第3話 衝動

 ☆


 ミドリは勢いよく飛び出したものの現状がどうなっているかの想像すらついていない。ただひたすらに後方車両に近づくにつれて強まる炎の熱気が肌を指すように伝わってくるだけである。


 この電車の爆発がそもそも何かの偶然で起きたのもなのか人為的な、言ってしまえばある種のテロリズム的な行為によるものなのかそれすらも分からない。もし仮にこれが人による犯罪なのだとしたら自分は物凄く危険な行為に出ようとしているのではないかとミドリの脳裏をよぎったがすぐにその考えを取り消した。それを考え出しては自分の歩みを止めてしまいかねない。


 逆行すること2両分もいくと人の姿はほとんどなかった。途中で「危ないぞ、兄ちゃん!」と後ろから声をかけられたこともしばしばだったがミドリはそれを無視して進んだ。


 そしてそこまで行くともう火の手は目の前だった。強烈な熱気が肺を焼いて一瞬で息を吸えなくなりそうになったがミドリは意識を強く持って何とか耐えた。どす黒い煙は天井一面を覆っていて僅かに空いている窓から溢れ出ているものの、完全な排気機能が期待できるとはとても思えない状態である。


 現在ミドリがいるのは後ろから3両目でそこにはもう人は数人程しか残っていない。それももう前の車両には入りきれないからだ。だがそれよりも前の車両にも火の手がいくのは時間の問題である。そしてそのタイムリミットは今の火の勢いから想像するにまず間違いなく次の駅、若しくは消火活動、電車からの乗客の退避までには間に合わない。それにミドリが背にしている後ろから四両目より前の車両はもうほぼ満員で人の入る隙はどこにもない。これでもよく前の6両に人がすべて入りきったと思う限りである。


 幸いまだミドリのいる車両は完全に火が移っているわけではなく煙が先行して入り込んでいるだけなのでギリギリのところで耐えている。


 状況を観察していると、一瞬煙の隙間から奥の車両との境目付近に僅かに人影が見えた。考えるよりも先にミドリは飛び出したがすぐに後ろから制止がかかった。


 「兄ちゃん!だめだ!あれはもう助かんねぇ!いっちゃだめだ!あんたが死ぬぞ!」


 「……でも火は移ってない!きっと煙を吸い込んで倒れただけだ!まだ助かる!」


 「あ、待て、おいッ!」


 ミドリは後ろからの声をい無視して走り出した。


 新学期に向けてクリーニングに出したばかりなのに親には申し訳ないが自分にはこういう生き方しかできない。確か昔にも虐められている子を助けるときにも一緒にやられて買って貰ったばかりの服を泥だらけにして帰ってきたことがあった。考えれば迷惑や心配しかかけてこなかった人生だった。


 「ミドリはいつか本物のヒーローになれるよ」


 チヨコはそう言ってくれたが自分はそんな立派な人間ではない。こうして人を助けるために走るのも自己犠牲なんて綺麗なものではない。心の底では今この瞬間にも自分の存在意義を求めるためだけに走っているのかもしれない。生き急ぎと思われても仕方ないとミドリは感じていた。


 ならばせめて助かるかもしれない命を救って自分の行動に意味を持たせるために行動しようとそう思った。


 倒れていた人影は若い女性だった。


 「大丈夫ですか!意識ありますか!」


 ミドリは強く肩を揺らして問いかけるが返事はない。予想はしていたがやはり状況は良くない。目の前に迫っている火も勢いを増していて熱くてまともに息を吸えない。肌を焼く烈火で今にも服も肌も焦げてしまいそうである。


 判断を迷っている暇はないと考えたミドリは女性の両脇に腕を差し込んで引きずるようにして辛うじてまだ安全な方まで連れてきた。ミドリは女性の手首の脈を探すと、奇跡的にまだ動いていた。


 「お願いします!まだ心臓は動いてます!」


 ミドリはまだ生きている女性を前方の車両の方に任せた。


 だが状況は何一つとしてよくなっていない。目下この火の手と煙をこの車両内でとどめる方法は思いつかない。先ほど女性を救出に向かった間に前の車両の人が詰めてくれたらしくとうとう今ミドリのいる車両に残っているのはミドリ一人だけになった。


 後ろからは必死にミドリに対して早くこっちにこいという声がかけられているがその声に対応するのはまだ早い。でなければ逃げたところでこの火からは逃れることは出来ない。


 車内を見回して何か策はないかと考えていると先程女性が倒れていたさらに奥の後ろから二両目の車内に動く影を見つけた。しかもその影は火や煙から身を守るために低姿勢を取っているというわけでもなくしっかりと二本足で立ち、背筋を伸ばして歩いていた。


 ミドリはその影の正体がこの電車爆発の元凶なのかと推測して自然と足がそちらの方向へと向いていた。


 「ミドリ!だめ!」


 「ッ!!」


 見知った声を聞いて驚いて振り返ると、前に逃げろと言ったはずのチヨコがすぐ後ろの車両まで来ていた。炎の中に飛び込んだからかミドリの制服の片腕の袖が燃えて皮膚が露出している。そしてその腕は火傷で酷く爛れている。見ているだけで痛々しい。


 チヨコはその怪我を見て目を塞ぎたくなったが勇気を奮ってもう一度呼びかけた。


 「だめ!言っちゃダメ!」


 ミドリに近づこうとするチヨコは必死に叫んでいるが、周囲の大人たちが彼女の体を押さえてミドリの方へはたどり着けない。その声は痛いほど届いていたがミドリは聞こえないふりをするほかなかった。


 今あの動く人影に近づいて何が生まれるのか、何か得られるのか、火は、煙は収まるのか、それは全く分からないがミドリは何か使命のようなものを感じて意識とは違うまた別の次元の感覚で体を突き動かしていた。


 そしてミドリはまずチヨコのいる車両へと向かい、チヨコを奥の車両へと無言で突き飛ばすと、ミドリの車両とチヨコの車両とを繋ぐ連結部分のドアを二重に閉めて反対側へと走り出した。


 ☆


 口を制服の燃えていない方の袖で押さえて低姿勢でなるべく煙を吸わないようにしながら炎の中に突進したミドリは真っ赤な視界の獄炎の奥に先ほどの動く人影を見つけた。


 「おい!お前は誰だ!この爆発の犯人か!?」


 煙に負けないほどどす黒いその人影は顔が全く見えない。ただ炎で見えないというわけではなく、黒い靄がかかったようになっていて、その細かいパーツまで認識することができない。だが、ほとんど輪郭しか見えないなりにもその影はミドリの呼びかけに振り返ったように見えた。


 「どうしてこんなことをした!どうしてお前はこの火の中で平気で立っていられる!」


 低姿勢でも意識を失いそうなミドリをよそにその影の人間は平然とそこに立っている。既に火のせいだけでなくミドリの視界はぼやけ始めていた。


 「私はこの爆発の実行者ではない」


 二回目のミドリの呼びかけに低くて強い男の声が帰ってきた。


 「この爆発を起こした張本人は奥の車両で既に息絶えている」


 「な……。じゃあ、……お前は、誰なんだ!」


 酸素が足りず、煙もかなり吸い込んでしまったミドリの意識は朦朧とし始めていた。まずは片膝をついて、そしてすぐに耐えきれなくなって全身がしびれ始めて燃え盛る車両の床に倒れこんだ。火の中にいるにも関わらず酷く寒気がしている。


 微かに映るぼやける視界の中で黒い影の男が近寄ってきているのが見えた。視界には男の靴しか映っていないが今目の前にいるのが影の男だというのはすぐにわかった。


 そして男はミドリの前で片膝をつくと一言放った。


 「私は観測者だ」


 「か、んそく……しゃ」


 燃え盛る激しい炎の中、ミドリの意識はそこでプツンと途絶えた。


 結局、ヒーローにはなれなかった。


 偽物の人生を、偽物にふさわしい醜い形で終えることとなった。

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