第8話 アンリとルナ
☆
「そういえばまだ名前を聞いてなかったな。僕の名前はアンリ・アーガスだ。アンリって呼んでくれ。それで、こっちが……」
「私はルナ・ラファイエットよ。私もルナでいいわ。あなたの名前は?」
「俺の名前は、ミドリだ」
女の子、ルナの紹介で彼女たちの村まで案内してもらえることになったが、村までは小一時間かかるらしいのでその間に歩きながら彼らとの自己紹介が始まった。
ミドリは自分の名前を思い出しはしたが、それ以上のことは思い出せなかった。
苗字があったはずだがそれが何かまでは分からない。それに彼らの名前は日本名ではない。ということはここは日本ではないのかもしれない。とはいえ会話は通じるし、なにがなんだが分からない。
「ミドリ、素敵な名前ね。それで記憶が無いって本当なの?」
「あ、あぁ、それは本当なんだ。記憶が無くなる前はここではないどこかにいたはずなんだ。何しろさっき俺のことを襲ってきた化け物も初めて見た。あれは一体何なんだ?」
ミドリは何から質問したものか見当もつかなかったが、目下先ほど襲われた化け物について質問した。
「さっきのあれはシルグっていうやつだよ。妖魔の一種だ。だから化け物っていう表現はあながち間違いじゃない。基本的に森の中に群れで生活している。妖魔は他にも色々な種類、種族がいるけど、奴らは基本的に昼間は活動しない。見つけても怯えて動かないか、攻撃してきたとしても力は著しく低下している。だけど夜になると奴らの活動は活性化する。その仕組みは未だ不明。そんなところだよ」
「……そんなところだよ。じゃないわよ。アンリ、それそのまま学校の先生の受け売りじゃない」
「いいだろ別に。勉強熱心だって言ってくれ」
「真面目に勉強し始めたのなんてつい最近じゃない」
二人は言い合いをしながらも楽しそうだった。ミドリは何故だか懐かしい気持ちになって微笑ましく二人を見た。
「ほら、アンリが変なこと言うからミドリに笑われちゃったわ」
「僕は変な事は一言も言っていない。だろ?ミドリ」
「ごめんごめん。何にも覚えていないはずなのになんだか懐かしくなってさ。二人は仲いいんだな」
「仲良いって言うか、腐れ縁だよ。幼馴染なんだ」
「幼馴染か、俺にもそんな人がいた気がする。今はまだ何も思い出せないけど」
ミドリは幼馴染という言葉を聞いて自分にもそんな関係の人間がいたような気がしたが、それも曖昧で、ぼやけたイメージだけが脳内に残った。
「それで話を戻すけど、俺が襲われかけたあの…シグルっていう妖魔は人間の言葉を喋っていたけど、どうして化け物が人間の言葉を話せるんだ?」
「シグルじゃなくてシルグ、だよ。どうして人間の言葉が分かるのか、話せるのか、それは…残念ながら僕には分からない」
「ちなみにシルグだけじゃなくて他の妖魔も人間の言葉を話すわ。妖魔は動物ともまた違って物凄く知能が高いから危険なの。アンリが言った通り昼間はほとんど活動していないし、活動していたとしても人間とは棲み分けて生活しているから今のところはほとんど害は無いって思われているわ。たまにさっきみたいなことが起きるけれど、それはまぁ日も暮れてきていたから仕方ないわね。日暮れに彼らの土地である森に不用意に踏み込んだ私たちにも悪いところはあるわ」
「そうだったのか。悪いことをしたな。それはそうとしても矢で撃ってしまって良かったのか?」
「まぁ問題ない。奴らは動物でもなければ人間でもない。今でこそ棲み分けて生活をしてはいるけど、昔は人間の住む街へと出てきては悪さをしていたという話だ。自分たちの身が危ないのに彼らを傷つけないで何とかするほどの理由はない」
アンリはそういうと自分の腰に付けた弓矢を入れる矢筒をさすった。
「それにしてもアンリは弓の腕がいいんだな」
「まぁまぁだよ」
アンリはまんざらでもなさそうな顔をしているが、彼の弓の腕は正直な所上手いなんてレベルを超えていた。
ミドリは弓道を知っているが近的競技では28メートル、遠的競技でも60メートルの距離を射抜く。霧の中ミドリの視界に入っていたのはせいぜい40メートルあたりまでなので、少なくともそれよりも遠い位置から、それも弓道とは違い霧の中、高速で動くシルグに向かって正確に心臓を射抜いている。
彼の様子からもルナの様子からも決してまぐれではなさそうなので、やはり彼の弓の実力は化け物じみている。
「何度も質問して悪いんだけど、じゃああの森は何なんだ?奥の草原から30分ほど歩き続けたのにほとんど何も進んでいなかったんだ」
ミドリは自分の身に起きた不可解な出来事について二人に聞いた。
答えてくれたのはルナの方だった。
「この森はモア・フォレストっていう名前なの。別名、というか通称は幻惑の森ね。ここは歩き方を知らないと一生彷徨い続けるわ。だから普段はあまり人は通らないし、たまたま私たちが通ったから運が良かったね」
その話を聞いてミドリはゾッとした。もしアンリとルナがたまたま通りかからなかったらシルグに襲われなくとも森の中を永遠に果てもなく歩き続けて息絶えることになってしまっていた。見ず知らずの土地で身元不明の遺体で発見されるのだけは勘弁である。
自分がどれだけ危ない状況だったのかというのは当事者には中々分からずに泥沼にはまっていってしまうというのはこういうことかと理解した気持ちになった。
「見えてきたわ。あれが私たちの村よ」
ルナが指さした方向を見ると、森の出口が見えた。そしてその先には確かに村と呼ぶにふさわしい集落の姿が確認できた。
その村の建物は全て切った石や木で出来ていて、屋根は藁ぶき屋根のような見た目をしている。
とはいえ知っている藁ぶき屋根とは色が違く、濃い緑色をしているためきっとミドリの知らない素材の同じような役割を果たすものを使用しているんだろうと勝手に解釈した。
村の様子からして中世かもっと前に遡ったような雰囲気を感じるが、ミドリはそれをもう受け入れることにした。妖魔といい、幻惑の森といい、弓を放つ青年といい、ここが日本では無いことはもうここまでの会話で明らかである。それにミドリの知識上、ここは日本のみならず世界のどことも当てはまらないように思える。
そのため、逐一ここが日本ではないとか、知っている場所と違うと考えていてはきりがない。この際まったく違うどこでもない世界に来てしまったと割り切って考える方が建設的だろう。
森を抜け切ると、先程までは背の高い木の葉に隠れて見えなかったが村の奥のはるか遠くに天にまで届きそうな勢いで建っている建物があった。例えるならば巨大な西洋の城で、その中央の煙突がひたすら高く天まで昇る塔のようになっている、そのような見た目である。
ミドリは遠くに見えるその塔のようなものが何か気になったが、ルナとアンリに遅れてしまうのでまた聞くことにした。
村へ到着すると思いのほか村の人たちはよそ者であるミドリを快く受け入れてくれ、記憶がないということも疑われることなく信じて貰えた。
それもこれもひとえにアンリとルナが積極的に説明する役を買って出てくれたからであり、彼らは村の人たちからも信頼されているらしかった。
「ここが僕たちの家だ」
アンリがそう紹介してくれたのは綺麗な木製のシックな教会だった。
「ここは教会だよな」
「そうよ、ここがアンリと私の家。まぁとにかく入って入って」
教会が二人の家だと口をそろえて言う意味がミドリには分からなかったが、催促をされてしまったので躊躇いながらも中へと足を踏み入れた。
中へ入るとすぐに奥から聖職者と思われる装束に身を包んだ女性が出てきた。エプロンをつけて胸にはロザリオを輝かせている。その見た目と肌の感じから年齢はきっと70を超えていると思われるが、鼻はスッと高く、目を鋭く細めて背筋を伸ばしている姿は鷹のような気高さを感じる。
「彼女はここの司祭様のターニャさんよ。ターニャ、彼はミドリっていうの。幻惑の森で記憶を失って倒れていたらしいの。それに彼はどこか遠くの、この世界ではないどこか遠くにいたみたいで…どれくらいか分からないけど、あてが見つかるまでここに一緒にいてもいい?」
ルナはターニャが出て来るや否や飛びついてミドリについてを説明した。ミドリは自分から挨拶をするのが筋だとは思ってはいたが、彼女の素早い動きに先手を取られてしまった。ターニャはルナの話を聞きつつも鋭い視線をミドリへと送っている。
ミドリはどうしようかと怯んで固まっていると、ターニャの方から彼に対して声をかけた。
「ミドリさん、ですね。私たちは困っている方には誰にでも手を差し伸べます。自分の記憶に対する不安は恐ろしいものでしょう。ルナやアンリが連れてきたのならきっと怪しい人物ではないのでしょうね。あなたについても深くは詮索はしません。ですがここにはここのルールがあります。起床の時間、食事の時間、日課の仕事、それはきちんと合わせてもらいますよ」
ターニャは厳しい目つきから一変、目元に優しく皺を寄せてミドリを受け入れることを認めた。ここのルールに合わせろと言ったのはきっとミドリが何もせずにここに居させてもらうことに対する負い目を出来るだけ少なくするために、ミドリに何かをさせることが一番いいだろうというターニャなりの優しさなのかもしれない。
「はい。ありがとうございます、ターニャさん。自分にできる事なら何でもします。どれくらいになるか分かりませんがよろしくお願いします」
ミドリはターニャに対してそう言うと、彼女は再び優しい顔で無言でうなずいた。
「じゃあ、部屋はアンリと同じでいいですね。アンリ、案内してあげなさい。ルナは夜ご飯の支度を手伝ってちょうだい」
「はーい」
「分かった。じゃあミドリ、部屋はこっちだ」
それぞれがターニャから次にするべきことを指示されてばらけることになった。
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