦前に移民してきた日本人の子孫だとか。

 その割には日本人ぽさが消えてないな、と直史はなんとなく思った。

 何が日本人っぽさなのかは、自分でもよく分からなかったが。


 契約をかわした直史は高級ホテルの一人部屋なのだが、マイナーの有望株などは二人部屋なのだとか。

 このシーズンになるとチームの選手だけではなく、マスコミ関係もこちらでホテルを取る。

 直史のように三年と決めている人間ならともかく、大介のように長くやるつもりなら、家を買うのもありなのかな、と思わないでもない。

 ただあれは大介の巨額の契約と、ツインズのセイバーに弟子入りした資産運用が、無限のように金を生み出しているだけである。ハイパーインフレーションではない。


 アナハイムの利用するのは、カクタスリーグでも最も古くから存在するスタジアムで、それでも一万人弱の観衆が入る。

 テンピというのは学生の街であり、それほど治安が悪くはない。

 だが完全に良いというわけでもなく、日本に比べれば大概は悪いものだ。

 直史はタブレットPC以外はさほどの荷物を持って来ていない。

 なので瑞希と共に監修作業をしたりして、初日のメディカルチェックなどを受けた。


 30人以上はいるが、これでバッテリーだけである。

 どんどんと落とされていって、最終的に残るのは12~3人。

 直史の場合は契約にトレード拒否権が入っている。

 ただしマイナーに落とさないという契約は入っていない。

 入れなくていいのか、と向こうから言われたものである。




 改めて確認すると、まずメジャーには40人枠が存在する。

 基本的には一年間、この中から26人を選んでチームを構成する。

 12~3人のピッチャーに選ばれるのは、まず既に決まっている人間もいる。

 ただ数人は決まっていないポジションがある。

 普通ならば年間を通して戦っていれば、選手にも調子の波が出来るのだ。

 その時のために、必ず予備戦力、あるいはスーパーサブとでも呼ぶべき選手は必要になる。


 肝心な時にと言うか、坂本は少し合流が遅れるとのことだった。

 なんでも身内の不幸があったらしく、それは仕方のないことだ。

 MLBは普通に忌引き休暇を認めている。

 日本人なら親が死んでも、という価値観が通ったりしたが、それも古い時代の話。

 もちろん今でも存在はするが、一応はちゃんと淘汰されていっている。


 練習よりも30分以上早くグラウンドに到着して、直史は入念に柔軟とストレッチをしていた。

 一人黙々と行うその姿に、首脳陣もぎょっとしたものである。

 他にも軽くランニングをしている選手は、その時にはいた。

 だが一番早く出ていたのは、直史であった。


 寝転がったまま180度開脚をし、上半身をグラウンドの芝に密着させる。

 そんな直史に声をかけたのは、ピッチングコーチのオリバー・ネガットであった。

「熱心なことだな」

 通訳を通すので、会話がやや迂遠になるのは仕方がない。

「初めまして、ミスター・ネガット」

「オリバーだ。選手たちは皆私をそう呼ぶ」

「私もそれに倣ったほうがいいですか?」

「そうだな」

「ではよろしく、オリバー」

「ところで私は君をどう呼べばいいかね?」

「サトーでもいいですが、名前を短縮するならナオですね」

「よしナオ、それじゃあキャッチボールだ」


 そう言われたものの、もちろん直史の相手をオリバーがするわけではない。

 適当にペアを組んで、キャッチボールを始めるのだ。

 キャンプが始まればこのピッチャーたちはどんどんと振り落とされていく。

 どちらかが消えるまでは、基本この二人で組むことになる。


 直史が組んだのは大男だった。

 もっともここにいる中では、直史よりも小さなピッチャーは数人しかいない。

「グレアムだ」

「よろしく。サトーだ」

「ああ、知っている」

 ここにいる人間はだいたい、直史のことを知っている。

 当たり前だ。その時は知らなくても、後から聞いて確認はするだろう。

 その年のワールドチャンピオンを、100球もかけずにパーフェクトに抑えてしまったピッチャーなど、興味の対象でしかない。


 キャッチボールのピッチは、直史は早い。

 だが早く、そして正確に動作を行わないといけない。

 彼我の距離をしっかりと保ち、そして完全に同じコースに投げる。

 相手の胸元。キャッチボールの基本である。


 グレアムはキャッチボールから確認しても、間違いなくパワーピッチャーだ。

 あまり名前は聞いたことがないので、上がってきたばかりか。後で調べればいいだろう。

 キャッチボールのコントロールは割りといい加減で、内野の送球なら及第点かな、といったところである。

(キャッチボールを甘く見てると、いつまでも成長しないと思うんだけどな)

 アメリカ人の年齢は分かりにくい。

 グレアムは茶褐色の頭髪に青い目と、典型的な白人系アメリカ人だ。

 身長は直史より10cm、体重は20kgほどはあるだろうか。

 40人枠なのか26人枠なのか、それともまだマイナーなのか。

 対戦しそうなバッターのことはともかく、競争相手になるかもしれない味方のピッチャーのことは、ほとんど調べていない直史である。




 ノックを受けていくが、のんびりとしたものだ。

 MLBは本当にいい加減と言うか、技術でどこかが抜けてしまっていても、他で突出してプレイする選手もいる。

 逆にてバランス型のユーティリティも需要がないわけではない。

 ピッチャーにしても投げるのが仕事でほとんど守備はしないとか、盗塁を防ぐのはキャッチャーの仕事とか、かなり多様性を認める直史の目から見ても、舐め腐った選手はいたりする。


 ピッチャーはコンビネーションだ。

 ピッチャーゴロを打たせて取るのは、手間がはぶけていい。

 ショートの深いところに打たれるよりも、内野安打になる可能性は低い。

 ランナーを出さないこと、ランナーを進めないこと、そして点を取られないこと。

 そのために必要な要素を、バランスよく伸ばしておくことが必要なはずだ、と直史は思っている。

 上杉のようにまともにバットに当たらないというのは、さすがにそうそういるわけではないのだ。


 やがてやっとブルペンである。

 ただこのブルペンの投げ込み、やたらと時間が少ない。

 10分を過ぎたら交代などと、明らかに投げ込みの量が足りない。

 肩肘を消耗させないという配慮なのかもしれないが、そもそも消耗させるのがもったいないと思えるほどのレベルに上げるには、もっと投げ込む必要があるのではないか。

 マイナーの選手など、ある程度は潰れることは計算に入っているだろう。

 それでも投げさせて、上澄みを拾っていくのがMLBだと直史は思っていたのだが。


 それはともかく、視線が集まっているのを感じる。

 投げ終わったピッチャーや並んでいるピッチャーはともかく、今投げているのはちゃんと集中するべきだと思う。

 そんな中でも直史は、マウンドの調子を確かめながら、ストレートから投げていく。

「初日はストレートだけだ」

 オリバーはそう言っていた。

 毎日調整したいと直史は思っていたのだが、別にそこで我を張るタイプではない。

 それにストレートでも、色々と調整方法はあるのだ。


 指にしっかりとかかるように、構えたミットへと。

 素人はボールを見るが、コーチはフォームを見る。

 足を上げる高さはそれほどでもなく、踏み出しの幅も広くはない。

 上半身のひねりはスムーズで、投げる手のトップの位置は、それほど後ろでもない。

 一言で言うと、スムーズでありながら打ちにくそうでもあるフォーム。

 腕がバッターから見えるのは、相当遅いのではないか。


 オリバーはマスクを着けると、キャッチャーの後ろに立つ。

 球筋を見たいのだろうが、明らかに特別扱いだ。

 ただし直史は特別扱いに慣れている。

 いつも通りに投げてから、コースを指定する。

「アウトロー」

 キャッチャーが構えてくれたところに、ぴったりと投げた。

 それを何度か続けると、今度は反対側のアウトローに構える。

 キャッチャーは全くミットを動かすことなく、そのボールをキャッチする。

「インハイ」

 そのキャッチャーが構えたところが、MLBのインハイなのか。

 テンポ良く10分ほど投げたところで、ピッチングの時間は終わった。




 95マイル前後は出していたか、と思ったオリバーが、球速を聞いて驚いた。

 最速でも91マイルだったと。

 あのエキシビションでは94マイルを投げていたから、これが全力の投球だと思っていた。

 だが違うのだ。

 遅い球が速く見えるというのは、どこかの部分でタイミングが狂っている。

 おそらく本当の95マイルより、バッターには打ちにくい球になるのだろう。


 そんなオリバーに直史が声をかけた。

「いくつか質問があるんだがいいか?」

 もちろんそれはコーチの仕事の一つである。

「投げすぎないようにというのは分かるんだが、そもそも基礎的な球速の増大は、もうウエイトで行っているのか?」

 そんな基礎的なことを聞かれるとは、思っていなかったオリバーである。

「そうだな。よく見られるウエイトだけではなく、ゴムなどを使ったインナーマッスルトレーニングで、まずは壊れないように筋肉を付けるのが主流かな」

「アマチュアのハイスクールぐらいまではどうなってるんだ?」

「それは……確かに投げてるピッチャーもいるが、アメリカでは基本的にコーチが止めるな」

「実際に投げてみないとコントロールなどはつかないと思うが、それはどうなんだ?」

「まずはビデオなどでフォームを解析して、そこから修正を行う。もちろん最終的には投げてみることになるが」

「それではわざとフォームを崩してタイミングを外すピッチングなどが身に付かないのではないか?」

「いや……それはそうかもしれないが、故障の危険を冒してまで、そんな練習をするのか?」

「私はずっとやってきたが」

 なんと理屈っぽいくせに、ひどく精神論的なやつだ、とオリバーは思った。


 だいたい一流のアスリートというのは、厳密に決められたトレーニングを、ちゃんと意図を持って行う。

 だが超一流の中には、そこから外れてしまったトレーニング法をしている者がいる。

 そういったトレーニングも後には、実は意味があったりその個人には適していたりと、後から正当性が認められることは多い。

 パーフェクトを鼻歌交じりにやってしまうピッチャーは、やはりそういった種類なのだろうか。


 ぐぬぬ、とオリバーは考える。

 彼も現役時代は、とことん理論的にトレーニングを行っていた。

 だがその理論性にこだわるところは、確かに頑固だったのだな、と今ならば思う。

 直史がMLBで通じるかどうかは、この際は関係ない。

 ただコーチとしてやらなければいけないことは、直史の故障を防ぐことである。


 NPBのピッチャーがMLBで故障することの第一は、ボールの違いから肉体への負荷が大きく変わるというものだ。

 そのあたりを考えて、トレーニングの強度を考えなければいけない。

「ナオ、しばらくの間トレーニングは、全て私かトレーナーの管理下で行ってくれないか?」

「それは無理だ」

 嫌だとかではなく、無理なのだ。

「なぜ?」

「私のトレーニングは、日常の動作の全てに及んでいる。立ち方、歩き方、座り方などだ。全てにどう負荷がかかるかを考えて、計算してもらったんだ」

 おかげで日常動作をしっかり意識しているだけで、あまりピッチングの感覚などは鈍らない。

 肉体を正しくコントロールすること。

 それが圧倒的なパワーを持たない技巧派が、フィジカルモンスターどもと対決する手段である。

「はは、ナオ、それならお前はセックスの体位もトレーニングでするのか?」

「オリバー、冗談としてもセクハラだぞ。俺の職業は本当は弁護士だということを忘れないでくれ」

 穏やかでありながらも、しっかりと脅すことを忘れない直史である。

「ちなみに答えはイエスだ」

 答えるのかよ、とオリバーはツッコミそうになった。




 この日、主に直史の相手をしたオリバーは、ぐったりと疲れていた。

 問題児なわけではない。しっかりとトレーニングメニューなどには従うし、勝手なことをするわけではない。

 だが勝手なことをしたいから許可をくれ、と言ってくるのだ。

 スプリングトレーニングの序盤は、およそ昼までには練習は終わる。

 その短さに驚く日本人選手は多いと聞く。他のチームを含めてもだ。


 直史は自分で練習をもう少ししていくらしい。

 また終わった後にクールダウンとストレッチなどを入念に行っていた。

 ウエイトトレーニングなどよりも、はるかに多くをストレッチについやする。

 なんとも今までに見たことのないタイプの日本人だ。

「全く、天才っていうのは変人しかいないのか」

 そう呟くオリバーであるが、周囲の人間は現役時代の彼に、全く同じ感想を抱いていたものだ。


 それでも慰労のためもあって、FMであるジョーンズ・ブライアンが声をかける。

「坂本とどちらが大変だ?」

 坂本も色々と、独特でフリーダムなところがあって大変ではある。

 ただあれは日本人ではなく、ラテン系の思考に近いと考えると、まだ分かるのだ。

 直史は違う。


 オリバーは少し考えたあと、ひどく差別的なような、だが実際には差別的ではないことを言った。

「坂本は単に思考や行動がフリーダムなだけだ。だがナオは……宇宙人が必死で地球人の振りをしているような感じがする」

 その返答に、クラブハウスは笑いに包まれた。

 MLBの選手というのは、個性的な選手が多いものだ。

 それでも年齢が上であればあるほど、昔はもっとひどかった、というのがおおよその共通認識である。

 このあたりは日本もあまり変わらない。


 ただ、直史は大介と共に、その日本でも「ひどすぎる」と散々に言われてきたのだが。


「戦力的にはどうなんだ? スピードはさほどでもないし、今日はまだ変化球は投げてないんだろ?」

 ブライアンの問いに、オリバーは頷く。

 彼もまた現役時代は、スピードではなく技巧で投げるピッチャーであったのだ。

「コマンドが素晴らしい。それにおそらくスピンも優れている。キャッチャーにコースの指示を出していたが、ミットの位置が全く動かずに捕球していた。いや、低いと思って動かしたミットがボールを追いかけたら、元の位置だったことはあったな」

 それはつまり、ホップ成分が高いということだ。


 コマンドに優れていて、ホップ成分の優れたスピンレートの高いピッチャー。

 ピッチングコーチのオリバー以外には、まだその真価が分かってもらえていない。

 だがそのオリバーの言葉から、少なくとも戦力にはなりそうだな、と判断する。

 いや完全に先発の一枚とは数えているので、機能してくれないと困るのだが。

「まあ日本人のことは、同じ日本人に任せればいいだろう。坂本は三日目から合流だったか?」

「ああ、父親が亡くなったとかでな。年齢は既にかなり高かったらしいが」

 アメリカの価値観の中には、家族というものは大切だ、という当たり前のものがある。

 それこそ当たり前だ、と日本人なら思うだろうが、この家族を大切にするという捉え方は、かなり違ったりする。

 また家族を失った悲しみに耐えながらプレイする、というのもちゃんとファンに受けたりはする。

 だが家族という幻想には、かなりの多様性がある。

 その多様性を認めろというところが、アメリカの同調圧力だ。

 大介の場合はそれで、逆に助かったりしたのだが。


 直史の場合は、日本の田舎の価値観を持っている。

 なので家族に対しては、強烈な固定観念を持っている。

 逆に今では、あった方がいいぐらいの価値観かもしれないが。


 この年、どれだけの衝撃がチームを襲うか。

 首脳陣はまだ、エースのお騒がせ体質を知らないのであった。



×××


 ※ 群雄伝 悟 その二 公開しています。

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