それぞれの旅路
第28話 大男
☆
チヨコはあの黒い影を見た日以来誰かに見られている感覚も、つけられている気配も、黒い影とも遭遇することもなくなっていた。
ミドリのいない生活も日常となり、毎日学校帰りにお見舞いに行くことが当たり前になっているのがチヨコにとっては恐ろしかった。
今日もチヨコはいつも通りミドリの入院する病院へと来ているが、今日に限っては病院へと足を向けた第一の目的はミドリのお見舞いではない。チヨコ自身の受診である。
とはいえチヨコは何か自分に異常があるとか、誰かから病院への受診を勧められたわけではなく、自発的にやってきたのである。というのも、ここ数日でチヨコの身の回りで起きていた不思議な現象、鏡越しに見た謎の影、それらを調べていくうちにそういった類の話に詳しい先生がこの病院の精神科にいるという情報を得たのである。
たまたまミドリの入院している病院にチヨコの求める先生がいるというのは奇妙だと感じがちだが、それは違う。順番が逆である。そもそもミドリの入院する病院は都内はおろか国内屈指の規模と医療技術を持つ大病院として有名で、求める医師は全て揃っているのが売りなのである。
そのため、ミドリの入院している病院にチヨコの求める先生がいるのではなく、チヨコの求める先生のいる病院にミドリが入院しているのだと言える。
有名な大病院の為平日でも患者で混雑しており、チヨコは予約を入れてはいたが、それでも自分の順番までかなりの待ち時間を必要としていた。
チヨコは時間を潰すために院内の購買や食堂、コンビニを見て回っていると、そこに知っている人影があり胸がキュッと締め付けられる思いがした。
そこに居たのは以前病院のロビーでチヨコに話しかけてきた不吉な喪服のようなスーツを着た大男である。
新聞や雑誌のラックの前で何を読もうかと思案している雰囲気である。今日も以前と同じように不吉で喪服のようなスーツにポークパイハットを目深に被っている。
思えばチヨコの身の回りで不可解な現象が起き始めたのもあの男が「知らない人間には気を付けろ」などという予言めいたことを言い出したことに始まる。
なのでチヨコが先日襲われた謎の影についても何か知っているのではないかと思い、その男から感じる不気味さよりも興味が勝った。
チヨコはゆっくりとその男に近づくと勇気を出して声をかけた。
「あ、あの、すいません」
「…………」
「……あ、あのー」
「…………」
「あの!すいません!」
「…………」
チヨコは勇気を出して声をかけたにもかかわらず、男は全く反応する様子がない。
チヨコは諦めかけたが、男はゆっくりと新聞や雑誌のラックから目を上げた。
「聞こえている」
「あ、あ、あの。えっと、この間の、」
チヨコはいざ反応を返されるとしどろもどろになってしまった。男は背筋を伸ばしてチヨコの方は見ていない。
「……こうして私に自分から話しかけるということは、何かを経験したということ。…しかし、こうして再び私の眼前に現れているということは、やはり……」
男が何を呟いているのかチヨコにはさっぱり分からなかったが、以前ロビーであった男に間違いは無さそうである。返事が無かったので人違いを疑ったがその線はなさそうだ。
「あの、私…………」
「紅刃先生に用があるのだろう、ついてきなさい」
男はある人物の名前を上げた。
そしてその名前はチヨコが予約を取った精神科の先生の名前だった。
「どうしてそれを…………」
男はチヨコの質問には答えることなく黙ったままコンビニを出るとずんずんとチヨコに構わず歩き出してしまった。チヨコは自分から話しかけた手前、黙って去るわけにもいかず、先を歩く男の背中を追うことにした。
とはいうものの、チヨコは警戒心を解いたわけでなく男とは一定の距離間を保ったまま後ろを歩く。
男は一般の患者も医師も看護師もいないような薄暗い廊下を選んでずいずい進んでいく。比較的綺麗で清潔感ある、開放的な印象のある病院だったが、今歩いている道は酷く気味の悪い、暗い廊下である。こんな場所がこの病院にあったとはチヨコは知らなかった。
今すぐ逃げ出してもいいのだが、そもそも男に話しかけたのはチヨコで、男はチヨコを無理やり連れて行こうとしているわけでもなく歩いているだけなので、ここで誘拐犯扱いするのはいくら怪しいとはいえ失礼にも程がある。
そんなことを考えて歩いていると、男は薄暗い廊下の突き当りの右手にあるドアの前で立ち止まった。
「ここだ」
「…………」
チヨコは一定の距離間を開けたまま止まったため、男の声は微かにしか聞こえなかった。
「……警戒するのはいい。だが、これより先においてその態度は勧められない」
男はチヨコの方を振り返りもせずにそういうとドアの奥へと消えていった。
チヨコもここまで来て帰るのでは拍子抜けしてしまう。覚悟を決めて男の入っていったドアの中へと足を踏み入れた。
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