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ちょっと待っててネ、と言い残して、奥へ消えていくお兄さん。
開店準備の真っ最中だったのだろう、カウンターには掃除道具が置きっぱなしで、レジ奥に置かれたラジオからは、店のイメージとは真逆の賑やかなアイドルソングが流れている。
やることもないので、店内をぐるりと見まわしてみると、確かに『古今東西』『ありとあらゆる』仮面がコーナー別に置かれていて、なかなかにカオスな雰囲気を醸し出していた。
恐らくメインで取り扱っているのはヴェネツィアンマスク。お祭りで使われるド派手な仮面だ。TVで見たことがあるけれど、仮面だけでなく衣装も凝っていて、仮装コンテストなんかも行われているらしい。
「……これも仮面……かあ」
お隣のコーナーはプロレス用のマスク。確かに顔を覆い隠すし、派手さはヴェネツィアンマスクに引けを取らない。
「こっちは……うん、お面……」
その隣は急に雰囲気が変わって、ひょっとこや般若、狐面などの和風なコーナーになっていた。単独で見かけたら悲鳴を上げそうなくらいに迫力があるけれど、この店の中だと、不思議と慎ましく感じてしまう。
続いてショーウィンドウに目を移すと、そこには何故かシュノーケルとフィンが展示されていた。夏だから、なのだろうか。確かにシュノーケルには専用のゴーグルがついているけど、これは明らかに専門外なのでは?
「お待たせ―!」
唐突に明るい声が響いて、大きなバケツを抱えたお兄さんが戻ってきた。『ガラクタ横丁・貸し傘』と書かれた傘立て替わりのバケツには、色も柄もバラバラの傘が投げ込まれている。
「イヤー、今年は空梅雨だったからさ、しばらく出番がなくて、つい倉庫の奥に押し込んだままだったんだよネ」
好きなのを選んで、と突き出されたバケツから、ひとまず無難そうな透明のビニール傘を引っこ抜く。こちらは取っ手部分にシールが貼られていて、一目で貸し傘と分かるようになっていた。
「ありがとうございます。お借りします」
「ハイヨー。返すのは、商店街の店ならどこでもいいからネ」
そのまま店内を突っ切り、ちょうど先ほど私が雨宿りしていた位置にバケツを設置して、これでよし、と満足げなお兄さん。仮面で顔は見えないのに、動作がいちいち大げさなせいか、まるで全身から感情がにじみ出ているようで、とても分かりやすい。
「あ、あの。開店前なのにお手間を取らせてしまって、すみませんでした」
「いいってことヨ。うちは元々、営業時間が決まってないし。窓を開けようとしたら、困ってるお嬢さんが見えたからサ。お節介しただけ」
こちらこそ店番ありがとネ、と差し出されたのは個包装の塩飴だった。非日常を売りにしているような店なのに、ちょいちょい飛び出てくる日常感が、なんだか面白い。
「貸し傘サービス、今まで知りませんでした。すごく助かります」
塾通いで毎日のように通る商店街だったけど、いつも急いで通り過ぎるだけだったから、どんな店があるかさえ把握していなかった。
「駅前に大型スーパーが出来てから、客足が遠のいちゃってネー。商店街も必死なんだヨ」
少しでも常連客を増やそうと、あの手この手で独自のサービスを打ち出しているらしい。
「この貸し傘サービスはね、近所の小学校でやってるのを知って、取り入れたらしいヨ」
だから時々、小学校のシールが貼ってある傘が混じってるんだよね、と笑うお兄さん。ピエロの顔は泣いているのに、伝わってくるのは楽しげな雰囲気ばかりで、なんだかちぐはぐだ。
「おっと、引き留めちゃってごめんネ」
「いえ、こちらこそ――」
視界が真っ白に染まる。少し遅れて轟いてきた雷鳴に、近くで雷が落ちたことを悟った。
見れば、窓の外はスコールもかくやという土砂降りの雨。モノクロームの世界を切り裂く雷光は恐ろしいくらいに美しいが、この状況で外に出るのは自殺行為だろう。
「うわあ……」
「これはしばらく無理っぽいネ」
やれやれと大仰に首を振って、お兄さんは放置しっぱなしの掃除道具を雑にどけると、カウンター裏から木製のスツールを引っ張り出してきた。
「立ちっぱなしじゃ疲れるでしょ。好きなだけ雨宿りしてっていいからネ」
「はあ……ありがとうございます」
どうせもう夏期講習の開始時間には間に合わないだろうし、この豪雨を突っ切って辿り着いたところで、ずぶ濡れの体で冷房の効いた教室に長居したら確実に風邪を引く。それならもう、今日はすべて雨のせいにしてしまおう。
お兄さんの言葉に甘えてスツールに腰掛け、重い鞄を床に置く。ついでに、汗拭き用に持ち歩いていた大判のタオルハンカチで濡れた髪や手足を拭くと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
高三の夏休み。本来なら余所見をする暇もないこの時期に、こうして一息つけたのは久しぶりかもしれない。今年は毎年楽しみにしていた祖父母宅への帰省も叶わず、夏休みのスケジュールはすべて勉強の二文字に埋め尽くされた。みんな同じ、今だけの我慢――なんて言葉は、もはや慰めにもならない。ならないけれど、それに縋るしかない。
「お嬢さん、いい仮面つけてるネー」
唐突な言葉に、思わず椅子から腰が浮きかけた。
「はい?」
見れば、カウンターに頬杖をついたお兄さんが、こちらをじいっと見つめている。ピエロの仮面の奥、見えるはずのない瞳がキラリと光ったような、そんな錯覚さえ覚えるほどに。
「からかわないでください」
「おっと、仮面が落ちちゃうよ。ほら、この通り」
にゅっと伸ばされた手が、頬に触れ――ることはなかった。気づけば、その手には白い仮面が握られていて、お兄さんはそれをカウンターに載せ、そっと指でなぞってみせる。
「ほら、典型的な『優等生の仮面』だ。言いたいことを我慢して、可能性から目を逸らして、自分の声から耳を塞いでる」
その仮面は――唇をぐっと噛み、瞼をぎゅっと閉じ、耳を手で覆っている少女は――確かに私の顔をしていた。
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