第7話 遭遇


 ミドリはしばらく考えていたが今までも記憶を呼び戻そうと試みるもその結果は虚しく終わっていて、今回も結果は芳しくないようである。日本があって、太平洋があって、アメリカがあって、戦国時代があって、第二次世界大戦があって、オリンピックがあって……。それらの知識は、おおよそ記憶が無くなる前に有していたと思われる知識は抜かりなく覚えているにも関わらず、こと自分に関する情報となると途端に記憶に蓋がされる。

 

 覚えていない、というよりは記憶に蓋がされている、という感じである。思い出そうとすると記憶の断片に靄がかかるように隠れてしまい、なまじ思い出せそうなところが質が悪い。余計に歯がゆい思いを強要させられるのである。


 休憩がてらの記憶復旧作業も体力は回復するが精神がすり減らされるので、それも止めてそろそろ動き出そうかと重い腰を上げようとしたとき、ミドリの視界に見たことのないものが映り込んできた。


 遠くの木の陰から彼の方を覗き見る二つの目。大きさは目の位置からして高さ一メートル程だろうか。ミドリからその二つの目までの間はおよそ30mくらいある。目を細めてよく見なければ分からないほどだったが、ボーっと遠くを見た時に不意に動く塊が見えたためにミドリは気づくことが出来たのである。


 大きさからして人ではなさそうだが、動物の影だとしても覚えのない形である。距離は30m程しか離れていないとはいえ薄暗い森の中で木の陰に身体の半分以上が隠れていてほとんど何者かの見分けがつかない。それにこの森の中では30mという距離でさえ正確がどうか分からないのである。見えているものが実在するのかどうかも怪しい。なにせ必死に歩き続けていたにも関わらず少しも進むことのできなかった森である。


 「あれはなんだ」


 ミドリは遠くから自分を覗き見る視線に興味が湧いて近寄ってみると、それは意外にもミドリの接近に対して逃げ出したりはしなかった。ただ少し怯えるように隠れている木に寄って身を隠して震えているようだった。


 「こ、この生き物は……」


 ミドリはとうとう隠れていた生き物の目の前まで来ると、自分の目を疑った。


 その大きさはミドリの腰辺りの大きさなので恐らく1メートル前後。そしてそれは二足歩行で両手両足に指を持っており、まるで小さい人間のような形状をしていた。だが、少し違うのはその大きさの、人間でいえば3歳から4歳程度の大きさの子供なのにも関わらずお腹はポッコリとしているが、体つきが太く、脚も腕も木の幹のようにゴツゴツとしていて筋肉がしっかりついている。

 

 服は腰蓑をだけで上半身には何も着ていない。そして顔も目つきは鋭い釣り目に黒く丸い眼球がこちらを覗いていて、鼻は高くとがっているその様子は人間の子供のそれではない。手には木の棒、というよりは木の棍棒というべき大雑把な形をした武器のようなものを強く握りしめている。


 例えるならそう、『ゴブリン』。


 ミドリはとっさに思いついたその空想上の生物と今目の前に存在する生き物とを照らし合わせて妙に納得してしまった。ただ現実にこのような生き物が存在しないことを知っているため、納得しつつも信じられないという気持ちはどうしても拭いきれない。


 驚いているのはその生き物も同様なのか、ミドリを上目遣いで見上げながら動こうとしないが、ずっと怯えたように激しく震えて木にしがみついている。


 「き、君は何者なんだ?」


 言葉が通じるとは思えないため返答を期待しての問いかけでは無かったが、そう聞かざるを得なかった。それにここまで怯えられてはなんだか悪いことをしている気持ちになるので見た目はゴブリンのような不思議な生き物であってもミドリは優しく動物に話しかけるように腰を低くして話しかけた。

 

 すると、その生き物はブツブツと何かを呟き始めたのでミドリはもっと近づいて耳を澄ませた。


 「なんて言っているの?」


 「モノ……、モノ、何モノ、何モノ、何モノ…………」


 「…………ッ!!こ、こいつ、話せるのかッ!!!」


 ミドリはその生き物が復唱しただけの可能性があるとはいえ同じ言葉を話したことに驚いて後退った。


 「何モノ、何モノ、何モノ、何モノ、何モノ、…………」


 ミドリが後退った後もその生き物は同じ言葉を繰り返し続け、次第にその声は大きくなっていく。


 「ど、どうしたんだ。俺が何かしたか……」


 「何モノ、何モノ、何モノ、………キィィアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」


 「!!!!!!!」


 その生き物は同じ言葉を繰り返し叫び続けた挙句、ミドリの方を向いて全身を震わせながら遂に発狂した。


 その顔はもう怯えたものではなく黒い目を見開いて、真っ黒な目でありながら充血しているのが分かるほど力が入っている。頭にも血が上っていて血管が浮き出ている。鬼気迫るその発狂を目の前で聞いたミドリは驚いてさらに後退った。


 「おい、おいどうなってるんだ。どうしちまったんだよ」


 ミドリは後退りはしたが視線はずっとあの発狂した生き物から逸らしていなかった。否、逸らすことができなかった。その異様な光景故に釘付けとなってしまっていた。そしてそれは悪い方向へと事態を悪化させた。


 ミドリがそれに気づいた時にはもうすでに遅かった。


 あの生き物が気が狂ったように発狂したのは何も意味のないことではない。周囲を見渡すと右に左に、そして背後に合計数十のあの生き物がミドリを囲んでいた。


 「しまった、囲まれた…」


 あの生き物はただ発狂したのではなく仲間を呼ぶために叫んでいたのだった。


 周りを囲む生き物たちは最初に見つけた一匹とは様子が違い殺気立っていて息荒く肩を上下させている。そして最初の一匹と違うところはその目が黒ではなく中心が燃えるように紅く光っていることであった。


 「アノ人間ハドウスル」


 「何モノダ、アノ人間」


 「仲間、ノ敵ダ」


 「助ケ、呼バレタ」


 「デモ、攻撃シテコナイ」


 ミドリの周囲を囲む謎の生き物たちは人間と同じ言語でコソコソと色々な場所で会話を始めた。


 「こいつらはなんだ。人間ではない、よな。どうして同じ言語が喋れるんだ。攻撃してくるのか……?」


 そしてミドリを囲む生き物たちは彼の動揺を見て嘲笑をした。ミドリを嘲るような笑い声が包み込む。気味の悪い笑い声が全方向から降り注いで全身に寒気が走った。


 気づくと先程まで日中だと思っていた空は暗くなり始めていて、霧が出てきている。風も吹き始めて怪しい空気があたり一面に漂っている。ミドリを囲むものは紅い目と肩を上下に揺らしながら人の言葉を用いて彼を笑う。その姿はもはや生き物などではない。化け物に他ならない。


 ミドリは一瞬で悟った、明らかに周囲の化け物たちは自分を襲う意思がある。そして間違いなくあの数に襲われれば自分はただでは済まない。ただでは済まないというのは自分を過大評価している。間違いないく死ぬ。人間というのは武器もない状態で一人野生動物の中に放り込まれたら何もできないのである。犬でさえ数匹もいれば人間など取るに足らないだろう。


 にも関わらずこの場では人間に匹敵する知能を持ち合わせていると思われる体調一メートル前後の化け物数十匹に一斉に飛びかかられれば死ぬという言葉では足りない。死体を貪られて見るも無残な結果になることは明白だった。


 「どうしたらいい。逃げ道は……ないッ!」


 ミドリは周囲をグルグルと何度も何度も首を振って見渡すも視界には化け物たちの紅い目がどの方向にも並んでいて退路はどこにもない。


 するとにらみ合いに堪えきれなくなった化け物の中から一匹が飛び出してきた。棍棒を振りかざして物凄い勢いで突進してくる。その勢いと速さは見た目は似ていてもやはり人間とは物が違う。獣のような速さで突撃してくるのでミドリは腰を落とし、ラグビーのスクラムを組むような姿勢で体に力を入れて迎え撃とうとした。


 化け物は蒸気のような白い息を口と鼻から出しながら激しく向かってくる。あの勢いで突進されればいくら覚悟を決めて迎え撃っていたとしてもあばら骨や肩の骨を砕かれて弾き飛ばされるに違いない。とはいえ、もうすでに横にかわすことは化け物と自分との距離感的に叶わなそうである。


 「くそッ!かかってこいッ!!」


 遂に化け物との距離は10メートルを切ったところでミドリは腹をくくった。目を瞑って衝撃に備えて全身に力を入れた。


 が、彼の体を化け物の突進による衝撃が襲うことはなかった。


 「そこの君!伏せて!」


 どこからかそのような声が聞こえ、ミドリはハッとして腰を低くしていた姿勢から勢いよく体を横に投げだして伏せた。


 咄嗟に聞こえてきた声に従って伏せたものの、向かってくる化け物のことなど考える余裕もなく、ただ両手で頭を守って何とかなってくれという気持ちでミドリはひたすら祈った。


 すると彼が伏せた直後、頭上でドスっという重い音がして化け物の苦しそうな声が聞こえてきた。


 「ウウウゥ、ウゥ…………」


 彼に対して突進してきた化け物が彼に激突することはなかったのでミドリは恐る恐る目線を上げると彼の目の前で化け物の足は止まっていた。そしてその身体を太い一本の矢が貫いていて、矢は長く、体を貫通した矢の先端が地面に届いていて化け物は倒れることすら出来ずにその場で地面と串刺しになっていた。


 「うわっ」


 ミドリは両膝をついて起き上がろうとしていたが、目の前に広がるその光景に思わず後ろへ尻もちをついた。目の前の矢に刺された化け物は貫かれた場所と口から赤い血を流してその場から動かない。恐らく一撃で急所を射抜かれて死んでしまったのだろう。


 「死んでいるのか……?」


 化け物は動かない、否、矢に貫かれて地面に縫い付けられてしまっているので仮に生きていたとしても動き出すことは難しいと分かっていてもミドリは用心して立ち上がった。


 「アレ、危ナイ。仲間死ンダ」


 「危険。アレ、危険」


 「早ク。逃ゲロ」


 「急ゲ」


 一匹の仲間が矢に射抜かれて息絶えたのを見ると、化け物たちは紅かった目を黒くし、一斉に震えだして森の霧の中へ消えていった。あれだけの数がいたにも関わらず現れるときは一瞬で、また消えるときも同様に音もたてずに去っていった。


 「何だったんだ。あの化け物たちは。それにしても一体誰が助けてくれたんだ……?」


 「あなた、大丈夫だった!?」


 霧の中から駆け寄ってきたのは見た目はミドリと同じ年頃の金髪碧眼の女の子だった。服装も綺麗なワンピースを着ていて、いい所のお嬢様といった風貌である。顔は綺麗、というよりは可愛い系の顔立ちで焦っている様子だが声は優しく落ち着いたトーンをしている。


 ただ、先程の伏せろという指示をした時の声は咄嗟のことだったので覚えていないが、今も目の前の化け物に突き刺さっているこの大きな弓矢を放つ人間なのでてっきり男かと思っていたため、ミドリは可愛らしい女の子の登場に驚きを隠せなかった。


 「あ、あぁ。俺は大丈夫だ。さっきはありがとう。これは君がやったのか」


 「いえ、私じゃないわ。彼よ」


 女の子がそう言うと彼女が駆け寄って来た方向からこれまたミドリとその女の子と同じくらいの年の青年が出てきた。女の子の方とは違い青年の方はオレンジっぽい茶髪に焦げ茶色の目をしている。服装は長袖シャツに長ズボン、そして足元にはブーツを履いている。腰には弓矢、背中には弓を撃つであろう弓が背負われている。


 「ルナにそんなことできるわけないさ。これをやったのは僕だ。怪我は、ないようだね」


 「助けてくれたのは君の方だったのか。ありがとう。助かったよ」


 「もう、酷い。私にだってシルグの一匹ぐらいやっつけられるわよ」


 「どうだかな」


 どうやら弓を引いてミドリに襲い掛かる化け物を倒したのは青年の方らしい。ミドリはそれを知って腑に落ちた。


 「それで君はどうしてこんなところにいるんだ?荷物もないようだけど、手ぶらでこの森に入るなんて自殺行為だろうに。………まさか本当に自殺じゃないだろうな」


 青年の方が荷物も何も持っていないミドリを見て訝しげにそう質問した。


 この森、という言い方をするということはやはり何か普通の森とは違う危険なところがこの森にはあるのだろうが、それでなくても森の中に手ぶらで入り込んでいたのであれば不用心と言わざるを得ない。

 

 「いや!自殺願望とか、そういうのじゃない、と思う…」


 「思うってどういうこと?」


 今度は女の子の方が興味深そうに聞いてきた。


 「信じられないかもしれないけれど、実は俺は記憶が無いんだ。どうして自分がここにいるのか、ここがどこなのか。目が覚めたら後ろの草原にいて…。それで訳も分からず森を抜けようとしてここを歩いていたら化け物に囲まれていたんだ」


 ミドリが自分の状態について告白すると、二人は顔を見合わせた。


 「それは…大変だな」


 「記憶を失って………」


 初めて会ったにも関わらず思いのほか二人は深刻に考えてくれた。


 そして女の子の方が言った。


 「きっと行く当てもないんでしょう?じゃあ取り合えず私たちの村まで行きましょう」

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