英雄の誰も知らない顔

悠井すみれ

第1話

 常の夜会などでは夫に従う彼女も、年に一度のこの日だけは屋敷に留まっている。恐らくは来年も再来年も同様に。今は子供たちも幼いけれど、いずれ父と共に社交界に出るのだろうか。そうなれば、彼女はひとりで待つことになる。年に一度だけのこと、寂しがるようなことでもないのだけれど。


 夫が彼女を伴わないのは、慈悲であり哀れみゆえなのだから。


 だから彼女は心穏やかに遠くから聞こえる歓声や祝砲や出し物の音楽に耳を傾け、本を読んで刺繍をし、子供たちを寝かしつかせた。


      * * *


 夫が帰ったのは、日付がとうに変わってからだった。式典の主賓が途中で抜ける訳にもいかないのだろうが、遅くなるなら王宮なりに部屋が用意されるだろうに。それだけの栄誉を当然のものとして享受できる英雄だというのに。この方は、それは決してしないのだ。


「お帰りなさいませ」

「……休んでいて良かったのに」

「お戻りになると存じておりましたから」


 夫は眉を寄せて妻を見下ろし、彼女は微笑んで夫の外套を受け取った。儀式のように毎年繰り返されるやり取りだった。


 そしてこれもまたお決まりのように、夫は寝酒を所望した。今宵は、彼は何度となく乾杯を強いられたのだろうに。あるいは、夫の帰りが遅いのは十分に酔いを醒ます時間が必要だから、なのかもしれない。


「十年の節目ですもの。一段と盛大な式だったのでしょうね」

「ああ……」


 この日の夫婦の語らいには余人はいてはならないと、使用人たちも承知している。よって手ずから酌をして、彼女は夫を労った。優しく微笑んで──さりげなく、告げる。


「私は、出席しても構いませんでしたのに。良い趣向になったでしょうから」

「そのようなことは、させない」


 彼の杯が卓に叩きつけられる音は、思いのほかに激しかった。思わず見開いた彼女の目に、苦しげに歪んだ夫の顔が映る。


「貴女を、これ以上苦しめるなど……」

「まあ、私は十分幸せですのに。貴方の恩に報いるためなら──英雄の栄誉を称えるためなら、それくらい」


 自身の言葉が夫を苦しめたのを見て取って、彼女は心から微笑んだ。優しい慈母の笑みによって、彼の頬はますます歪み、息は苦しげに乱れる。それがまた愉しくてならなくて。


      * * *


 十年前のこの日、彼女の国は滅びた。今は夫になった男によって滅ぼされた。王と王妃であった父と母も、兄も姉も、幼い弟も。生まれたばかりの甥でさえ。彼女も同じ運命を辿ると思った瞬間、でも、その男は主君に乞うたのだ。


 滅びた国の王女を妻に、と。


 かつての王族を一介の武人の妻に貶める思い付きは、敵国の王の気に入ったらしい。彼女は自害を禁じられ、男の閨に運ばれた。初夜の床で、男は言った。


 せめて貴女だけでも、と。


 彼女の純潔を奪いながら、もう何も奪わないと囁く男は──夫は、愚かだと心底思った。けれどその言葉も心も真実なのだろう、と分かった。

 だからそれ以来、彼女は良き妻、良き母であるように努めた。夫がより深く彼女を愛するように。過去の行いを、より深く悔い、より激しく思い悩むように。仇敵が悪夢にうなされる様を見ることができるなら、その子をひとりふたり産むくらい何でもない。


      * * *


 夫の人生でも最も大きな功績は、盛大に祝われるべきもの。十年の時を経ても忘れられることなく、何度でも称えられるべきもの。誰もが、夫は得意の絶頂を味わう日だと信じているだろう。もしかしたら、昼間の間は夫も自身を英雄だと思い込むことができているのかもしれない。


「……すまなかった」

「過ぎたこと、取り返しのつかないことです。お気になさいますな」

「だが!」


 でも、彼女が待つ屋敷に帰ると、そうはいかない。夫はただの虐殺者に成り下がる。彼の罪のすべてを知る彼女が慰めれば慰めるだけ、夫は過去の惨劇を思い出さずにはいられないはず。年が巡るたびに同じことを繰り返していることさえ、彼は気付いていないのかもしれない。


 無二の英雄の誰も知らない顔を、彼女だけが知っている。だから、本当に。彼女は幸せなのだ。

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