第29話 主人公たりえる素質


 ☆


 男が入っていったドアの奥にはまた廊下が広がっていたが、今までのような広い廊下とは違い、幅は4メートル程度で壁には何かの部屋に通じているであろうドアがいくつも等間隔でついている。


 その中の一つのドアの前で男は再び立ち止まると中へと迷わずに入っていった。


 そのドアの前は明らかに周りとは様子が違い、中から光が漏れている。


 チヨコも立ち止まらずにドアの中へと入ると、中は何かの研究室のような部屋だった。


 部屋の壁には何かのレントゲン写真のようなものが張り付けられていたり、何台も起動しているパソコンの画面にはパッと見ただけでは分からない文字列が並んでいる。


 そして部屋の中央のデスクには入ってくるチヨコに背中を向けて座っている人が一人と、隣には背中を追ってきた大男が立っていた。


 チヨコが近くまでやってくると、デスクの前の椅子に座った人はくるりと椅子の向きを変えてチヨコの方を向いた。


 脚を組み、片腕は肘置きにおいて頬杖をつきながらもう片方の手で器用にボールペンを回している。


 「初めまして。待ちくたびれたよ、辻本チヨコさん。僕の名前は白井紅刃しらいくれはだ、よろしくね」


 チヨコに対して挨拶をしたのは白井紅刃という男だった。年齢は20代にも見えるし、30代にも見える、その気になれば40代にも見えるような不思議な雰囲気の男性である。


 そしてチヨコはその男を知っていた。


 白井紅刃というのはチヨコが探していた精神科の先生である。


 白井がチヨコと初対面なのは彼の「初めまして」という言葉からも分かるが、それと同時に「待ちくたびれた」という不思議な文句が添えられていることにチヨコは違和感を感じた。


 チヨコと白井は今日会うことを約束していたわけでもないにも関わらず、待ちくたびれたという言葉は酷く場違いに思える。それに白井はチヨコの名前を既に知っていた。

 

 受診の予約を入れていることから名前を知られていてもおかしくはないのだが、顔は知らないはずなので、顔を見て名前を当てるなど普通ではない。


 それに謎の大男と何か関係があるようなのでチヨコは警戒心を一層強めた。


 「………初めまして。辻本チヨコです。白井先生の噂を聞いて今日はお話を聞いていただこうと思い予約を入れたのですが、ここはどうやら診察室ではないですね?」


 聞きたいことは山ほどあったが、チヨコはまず簡単な質問にとどめた。


 「そうだね、うん。ここは僕に特別に割り当てて貰った研究室みたいなものだよ。取り合えず座りなよ」


 白井はチヨコに対して自分の近くの椅子を指さして座るように指示した。


 白衣を着ているため医師のように辛うじて見えるが、怪しいことには変わりない。とはいえここで逃げ出すわけにもいかず、チヨコは恐る恐る指示された椅子に座った。


 「……うん、これでようやく、文字通り腰を落ち着けて話せるね。チヨコ君、僕は君がここに来ることは分かっていた。けれど、中々来ないから待ちくたびれたよ」


 初対面にも関わらず白井はチヨコに対して馴れ馴れしく言った。


 「白井先生とは初対面のはずですが……」


 「そうだね、うん。初対面だよ。それは間違いない。だけど僕は君がここに来ることを知っていた。まぁそれは追々話すとして、前の質問に詳しく答えるなら、今日はもう普通の診察はやっていないんだ。だからここは診察室ではないし、一般の患者が入れる場所でもない。君を待つためだ」

 

 白井は真面目なのかふざけているのか分からない調子でニヤニヤしながらチヨコを見ている。クルクルとペンを回し、椅子を左右にゆらゆらと揺らしている様子は落ち着きがないようにも見える。


 「私を待つため…………。一体何を言っているのかさっぱり分かりませんが」


 チヨコは白井が言っていることの意味の一割も理解できていないように思えた。


 言葉の意味を捉えようとするとヒラヒラとかわされているような気持ちになる。


 「影を、見たんだろう?」


 白井はチヨコに対して表情を一変させてそう聞いた。


 もうペンも回していないしゆらゆらと体も動いていない。鋭い眼差しでチヨコを直視している。


 「どうしてそれを……」


 チヨコは今日聞こうと思っていたことを言い当てられて言葉が出てこなかった。


 「僕はそれに関して多少の知識がある。そしてチヨコ君、君にそれを教えることはやぶさかでない。だけどその前に少し質問してもいいかな」


 「…………はい、答えられる範囲なら、どうぞ」


 チヨコは白井がやはり謎の影についての情報を持っていることを確認して、それが知れるというのなら質問に答えることくらい安いことだった。


 「ちなみに今から僕が質問するのは、君の話そうとしている影のことには全く関係ないし、僕の学術的な興味というか、行動哲学のようなものに関しての他の人の意見を聞きたいというだけのものだから気を楽にしていいよ。難しく考える必要はないからね。ただ、その代わり、どんな意見でも僕は受け入れるけれど、分からないや回答なしだけは止めてね」

 

 「分かりました」


 白井は真面目にそういうとまたニコッと笑って表情を戻した。


 「じゃあ、質問だ。アニメや漫画、小説、ドラマ、映画、劇、舞台、それらには主人公が存在するね。主人公たりえるにはどういった要素が必要だと思うかい?」


 チヨコはどんな質問が来るのかと身構えたが、思いのほか答えやすそうなものが来たので安心した。少なくとも回答なし、ということにはならなくて済みそうである。


 チヨコはその質問について今まで考えたことはなかったが、難しく考えなくていいとの言葉を頂いているので、思い浮かんだことをそのまま口にすることにした。


 「主人公であるためには、何か普通ではない力があることが条件だと思います。それが超人的な身体能力であったり、頭脳であったり、魔法が使えたり、人一倍努力が出来たり、感受性がゆたかだったりと、何か人と違う能力を有していることが必要だと思います」

 

 チヨコがそう言うと白井は持っていたペンを顎に当てて考えるような素振りをした。


 「ふむ、それも一理あるね。人を魅了する作品にするためには何か特別な、劇的な人生を主人公には歩ませる必要がある。チヨコ君の考えだと、主人公は主人公たりえる要因を生まれ持っているということかな?」


 「はい、物語の主人公は必ず生まれ持って何か特別な、周りの人間とは違う何かを持っていると思います」


 チヨコは決して深く考えての発言では無かったがそれ故に嘘偽りない本心からの言葉であることには変わりなかった。

 

 物語の主人公が何も持たぬ、ただの日常を過ごすだけの作品というのもきっとそれはそれで趣があるのだろうが、何か劇的な人生を描く方が面白いに決まっている。


 「僕もチヨコ君の、主人公は特別な何かを持っているという意見には賛成するよ。けれど、僕の考えは少し違う。主人公は先天的に特別な何かを持っているのではない。主人公だから特別な何かを持つという考えだ。これは同じようで全く違うと思うんだ」


 「特別な何かを持っているから主人公、ではなく、主人公だから特別な何かを持つ。そういうことですか」


 チヨコはその微妙なニュアンスの違いが分からなかったが、何となく言いたいことは伝わった。否、分かったふりをした。


 「まぁ、そうだね。言葉遊びのようだけど、その間にはとてつもなく大きな差があると思うんだ。……うん、質問はこれだけだよ。なんてことはなかっただろう?」


 白井はそういうと何かの紙をひらひらと揺らして再びニヤニヤした顔でチヨコを眺めた。

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