第2話 爆発

 

 ☆


 2050年4月9日。


 高校二年生になった春、高校生活も2年目になり真新しい感情というものはもう既に抱くことはない。慣れた道を慣れた足取りでいつも通りの時間にいつも通りの電車で登校する。何の変哲もない、何の変化もない日常が今日も送られる。


 「ミドリ、なんか難しい顔してるよ?」


 電車の車窓から見える遠くの景色を何も考えずに眺めていたミドリに隣から話しかけてきたのは幼馴染の女の子、チヨコである。不思議そうな顔でミドリの顔を覗き込んでいる。


 「あ、あぁ。何でもないよ。そんな難しい顔してたかな」


 「してたよー。新学期が始まるから緊張でもしてるの?」


 「……そうかもしれないな」


 ミドリは自分で難しい顔をしていた自覚は全くなかったので反応に困ったが、取り合えずチヨコの言葉に乗ることにした。否、もしかしたら意外にも新学期からの新しいクラスに対する緊張感というのを無意識のうちに抱いていたのかもしれない。


 ミドリの返事は半ば適当なものだったがチヨコはそれでも納得したようだった。


 「そういえば、ミドリって小学校の頃の文集にヒーローになりたいって書いてあったよね」


 「いきなりなんだよ。悪いか、昔の話だよ」


 「突然思い出したの。あの文集をみて気づいたの、ミドリって本物のヒーローになりたいんだなって。昔から全然力もないのに虐められている子を助けようとしてみたり、悪いことをしている人に食ってかかったり、本当に変わらないよね」


 「でも僕はヒーローになんかなれないことに気がづいたよ。それは例え物理的に力がついたとしても変わらない。僕に限らず、この世には偽物しかいないんだ」


 「そんなことないよ、ミドリはいつか本物のヒーローになれるって私は信じてる」


 「チヨコだけだよ。そんなこと言うのは」


 朝から嫌な事を思い出させられてしまった。


 そしてミドリはチヨコに一つだけ嘘をついた。ヒーローになりたいというぼんやりとした気持ちは今でも変わっていない。しかしそれと同時に本物にはなれないことも分かっている。


 確かにミドリは昔から虐められている子に近づいて守るようなふりをしたり、悪いとされていることを正すことをしてきた。そしてその行動は間違っていたとはミドリ自身思っていない。自分で言うのもなんだがその行動が間違っているはずはなく理屈でも感情でも正しいことをしてきたという自負が彼にはある。自分の行動によって救われた人間がいることも知っている。


 だがそれは正しいだけであって本物ではない。虐められている子を助けることは善であって本物ではない。ミドリはいつからか、正しいことをしている自分にただ酔っていただけなのだと気が付いた。どこかで事態を客観的に眺めている自分がいて、ヒーロー気取りの自分に酔いしれていただけなのだ、と。その時からミドリの正義は揺らいでいる。


 きっと本物にはそんな卑しい感情は存在しない。


 偽善、とまでは言うつもりは無い。本心から正しいと考えて行動した、それに嘘はない。それでもミドリは自分が善であると思う行動をすればするほど本物から遠ざかっているような気がしてならないのである。


 昔はチヨコよりも体の小さかったミドリだが、今では180センチ近くある。力もついた。それでも本物にはなれない。


 では本物とは何なのか。正しいことをすればするほど遠ざかる、それがミドリを縛り付ける永遠のジレンマなのである。


 「ねぇ」


 「ねぇ、ねぇ」


 ミドリはまたもやボーっとしてしまっていたらしい。隣から呼びかけられている声にしばらく気づくことができなかった。


 「ねぇ!ミドリってば」


 「ん、ごめん、どうした」


 「今日なんか変だよ。……じゃなくて、なんか臭くない?」


 「臭いって、僕、じゃないよな」


 ミドリはさすがに違うだろうとは思いつつも何となく聞いてしまった。自分でもあまりにも腑抜けた問いである。


 「もう、そんなんじゃないよ。何の匂いか分かるはずなんだけどド忘れしちゃって」


 「…………」


 チヨコに言われて意識を臭覚に集中させた。


 通勤時間が重なっているため人が多く、車内には様々な匂いが混在している。生温い色々な人の匂い、そして…………微妙にもったりとした特徴的な匂い。微かに鼻孔をかすめる肺に届きそうな重い匂い。


 …………ガソリン?灯油?


 ふと彼の脳裏に浮かんだのはその言葉だった。


 しかし電車はガソリンで動くことはない。文字通り電気で動く列車である。ディーゼルエンジンの列車であればガソリンで動くものもあるのだろうが今現在ミドリとチヨコの乗車するこの電車はそのようなディーゼルカーではない。つまりガソリン、若しくは灯油のにおいなどするはずもないのである。


 ミドリは近くに工場勤務のガソリンの匂いの染みついた作業着の人間がいるかもしれないと思い周囲を確認したがそれに該当するような人物も見当たらない。


 にもかかわらず時間が経てば経つほど鼻をかすめるその匂いがガソリンであるという確信が強まっていく。


 「チヨコ、この匂いは十中八九ガソリンかそれに準ずるものだ。原因は分からないけど、なにか嫌な予感がする。次の駅で降りよう。電車一本見送ったところで学校には遅れない」


 「それよ!ガソリンの匂いね。だけど、いいのかな。もし本当に危なかったら……」


 チヨコが不安そうな顔を浮かべながらそう言った次の瞬間、電車の進行方向に対して後方の車両から強烈な、耳を裂くような爆発音が聞こえた。


 車内には動揺が走り、衝撃で車体が激しく振動した。


 幸い、電車の車輪が衝撃でレールから外れると言ったことはなかった。


 「い、今の音」


 「あぁ、最悪の状況かもしれない」


 ミドリとチヨコは言葉にこそしなかったがお互い事態をほとんど想像でしかないが瞬時に理解した。


 すると、音のした後方の車両の方からミドリたちのいる車両へと勢いよく人が流れ込んできた。


 「前だ!前の車両へ逃げろ!最後尾の車両が爆発して燃えた!早くしろ!すぐに火と煙に追いつかれちまう!早くしろ!」


 流れ込んできた人の波の中からそんな声が聞こえてきた。他にも「押すな」、「早く行け」、「そこで止まるな」、「死にたいのか!」という強い言葉が大きく放たれている。状況が非常に芳しくないことは文字通り、火を見るよりも明らかだった。


 現在ミドリとチヨコを乗せた鋼鉄の蛇は尾を燃やしながら時速60キロで次の駅を目指している。通常であればあと4分はかかる。この通勤ラッシュの時間帯の電車の込み具合で全員が先頭車両に入りきらないことは容易に想像がつく。よくて前6両に入りきればいい方だろう。

 

 この電車はたったの十両編成。これでは4分もしないうちに火の手は届き、死の灰と煙は簡単に人々の肺を焼き切ってしまうだろう。いくら換気の聞いた車内とはいえ冷静に逃げながら全ての窓を開けながら逃げてきた人がいるとは思えない。そしてそれをしたところできっと時間稼ぎにしかならないだろう。


 これでは最悪の場合数百人の単位で人が死ぬ可能性がある。


 そんなことを考えているうちに物が燃えている時の特有の匂いがミドリの元にも届いた。


 「ミドリ!私たちも早く前の方に流れよう!」


 「ミドリ!私たちが動かないと人の流れも止まっちゃうよ!」


 「ねぇ!ミド…………」


 チヨコは事態の緊急性を即座に理解してミドリに必死にそう呼び掛けてきた。


 だがミドリは爆発のした後方の車両の方向を見つめたまま動けなかった。だが、ミドリは電車の爆発に恐怖して足がすくんだわけでも混乱しているわけでもない。ただ冷静に、ひたすら冷静に状況を考えていた。


 「チヨコ、いいか。チヨコは先にできるだけ先頭車両の近くの車両まで逃げるんだ。いいな」


 「うそでしょ、それってミドリはどうするの。ミドリ一人が行ってもどうにもならないのよ。もう爆発は起こったの。これ以上人が行っても闇雲に犠牲者を出すだけだわ。どうしてそれが分からないの!実際に今向こうがどうなっているのか分からないのよ、冗談止めてよ」


 チヨコの言うことは正しい。ミドリもそれは理解している。


 それでもミドリはいつでも頭の片隅にある言葉を無視することは出来なかった。


 『ヒーローになりたい』


 「ごめん……ッ!!」


 ミドリは今更爆発の起きた後方の車両へと向かっても何ができるとも思ってはいなかったが、チヨコにそれだけを言い残して流れる人の波に逆らうようにカバンを盾に人混みをかき分けて爆発の起きた後方の車両に向かって突進を始めた。

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